ひとり旅 221222 日本所々(11) 承久の乱C  古今和歌集 土佐日記

 

 

 

 

 

古今和歌集(仮名)序

 

やまとうたは

ひとのこころをたねとして

よろづのことのはとぞ なれりける (以下略)

 

日本の和歌は

人間感情を核として

様々なかたちで概念形成してきた

(と現代語変換しておきます)

 

古今和歌集が成立したのは平安時代の913年ですから11世紀も昔の話になりますが、そこに詠まれた四季の歌、恋の歌、旅の歌、別れの歌...を今の高校生が原文で読み、大学共通試験に出題される国が他にあるものかどうか…いささかの内乱はあっても天皇という象徴のもとに奈良飛鳥の昔まで難なく歴史を遡れる国は珍しい、というか日本だけです。

 

幕末明治は多く政治軍事を軸にして語られますが、日本語の変遷でいえば、西洋の概念語を訳語として取り込んだ変革期に当たります。福沢諭吉西周といった人達が作った新造語をもって作家は小説を書き、哲学者は西洋由来の思想を語ったわけです。「業績」という言葉はおれが作ったと森鴎外がどこかに書いていました。

 

考えるとは言葉を組み合わせることであり

抽象的な思考には概念語を必要とします

 

では概念語を使わずに抽象的な思考が

できるのか? できないのか?

いわば両手を縛られたボクサーは

闘えるのか、闘えないのかと問われたら

( ここ井上尚弥vsバトラー戦をイメージ^^! )

ぼくは闘えなくはない、証拠は

古今和歌集仮名序にあると応えます。

 

 

古今和歌集(仮名)序

 

ちからをもいれずして あめつちをうごかし (中略)

をとこ をんなの なかをもやわらぐるは うたなり

 

力を加えることなく 天地物象を変容させ (中略)

男女の心をほぐし 関係を密にするのは 歌である

 

と、ぼくら現代人が漢語をつかって

堅苦しく思考する感情の動きを、紀貫之

やまとことばでさらりと描きました

背後に哲学を含む見事な一文です

 

 

高野切古今集「第三種」紀貫之筆   日本名跡叢刊 二玄社

 

左端「つらゆき」の歌は

思ひやる越の白嶺のしらねども一夜も夢の越えぬ夜ぞなき  (紀貫之)

 

越しの白嶺は知りませんが

あなたのことは夜ごと夢に見ていますよ

と友人を思いやった歌です

(残念ながら彼女ではないようです^^)

 

書棚の高野切影印本を久しぶりに手にとり改めて、すっきりした字体の仮名で綴られていることに気がつきました。当時の知識人は歌が詠め、かつ字がうまいことは絶対条件だったはず、というか階級上位の家庭に生まれ、普通に文字教育をされたら誰だってそれなりの歌は詠める、字も書けるはずです。にもかかわらず歌の名手=定家のカナクギ文字は何なの? というのが本段に及んだ理由でして…もうちょっと前後左右をうろうろします。

 

拙宅は紀貫之が「土佐日記」の船出をした浦戸湾へ歩いて2分、ぼくは国司紀貫之が滞在した南国市の近くで仕事をしています。娘を失った悲しみを歌に詠み、日本初の勅撰和歌集を編んだ知識人は、言ってみれば1100年前の高知県知事なので、それなりに身近な感じがしないでもありません。

 

駄洒落で歌を詠んだかと思えば嵐や海賊の出現におびえ55日かけて都へたどり着いた土佐の国司は「男もすなる日記といふものを女もしてみむとて」土佐発⇒京都着の旅日記をものにします。男が女に化けるとは何か? ひょっとしてつらゆきはアレかとおバカな話で生徒を釣る国語の先生もいるみたいですが、男は漢文という名の中国語で、女は純日本語の仮名で書くべしと二分されていた当時の書式に疑念をもった紀貫之は、外国語から日本語への回帰⇒仮名でつづる日本語の創生を目論んだわけでもあります。

 

