ひとり旅 220527 ロシア編(17  全ロシア将校協会イワショフ退役大将「プーチン大統領は謝罪すべき」

 

 

 

< 2022年の現在史 >

220222ひとり旅「全ロシア将校協会のウクライナ侵攻は”ある”」 で引用したイワショフ退役大将が、侵攻3ヶ月後の3月16日ふたたび分析と予測を置きました。このように気骨ある人間は日本にいて欲しいと願いつつ前回論文と今回論文を一部引用します。

 

 

イワショフ退役大将

 

2022.02.22ひとり旅での引用部、

「ロシアは魅力的なシステムを作ることができなかったので、ウクライナは、欧米に行ってしまった」「世界のほとんどの国がクリミアを今もウクライナ領と認識している。このことは、ロシア外交と内政の失敗をはっきりと示している」

 

イヴァショフ氏がロシアのウクライナ侵攻に反対する理由は「 第1に国家としてのロシアの存在を危ういものにする。第2にロシア人とウクライナ人を永遠の敵にしてしまう。第3にロシアとウクライナの若くて健康な男性が、数万人亡くなる」ことだ。「NATOは結局、ウクライナ側に立ち、ロシアに宣戦布告。ロシア軍はNATO軍と戦い」結果としてロシアは「国際社会で孤立し、おそらく独立国家の地位を奪われるだろう」ウクライナ侵攻はプーチンが自分の権力と富を守るためだけの戦争なのだ」「ロシア軍のかなりの数の将校がウクライナとの戦争を望んでいない」

 

「ロシアは、ドネツク、ルガンスクを完全支配できるようになるだろう。おそらく両州の独立を認めるという形になるはずだが、実際は”完全属国化”だ」「ロシア経済が今以上にボロボロになることだけは間違いないだろう。だが、一番悲惨なのは、NATOとロシアに挟まれて翻弄されるウクライナだ」

 

以上の分析と予測は

3ヶ月後の今からふり返り

ほぼ当たっています

 

***

 

それから3ヶ月後の2022.05.24テレ朝newsに配信された

プーチン大統領は謝罪すべき」とするイワショフ退役大将の論文を一部引用します

正確には下記URLをご覧ください。

https://news.yahoo.co.jp/articles/ee52e38b84caf9256edb4523673618e1c0699884

 

「大局的な戦略というものは、対立する他国との関係のなかで自国の最大限の利害を探る地政学的に、どんな結果をもたらすかを精査したうえで決定されなければならないのだが、ロシア軍ではその研究が行われていない」「ウクライナ領土のいくばくかは獲得できるかもしれないが、地政学的にはすでに敗北を喫した」

 

アメリカや欧州各国は、NATOの元で団結し、”ひとつの拳”となってロシアを叩きのめすことを長い間、望んでいた。EUもロシアの石炭産業を締め出したかったのだが、結局今回、貿易そのものを止めることになった」  

 

「いまやアメリカと欧州の対立は解消され、アメリカは自らの原理原則のもとに、経済制裁だけでなく、反ロシア、ウクライナ支持という旗の下に、すべての欧州の国々を結集させてしまった」「アメリカがやりたかったことは、19世紀のドイツ帝国宰相ビスマルクが望んだように、ウクライナをロシアから切り離しさえすれば、ロシアに勝てる、ということだった」

 

「1948年8月にアメリカの安全保障会議がまとめた『米国の対ソ戦略』の中で、軍事戦略とならんで中央アジアコーカサス、バルト3国に対する対応が書かれているが、ウクライナについては特に重点が置かれている。そこには、ウクライナ人とロシア人を分けることは困難だ、彼らは一つの民族である、それゆえに亀裂を作り出す必要がある、さらにこの亀裂を政治的対立や軍事紛争にまで拡大する必要がある――と書かれていた」「英米両国にとっては、中央アジアコーカサスもロシアからもぎ離し、ロシアを孤立させる、というのが19世紀末以来の構想だった。 こうした長年の夢を今回の「特別軍事作戦」は実現させてしまった」

 

「たとえキエフ(キーウ)を奪取しても、われわれは世界で孤立している。国連で誰がロシアに賛成票を投じてくれるというのか。中国さえ棄権している。CIS諸国(旧ソ連の国々)も、反ロシアの経済制裁に加わっていくだろう。残るのはベラルーシだけだ」

 

「ロシアがこんなに孤立したことはなかった。スターリンが第二次大戦直前にやったことを思い返してみればわかる。戦争の匂いをかぎ取ったスターリンは、英米というアングロサクソンの大国をさえソ連の側に引き寄せた。日本との関係には問題があった。しかし1941年春、日本の外務大臣松岡洋右)がモスクワを訪問した時、スターリンは自ら4度も会い、出発の際には、未曾有なことだが、スターリンが駅頭で見送ったのだ。外務大臣スターリン自身が見送りにきた唯一の例だ。そして日本と中立条約を結んだ」

 

「1941年6月、ナチスドイツが電撃作戦を開始した当初は困難な立場に置かれたが、スターリン英米ソ連支持を表明することを確信していた。日本も動かなかった。その間、ソ連は日本に対する軍備を整え、蒋介石の国民党にも中国共産党にも援助をして日本をがんじがらめにした」  

 

「ロシアは情報戦争でも『完全に敗北した』ハリコフを取ろうが、たとえ沿ドニエストル地方を奪って戦闘に勝利しようが、対立する他国との関係のなかで自国の最大の利害を探るという『地政学的な』戦争では敗北した」

 

「『勝利勝利!』と叫ばされ、『戦争反対』と言っただけで投獄されるような法律はスターリンの時代にもニコライ二世の時代にもなかった。大統領は知恵と経験のある者たちを集めて虚心に意見を聞くべきだ」

