ちょっと道草 201018 四万十川ウルトラマラソンの周辺1 曲線斜め堰 沈下橋

 

 

 

 

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後川の麻生堰 201004

 

四万十川は河口部で二手に別れます。みんなが知っている四万十川は西の大河ですが、川の通には東を流れる後川が好評です。川もこの程度の規模だと子どもを水遊びさせても危険はなく、小学生も高学年になればまず水難事故は考えられません。水中メガネで覗くとアユ、ハヤ、エビ、ゴリ、運がよければ穴からウナギがこっちを向いているかも知れません。水族館の魚類は見てお終いですが、川の生きものは晩のおかずなので子どもの目の輝きがちがいます。

 

 

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麻生堰201004

 

最近この堰堤が日本最後の「曲線斜め堰」であることを知りました。堤の線が扇状に曲がっていることにはワケがあります。川の両岸にピンと張った縄を水面に下ろすと水流の強い力を受けますが、少しずつ縄を緩めると、縄はきれいな弧を描き、引っ張る力がやわらぎます。線が弧になると水圧を受ける面積が広がる。単位あたりの圧力が減衰する。洪水に強い堰が造られるというわけです。

 

かつて宿毛市の河戸堰が見事な弧を描いていましたが、工事で分断され、高知の人なら誰でも知っている江戸期の土木家、野中兼山が残した曲線斜め堰はこの麻生堰が最後のひとつになりました。聞くところによると東大土木工学の教授が学生を連れてきて「よく見ておけ」と促したとか。それぞれの時代の土木家が、既存の技術に独自の工夫を加え、尖端を競ったという意味においては、現代の巨大ダムも江戸期の小さな堰堤も同じ価値をもちます。というより文明がヒトの背丈を越え、福祉に貢献するより、むしろ敵対してきた今、折に触れ振り返るべき土木の原点なのかもしれません。

 

 

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Google mapで覗いた麻生堰の蛇行部

 

洪水時の水流を直に受けると堰堤の石組みが傷むかもしれない。そこで川の曲がりで水の勢いをやわらげ、川の対岸から堤を斜めに渡して距離を稼ぎ、さらに扇に広げて水圧を弱めたようです。けっして野中兼山は美観を狙ったわけではないのでしょうが、結果として美しい堰に仕上がりました。

 

 

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ウルトラマラソンの巨大看板 201004

 

その麻生堰を上流に進むとでっかい看板が目に飛び込みます。知る人ぞ知る四万十川100㎞マラソンです。フルマラソンが42㎞だからオリンピック選手が走っても5時間はかかります。全行程1200㎞の四国遍路は普通50日ほどかけて歩くから1日あたりの走行距離はまあ20~30㎞としたものです。高知県香南市の「塩の道ウォーク」は朝6時発のバスに乗って物部川上流のダムサイトで降り、海沿いの赤岡町まで30㎞の山道をたのしく歩きましょうというイベントです。ぼくも参加しましたが目的地に着いたのは夕方でした。

 

 

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カミーノデサンティアゴ 撮影日時不明

トロイの木馬ではありません^^

 

フランスはパリから、ピレネー山脈を越え、スペイン北部大西洋岸のサンチャゴ・デ・コンポステラへ向かう「サンチャゴの道」を馬と一緒に歩いた友人がいます。給油の代わりに土地の農民と交渉して飼い葉をもらい、宿のない日は馬と一緒に寝て起きて、たまに馬の背に乗せてもらいながら歩いた道は1日平均50㎞くらいのものだと聞きました。

 

ところが、このウルトラマラソンはたった1日で100㎞も走ってしまおうという無謀な行為です。しかもスタート後の20㎞地点でいきなり標高600mに達するという信じられない行路設定です。600mは東京スカイツリーのてっぺんだから、あれを見上げて走って登ろうとする東京都民がいるかどうか、ぼくはその坂道をホンダのクロスカブで登り、いま思い出しながら書いているわけですが、110㏄のエンジン8馬力→馬8頭の尻を引っぱたいて登った道を人間の足で駆け上がるヒトとは何か?

 

恐ろしいことにそのピークに達してもまだ80㎞も残っています。このマラソンではありませんが、知り合いの女性の旦那さんがマラソン途中で落命したという気の毒な話を聞いたので、どう考えても標高600m+100㎞マラソンは命懸けです。翌日は仕事もあるでしょう。にもかかわらず参加費18,000円で1,800人募集のところへ毎年倍の人数が応募するというから正気ではありません。このヒトたちはいったい何なのか、本当に人間なのだろうかと考えた挙げ句、やっと分かりました。写真ではヒトの形をしていますが、カメラのレンズに特殊なフィルターをセットして撮ると首から下がウマだったりイノシシだったりするのです。嘘ではありません。

 

本日10月18日はウルトラマラソンの予定日でしたが、

コロナのせいで中止になりました。

看板にはChina語の案内もあるのに、、です。

 

 

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麻生堰の上流にある砂防ダム201004

 

コンクリートを使うから川を真横に切っても強度的な問題はないにせよ、機能主義というかモダニズムというか、まあそっけないダムではあります。上流に向かうお魚さんは右手の吐水路から上れというのでしょうか。迷子になって遡上をあきらめる小魚もいるのではないかと心配になります。

 

 

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川上から見ると砂利が溜まって201004

砂防が機能不全になっています

 

 

 

 

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右手の細道がお魚さんの遍路道201004

 

別のダムで管理者に「魚道ってホントに魚が上るの?」と訊いたら「けっこう上っていますよ」とのことでしたが、本当のところはどうなんでしょ、水中の魚に自分の位置把握ができるものかどうか、上から見て「おめえどこ向かってんだ右だよ右」と叫ぶのはヒトの勝手としたもので、、

 

 

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ラソンコースの途中にある 201004

たぶん四国でいちばん短い沈下橋

ふだんは長閑な風景ですが

大雨がふるとどうなるかはすぐにも想像できます

 

 

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コース脇の棚田 201004

 

もとはと言えばここは山の一部でした。木を伐り、土を削り、石を運んで汗水たらした棚田に黄金色の稲穂がゆれるまでには長いドラマがあったことでしょう。その歴史を知る農民は、石油文明にどっぷり浸かって平気でご飯を食べ残すわれわれとは違う風景を見ているはずです。

201018記 つづく

ひとり旅 201010 1984年のChina 4 文化大革命

 

 

 

大陸で文化大革命が進行していた1970年代に大学で中国の政治を専門とする教授の講義を受けました。ぽっと出の学生が異国で進行中の事態を理解できたわけはありませんが、かすかに覚えている講義のキーワードは「富農」と「貧農」でした。新体制が生まれた当初は平穏が続くが、やがて時が経つと富農はますます富み、貧農はますます貧しくなる。そのバランスが限界を超えたとき革命が起こる。大陸の歴史はその繰り返しだというのが講義の骨でした。

 

 

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西安周辺? 1984

 

そこから生まれた殺し文句が文化大革命における「プロレタリアート独裁」ではなかったか。フツーに考えてプロレタリアートという「大衆」が「独裁」するのは複数と単数を混同した矛盾であり、ことば本来の意味でいえばプロレタリアートに支持された一党独裁ひいては個人が権力維持のために独裁すると捉えるべきです。その際、大衆の幸福は関係がありません。「政治は言葉だ」という名言を吐いたのはサッチャー女史ですが、政治の言葉は黒を白と言い換える呪力に満ちています。プロレタリアートが独裁すると言ってしまえばロジックは消えますが、政治の言葉はそれでも有効なのですね。