その古今和歌集「高野切」は写本として現存しており、土佐の高知の元県知事・橋本大二郎さんは2004年に、その一部たしか1メートルほどを県費で購入しました。その年に展示会があったので出かけたところ雲母(きらら)を刷り込んだ立派な紙に水茎の跡もうるわしい「高野切」がガラスケースに陳列されていました。「へえ立派なもんだ。見事に保存されているのですね。まるで昨日書いたようです」とやや興奮して学芸員に話しかけると彼は気の毒そうな顔をして「いやこれはレプリカです。本物は別のところへ…」「~~! ざけんなよ本物見せえや」とは言わなかったですが、がっかりして戻りました。

 

それから18年後の今日、長く高知県庁に勤めた友人に電話で確認したところ「高野切を含め山内神社に保管されていた宝物の一切を県が買い取り第三セクターの形で保存している。(高知の殿様)山内家の子孫の好意で通常では考えられない安値で譲られたように記憶している」といった話でした。「あれって県費8億円も出したんじゃなかった?」「いやよく覚えていないけどそれほど高くはない。6億円? 5億円? しかも高野切だけではなく他の宝物一切を含めての値段だから通常の売買では考えられない話だ。お宝探偵団に提示したら途方もない値が付くだろう」等々いまとなっては昔の話ですが、その話はちょっとした秘話のようでした。

 

とまあごちゃごちゃ書きましたが

この段、定家のカナクギ流とはだいぶ違う

平安期の美しい仮名文字のご紹介でした

2022.12.22記 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとり旅 221217 日本所々(10) 承久の乱B  定家の「カナクギ文字」考

 

 

 

 

「カナクギ流と言われる定家の文字ですが、なんとPCフォントになったりしてるみたいですね」とコメント欄にありました。定家のカナクギが?  PCフォントに?? ウッソーと半信半疑で開けてびっくり玉手箱!

 

東京の某編集長から上記「コメントがありましたよ」とのメールに「かづらきフォント」で変換したブログ冒頭部のサンプルが添えられていました。

 

 

仕事柄フォントに詳しい某編集長によると

 

「かづらき」フォントは第一水準の漢字しかないのか「鎌倉」の「鎌」さえ抜けてまして、あんまり日常使いはできないんですけど、雰囲気はあるのでピンポイント使用では映えますね。本物の藤原定家の筆跡は、まっすぐ書いてるつもりでもどんどん右に流れてくみたいで個人的にすごく共感するんですが、さすがにパソコンでそこまで高度な「再現」は無理なようですw…とありました。

 

 

藤原定家筆「近代秀歌」冒頭部の歌論

 

やまとうたのみち あさきににてふかく や

すきににてかたし わきまへしるひと

又いくばくならず (以下略)

 

書の絶対条件はタテに一本筋が通っていることです。ところが定家の字は「まっすぐ書いてるつもりでもどんどん右に流れてく」のみならず左にも揺れます。「近代秀歌」を古書店で初めて手に取ったとき子どもの字かよ? 酔っ払いの千鳥足か? これって本当に大歌人定家の真筆なのだろうかと疑いました。あまりにも珍しい字体なので買い求め家で開いてみましたが、まじめに読んでいると気持ちが悪くなるので、ずっと本棚で眠っていました。某君某編集長に指摘され本日ふたたび日の目を見た次第です。

 

 

定家の歌2首を

PCフォントに変換するとタテ線すっきり

がらりと雰囲気が変わります

 

「来ぬ人を」は定家が編んだ「百人一首」97番目に置かれた定家自身の歌です。雨の少ない瀬戸内で我が「身を」焦がしつつ恋人を「待つ」「松帆の浦」で風もなく立ち昇る「藻塩」の煙にむせ、涙にむせぶ私であることよ (と解説するのは野暮ですが)技巧の限りを尽くしながらもなお嫌味のない大吟醸です。そこに存在しない「来ぬ人」を描いて消す手法は定家の得意技であり、和歌という名の絵画の中で人と煙がわずかに動くビデオでもあります。

 

いらんことですが

このような名調子で詠まれた歌を恋文として受け取った女性がよろめかぬわけもなく、ぼくの記憶が確かなら定家は24人だか(もっと多かったかも)の子をもうけています。和歌の大御所にして定家の父藤原俊成も(たまたま)同数の子沢山なので和歌と恋愛は深い関係式で結ばれていることがわかります^^!