 

「ロシア大統領に電話しようという指導者がこの世界のどこにもいない状況だ。大統領は謝罪し、処罰すべき者を罷免し、政府のトップには「特別軍事作戦」に反対する者を据えることだ。大統領も詫びるのだ。いま世界中の国でロシア人は大変困難な立場に置かれている。ロシア語を話しただけでいじめられたり殴られたりしている。われわれは情報戦争に完全に負けたのだ」

 

「最高の愛国主義者は、テレビでプーチンの腰巾着ぶりを見せる者ではなく、プロの軍人だ。軍人と言う職業を愛し、民衆を思う者こそが最高の愛国者だ。今日ロシアに必要なのはそういう人間だ」……以上、普通に考えて正論です。

 

***

 

アジア太平洋戦争の開戦前にスターリン松岡洋右を駅で「見送った」「そして日本と中立条約を結んだ」⇒その中立条約を破棄し満州に攻め入った。武装解除した日本人をシベリア送りし6万人ともいわれる死者を出した。戦争終結後に北海道鬼鹿沖で引揚げ船を撃沈した、わけでもあります。

 

それにしても「シンゾー、ウラジミール」と名を呼び合い、樺太開発と北方領土をめぐって蜜月を演じた両国首脳の笑顔は何だったのか、騙し騙されは外交の常であるにせよ、政治以前に大陸と島国の大いなる文化的差異を感じます。

 

嘘をつく人の顔には陰があり、満面の笑みをもって他者をだますことは、ぼくらヤマト島の人間にはできません。その文化的背景に何があるのか? ハンチントン教授は世界を7文明に分け、日本を1国家1文明と規定しました。文明のむこうに文化があります。情緒優先のヤマト文化がどのようにしてつくられたかについてぼくは興味があります。

2022.05.27記 つづく

 

ひとり旅 220522 ハノイのバイク事情(2 チャリでお店 団子4きょうだい

 

 

 

 

 

ハノイを行く果物屋さん 2019.10.14

 

 

お菓子屋さん

 

 

花屋さん

 

 

?? 屋さん

 

 

かつてベトナムは漢字の国でしたが

今はローマ字表記です

何屋さんかはわかりません

 

 

ベトナムの蓑笠⇒葉笠⇒ノンには

男用と女用があるそうです  2019.10.14

 

帰りの飛行機でふたりの女性が

蓑笠を機内持ち込みしていました

おれも買っときゃよかったと残念です

 

 

芝生屋さん

 

 

?? 屋さん

 

 

こんだけ積んだら

風の日は御用心

 

 

孫とぢっさま 2019.10.14

 

 

左は赤ちゃん、右は子ども

 

 

父と子 2019.10.14

 

タイ北部に住む友人によると目下のベトナムは経済絶好調だそうです。時代の波に乗り、バイクに乗って、子どもを学校に降ろしたあと「しっかり勉強するんだぞ」「うん」という遣り取りのあと父は職場へ、子は教室へ急ぐのでしょう。ハノイの街中でもディエンビエンフーの山奥でもしばしば見かけた懐かしい風景です。この子はよい目をしています。かつての日本にもそのような時代があり、学校に行かせてもらえることは大きな悦びでした。ところが今となっては登校が苦痛だから不登校だなんて、、

 

「登校拒否」は大阪大学清水将之博士の造語です。当初普通に使われていた用語ですが「拒否」に含まれる強制の要素に問題があり、いつしか「不登校」と言い替えられました。学校に行けない子の人権を擁護する柔らかい配慮ではありますが、そこまで人権にこだわるのであれば、言葉を変える前に行政的な枠作りを考えるべきでしょう。それなりに環境を整えれば子どもは普通に育つものです。にもかかわらず悪いのはお前の「心」だと、見えない心を問題にして何かよいことがあるのだろうか? それは言葉狩りの一種ではないだろうか? 教育とは別の目的をひそませているのではないかと勘繰りたくなります。というのも今の学校教育には気付かぬところで怪しい仕組みがいっぱい持ち込まれているからです。

 

 

右のスクーター乗りは

通学途中の女子高生でしょうか

服飾とマシンの黒がコーディネートしてお洒落です

スカートじゃ危ないよと思っていたらズボンでした  2019.10.14

 

どんなバイクにもファッションとの相関性があります。黒のメットに黒の革ジャン、各所に銀のボタンを散らし、あぶないオジサンを装うハーレーダビッドソンのライダーは、きっちり文法を守って例外がありません。あったら石を投げられます(^^

 

 

通学途中の3人乗り

 

 

青でコーディネートした親子3人

3人乗りはフツー

 

 

おしくらまんじゅうは

4人が限界かと思っていたら

 

 

5人乗りもアリでした(~~!

明るい団子4きょうだいです

おかあさんちゃんと前見て運転してよ!

 

2022.05.22 つづく

 

 

 

ひとり旅 220518 ハノイのバイク事情(1 走りスマホと電動バイク

 

 

 

 

 

職場を離れ、晴れて自由の身になったら日本を北から南まで見てまわり、日本列島の印象をもって海外を訪ねようと考えていました。車に鍋カマ布団を積んで走っただけではありますが、プレートが4つもぶつかる天災の国には、災害と引き換えに美しい山々があり、四海に島々が点在し、亜寒帯から亜熱帯まで全部あって植物学者も気象学者も退屈することのない広い国であることがわかりました。

 