 

当時の新宿駅には、いかにも活動家然とした若者がいて、そのスジの用語で頭のメモリを一杯にしたねえちゃんが、語尾をはね上げ、酔ったように語りかけて来たものです。「体制内的人間はァ間接的戦争加担者でありィ」という決まり文句の後にイミフな言辞がつづき、まじめに耳を傾けても理屈がつながらないので呪文のように聞こえましたが、その言説を否定しようものなら直ちに囲まれそうな雰囲気でした。

 

大学の教室のドアに丸い穴が空いているから、気安い女先生に「あれは何のためですか?」と尋ねたら「中で静かに講義が行われているか、教授が吊るし上げにされていないかを外から確認するためのものです」と教えてくれました。他者を否定するのは確固たる理念を持って初めて可能な行為ですが、受験勉強を終えたばかりの若者に、そのような知の蓄積があろうとは思われません。にもかかわらず師弟・長幼の序を無視し、教授をドヤし付ける学生とは何か、それは具体的にいかなる行為であったか、幸いにも自分は学生運動がピークを過ぎた次の世代なので、この目で現場を目撃したことはありませんが、後年、吊るし上げの犠牲になった教授が思い出したくない過去を唾棄するがごとく短く呟いた横顔ははっきり記憶しています。「メガホン持って耳元で喋るんだよ。おかげで今でも難聴の気があるんだ」と、議論のできない若者に思い込みと暴力で囲まれた無念は消えないでしょう。

 

いかれた若者を背後で誘導した存在は実のところ何であったのか? それは革命理論という厳密なロジックであったのか? そもそも革命に筋の通った理論があるのか? むしろそれは生物集団の縄張り争いに似た行為ではなかったか? と疑問符つきで以下すこしばかり、わが青春(と呼ぶには余りに粗末な若年期)を振り返ります。見たことのない過去ではなく、自分と同時代の出来事はリアルな視点で辿れる歴史だからです。

 

1970年に共産主義同盟赤軍派が「よど号ハイジャック事件」を起こしました。田舎の高校生だった自分はラジオを聞きながら何か大変なことが起こっているようだと漠然と考えたことでした。

 

1971年に埼玉県浦和市で新聞配達をしていたころ「成田闘争」第二次執行において警察官3名が死亡しました。近所のたばこ屋で顔見知りの若い警官と雑談していたら「じつはその事件は自分が交代した直後の出来事だった」と聞かされ、返答に詰まったことを覚えています。

 

1972年に「テルアビブ空港乱射事件」が起きました。「死んでダビデの星になる」という意味不明な文句を吐いた岡本公三は、よど号ハイジャック事件の岡本武の弟でした。後年、北朝鮮を本籍とする関西の大学教授と会う機会があり、じつは岡本武(よど号妻)の娘が高知県の山間部で祖母に育てられている。「会ってやってくれんか」と頼まれました。オレみたいな者が会ってどうすんだと思う反面、数奇な運命にある人と出会えたら凄い話が聞けそうだと惹かれるものはありましたが、野次馬根性で面会する相手ではないし、そのままにして長い年月が経ちました。

 

同1972年には新左翼組織、連合赤軍のメンバー5人が人質の女性と浅間山荘に10日間に渡って立てこもった「連合赤軍あさま山荘事件」も起きました。かつてないほど高視聴率を稼いだ国民注視の事件で、新聞配達の合間にたばこ屋でテレビを見たり配達所の新聞を読んだりしましたが、記事には個々の事象は置かれても背後説明がなく、なぜ若者が人質を取り、命を張って銃撃戦を展開しているのか、出来事の核心がつかめませんでした。以来、報道とは細部を語って全体を見えなくさせるものというヒネた考えに囚われて今に至ります。一方、急激に発達したネット情報には、現象の背景を歯に衣着せず解説してしまう凄さと恐ろしさがあります。以下はwikiで見つけた「あさま山荘事件」の核心部です。

 

 

毛沢東廟の参拝者 北京 1984

 

「山荘内のテレビでアメリカ合衆国ニクソン大統領の中国訪問のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている[28]

私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。……ここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた」wiki

 

そうか、インドシナの争いが中国に伝わり世界に広がれば多くの人が死ぬ、との思いが彼らを突き動かしたのだ。多く殺さないために少なく殺すことは許される。見たことのない他者を救うため仲間を殺すことも正当化される。平和のためには実の親に銃口を向けることさえ厭わないという不思議なロジックが作られたのでした。

 

素朴な正義感に支えられた若者は、不完全な論理でつくりあげた舞台に身を置いた。ところが銃撃戦を展開しているうちにニクソン米大統領は中国を電撃訪問し毛沢東主席の手を握った。米軍は中国軍と争わないことが分かった。そこで彼らは論理破綻し、闘うことの意味を見失ったというわけです。当時未成年の加藤倫教は刑期を終え今は静かに暮らしているようですが、心の中の廃墟をさまよいながら生きているにちがいありません。たまたま私と同年齢なので思うこと大です。

 

あさま山荘事件のメンバーのひとり板東国男は、1975年のクアラルンプール事件によって釈放されています。日本赤軍が在マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館を占拠し50名の人質を盾に収監中の仲間の解放を要求したテロ事件に対し「三木内閣はテロリストの要求に屈したため日本赤軍はさらに同様な事件を起こしたwiki」という曰く付きの解放騒ぎでした。武(ぶ)を失った戦後日本の問題先送り外交は今も続きます。

 

それにしても、です。事の正当性はさておき日本の若者は、知らない国の可哀相な人々のために命を張ったとは言ってよいでしょう。元はといえば世のため人のためという素朴な正義感に発し、結果として組織がアプリオリに持つ悪意に取り込まれ、仲間殺し、警察殺し、無関係の人殺しに至りました。世界同時革命などという幻想をどこまで信じていたかは知りませんが、冷たく見れば世界のテロリスト集団の鉄砲玉として使われたわけです。板東国男の父親は「あさま山荘事件」が終結した日に首を吊って世に詫びました。母親はクアラルンプール事件において「息子の出国を阻止することを検事に強く懇願した」そうです。テルアビブ空港乱射事件で29人を殺した岡本公三の父はイスラエル大使に対し「極刑に処してほしい」との詫び状を書きました。三者とも日本人がもつ普通の責任感覚でありましょう。

 

ひとりの日本人としてそこまでは分かる気がしますが、さて彼我の立場が逆だったとすればどうなのか。極東の島国の可哀相な人々のために人生を賭け、命を捨てて闘ってくれる外国人はいるのだろうか、いないのではないかという疑念が拭い切れません。彼らの行為は日本という文化文明が生んだ特殊な感覚から生まれたものではないかと考えながら36年前の写真を眺めています。

 

 

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36年前の天安門広場 1984

 

文革期のChinaでは充分な人格形成を経ぬ若者が「造反有理」「革命無罪」と教えられ、密告し、批判し、ときに自己批判が不十分な者に対し過酷な仕打ちを行ったと聞きます。フツーの国語力をもって読めば、造反が有理とは言えず、革命と無罪は必ずしもつながりません。あの難しい大学入試の国語を突破した学生なら、強い酒をくらっていないかぎり、そこで考え込むはずですが、「東京大学の正門には毛沢東の肖像とともにこの標語が掲げられていた時期もあった。wiki」そうだから当時は社会全体がいかれていたのでしょう。

 