 

さて、定家はやっと仕上げた新古今和歌集のお披露目パーティの席で、上司たる後鳥羽上皇(院)に褒められると思いきや「この後、思いがけずも院みずからの手による独自の改定作業がはじめられた」「慎重かつ厳格な撰歌を遂行してきた定家にとって、まことに狂気の沙汰に映ったにちがいない」「ついに両者に大きな亀裂が生じる結果となる*」

*日本名跡叢刊「鎌倉 藤原定家 近代秀歌」古谷稔

 

そうは言っても上皇(院)に逆らうわけにもゆかず、院が好んで向かう熊野詣でに定家も連れられて行くはめになりますが「オレは体が弱い」「体調がすぐれない」とかなんとか愚痴をこぼしていたようです。しかしその恋愛遍歴を見るかぎり体の弱さは弁解理由にならず、ことの本質は後鳥羽上皇藤原定家という和歌の名手による無言の争いにあったようです。

 

やがて勃発した「承久の乱」において敗北した後鳥羽院と二人の息子は隠岐島佐渡島、土佐に流されますが、定家が罪を着せられなかったのは和歌編集において院に対する怨恨が根にあったからだろうと言われます。かくて後鳥羽院隠岐島にて「隠岐新古今和歌集」を再編し、定家は「小倉百人一首」を編むことになりますが、その97番目に定家自身の歌、99番目に後鳥羽院、100番目に次男順徳天皇の歌を置いたのは含むところがあってのことでしょう。

 

 

定家自筆の「近代秀歌」

 

たとえば左頁冒頭の歌

天のはら空さへ冴えや渡るらん氷と見ゆる冬の夜の月

 

の「わ」「氷」「夜」のタテの線は書のルールから見て只事ではありません。ぼくなど看板を見るだけでメシを食う気がなえてしまう「大戸屋」の筆文字を連想させ、これはちょっとな~と思ってしまいます。

 

筆は右手で立てて持つべしという正則があります。定家は筆を傾けて持ったにちがいない。ひょっとしてギッチョだったのかも?とまあいろいろ失礼なことを考えてしまうわけですが、ものの見方は人によりけり、ぼく自身が固定観念にとらわれているのかもしれません。以下、古谷稔氏の解説を引用します。

 

定家が73歳の年に書写した「後撰集」には「澄みきった空間に枯淡の境地がただよう」74歳時の「土佐日記」は「筆の衰えがめだち、無欲恬淡とした姿勢が髣髴とするようである。体力・視力ともにかなりの衰退が想像される。かなの連綿美を生かすほどよい行間をとることを無視し、ただ文字と文字をようやくつなぎ合わせているようにも見うける。しかし文字の骨格は、衰えなどを交えながらも、強靱にして格調の高さを失っていない。(中略) この「近代秀歌」自筆本を「後撰集」「土佐日記」に適合させてみると(中略)70歳前後とあえて範囲を狭めないまでも、晩年期に属する筆と推察されよう。

 

 定家の書は、平安朝以来の伝統的な書法をふまえながらも、晩年になるにつれて、かれ独自の個性が鮮烈に流露する。文字のスタイルや筆法を平安朝古筆に比較すると決して能書といえるものではない。しかし、その巧拙を超えて、われわれの心に迫ってくるのは、いったいいかなる理由によるのだろうか。筆圧の強弱に変化をつけ、思うがままにグイグイと押しまくって書き進める筆法を主体とした定家の書は、いかにも彼の一方ならぬ強靱な性格をにじませる。のみならず、かれのもつ美意識や生活態度に至るまで、定家のすべてを包含するかのような、不思議な魅力をたたえているのである。

日本名跡叢刊「鎌倉 藤原定家 近代秀歌」古谷稔の解説文

 