その目で台湾、タイ、ラオス、韓国、ベトナムと渡っているうちにコロナ禍に襲われました。すわ生物兵器の漏出かと、ネットで結ばれた世界がこの世の終末を演じてくれましたが、やがてなんか怪しいぞ、数字の扱いもおかしいし、身近なところでヒトがばたばた倒れているわけでもない。にもかかわらずテレビもネットも王冠状の不気味なウィルスをカラー映像で印象づけ、待ち構えたようにワクチンが登場し、接種を誘導する報道が観光産業を焼け野原にしました。トランプ大統領が「中国ウィルス」と呼んだ感染源の武漢では、真っ先にコロナ禍を克服し、ゼロコロナを達成したかに見えましたが、ここにきて西安、上海、北京といった大都市に異常な動きが見られます。

 

誰も予想しなかった2月24日のウクライナ侵攻以来、報道の主体はコロナから戦争へと移り、テレビもネットもおぞましい話でもちきりです。そんなこんなで予定した旅はベトナムで中断され、ハノイサイゴンカンボジアの旅はお預けとなりました。なんだかな~と思いながら写真のフォルダをめくっていると今となっては懐かしいハノイの写真が山ほど出てきたので、鬱陶しい「ロシア編」はお休みし、バイク写真でコーヒーブレイクにします。

 

 

 

ハノイの中心街 2019.10.24

 

この時点では

まだコロナは発生していなかったので

お洒落なマスクは排ガスとホコリ対策です

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

ベトナムのバイクはホンダとも呼ばれますが

仕事バイクは機能重視なので出自は問わないのかも

 

世界がコロナで大騒ぎしたときベトナムが至って平穏だったのは

普段からマスクを付ける習慣があるからかなと思ったりしました

 

 



ハノイ 2019.10.24

 

ど派手な衣装のお母さんは

マスクを外してスマホに夢中

よい子はしっかり抱きついています

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

股を広げて

どこでもスマホ

 

タイでは高校生くらいの女の子が

バイクの後部座席にかわいく横がけして

スマホをすりすりしていますが

急ブレーキを踏んだらどうなるのだろと心配です

その点スカート股びらきのハノイのお嬢さまは

やや安心かなと思いました

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

ティーブジョブスがiPhoneを開発したとき

まさかこれほど流行るとは思わなかったでしょう

あちら世界から連絡船に乗って

こちら世界を眺めたら

どんな顔するんだろと興味津々です

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

通学途中のお嬢さんも

お父さんの背中ですりすり

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

走りスマホ

やめませう(--

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

むかしエンジンの出力不足を足で補う

「踏んだらモーター」というのがありました

これは電池が応援してくれる「踏んだらバイク」

日本のおばさんは電動チャリを漕ぎますが

彼女のバイクは腰の下に電池ボックスを仕込んだ電動です

 

ヘルメットを被っていないのは趣味の問題であり

おまわりさんに咎められることはありません

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

これも電動バイク

複雑なエンジンが要らないので

つくりがオモチャっぽくなります

 

台湾でバイクを借りようと交渉しましたが、免許証の「中国語訳文」が必要とのこと。知ってはいたものの南の国なら交渉次第だろうとタカを括って出かけたのが間違いで、ねばってもダメでした。一方タイ北部のバイク屋は、日本の免許証には興味がなくて、デポジットを1万円受け取ったら、ハイどうぞとおおらかなものでした。台湾のように文明が進み、日本化すると段々うるさいことになります。仕方なくエンジンバイクはあきらめ、サーカスの猿が乗ったら似合うかなというチャチな電動バイクを借りました。(エンジン付きがいけなくて電動はかまわないという理由はよく分かりません)

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

ぼくの世代は記憶の底にマンガン電池があるので、電動バイクで遠出するのはヤバイなと思っていたのですが、台湾でバイク屋のおばさんが自慢げに差し込んでくれた「日立の最新式電池」は思いのほか出力が強く、坂道だってがんがん登りました。さすがに日が暮れたころには出力が落ち、走るには走りましたが、右手を回しても反応が鈍く、人里はなれた山道でエンスト(電スト?) したらどうやって帰ったものかと不安でした。

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

二人乗りでも

がんがん走る

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

子どもの自転車みたいですが

デザイン的には日本のママチャリ改より

かっこいいです

 

 

 

ハノイ 2019.10.24

 

ハノイは花の都

胡蝶蘭も走ります

2022.05.18 つづく

 

 

 

 

< 2022年の現在史 >

唐人テレビや大紀元といった現代Chinaの暗部をえぐるメディアは、事実を誇張していないかどうか眉に唾を付けて観るべきです。一方Chinaの美徳しか伝えない親中新聞テレビもまた眉にたっぷり唾を付けて斜めに読みましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=ckz-E_GjZeA

 

日経新聞2022.05.17一面に「中国ゼロコロナ、経済直撃」とあります。フツーに考えて、弱毒性かつ感染力が強いオミクロン株を防ぐ手だてはありません。ぼくの身内の者にも陽性反応が出ましたが、元気一杯で走り回っているから、むしろ注射せずに免疫がつくられてよかったんじゃないのと思ったことです。メディアが伝える数字のいかがわしさを事々しく述べる必要はないでしょう。80歳を過ぎていつまでも元気な人間なんていません。

 

不思議でならないのは、コロナは終息しつつあり、オミクロンの感染を防げないことは中国政治局にも分かっているはずなのに、なぜ習体制はゼロコロナにこだわるのか? そこには深謀遠慮があるにちがいないと色々考えました。思いついたのは、エンペラー習が「コロナに勝つ」と言ったから勝つ。「ゼロコロナを遂行する」と言ったから遂行する。そのことを疑ってはならないという原理主義的無謬主義です。原理主義だから疑ってはならず、そのための手段はすべて正当化されるというわけです。そのあたりのロジックを利権がらみで敷衍すれば、都市封鎖という途方もない愚挙が説明できるかなと思うに至りました。ウクライナで苦戦する独裁者プーチンとほぼ同じ罠に嵌まったのではないでしょうか。

220513 ひとり旅 220513 ロシア編(16 ロシア 中国 津軽海峡 大隅海峡 サハリン 香港 台湾 宗谷岬

 

 

 

 

 

北海道オホーツク海沿いの放牧場  2015.10.10

 

南アフリカを旅した友人から「とても広くて帰るのがイヤになりました」という葉書が届きました。高知の土佐湾沿いで暮らしていると太平洋が広いのは分かりますが、車で30分も走ると山の谷間に畑があり村があり、空は三角、山は壁です。乳牛が遊ぶ北海道の大地を見て胸がスカッとしました。南アフリカもこのような風景なのでしょうか?