学生運動の残り火がくすぶる70年代に大学へ授業を受けに行くと、入り口が机と椅子で塞がり、バリケードがつくられていることがありました。そこに張られたスローガンには簡体字が使われ、歴史の歴が雁垂れのレキであったのを見て、へえ~こんなレキもアリか、簡単でいいワと自分も真似したことがあるから人間というものは易きに流れる存在です。

 

林の下に夕と書けば中国漢字で「夢」の意です。BSフジの政治討論に出演した京都大学の有名教授がまとめの段で林の下に夕と書いた手板を出したとき、おっとこのおっさん何考えとんのやと一瞬ぼくの頭を多くの記憶が流れました。

 

かつて誰もいない大教室で長い話をして別れた女性はたしか京都大学の出身でした。いずれはコスモポリタンとして世界を歩きたいとつぶやいた彼女は、半年後に無宗教の葬儀で送られましたが、宗教を否定し、国家を否定して世界を渡り歩くことが、物理的にはできても、精神的にできるものかどうか、少なくとも自分にはわかりません。地球市民を標榜する知り合いもいますが、地球と市民がどうつながるのか、これも自分には理解できません。

 

 

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映画「ラストエンペラー」の舞台 故宮 1984

 

地球市民とは「人種、国籍、思想、歴史、文化、宗教などの違いをのりこえ、誰もがその背景によらず、人として尊重される社会wiki」だそうですが、そんな社会が本当に実現するものかどうか? そもそも理論的に成り立つものかどうか? 自分はコスモポリタンだと思い込むのは勝手ですが、相手から見れば我々は日本国に住む日本人であり、肌の黄色い人種であり、幼少期からインプットされた歴史、文化、宗教ときとして思想に染められ、色分けされたグループに過ぎません。

 

そこを突破するため若い頃から留学し外国語を身につけることはよいことですが、余りにも外国語が堪能になり、副作用で日本語がお粗末になったら何をしているのか分からなくなります。世の中にはバイリンガルと呼ばれる人が居るにはいますが、言葉の襞にまで分け入って外国語を体得するには幼いころからその国の文化や歴史に触れる必要があり、縦横無尽に2カ国語をこなすためには人生が2度要ることになります。

 

しかも世界で多く使われる言語は20も30もあり、細かく分類すれば7000もの言語があるそうだから、そこをクリアするには銀河系600万語を操れるスターウォーズC-3PO君を呼んで来る他ないでしょう。しかしC-3POも所詮は言語的な交換装置にすぎないようなので、言葉の微かな温度差まで感じ取れるかどうか。要するに言語面だけみてもコスモポリタンは不可能であり、ヒトは生まれた国の歴史、文化、宗教ときとして思想に支配され、だらだらと生きる他ないんじゃないのってぼくは思いますね。

201010記 つづく

 

 

 

高知の今

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高知県須崎市新荘川のアユ掛けおじさん 201002

 

新荘川はカワウソが最後に目撃された川でもあります。そのむかし 大ちゃんこと橋本大二郎高知県知事をやっていたころ、かわうそフォーラムが開かれ、手を挙げたおばあさんが「娘のころ私は新荘川でカワウソと一緒に泳ぎました」と発言して会場が沸きました。ゆるキャラ日本一の「しんじょう君」には、道の駅「かわうその里すさき」に行けばいつでも会えます。

 

当時、朝日新聞がカワウソの写真に100万円の懸賞金を付けたという噂が流れ、それならオレもという写真好きの知り合いが、望遠レンズに追加するテレコンバータを買ったぜと自慢していました。そこへ朝日新聞高知支局の若い記者が「高知城でカワウソの糞が発見された」という速報を流したので皆アッと言いました。ところが専門家が糞の分析をしたところそれはカワウソではなくハクビシンの糞でした。ハクビシンならウチの庭の塀を伝っているところを飼い猫のハナちゃんに追いかけられたりしているので珍しくも何ともありません。後日当の記者に出会ったので「ところでカワウソは?」と尋ねたら嫌な顔をしてあっちへ行きました。フンだりケったりの記者さんは今エジプト支局にいるみたいです。バブルがなだらかに下りかけた仕合わせな時代のおハナシでした。

 

獺の祭みて来よ瀬田の奥 (芭蕉

 

話はもうちょっとあって、2012年に環境庁が絶滅宣言を出したニホンカワウソが本当に棲息しているのであれば100万円どころの騒ぎではありません。2016年に高知県大月町の海岸で撮られたカワウソの証拠写真が2020年の今年になって示されました。事件と言ってよいほどの出来事ですが、ニュースに付加された読者の書き込み欄には、騒ぐとカワウソはますます追い詰められるから「そっとしておけ」という良識派の声が多く寄せられていました。抜いてなんぼの記者の気持ちも分からないではありませんが、書き込み諸子の方がよほど正気じゃないかと思うことが近頃よくあります。いらんことですが、、

 

獺の住む池埋もれて柳かな (蕪村)

 

 

 

ひとり旅 201003 1984年のChina 3 広州 泥棒 公安 領事館

 

 

 

広州のドミトリーで知り合った北海道の大学生と夕食に出かけ、レストランから出張った道端のテーブルに陣取って青島ビールで乾杯したとき彼の背に目つきの悪い男の影が見えました。旅に出たらカネとパスポートは肌身離さず所持するのが鉄則ですが、彼は一切合切を布製のショルダーバッグに入れ、長椅子の脇に置いたようです。ビールを飲み干し一息ついたあと彼は腰元を手さぐりして青くなりました。その顔を見て全てを了解した自分は、君は向こうへ行け。ぼくはこっちを探すと声をかけ、二人で別方向に走りましたが、夕暮れの雑踏をかき分けてもそれらしい人間は見えません。やがて彼は悄気た顔でバッグを下げて戻ってきました。財布もパスポートも航空券も何もかも抜かれた空っぽのバッグが路上に捨てられていたそうです。

 

 

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西安周辺 1984

 

翌日、公安に赴き、愛想というものが全くない制服の女の前に座らされました。当時のChinaに肥満した人間はおらず、細身の彼女は背筋をピンと立てテーブルを介してぼくらを見下ろすので、まあ威厳があるとも言えるのですが、異性に対する感情は湧かないタイプの人でしたね。片言の中国語とツーリスト英語でしどろもどろの遣り取りをしているうちに紙と鉛筆を渡され、人指し指をツンツンして「ストーリーを英語で書け」と言われた彼はかなり焦っていました。

 

公安を出て埃っぽい道を歩き、日本でいえば派出所のような所へ向かうと日本人学生がふたり署員と話していました。持ち込まれた用件より学生の腕時計に興味があるらしい警察は「日本は科学技術が進んでいる」と羨ましげに呟き、しきりに学生の持ち物を気にしていました。やがて先客と交代した彼が「ストーリー」の続きを説明しているとき、ぼくは用足しの許可を得、細い通路をくぐって暗がりの中に入りました。

 

そこには拘置所が併設されており、換気のわるいトイレの手前に裸電球がひとつ灯され、コンクリートで仕切られた箱の正面に鉄格子が並んでいました。昔の動物園で使われた設計思想です。格子の陰の上半身裸の男は、囚われた動物のような目でこちらを向き、自分と目が合った瞬間およそ人間とは思えない叫び声を発しました。黒沢明の「天国と地獄」に拘置所の訪問客と対面した囚人が、その場に相応しくない抑揚で喋る場面があります。長く閉じ込められていると自分の声を制御できないのですと自己弁護するシーンが思い出されました。

 

 

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西安周辺 1984

 