「決して能書といえるものではない」が「その巧拙を超えて、われわれの心に迫ってくる」ものがあればこそ「かづらきフォント」の製作者は定家の「カナクギ」文字を丹念に拾ったのでしょう。PCフォントで組み立てた和歌は不思議な趣をもって再現されました。某編集長のたまひしごとく「あんまり日常使いはできないんですけど、雰囲気はあるのでピンポイント使用では映えます」ね。タイムマシンで鎌倉時代へ飛び、定家をつかまえて「どや?」って見せたら彼どんな顔をするのでしょうか。

 

と、しつこく書いたのも字の下手さ加減は

我が人生の深いトラウマであり気付いた今は時すでに遅く

臍をかみつつああ子どものころ(高校生くらいでもいいけど)

誰かひとこと示唆してくれていたらオレの人生も

だいぶマシになっていたろうにと

反省しきりの年の暮れです

 

次回「平安朝以来の伝統的な書法」にちょっとだけ触れ

佐渡島順徳天皇、土佐の土御門天皇にもどります

2022.12.17 記 つづく

 

 

221213 ひとり旅 日本所々(9) 承久の乱A   後鳥羽上皇   隠岐島

 

 

 

 

中央の囲みは後鳥羽院隠岐神社  2019.07.30

 

30数年ぶりに

連絡がとれた大学時代の友人は

旅先で短歌を詠むのが趣味でした

彼は定家が好き⇒定家は後鳥羽上皇の家来

両者とも歌の名手だよなって遣り取りをしていると

 

そこへ割り込んできた別の友人が、大河ドラマ

「鎌倉殿の13人」をやってるぜと教えてくれました

へえ~それは見なくっちゃと応えはしたものの

今ぼくは田んぼで日に12時間働いているので

テレビを見る暇はありません

 

平安期の武士は

天皇家のガードマンでしたが

力をつけた鎌倉幕府が威張り始めました

分をわきまえぬ下級国民がエラソーするのを見た上皇

やっちゃれと武装蜂起したものの逆にやっつけられて

後鳥羽上皇隠岐島

次男の順徳天皇佐渡島

長男の土御門天皇は(わが)高知県幡多郡へ流刑となります

 

 

隠岐神社  2019.07.30

 

観光マップのごとく「島前」の3島は

中央部の焼火山(たくひやま)を

取り巻くように小島が円形に分散し

桜島が浮かぶ鹿児島湾のような形をしています

この海域は地下に怒りを秘めたカルデラの名残です

 

承久の乱に破れ

中ノ島海士町(あまちょう)に流された

後鳥羽上皇の怨念が積もって起爆剤となり

マグマが500万年の眠りから目覚めたりすると~~!

 

 

隠岐神社の歌碑  2019.07.30

 

人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は  (後鳥羽上皇)

 

世渡り上手の定家は乱の巻き添えになることもなく歌人また和歌の編集者として生涯を終えます。その定家が編んだ「百人一首」99番には罪を得て隠岐島へ流された後鳥羽上皇の歌が置かれています。感情を風景に包んでさりげなく意を述べるのが和歌としたものですが、碑の歌は「惜し」「恨めし」「あじきなし」と感情むき出しです。

 

 

隠岐島海士町後鳥羽院資料館展示 金子鴎亭書   2019.07.30

 

我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風こころして吹け  (後鳥羽上皇)

 

流刑に際して詠まれたこの歌を

隠岐の波風よ「やさしく吹いてね」と

手弱女振りに解釈する人もいますが

「こそ」「よ」「吹け」と畳みかける語気の荒々しさから

都の頂点にいた上皇が荒き波風に命令を下したと解釈すべきです

 

血の気の多い後鳥羽上皇は、天皇の仕事が退屈だったかさっさと息子に渡し、24年の在院期に熊野詣でを28回も繰り返し、歌を詠み、刀剣を愛し、遂には「承久の乱」を起こして破れ、機械船でも2時間かかる隠岐島へ配流の身となりました。隠岐神社のある「島前」中ノ島は刑務所よりは広いのですが、バイクで回ればあっという間にもとの位置へもどります。広い世間から沖の小島に捨てられた後鳥羽上皇は日々何を思って暮らしたのだろうと、その威徳を偲ぶ立派な神社を歩きながら考えたことでした。

 