 

 

富山県人が作った地図

 

ウクライナ侵攻の4カ月前、2021年10月19日にロシア軍と中国軍の艦艇10隻が津軽海峡を越え、伊豆諸島から足摺岬沖の海域を航行し、大隅海峡を抜けました。両海峡とも国際海峡であり違法行為ではありませんが、これ見よがしに日本列島の首と足を切る航路は、明らかに軍事的意図をもちます。

 

日本地図を横に寝かせて大陸から見ると、いかにも日本は列島だなという気がします。北海道は樺太の延長であり、南シナ海に点在する南西諸島は、その気になればいつでも突破できる薄い壁です。

 

日本列島をロシア中国から見れば点在する島々にすぎません。大なるものをよしとする上下関係でいえば、広い面積をもつ大陸が偉く、間宮海峡で切られた樺太(サハリン)は文化文明の果つる地となります。序列を尊ぶ「大陸儒教」でいえば大陸⇒半島⇒海に浮かぶ小島は小日本(シャオリーベン)として低く見られます。▼フェイクかも知れませんが、ウクライナで投降した兵士や民間人は連れ去られてサハリンへ運ばれるというニュースを見ました。

 

2022年4月1日ロシアの政党党首が「ロシアは北海道にすべての権利を有している」と言明しました。「ふざけんな!」と思うわけですが、ウクライナに侵攻したロシアの議員にあってみれば、上掲ヨコ地図のごとく樺太(サハリン)の目と鼻の先にある北海道はロシアの領土だと考えることもありそうです。逆にいえば、1905年の日露戦争で敗北したロシアは、樺太の南半分を日本に取られていたわけでもあり、その土地を誰のものとするかは時代の力関係が決めることなのでしょう。

 

「ひとつの中国」とは、台湾が中華人民共和国に所属するという意味ですが、蒋介石が日本軍と戦ったという史実をもって言えば、むしろ中華人民共和国が台湾に所属します。しかし歴史の正論ではなく目の前の軍事力でいえば、中国が上、台湾が下であり、下は上に従わねばならないとするのが大陸儒教朱子学としたものです。それにしてもつい数十年前まで香港・台湾の経済力は大陸を圧倒していたにもかかわらず、変われば変わるもの、ぼくの頭の中では1980年代に中国を歩いた残像がビデオの早送りごとくです。

 

 

宗谷岬の歌碑 2015.10.10

 

1976年にヒットした「宗谷岬」は、いかにも長閑な平時の歌であり、戦時を想起させる文言はどこにもありません。戦後31年目の当時、憲法前文で言うところの「平和を愛する諸国民」は「公正と信義」をもって戦後復興にいそしんでいました。「流氷とけて春風ふいて」「外国船の煙もうれし」と北の暮らしを誇らかに歌う「宗谷岬」は豊かな文明に支えられた高い文化性をもちます。文化は経済・軍事の上に立つものだからです。その仕合わせも賞味期限が近づいたかなという気がして悲しいです。

 



千葉紘子の宗谷岬

 

2022.05.13記

 

 

ひとり旅 220509 ロシア編(15 西能登呂岬 シベリア強制抑留者 平和の礎

 

 

 

 

 

ウチはトマト農家なので最盛期の今は壁のように積み上げられたコンテナの前で毎日毎夜せっせと箱詰めしています。そこへ謎の?中国人がやってきてニーハオのあとで何か言いたげでしたが、彼は日本語も英語も解さず、こちらはシェシェと麻雀用語しか知らないので、あとは肉体言語しか残されていません。

 

無言のまま手と顔でコミュニケーションをはかるのはとても疲れる作業ですが、身振り手振りでがんばっているうちに彼は中国東北部満洲ハルビンの生まれ、近くの台湾料理店で働いていることがわかりました。故郷は「ハルビン!?」と驚いた顔を見せると彼は両の拳を握って震わせました。ハルビンはとても「寒い」そうです。

 

 

ハルビンチチハル宗谷海峡とほぼ同緯度

オムスクは死の家の記録」のドストエフスキーが収容された西シベリア

 

ウチの冷凍冷蔵庫は-30℃をウリにしていますが、マグロ船には-60℃の冷凍庫が設置されています。仮に海上が30℃として90℃の温度差を実現するには発電のため相当量の重油が使われるので寿司屋のマグロは石油の缶詰でもあります、という前振でハルビン満洲旧ソ連⇒シベリア抑留と連想しました。

 

 

宗谷岬の平和記念碑  2015.10.10

 

碑文には、アジア太平洋戦争が始まった昭和16年「宗谷要塞重砲兵連体が創設され」昭和20年敗戦の日まで「ある者は妻子と別れ、ある者は青春を空しくし、寝食を忘れて任務に就き北辺の護りに励んだ。更に(樺太南端の)西能登呂岬(ロシア名クリリオン岬) 要員は敗戦後もシベリアに抑留の身となり4年有余の辛苦の日夜を送った。この間再び故国の土を踏むことなく白玉楼中の人となった7名の僚友の霊に対し深く哀悼し」とあります。