ぼくを蛇餐館に誘ってくれた女性は長く広州に滞在している学生で土地勘のある人でした。彼女によると、この地で重い罪を得た犯罪者は、市中を引き回され、間を置かず公開処刑されるのだそうです。広州は香港という阿片戦争の舞台に近接した街であり、とりわけ薬物売買に関する罪は重いと聞きました。

 

帰国後2年が過ぎ、1986年に日本で知り合った中国人留学生にこの話をしたところ彼は平然と「それには続きがあります。処刑に使う銃弾は国家の所有物です。したがって刑が終わると家族に銃弾の請求書が届きます」と、笑ってよいのか悪いのか「中国は人口が多いので人の命は日本ほど重くないです」とも、、

 

 

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西安周辺? 1984

 

Chineseの人権意識が薄いことは少しばかり歴史を眺めれば分かります。項羽と劉邦は何十万という軍勢を率いて戦いましたが、歴史家は争いの動向を巨視的に記述することはあっても、個々の兵隊の人格まで描くことはありません。劉邦につづく前漢7代目の武帝は勇猛な皇帝でしたが、「武帝がぜいたくと戦争にふけった後で、国力は消耗し、人口は半分に減っていた*」というから日本の内戦とはだいぶ様相が異なります。

                         *岡田英弘「誰も知らなかった皇帝たちの中国」ワック株式会社kindle 20%

 

日本では天下分け目の「関ヶ原」を見物するため地元の農夫は手弁当で一等席をあらそったという話もあるくらいで双方の戦闘員に、堅気の者には手を出すなという暗黙のルールがあったようです。大戦が終われば戦没者を祀る忠魂碑を建立し個々の名を納めた日本人の人間観と大陸のそれはだいぶ違います。日本の歴史に「人口の半分」を消耗した戦いなどありません。

 

それは2000年も昔の古代社会の話であって今のChinaは違う、と言い切れるかどうか。1949年に建国された中華人民共和国は、1966~1976年の間、文化大革命を展開します。文化を革命すると素晴らしい新文化が生まれる、という幻想を抱いた日本人も居るようですが、むしろ革命の実相は営々と築いてきた形や精神をすることであり、それは人民の幸福とは関係のないところで行われる権力闘争の別名ではなかったかと、、

 

 

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西安周辺? 1984

 

閑話休題。すってんてんになった彼と広州の日本領事館に出向きました。領事館は大使館に次ぐ存在だから敷居が高そうだ。怖い顔のおじさんがあらわれてまた坐らされたらどうしよう。緊張して中に入ると歳の頃は30代でしょうか、当たりの柔らかい男性職員が、手慣れた様子で彼の説明に耳を傾け、丁寧に対応してくれました。領事館の大事な仕事は邦人保護にあります。「宿泊費、入院、治療費、航空券代、その他の個人費用を立て替えること、またはその支払いを保証することはできない」そうですが、担当者は「国の家族に電話するならこれを、送金してもらうなら私の口座を使ってもよいですよ」と必要にして充分な対応をしてくれました。

 

1週間も待てばクニの母からお金が届くのでこのドミトリーで待ちますと言う彼は、多少のカネはポケットに残っていたろうし、いざとなればまた領事館に泣きつくことだって出来なくもないから「要らない」とは言いましたが、たしか千円ほど(^^ 渡して別れたように記憶しています。後日、北海道から無事、帰国した旨の手紙が届きました。

201003記 つづく

 

 

 

高知の今

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コスモスにも種類があって、これは

キバナコスモスという品種だそうです200928

 

 

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柿がそろそろ200928

 

 

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芒? 200928

日本のススキはもっとしおらしい穂ではなかったかと

ネットを検索してみましたら

これはパンパスグラスという帰化植物のようです、なんと

穂には赤、青、紫と色鮮やかな種類があるのでした

 

 

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ネコジャラシ 200928

こいつを土産にすると

ウチの猫は本気でじゃれます

 

 

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紫式部201001

誰が名付けたか知りませんが、

紫色の小さな実にもののあはれを感じます

 

ひとり旅 200929  1984年のChina 2 広州 西安 蛇餐館

 

 

 

フェリーを降りて広州駅行きのバスに乗り込んだら切符売りのおばさんが身振り手振りで何かを伝えようとしていました。後でわかったことですが、このバスは遠回りするからお前はあっちのバスに乗れと言っていたようです。1時間ほど揺られたバス代を日本円に換算すると1毛=10円くらいでした。

 

 

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広州?西安? 1984

 

当時の北京は地下鉄の建設が始まったばかりで、行って戻るだけの直線コース1区間が公開されていたから用もないのに乗ってみました。ここも10円ほどだったように記憶しています。バックパッカーが集まるドミトリーは400~600円/泊ほど、それでもちゃんと水洗トイレがあって、ぶら下がった紐を力強く引っ張ると轟音とともに水が落ちたから大したものです。

 

そこがホテルであっても四囲が仕切られたトイレはまずなくて、前の戸がなかったり、足元に隣のヤツの脛毛が見えたりしましたが、そのくらいのことはすぐ慣れます。しかし西安空港の便所小屋に入ったとき1ボックスに仲よくしゃがんだ2人の男の4つの目がこちらを見上げたときには焦りました。見通しのよい小屋に細い水路が一本引かれ、その上に野郎どもが跨がって世間話をしていることもありました。「地球の歩き方」を見るとChinaを旅する賢い女性は大きめの風呂敷を持ち歩いたそうです。ことトイレに関するかぎり日本人は繊細すぎるとも言えますが、その繊細さが音姫やウォッシュレットを考案し、来日観光客に喜ばれているわけでもあります。

 

 

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西安周辺? 1984

 

中華料理を一人で食べるのは難しいのでホテルのロビーで日本人とおぼしき旅行者を探し、ときに声を掛けられたりして3~4人でテーブルを囲みました。Chinaの庶民には高嶺の花であった青島ビールで乾杯した勘定が300円/人くらい、もちろん道端の屋台で済ませれば何十円かで足ります。列車にも飛行機にも乗りましたが、料金を覚えていないのは安かったからでしょう。万事そのような調子なので、貧乏旅行者にはありがたいのですが、この落差を素直に喜んでよいのだろうかと複雑な気持ちでした。

 

「空を飛ぶものはヒコーキ以外、足の四つあるものは机以外」なんでも食っちまうのがChineseです。広州で出会った若い日本女性がぼくの名を呼び「ヘビ食べに行きません?」と誘ってくれました。ヘビといえば芥川龍之介の「羅生門」に魚の干物と偽って蛇を売る鬼のような婆が登場します。日本ではマムシを焼酎に漬けることはあっても青大将を蒲焼にすることはないので一瞬ひるみましたが、断るわけにもいかず、やや重い足どりで夕暮れの道を歩きながら、原型が見えない料理であればよいが、ヘビの活け造りとかが出されて顔がこっち向いてたらイヤやな、スッポンで試したことはあるけどヘビの生き血をブレンドした赤ワインとかが置かれたらどうしようと妄想を広げているうちにヘビ料理の専門店、蛇餐館の看板が見えました。幸か不幸かたまたまその日はお休みで事なきをえましたが、ちょっと心残りではありました。

 

 

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西安周辺? 1984

 

言葉がわからない自分は新しい街に着いたら必ず市場へ寄ることにしています。肉、魚、野菜、衣料品や生活用具の類を眺めていると土地の人がどのような暮らしをしているか大体想像が付きます。さすがにここは広州だから肉類の売り場はえらい騒ぎやろなと思いながら市場に向かっていると、住宅街の通路に椅子を持ち出した婆さんが、檻の中のアルマジロに餌をやっていました。どう見てもその目はペットに餌を与える目ではなかったので、これは凄いことになりそうだと直感しました。