 

隠岐神社 後鳥羽上皇の歌  2019.07.30

 

隠岐神社には至るところに

後鳥羽上皇の歌が置かれています

 

歌の姿は書体にもあり

変体仮名 (異体仮名くずし文字)を

縦横に使い分けた書には惚れ惚れとしますが

今どきの日本人は忙しく、美しい筆文字も

読めなければ意味がありません

 

上皇の歌が通常の仮名で書かれているのはよしとせよ

機能一点張りの活字文字ではパッとしないので

せめて筆で書いてもらえんろうかと…

 

 

冷泉家時雨亭叢書 隠岐新古今和歌集巻十 羇旅歌末尾

 

見るままに山風荒くしぐるめり都も今は夜寒なるらん    (後鳥羽上皇)

 

定家が編んだ「新古今和歌集」を

後鳥羽上皇は「隠岐新古今和歌集」に再編し

書家に書かせた文字は見事です

 

以下いらんことですが

歌の名手にして名編集者の定家は

56年もの間カナクギ流の筆で

「明月記」を書きつづけました

 

和歌俳句を含めて好きな詠み手を

一人だけあげよと言われたら

ぼくは迷わず蕪村と応えます

その蕪村も決して字はお上手とはいえません

 

芭蕉は美しい字を書きますが

奥の細道」は書家に発注し

たしか2冊作って一冊は兄に渡したそうです

兄は風流を解さぬ男だったようですが、彼の功績は

弟の本を失くさなかったことだとか^^

 

 

「島前」中ノ島 宇受賀命神社前の田んぼ  2019.07.30

 

春雨に山田のくろを行く賤(しづ)の蓑吹き乱る暮ぞさびしき

                                                     (後鳥羽上皇「遠島百首」9番)

 

人の暮らしに災害は付きもの

今も昔も地震や飢饉はあったはずですが

和歌は美しい自然や狭い宮中の人事は描いても

庶民の悲惨を歌うことはまずありません

のみならず下々の暮らしを描くことさえないのですが

 

この歌は田んぼの畦道を行く農夫の姿に目をとめています

雨風に打たれて蓑を揺らす貧しい「賤」に自身の境遇を重ね

春なのに「さびしき」夕暮れを詠んだ天皇

これが最初にして最期ではないでしょうか

2022.12.13 記 つづく

 

 

 

< 2022年の現在史 >

スペインに勝ったモロッコ

ボルトガルにも勝ちました!  首都ラバトでは

街に王様まで繰り出して狂乱のお祭りだそうです

かつてモロッコに駐在した元青年海外協力隊の友人に

日本とモロッコが対戦していたらあんたは

「どっちを応援するんだ?」と訊いたところ

「これは難問」しかし「感無量」との返信が届きました

12月15日にはかつての宗主国フランスと準決勝です

 

本日12月13日 20:00~21:00ころ

井上尚弥vsバトラーの試合があります

 

 

ひとり旅 221207 日本所々(8)  卒塔婆小町 マイケルジャクソン

 

 

 

福島県喜多方市 小野小町塚  2022.08.01

 

喜多方から西会津へ向かう山中で

小町塚に出くわしました、案内板には

「歌風は情熱的で奔放また美人で有名である」

「年老いて出羽に赴く途中、病のためここで没した」

と記されています

 

誰が決めたか世界三大美女

クレオパトラ楊貴妃小野小町だそうです

小野小町は秋田の生まれ⇒秋田といえば

秋田美人⇒八郎潟の田んぼには

「アキタコマチを食べて美人になろう」

という幟がはためいていました

小町伝説にあやかった

ちゃっかり商法です

 

その小町塚は福島のみならず

京都、滋賀、愛知にもあるそうですから

死してなお美人はひっぱり蛸です

 

しかしそもそも美女とは何か?