 

 

高知県東津野中学校脇「高知県シベリア強制抑留者慰霊」銅像 2021.10.10

 

碑文には「ソ連スターリンは全面的降伏した我が日本軍を、戦争中の捕虜として流刑の地シベリアに強制連行して酷使し、飢えと寒さに耐えられず、8万人の将兵が惨たらしく死んで逝きました。これは国際法・人道上赦されぬ行為であります。この像は疲労困憊した兵が虱の猛威にたまりかね、伐採山で裸になり痩せ衰えた我が身体を見て落胆しながらも『俺は生きて帰り、この凍土の下に無念に眠る数多くの同胞の霊を浮かばせてやらねばならない』と故国の空に叫ぶ姿を描いた銅像です」とあります

 

 

平和の礎「シべリア強制抑留者が語り継ぐ労苦」巻Ⅹ

 

本書の出版日が平成12年3月

慰霊碑の竣工が平成12年11月なので

碑と書は関係があるはずです

 

本書まえがきには「終戦間近の昭和20年8月9日、旧ソ連邦は参戦し、終戦後旧満州 (満洲末尾に*補注)、樺太、千島から約575.000人の軍人等をシベリア等に強制抑留しました」とあります。635頁に及ぶ本書は第10巻であり、アマゾンで検索すると第15巻まで出版されています。

 

出版元の平和祈念事業特別基金は1)労役の実態 2)抑留者の統制管理の実態 3)抑留中の生活と極限状態における意識を明らかにすることが目的であり、本書巻10の執筆者は76人ゆえ単純計算して全15巻には1140人もの抑留経験者が、酷寒の地の実体験を記述しています。シベリアの強制労働とは何か? それを視覚化すると「高知県東津野中学校脇」で肋骨の浮いた銅像になるのでしょう。

 

夏休みの宿題を忘れた生徒を、白い部屋に閉じ込め、紙と鉛筆を渡して「作文しなさい」と命じるのはおろかな先生です。かしこい先生は「遊んだ経験を思い出して書きなさい」とさとします。プロ作家が書斎で空想をめぐらすのではなく、本書の執筆者は、数奇な運命に巻き込まれ、命懸けで一次情報を取ったのであり、どの頁どの行にも実体験の重みがあります。辞書ほどの厚みをもつ巻Xをめくっているうちに、たまたま目にとまった福井県尾上敏雄氏の「シベリア抑留を顧みて」から抜粋します。

 

 

平和の礎「シべリア強制抑留者が語り継ぐ労苦」巻Ⅹ末尾地図より

 

「8月9日ついに日ソ開戦となった」「8月15日ついに来るべきものが来た。正午、天皇玉音放送があった。私は通信室で日本の降伏を知り、筆舌に尽くし難い空しさと、敗戦のみじめさに涙が出てきた」「同僚の一人は、敗戦を悲しんで拳銃で自殺した」

 

ソ連軍の命令で、ハルビン市郊外の某日本兵舎に移動し、そこで武装解除された」「本当の捕虜扱いとなった」「天皇陛下の御為、御国の御為と教育され、ただ勝つことのみの教育ばかりで、敗戦してそれ以後の方針や教育はひとつもなかった」「11月19日、牡丹江から貨車に乗せられて当地を出発した」「監視のソ連軍ロスキーは“ヤポンスキー東京ダモイハラショ(東京へ帰る、良いだろう)”と言っていた。この言葉を信じて喜んでいた者と、またその言葉は欺瞞で、我々をソ連の陣地構築に連れて行き、終われば銃殺という悲観者もいた」

 

「防寒被服や防寒靴が支給された」「一列に並んで雪道を歩いた。食物も与えられず空腹のままだった」「見わたすかぎりの森林地帯、そしてそこかしこに転々と撤収した幕舎の跡があった」「この幕舎にドイツ兵の捕虜が収容されていたとのこと」「夜中に小便に起きて戻って来ると、もう寝る場所はない。しかたがないから次の者が起きるまで、中央のストーブ周辺で暖を取り待っている。この繰り返しだった」

 

「ここでの作業は伐採、道路工事、建物の基礎工事等に分かれた。私は森林伐採の作業に行くことになった」「空腹と酷寒、そして重い防寒被服をまとっての作業の連日」「その頃は零下35度は下っていた。生きて帰りたい一心でこの作業についていた」「朝の点呼に数人の姿が見えないので、各幕舎を点検したら、既に息絶えていた。かわいそうに栄養失調で死に神が迎えに来たのであろう。ここに約2カ月間滞在したが、その間に約100人ほどが栄養失調で亡くなっていった」

 

「零下40度近い酷寒と空腹、そして銃を持った監視付き、その上重労働の強制は、自分の気力にも限界を感じた。夕暮れになると望郷の念が強く、我が身もこれまでかと思い、人目をしのんで両手を合わせて合掌した」「大変な労働だったので、春を待つ4月頃までに300人ほどが亡くなり700人くらいになってしまった。亡くなった方の姿は、あばら骨がまるで洗濯板のようで、本当に骨と皮だった」

 

「我々の監督はソ連の囚人で、その上の監督はソ連軍法会議にかかったソ連の軍人、その上の監督がソ連正規の軍人とのことだった」「収容所の規則では、零下40度を基準として、39度では舎外作業に出るが、40度では舎内待機となった。

 

「野菜貯蔵庫の改築工事は~案外楽で、その上野菜等は十分いただき、食糧不足の折り大変助かった」「ソ連人宿舎の補修工事や個人宿舎の修繕~馬糧(乾草)の運搬作業や、馬鈴薯の植付けから除草、収穫まで色々な仕事をさせられた。しかし、どんな作業に分かれても、歩哨は監視について来た。そのため心の休まりはなかった」