 

市場へ入ると針金を組んだ丸い籠に入れられた無数のヘビが、土用丑の日に盥の中で捌かれるのを待つウナギのようにうごめいていました。その脇には狭いケージに入れられた猫が怯えた顔で行きつ戻りつし、猫の上には今しも皮を剥がれ、真ッ二つに割られた裸の猫がぶら下がっているのでした。命あるものの命をいただくのがこの世の定めと知ってはいますが、子どもの頃からずっと一緒に暮らしてきた猫の末路がそのようであることに無常を感じないわけにはまいりません。南無、、

 

 

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西安?北京? 1984

 

この2人が何をしていたのかよく覚えていませんが

なんでもかんでも人の手で行う牧歌的な時代ではありました

 

一昨年来タイ、ラオスベトナム、台湾の市場を繁々と観察しましたが、蛇、猫、アルマジロの類は見たことがないので、これら過激な食材はChina市場の特色だと言ってよいでしょう。自分の目で目撃したわけではありませんが、若い女性が新聞紙を丸めたとんがり帽子を逆さにし、天津甘栗のようにこんがり焼き上げたゴキブリを入れて歩くのも広東名物らしいので「空を飛ばず足が四つ」もない蛇を食すことなど取り立てて驚くほどのことではないのかもしれません。

 

ふと思いついて今ネットで広州・蛇餐館を検索したところ、あるわあるわ蛇料理のオンパレードです。Chinaのヒトはなぜゲテモノを食べるのか? それは薬だからだという説があります。すべての植物が薬効を持つように、すべての生物は医食同源の薬であり食材でもあります。たまに毒性を秘めたものもありますが、それを選り分け、長い年月を経て漢方薬が生まれたのではありましょう。専門店には樹皮、木の実、黒ずんだ蜥蜴、干からびた虫などが一面に置かれて混沌たる状況です。値を訊くとびっくりするような数字が返ってくるのは、そこに売り手と買い手が共通の価値を認めたからにほかなりません。

 

 

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北京? 1984

 

COVID-19、新型コロナ、武漢肺炎、中国ウィルス等さまざまな名で呼ばれ、9月29日現在世界の死者100万人を超えるコロナ禍を発生させたのは、武漢の海鮮市場だというのがChina当局の主張です。それが真実であるかどうかはさておき(フツーに考えて近場のウィルス研究所が怪しいわけですが)、広州の市場を見た自分には、コロナと関連付けられたコウモリやセイザンコウが市場に並び、客に選ばれ、持ち帰られる風景が何となく想像できます。が、その程度のことを不気味がっていてはChinaの歴史に参入することはできないでしょう。

 

ぼくの本棚には篠田統著「中国食物史」凸版印刷株式会社が挟まっています。京都大学動物学科卒の著者による全387頁の大変な労作ですが、随所に散見される奇怪な食の話を引用するのは恐ろしいので控えます。むかし昔ぼくが東京の予備校で習った漢文の先生は、中国に12年も留学した方でした。予備校の教室なんて通常は潮が引くように学生は消えてしまうものですが、この先生の教室は日が経つにつれ受講生が増え、どう見ても授業料を払ってないヤツらまで椅子を持ち込み、詰め込めば200人も入ろうかという教室に熱気をつくっていました。扇子の代わりにチョークを握り、落語か講談のノリで展開される授業は、なんせ経験と教養が詰まっているのでお笑いを超えたものでした。受験の要点を押さえつつ終了間際に拍手をもらえる講義はとても珍しいと言えるでしょう。その講義の所々に置かれた古代Chinaの怪しい食の話題は当時、話を盛って受験生をリラックスさせるためだろうと思っていましたが、上記「中国食物史」を紐解き、どうやら嘘ではないようだと考えるに至りました。

 

 

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北京? 1984

 

乗客の穏やかな表情から見て

八達嶺への長城ツァーだったかも

通常の路線バスだと席の争奪戦になるので

昇降口は大混乱になります

 

再び、Chinaのヒトはなぜゲテモノを食べるのか? と問うとき、中緯度温帯モンスーン地帯にあって海という天然の要塞に囲まれた海幸山幸の仕合わせのクニ、日本の常識では説明できない歴史があるからではないかと思うわけです。「天高く馬肥ゆる秋」は、秋の好時節をいう語ですが、大陸にあっては馬肥ゆ→収穫の秋→北方の匈奴が馬に乗って襲いに来るという意味でもあります。Chinaの歴史は、たとえば元はモンゴル、明は漢民族、清は満州族と異民族にやられて王朝そのものが交代した歴史でもあります。

 

戦争があると日本では多くの「人」が死にますが、大陸では「人口」が減ります。争いによって耕す土地を奪われ、疫病が蔓延し、飢餓が浸透すればヒトは本能的に食糧確保に目を向けます。すべての生き物は食べ物でもありますから、追い詰められたヒトは命をつなぐためにあらゆるものを食したことでしょう。その経験の集積が薬とされ、あるいは珍味とされて今に至ったのではないか、という取り立てて傍証のない説を自分は持っています。

 

高知県四万十市下田の「いやしの里」には中医研究所が併設されており、見学させてもらう機会がありました。壁一杯に仕切られた格子状の棚にずらりとガラス瓶が置かれ、それぞれに色褪せた漢方薬が入れられラベルが貼られていました。その漢方薬を個々の患者に処方するとき薬と患者の順列組み合わせはほぼ無限になります。目の前いっぱいに広がる薬瓶を眺め、その薬効を確認するために行われた膨大な作業を想像すると頭がくらくらする思いでした。

 

 

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行商人を見下ろす公安? 1984

 

漢方と同じく無数にある人体のツボもまた長い歴史を持ちます。松尾芭蕉は「奥の細道」に旅立つ前「足の三里」に灸を据えました。なぜ膝下の窪みが「胃もたれ、座骨神経痛、貧血」に関係するかは謎ですが、経験と分析の結果、灸と病の関係点が見つかったわけです。薬と同じく人体のツボにも悠久の歴史が流れています。

 

忘れもしない30代の後半、寝て起きて仕事をする繰り返しが長く続いたからか首筋が痛く、どちらかといえば西洋医学に疑念を持つ自分が、いよいよ明日は病院に行こう、薬も貰おうと覚悟を決めた日に、このひとり旅の途次上海で知り合った方が訪ねてきてくれました。当時のChinaで中医の研究をされたと聞きます。

 

ときに首筋を押さえつつ車で四万十市のトンボ公園をご案内し、自然な農地に自然に発生する生物がざわめく里を歩いているうちに氏は私を停め、後ろから羽交い締めにしました。何すんだと思っていたら気合のこもった瞬間の力が首筋にかかり背骨が整列するような音がしました。

 

四角四面のコンクリートの一室ではなく、ゆるやかな山の稜線を渡り、農地をたどって風が吹くトンボ公園で、土の道を踏みながら談笑していると身も心もゆるみます。氏はその頃合いを見切ったに違いありません。奇蹟を伝導する趣味など毛頭ありませんが、頸の痛みはきれいに消えました。

200929記 つづく

ひとり旅 200924  1984年のChina1  香港から広州へ

 

 

 

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香港1984

 

いよいよ追い詰められて部屋の掃除をしていたら何と

1984年に歩いた香港とChinaの写真が出てきました

二階建てバスは大英帝国の置き土産です

 

 

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香港1984

 

アパートの窓から突き出た物干し竿には

洗濯物が干されていたり

 

 

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香港1984

 

お店の看板が掛けられたりして、そう

ここは紛れもない香港です

 

狭い道を車が行き交い、頭上の看板が空間をつくる賑やかな街並みには見事な書体の繁体字が活きています。漢字本来の形である繁体字は今、台湾と香港にしか残されていません。戦後の日本が作った略字体は、悪くない出来だと思いますが、たとえば三島由紀夫が小説で使った旧字体に目が慣れると何だかなぁという感じがします。しかしその程度の差異を捉えてくよくよするのは贅沢な話なのでした。

 

 

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1984年の香港あるいは広州?