 

「入浴は一人一桶くくらいのお湯が割り当てられたが、そのお湯で顔を洗い、身体をふく程度だった」「21年の夏ころだったか、全身の身体検査があり、ソ連の女医さんが私たち一人一人の尻の肉をつまんで1級から4級までに分けた。1、2級は所外の重労働、3級者は軽労働で、4級者は作業はなく、等級によって作業の量や食事の量が変わった」

 

「休日等は近くの川に行き魚取りや、野原に出ては若草や木の芽、茸などを採取して腹の足しにした」「あの頃は腹いっぱい食べたらいつ死んでもいい、一度でよいから腹いっぱいぼたもちを食べたい。いや何でもいいから、腹いっぱい食べたいと思っていた」

 

「21年の夏頃からと思うが、共産党の講義が始まった。~会場の正面にスターリンモロトフの写真があり、その両横に日本の野坂参三徳田球一両氏の写真があり、この写真に礼拝してから講義が始まった」

 

「ある日この病院内の監視人の時計がなくなった。その盗人の疑いが私にかけられた。~自分ではないことをどんなに説明しても、受け入れてくれない。この病院の軍医さん、上海に20年も住んでおられて日本語が上手にできる方が~取り計らってくれ、入院中のソ連の民間人が常習犯と分かり白状したので、私は直ちに自由帰還者の身となった」

 

「ナホトカ港に着いた。~舞鶴港へ入るころは波も静かだった。~藁葺き屋根の家々、そして日の丸の旗が見えた。帰って来たんだ。本当に日本だ。甲板の上で感涙にむせぶ声がする」

                                                                                    「平和の礎」巻Ⅹp225~234より

 

本書の執筆者は、北は北海道から南は熊本まで順に並んでおり、高知出身者が一人だけいます。斉藤拓三氏「密林の火葬」を引用します。

 

「氷点下30度~40度という寒冷の中を、毎日歩哨に銃を向けられながら伐採作業や木材の集積作業に従事したが、このような重労働のため疲労衰弱の上に、食糧不足による栄養失調に陥り、下痢を伴ったままやせ細っていく。その体は骨と皮ばかりになり、まるで枯れ木のようであった。山から帰る途中疲労のため倒れ、そのまま死ぬ人も増え続け、収容所から見える林の中では、死んだ人を焼く真っ赤な炎が夜を徹して燃え続けていた」

 

「死ぬと急激に頬がこけ始めるためか、頬の肉が骨に食いついて、まるで骸骨のようであった」「歩哨がマッチを一人の兵に差し出すと、その兵が屈んで火をつけようとしたが、寒さのため手が自由にならず幾度も繰り返すうち、ようよう火がついた」「心の中で黙祷しながら、薪木を運んでは炎に投入する。ぱらぱらと火の粉が、その人の御霊のように大きく暗黒の中に昇天して消えてゆき、その真下の真紅な一塊の炎だけが闇に閉ざされた大密林の中で灼熱のごとく猛り燃えているのである」「しかし、死ぬということについては恐れはしなかったが、この極寒にシベリアの密林の中で飢餓の状態のまま死ぬということは、人間として耐え難い矛盾のように思えた。生きたいと思った」

                                                                                        「平和の礎」巻Ⅹp 596~598

 

ぼくの父は、ハルビンの近く、北はソ連(ロシア)、西はモンゴルのチチハルで従軍していました。冬場に歩哨に立つと吐いた息が凍って耳の後ろでかすかな音が聞こえたそうです。気温が-40℃まで下がると軍用車が川を渡り、おしっこが積もったとも。敗戦後、武装解除され、北へ向かう列車に乗せられたとき、窓から飛び下りて走ったそうです。晩年の父が司馬遼太郎の「ノモンハン事件」を繰り返し読んでいたのは、小説を手がかりに、当時の記憶をさぐっていたのでしょう。

 

若い頃のぼくには、父の戦争経験を聴き取る力もなければ興味もなく、父がどのようにして満洲朝鮮半島を経て引揚げたのか訊くことはありませんでした。今にして思えば惜しいことをしたものです。もしも父がシベリア行きの列車に乗ったままなら、本書に描かれたような労務を強制されたであろうし、運が悪ければ大陸の北辺で身まかり、ぼくはこの世に存在しなかったのかもしれません。

 

 

*補注/ネットには「旧字体は『満洲』であるが『満州』の表記も用いられている。当用漢字、常用漢字『洲』がないためとされるが『満州』が中国の一部であることを強調するためと説明されることもある」とあります。この点は東洋史が専門の岡田正弘氏も論文の中で鋭く指摘しているところでもあります。

 

「平和の礎」には旧ソ連(ロシア)が、投降した日本兵を奴隷のごとく使役し、死に至らしめたことへの直接的構造的な批判が伺えません。ひょっとすると編集者に記述の細部また骨格において対中対露の政治的配慮があったのかもしれず、とすれば本書の資料としての価値は大きく減じられます。歴史は言葉なのです。

2022.05.09記 つづく

 

 

 

 

< 2022年の現在史 >

農業には「窒素リン酸カリ」の3要素が要ります。窒素は空中からとれますが、(年次によって数値はまちまちながら)一説に、カリは日本の必要量の25%をロシアとベラルーシから、リンは90%を中国から輸入しているそうです。2021.07.30に中国国内の一部肥料メーカーが「一時的に輸出を禁止する」と発表し農家に緊張が走りました。ウチは水耕栽培なので大量の肥料を水に溶かしてトマトの根元まで届けます。ロシアの切り札は核使用のみならず、石油・天然ガス、肥料にまで及びます。ウクライナ戦争が肥料に飛び火して農家の足元まで迫ってきました。桑原桑原です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとり旅 220505 ロシア編(14 宗谷海峡の米軍潜水艦 奄美大島の対馬丸 ジパング ウクライナ