 

フェリーで珠江を上り、広州の港でよく分からないままバスに乗ったら広州駅に着きました。見上げた駅のでっかい看板は「广州」でした。初めて見る本気の簡体字を、たぶん口を開けて見上げた自分は愚か者の顔をしていたはずです。日本では廣を略して広とし、たとえば広島は何となく広い感じがしますが、ただの麻垂れを見てぼくらは何を感じ取ればよいのか?

 

キの字に横線を足して3本串のヤキトリにしたら何と読むかご存じでしょうか。答は「豐」豊です。簡体字毛沢東八路軍で使用されていた略字を元に創作されたらしく、豐の字はあまりにも画数が多いので毛の兵隊はヤキトリで代用したのでしょう。しかし略字で意思疎通したにせよ当時の中国人は元の漢字を知っており、簡体字の向こうに繁体字をダブらせて理解したわけだから本来の字義を見失ったわけではありません。問題は簡体字しか知らずに育った若い世代がどうなのかです。

 

ぼくは卓球の丁寧選手のファンなのですが、悲しいことに寧の字は心と四が抜けているのでした。ウ冠に丁でChineseのみなさんは漢字国のidentityを認識できるのかどうか。伊藤美誠が初めて勝って嬉し涙を見せた相手の劉詩ブン(雨冠に文)の劉は、文に立刀(旁のリ)です。劉邦の劉はかっこいいのですが、(文リ)でリュウではなんかパッとせんのですわ。余計なお節介ではありますが、こと漢字に関するかぎりわれら日本人はどうも気になるのです。

 

一説によると毛沢東は、多言語を擁する大陸の民を統一するには共通言語が要ることから、漢字を廃し、ローマ字表記にする腹案をもっていたようです。原理的な問題から実行されることはありませんでしたが、仮に実現していたとすれば、古代Chinaの漢文をせっせと読んできたわれら日本の善男善女は、ローマ字だらけの北京や上海を歩いてガッカリしたことでしょうね。

 

そのむかしベトナム朝鮮半島は漢字の国でした。どういう事情からかは知りませんが、今のベトナムは全てローマ字表記であり、街を歩いて漢字を見ることは滅多にありません。朝鮮半島もまた漢字を全廃しハングル表記にしました。ハングルはカタカナみたいな表音文字ですから、ハングルの陰に漢字が見える旧世代は問題がなかったにせよ、ハングルしか知らない若い世代はどうなのか、他国のことながら思うことが山ほどあります。

 

かつて我が家に日本でいえば高校生に当たるモンゴル人民共和国(外モンゴル)の女生徒が2人、1週間ほど泊まってくれました。ふたりが手分けしてモンゴル風の肉料理を作ってくれた晩、別れの記念に「あなたの名前をモンゴル語で書いてよ」と注文したらやや戸惑った様子でしたが、アラビア語が起き上がったような縦書きの文字を残してくれました。初めて見る手書きのモンゴル文字を眺め、よくもこの模様から意味が取れるものだと文字の魔法につくづく感心したことです。が、どうやら彼女たちが本来のモンゴル文字で書けるのは自分の名前くらいのもので通常はロシア語のキリルアルファベットを使うようです。

 

ジンギスカンの時代に世界制覇した大モンゴル帝国は今、ロシアと中国に挟まれ、内外に分断されました。China側の南モンゴル(内モンゴル自治区)は、チベット新疆ウイグル自治区と似た問題を抱えているようです。ネットを探ると新疆ウイグル自治区では、モスクは破壊され、ウイグル語は教育から完全に排除されたようです。かつて喜多郎シンセサイザーが甘く奏でた西域では今おぞましい事態が進行しており、大紀元、唐人テレビでは日本の新聞やテレビとはまるで違うニュースが刻々と伝えられています。

 

ネットのアーカイブを検索すると、数カ月前から南モンゴル(内モンゴル)では、教育の場からモンゴル語が縮小され、中国語が持ち込まれたことからモンゴル人による抗議行動が起こっています。言葉は民族identityの源泉です。違う言葉に入れ替わると人格も変わります。就任後の習近平国家主席が謎掛けした「中華民族の偉大なる復興」とは具体的に何を意味するのだろうとずっと考えてきましたが、答えのひとつが少数民族漢人化であったとすれば恐ろしい思いがします。

 

 

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香港から深圳へ 1984

 

という鬱陶しい話はさておき、なんせ昔の旅だから正確には覚えていませんが、香港から列車で深圳へ向かい、パスポートを提示すると、なぜか持参した金額を記入させられました。イミフなChina語の説明は無視し、たまたま同船した日本人女性2人組に寄り添って耳を澄ますと60万円という囁きが聞こえました。へえ金持ちなんだ、だけど若い女性は気イ付けた方がよいぜって思いながら10万円くらい入った財布と一緒に広州行きのフェリーに乗ったことでした。

 

36年前の深圳は田舎の村でした。今は高層ビルが林立する未来都市です。「行きたいか?」と訊かれたら「当時のChinaなら明日にでも!」しかし、トシのせいかコンクリートの林と煩雑なルールには興味を失ったので今のChinaは「う~ン」です。

 

タイ北部のチェンライに住む友人が、念願の「飛行機を使わずに日本へ帰る旅」をやってのけました。タイ→ラオス雲南省→たしか北京経由で丹東→北朝鮮をパスして船で韓国→日本という経路で無事ふるさと島根までたどり着いたそうです。地図に線を引き、そんなことならオレだってという声もありましょうが、あえて飛行機を使わずバスと列車でChinaを横断するのは、カネもかかるしヒマも要る。ネット情報で恐ろしげな話を聞かされるとぼくなどGo toトラブルに二の足を踏みます。

200924記 つづく

 

 

 

 

高知の今

 

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韮の花は散形花序です 200921

 

 

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青空市に新生姜が並びはじめました 200921

 

 

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キャベツの収穫はまだまだです 200921

 

 

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子どもが謎々で遊んでいました

パパが嫌いなものは? (       ) 200921

 

 

f:id:sakaesukemura:20200924055807j:plain芭蕉に実が着きました 200921

高知のバナナは食べられないですけどね

 

 

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お彼岸も終わり、また

せっせと働きませう 200921

ちょっと道草 200919 Goto 五島列島 4 信仰と支配

 

 

 

 

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福江島宮原教会 2008274

 

福江島そのものが長崎から遠く離れた離島であり、その島の端に位置する宮原教会は、案内板と屋根の十字架がなければ民家か集会所と間違われそうな建物です。

 

 

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桟瓦の屋根に十字架が見える半泊教会 200827

 

宮原教会から更に奥へ向かう細道を走ってやっと見えた半泊教会は、民家もまばらな漁村にひっそりと立ち、人の気配がないにもかかわらず、入口周辺は掃き清められていました。多くの教会を訪ねましたが、どの教会にも木の葉一枚落ちていなかったことに感銘を受けました。

 

2018年世界文化遺産に指定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」には、人里はなれた寒村にぽつんと置かれた教会も密かな信仰の証として含まれるのかなと思っていましたが、そうではないようです。福江島世界文化遺産はなく、ぼくが見た世界遺産の指定事跡は上五島の「頭ヶ島天主堂」と天草の「崎津教会」のふたつでした。両者は周辺施設と人員配置において通常の教会とは扱いが違い、立派といえば立派ですが、むしろ鄙びた里の小さな教会に人の暮らしの息づかいを感じます。

 

 

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楠原教会脇の楠原牢屋に掲示されていた

囚われのキリシタン200827

 

旅といっても何を見てどう感じるかは人それぞれ、受け手に理解の枠組みがなければ目に映った風景が意味をもつことはありません。もとより自分にキリシタン関連の知識があるわけもなく、それを目的にした旅でもなかったのですが、どうしても気になることがあったので頭ヶ島天主堂で説明してくれた若い担当者に質問しました。迫害されてなお信仰を守った信者に対し、敬意を払うことはあっても、邪教の徒として罪を問うことなどありえない。その上であえて尋ねるのですが、

 

「宿や港でもらった潜伏キリシタンに関連する資料は信者に対してとても優しい。どのパンフにもピュアな信者と無害な小集団は可哀相な被害者として描かれています。しかし豊臣秀吉徳川家康の政権が、キリスト教とセットで持ち込まれる侵略行為に対し、国家経営において強い危惧を抱いたことも事実です。その辺りはどうなのですか?」

 

と問うたところ彼は「自分自身が潜伏キリシタンの末裔であり、むろん島原の乱に象徴される歴史の事実は知っている」とのことでした。案内係とはいえ出会ったばかりの人にそれ以上の質問は失礼かなと思って別れたことでした。

 

 

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天草四郎時貞 200831

 

学校教科書では、フラシスコ・ザビエルは、カトリックのピュアな伝導者として描かれ、植民地化の先兵を匂わすような記述はありません。教科書だから歴史と宗教の際どい局面に触れるわけがないとも言えますが、教科書ではないところの「もう一度読む山川日本史」には「スペインやポルトガルキリスト教の布教を通じて植民地化を進めている」「あらたに来日したオランダ人やイギリス人が、スペインやポルトガルの植民地政策の危険性を説いた」とあります。ザビエル個人の心情がどうであったにせよ、

 

「15~16世紀、カトリック教会では、神の正しい道をまだ知らない人々にも広めるべきだということで、〈イエズス会〉という修道会ができ、教えを世界に広めるようになります。日本に来たフランシスコ・ザビエルもその一員です。 ~ しかしその背景には、プロテスタントに信者を奪われたカトリック教会の厳しい状況と、それを打破するための市場拡大という思惑があったことも事実でした」

井沢元彦「世界の宗教と戦争講座」徳間文庫p110

 

 

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上五島に電力を送る海底ケーブルは  2008254

 

大航海時代におけるスペイン、ボルトガルの南米侵略では、信仰と支配の二重構造が露になります。15世紀スペイン出身のカトリック司祭ラス・カサスが書いた「インディアスの破壊についての簡潔な報告」には、スペインが国を挙げて行った征服事業すなわち先住民に対するおぞましい残虐行為が記録されています。

 

秀吉、家康の時代に来日したカトリック伝道者の純粋な信仰心を疑うわけではありませんが、その陰にある植民地支配の構図は、まず信仰という名の情報戦を展開し、続いて軍事力を運び、有無を言わさぬ侵略行為に及びます。仮にそうであっても統一国家3,000万人の日本国が、帆船に乗って地球の裏側からやって来た侵略軍に易々とやられたとは考えにくいのですが、江戸期も幕末の19世紀に入るとアジア全域が欧米列強に奪われ、最終的に独立を守ったのはタイと日本の2国でした。しかし、

 

 

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ここから海へ潜り込んでいるはずですが 2008254

 

天然の要塞とも言える四海に隔てられ風光明媚な中緯度地域で独自文化を形成した日本は、「たった4杯」の黒船で目を覚まし、開国後わずか30年ほどの間に日清・日露の戦いをやってのけ、欧米列強を真似て帝国主義に参入し、アジア太平洋戦争で焼け野原にされました。

 

 

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それらしい影は見えません2008254

海の底に高圧線を引くのは大した技術なのでしょうが、

誰も気に留めず電気ライフを楽しんでいます

 

宗教が個人あるいは小集団の幸福を支えることに異を唱える人はいませんが、宗教組織が市場拡大の内圧に押され、植民地主義に取り込まれると宗教本来の意図とは違う運動を始めます。原理的にはそれと同じ形で、かつての伝道師がメディアと名を変え、記事を膨らませたり萎めたりして善良なる人々を眩惑してやまない今の日本は、過去と似た図式を繰り返しつつあるように思われてなりません。

200919記 つづく

 

 

 

Gotoメモ/バイク

ホンダのクロスカブ110ccで高知→松山→小倉→博多→上五島福江島→長崎→天草→熊本→別府→松山→高知とざっくり1,600㎞ほど走りました。旅は歩くのが一番、四国遍路は50日程かけて1,200㎞も歩きますが、もはや自分にそのような体力は残っておらず、ポケットにカメラを忍ばせて気持ちよく風を受けるにはバイクしかありません。若いころ乗ったオンロード400ccからオフロードに宗旨替えして、あれこれ浮気しましたが、ちょっとそこまで用足ししても長距離を走っても、郵便屋さんが鍛えたこのバイクは、ほんまに優秀です。デザインも斬新でけっこう珍しがられます。

 

フェリー

フェリーには都合6回乗りました。乗用車は航送料が高いので仮に全行程で車運賃を払ったとすれば結構な額になります。そのカネでLCCを利用し東南アジアで貧乏旅行したら1ケ月は遊べるでしょう。車に比べるとバイクの運賃は只みたいなものですが、降りた日が雨だったりすると最悪です。今夏ふたつの台風に追われ合羽を着てイヤんなるほど走りました。

 

コロナ

松山→小倉のフェリーは2等寝台たしか16ベッドのコンパートメントを自分ひとりが占有しました。土曜の夜にもかかわらず客は数えるほどしかいないので感染に配慮したものと見えます。次に乗ったフェリーは一室に5人ほど入れられました。掃除が面倒くさいからでしょう。コロナ対策も会社によって個性があります。

 

ついに五島列島でもコロナ患者が出たそうです。民宿では体温検知のピストルを向けられ、手に消毒液を噴霧し、廊下はマスクをして歩くべしという暗黙のルールがありました。高知県で初めての患者が宿毛市に現れたとき、最初の患者というインパクトが周辺住民の警戒心を刺激したらしく、可哀相にその人は自宅に住まなくなったそうです。毎日3桁のペースで感染者が増える東京大阪ではどうなのでしょう。もはや慣れっこになったのでしょうか、それとも人間関係の分断が進んでいるのでしょうか。

 

200919現在、高知県内の累計感染者数は137人、退院126人、死者4人、(無症状を含む軽~中等症で)入院中の患者が7人とあります。フツーに考えて県人口69万人中4人の死者と7人の患者は大騒ぎするほどの事態でしょうか?  むしろ風評によって人間関係を壊されたことの方が余程の大事だと考えますが、、

 

しかし欧米白人国はアジア有色人種国とまるで様子が違います。紙の新聞やテレビでは伝えられませんが、ネットを探ると震源国Chinaに向けた白人国の視線が、コロナをきっかけに以前にも増して冷たくなってきました。