 

 

 

 

北海道宗谷海峡 平和の碑1015.10.10

 

碑文には「太平洋戦争のさなか1943(昭和18年)10月、ここ宗谷岬の沖合で日本とアメリカ合衆国との間で5時間に及ぶ戦いが繰り広げられました。この時、旧日本海軍の攻撃で、アメリカ海軍潜水艦ワフー号が乗組員80名を乗せたまま撃沈されました」「そのワフー号は日本海を北上してきましたが、その途中、関釜連絡船『崑崙丸』をはじめ商船などへの攻撃を繰り返し、多くの日本人が犠牲になっています」とあります。

 

戦争終結後に「鬼鹿沖」でロシア潜水艦の攻撃を受けた樺太引揚げの「三船」と違い、戦時の商船は間接的に戦争に加担するので攻撃側が100%悪いとは言い切れないところがあります。その商船を沈めた潜水艦も日本軍に沈められたというから、海上で光を浴びつつ意識を失った人々も、海中の狭い空間であえいだ兵士も、この世の生を全うできなかった恨みは残ります。戦争を遠くから見れば、いのちのいたずらな消耗にすぎません。

 

 

奄美大島宇検集落の対馬丸慰霊碑 2017.07.19

 

碑文には「太平洋戦争終戦の1年前、昭和19年8月22日午後10時すぎ、沖縄から学童、一般疎開者を乗せて長崎へ向かっていた『対馬丸』が悪石島付近で、米国潜水艦ボーフィン号によって撃沈されました。犠牲者およそ1500人、そのうち学童780人余、就学前の幼児をも合わせると1000人余りの幼き命が一瞬にして奪われました。当時、ここフノシ海岸や枝手久島をはじめ周辺一帯には多くの遺体が漂着しました。あまりの無残さにとても正気では埋葬できず焼酎を煽り、感覚を麻痺させながら浜に横穴を掘るなどして、村民が手厚く埋葬しました」とあります。

 

 

かわぐちかいじジパング」巻12より

 

 

多くの遺体が漂着したフノシ海岸 2017.07.19

 

子どもを含む「犠牲者およそ1500人」の遺体が散乱したであろうフノシ海岸を歩きながら73年前の夏を想像しました。これが映画なら突然の雷撃または砲撃によって大混乱に陥った船上の光景をフラッシュバックさせるシーンですが、ぼくの想像力は貧弱なので、漂流物とてない渚を占有し、水中眼鏡にシュノーケルを付け、透明度の高い海で珊瑚を探したことでした。誰もいない海辺で過去を思い出させるのは石碑に書かれた文字だけです。

 

 

対馬丸碑  2017.07.19

 

ウクライナはロシアに対し一般市民を退避させる「人道回廊」をつくれと訴えています。ロシアはウクライナに対し一般市民を「人間の盾」として使うのは卑怯だという論陣を張っています。どちらの言い分が正しいのか、地球の裏側で二次情報を組み合わせて考えるぼくにはわかりません。ただ、戦争という愚かな行為の背後に、勝者敗者を超えた大いなる存在の意志が感じられるばかりです。

 

なぜプーチン大統領は「特別軍事作戦」を執行したのか、目的は何か、まだ誰も充分な説明をしていません。NATOに傾いたウクライナをロシア側へ引き寄せ、NATOとロシアの間に緩衝地帯をつくるためというのが専らの理由ですが、5月現在その目論見は逆に回り、ロシアと国境を接するフィンランドおよびスウェーデンNATO側に着くと腹を括ったようです。5月9日の対独戦勝記念日プーチン大統領は虚飾の賞賛を浴びることでしょう。しかし歓喜の拍手は無言の体制批判であるかもしれず、今後の状況によっては体制崩壊さえないとは言い切れないようです。

 

いま世界は新たな冷戦に向かっています。世界の核の半数をもつロシア、西側の資本と技術を取り込み急激に台頭した中国、西と東の間を揺れながら自国ファーストを貫くインド、理念ではなく利得で大国に追随する南米・アフリカといった東側vsアメリカ、カナダ、西ヨーロッパを中心としたNATOすなわち西側の対立です。

 

ずらりと戦車を並べても尖端技術で見劣りするロシア軍は、西側の最新兵器を持ち込んだウクライナ軍に苦戦しています。ロシア・ウクライナ戦争という兵器展示場において西側の歩兵携行式多目的ミサイルが有名になりました。1~2㎞も先にある戦車に向け、ロックオンして発射すれば目標の直前で舞い上がり戦車の上部を狙って落下するのだそうです。ネットには戦車内部の砲弾に誘爆し、砲塔が吹っ飛んだ映像が無数に置かれています。

 

玩具のドローンならぼくも持っていますが、ミサイルを搭載したトルコ製のドローンは絶大な戦果を上げているようです。結果として赤茶けた鉄が散乱する光景は、ネットの視聴者をゲーム感覚で楽しませますが、配信者は狭い戦車の内部にいた3人の兵士がどうなったのかは語ろうとしません。茶の間の映像として相応しくないという言い訳もできますが、悲惨な映像を見せられ、戦争忌避感情が蔓延すると兵器市場に影響があるからかもしれません。

 

侵攻当初キエフは2日で陥落するだろうと言われましたが、「芸人あがり」の大統領は逃げずに立ち向かいました。NATO諸国は、核使用の脅しにめげず、ウクライナへ武器支援をつづけています。親ロ親中のメルケルと交替したショルツ首相は、対ロ政策を180度転換しウクライナへの武器支援を決断しました。日経新聞2022.05.05には「EU ロシア産石油禁輸」とあります。ロシア産天然ガスの将来的禁輸と合わせてEUは、返り血を浴びることになっても、ロシアに軍事支配されるよりはマシだと判断したのでしょう。一方、戦争の大義を確信できないロシア兵は意欲を失ったのではないかとの報道もあり、ロシア内部には政変を予想させる事態が進行中のようでもあります。

2022.05.05記 つづく

 

 

ひとり旅 220501 ロシア編(13 鬼鹿 ポーツマス条約 樺太(サハリン)   戦術核

 

 

 

 

 

北海道鬼鹿沖の夕陽 2015.10.07

 

びっくりするほど足の速い新日本海フェリーで1泊し敦賀⇒新潟⇒小樽に着きました。都市の顔はどこも似たようなものなので、時計台の札幌はパスし、北海道西岸を北上していると「鬼鹿」という不思議な名の渚にアーチが掛かっていました。

 

 

 

鬼鹿のアーチ碑 2015.10.07

 

鬼が馬だったら大変なことになるなと考えていたところ

やはり土地のヒトも気にかかるとみえ

「名にも似ず姿やさしき女郎花」とありました^^!

 

 

アーチ脇の碑 2015.10.07

 

北海道東岸の知床半島と同緯度にある鬼鹿の碑文

「戦い終わりし七日目に」「海のもくずと沈み行く」

とある文を見て樺太引揚者の悲劇を知りました

 

 

アーチ脇の慰霊碑 2015.10.07

 

昭和20年8月23日「この日泰東丸、第二新興丸、小笠原丸の三船は戦乱の樺太(サハリン)より緊急引き揚げの老幼婦女子乗組員5082名を乗せ鬼鹿沖にかかりしが突如旧ソ連軍の潜水艦による雷砲撃に遭い瞬時にして沈没或いは大破し1708名の尊き生命を奪わる留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山を目睫にしてこの惨禍に遭う悲惨の極みなり」とあります。

 

「雷砲撃」とあるのは旧ソ連の潜水艦が

潜望鏡に映った民間船に魚雷を放ち

浮上後は大砲でとどめの一撃をかけたのでしょうか

 

第二次世界大戦における日独伊三国軍事同盟は、1945年4月25日にイタリアが抜け、5月7日にドイツが降伏し、8月15日に日本は敗戦の日を迎えます。ところが旧ソ連は「日ソ中立条約」を破って8月9日に対日宣戦布告し、終戦の1週間後、8月22日に戦争の終結を知らぬわけもない潜水艦が鬼鹿沖の民間船を「雷砲撃」し、三船の乗員5082名中1708名が「命を奪われ」ました。投げ出されて海上を漂い、あるいは船とともに海中に沈んだ引揚者たちの地獄絵が目に浮かびます。

 

戦闘中のウクライナではロシア兵による民間人への残虐行為が糾弾されています。そうはいっても戦争だからという弁明もありましょうが、戦争法は民間人と戦闘員の間に明確な境をもうけています。ましてや戦争集結後、他国の民間船を「雷砲撃」することが許されるはずはありません。

 

 

宗谷岬の看板 1015.10.10

 

なぜ5000余名もの日本人が、ロシア領の樺太(サハリン)から引揚げたのかといえば、1905年日露戦争後のポーツマス条約において樺太の中央部、北緯50度以南は日本領とされたからです。ご興味の方は外務省のホームページをご覧ください。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_keii.html

 

日露戦争後の40年間に多くの日本人が入植し、樺太には至る所に日本名のムラやマチが生れました。「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」の詩で有名な宮沢賢治は、北海道稚内から樺太コルサコフ(大泊)へ渡り⇒ユジノサハリンスク(豊原)⇒スタロドゥブスコエ(栄浜)に向かっています。

 

 

宗谷岬宮沢賢治文学碑 1015.10.10

 

けふのうちに

とほくへ いってしまふ

わたくしの いもうとよ

みぞれがふつて

おもてはへんにあかるいのだ

「永訣の朝」

 

と詠んだ宮沢賢治

若くして身まかった妹トシ

の残影を追いつつ樺太鉄道を北に向かい

「オホーツク挽歌」「銀河鉄道の夜」

のモチーフを得たようでもあります

2022.05.01記 つづく

 

 

 

< 2022年の現在史 >

プーチン大統領は、5月9日の対独戦勝記念日に合わせ、ロシア国民に戦果をアピールすべくウクライナ東部で「電撃的」な戦法をとるかもしれないと伝えられます。ウクライナにむけた西側の武器供与を牽制するブラフなのでしょうが、すべては5000発とも6000発とも言われる核のボタンを常時携行し、人類の生殺与奪の権を握る独裁者の胸三寸にあります。まさかとは思いますが、戦術核の使用をにおわせる言葉が恐ろしいです。

 

4月5月の光を浴びて庭先の草花がぐんぐん伸びてきました。これは花、あれは雑草という分類には興味がないので拙宅の庭は荒れ放題です。生命科学はヒト遺伝子をすべて解析し、有用植物の遺伝子組み替えさえ実用化しましたが、タンパク質をつくり、遺伝子そのものを合成するには至っていません。生命科学といっても未知の存在によって作られたものを切ったり貼ったりしているだけであり、ヒトは神たりえません。人類は月も火星もイトカワも覗きましたが、残念なから「生命の痕跡」を目撃するには至らず、もしも地球がほんの少し太陽に近かったり遠かったりすると生命活動はないことを実証したとも言えます。かくてわが家の庭の草花は永遠の謎を秘めて嬉しげです。いのちざわめく地球にあって破壊力を誇示する独裁者とは何なのでしょうか?