 

200919現在/米ジョンズ・ホプキンス大まとめ

世界全体の感染者数  30,181,110

死者数 946,140

アメリカの感染者数    6,675,053

死者数 197,641

スペインの感染者数       625,651

死者数   30,405

日本国内の感染者数        77,187

死者数     1,481

高知県の感染者数/高知新聞 137

死者数         4

アメリカの人口3,8億、スペインの人口4,600万です

 

 

ちょっと道草 200914 Gotoまとめ3 集まること

 

 

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フェリーから五島列島を望む 200830

 

その昔、知り合いの女性と高知大学でお会いし大教室の片隅で長い話をしたことがあります。日もとっぷり暮れ、それでは左様ならと手を振ったとき彼女の顔に影があることに気づきました。それは水銀灯の角度が作ったものかも知れませんが、漫画家がわずかな線であらわすところの影の描画が思い出され、こちらの世界とあちらの世界を行きつ戻りつしているかのような彼女にとって、もはや私の存在はなきに等しいものでした。

 

 

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福江島玉之浦の小島 200829

 

 

どうしたのだろと思いつつ半年ほど過ぎたころ訃報が届きました。じつは彼女は重い病を背負っており密かに闘病生活をしていたそうです。あの影は彼女の体の内部からの作用であったのでしょう。参列者がごった返す斎場で無宗教の葬儀が執り行われましたが、僧侶も宮司もおらず、線香の香も榊の葉もない祭壇に、菊の花を捧げてご挨拶としました。無宗教の方にはお墓も不要であったのか確か彼女の遺灰は海に撒かれたはずです。後日、彼女のお友だちが新聞か何かに追悼文を載せておられました。仰げば雲の輪郭があなたの笑顔に見える。天国で安らかにといった内容でしたが、無宗教の人が天国へ行くものかどうか、いくらか迷いつつ考えさせられたことでした。

 

 

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福江島玉之浦 200829

 

親戚筋の葬儀の際、参列者への挨拶の草稿に身内の者が「天国」の文言を入れたところ斎場の担当者がやって来て、仏式の挨拶に天国はいかがなものか、極楽には向かわれるはずですが云々のチェックが入ったことでした。逝きて尚たのしくあれかしと願う遺族の気持ちのあらわれだから行き先が天国だろうと極楽だろうといいじゃないのと神道ベースの自称仏教徒はおおらかに考えるものですが、宗教家にとってはそうはいかないようです。

 

 

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福江島玉之浦 200829

 

「人は死ねばゴミになる」という乱暴な標題の書を残した人がいます。死んでゴミになる人の心に宗教は存在しないので、彼はこの世における物質的な役割を終え、燃されて炭酸ガスとなり、天国にも地獄にも向かうことなく、すべては終わった、、と言えるのかどうか。ご本人はそれでよいのかも知れませんが、遺族の心には生前の彼の意思が残るはずだし、後輩は彼の仕事を引き継ぐわけだから、ゴミになった彼は死してなお後世の心の中で生き続けます。その辺の配慮もなく「ゴミ」だなんて言ってしまう検事総長はアタマ悪いのではないか、ゴミの後始末をさせられる者の身にもなってみよとまあぼくなど思うわけです。あるいは彼は若いころ特殊な思想に染まったのかもしれません。

 

 

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富江湾を経て鬼岳を望む 200829

 

かつて知り合いの女性と京都は平安神宮のあたりを歩いていたとき、鳥居を見ると条件反射的にパンパンしたくなる自分が「ちょっと寄ってきますね」と声をかけたら「わたしはクリスチャンですからここで待ちます」とのこと、そのとき初めて彼女がプロテスタントであることを知りました。教会で祈りを捧げたこともなく、聖書を読み込んだわけでもない自分にカトリックプロテスタントの違いはよく分かりませんが、カトリックローマ教皇を頂点とするピラミッド型の権威主義であるのに対し、プロテスタントは聖書中心の百家争鳴型とざっくり捉えています。どちらが好ましいかは人の趣味によりますが、ここ五島列島キリスト教はすべて、大小にかかわらず教会が置かれ、ミサを執り行うカトリックです。

 

 

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水ノ浦教会のルルド 200827

聖母の出現に遭遇した聖女ベルナディッタ

 

福江島の水ノ浦教会の門には「私は門である。私を通って入る人は救われる(ヨハネ)」という箴言が大きな文字で彫られています。あくまで個人の趣味で申せば、門を通っただけでなぜ「救われる」のか、その根拠は何かとついいらんことを考えてしまうのです。キリシタン墓地の碑に置かれた様々な箴言も、論拠を示さず結論を押しつけるカトリック型であり、ものごとを理屈で考えがちの自分にはどこか納得できないところがありました。

 

とはいえ宗教の教義をロジックで捉えようとすること自体に無理があることもまあ大体わかります。天国なんて誰も見たことがないのだから天国があるとは言えない、と理屈っぽく攻めるのは子どもの論理です。天国、極楽、楽園、桃源郷、理想郷、、という限りなく美しいフィクションは、信じた方が幸せだから信じることが合理的であり、信じない人間が、おれは「ゴミ」になると顔を歪めて逝くよりずっとマシだと思うわけです。

 

とすれば聖書を原典として理屈を詮索するプロテスタント型より、ひたすら信じることの幸せを享受するカトリック方式が好ましいとも言えますね。激しく議論したからといって良い結論が導けるわけでもないし、バリバリ働いている人は忙しくて神学論争をやる暇はないでしょう。つまるところ信仰とは、理想とする夢を美しく思い描くことではないでしょうか。

 

 

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堂崎教会周辺の複雑に入り組んだ溺れ谷 200827

 

趣味や習い事は暇人の遊びみたいに言われますが、少しでも芸に触れれば、一流どころのワザを見て愉しむことはできます。いやぁ、すッご、まあきれい、という感動が家庭の団欒に持ち込まれたらとかく絆を失いがちな現代家族の安全保障にもなるし、この世の別れに際し、意識がかすれてきたころ精一杯あの世を空想する材料にもなります。

 

同居している老母は、娘時代が軍国時代で勉強どころではなかったこともあり、かろうじて新聞が読めるほどの学力しかありません。理解の枠組みが極端に狭いので趣味といえるほどのものは持ちませんが、花を見てきれいと感じる程度の力は持っています。いよいよとなれば彼女に残されたありったけの力で来世を美しく描かせよう。そのための手伝いをするのがせめてもの親孝行かなと考えています。

 

 

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黒潮洗う玉之浦の渚 200829

 

宗教とは何か

と大上段に構えてモノ申すわけではありませんが、あえて宗教とは何かと自分に問うときそれは「集まることだ」と答えます。どんな立派なことを言っても誰も聴いてくれなければ寂しい。孤高を誇るという一見かっこいい言葉も一人ぼっちじゃ寂しいよという気持ちの裏返しだったりします。いじけて孤独をかこつより、似たようなことを考える仲間と一緒にいた方が温かい。そこへ違う考え方の集団が冷たい視線を送ってきたら、みんなで結束して戦うことだってできる。

 

宗教以前の問題として、集まること、群れることは生物の生存本能ではないかと思うわけです。その求心の軸に、大宗教や新興宗教があったり、利害得失が錯綜する村落共同体あるいは政治共同体があったりしますが、言葉で細かく分類しても仕方のない概念をざっくり捉えれば、ヒトは関係の中で生きる存在であり、集まる性質を持っていると言えそうです。けだし「人間」とは良く言ったものだと昔の人の造語に感心します。

200914記 つづく