美は独立して存在することはできず

美女とオトコは互いに関係しあって存立するワケだから

美女をつくるのはオトコの視線ないし幻想といえます

 

 

小野小町  ネットより

 

いとせめて恋しきときはむばたまの夜の衣をかえしてぞ着る

  (恋しい人の夢を見るため夜着の裏表を返して寝よう)

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

  (やっと逢えたのに夢なら覚めないでね)

かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人は咎め

  (まさか夢の中の逢瀬まで咎める人はいないだろう)

 

恋する乙女の「情熱的で奔放」な歌い振りではありますが、歌われたのは、かなわぬ恋、人目を忍ぶ恋であり、空想で組み立てた夢の恋ではあります。というより逢瀬が実現したのであれば歌う理由もないわけで、手を伸ばしても届かぬところに切ない橋を架けるのが恋の歌ともいえるでしょう。

 

 

小町塚  2022.08.01

 

今はとてわが身しぐれにふりぬれば言の葉さへに移ろいにけり

   (きれいだねかわいいねって言ってくれた彼の心はいつしか変わり)

花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

  (花はうつろい、時はながれ、老いは迫り)

 

謡曲卒塔婆小町」は、若さと老い、美と醜をことさらに対比させる中で、往時をなつかしみ、今を嘆く能舞台です。美貌を誇る若き日の小町を慕い「深草少将は、小町に恋心を打ち明けたのですが、小町は百夜私のもとに通ってきたら、あなたの恋を受け入れましょうと言い、毎夜通わせました。深草少将は九十九夜まで通いましたが、最後の一夜を通う前に死んでしまい*」その怨霊に取り憑つかれた小町は老いさらばえた今も苦しむという話です。*ネットより

 

 

卒塔婆小町  ネットより

 

ほぼ動きのないシテと

笛と鼓の繰り返しで始まる能舞台

何度打ち込んでもシュートが決まらず

応援席にストレスが溜まるサッカーに似ています

そこをこらえてねばっていると同点弾

逆転弾にお目にかかれます^^

https://www.youtube.com/watch?v=Ql39akncC5s

 

若いころはとりたてて関心のない話でしたが

幼なじみの同級生が逝き、家族のネコとも別れたこの年

さすがにわが身にも卒塔婆stupa小町の能舞台

逃れられないリアリティーをもって迫ります

2022.12.07記 つづく

 

 

 

追記

マイケル・ジャクソンがお忍びで来日し

能を観劇したさいシテの水平の動きに感ずるものがあり

そこからムーンウォーカーが生まれた…

というのはぼくの勝手な空想ですが^^!

であったらば愉しい話ではありますネ

https://www.youtube.com/watch?v=Hxgo-Qu-ZZE&t=8s

 

ひとり旅 221201 日本所々(7) 秋田県大潟村 会津磐梯山 山都そば 天安門事件

 

 

 

 

 

秋田県大潟村 蕎麦の花 2022.07.26

 

路傍にひっそりと咲くペンペン草に目をとめ

「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」

と詠んだ芭蕉

 

山の畑の救荒作物にも心が惹かれたらしく

「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」

と蕎麦の花から「おもてなし」を受けています

 

 

秋田県大潟村 2022.07.26

 

道路脇には街路樹が付き物ですが

緑の絨毯に白い花を散らした蕎麦畑は珍しい

 

 

秋田県大潟村 2022.07.26

 

ここは秋田の旧八郎潟

かつて琵琶湖に次ぐ大面積の湖沼でしたが

大半が干拓され、ぼくが中学生のころ習った

八郎「潟」の面影はありません

Google mapを拡大すると区画された農地が

半導体の顕微鏡写真のごとくです

 

クニは戦後の食糧難時代の発想で

農地確保をもくろんだわけですが

やっと田んぼが出来たころには

コメ余り⇒減反⇒外米の間接輸入と

米は貿易のダシにされました

 

同じ着想で長崎県諫早湾

首を締められ、塩分を抜かれ

漁民と農民の争いがつづきましたが

現地を歩けば素人目にももはや

引き返し不可能だってことがわかります

長く続いた裁判は当たり前の結論を導きました

 

島根県宍道湖の蜆も

危ないところでした

 

 

秋田県大潟村 2022.07.26

 

農地に水を送る広大な水路が

長い年月に癒され

余所では見られない

風情をかもしています

 

 

秋田県大潟村 2022.07.26

 

農地に水を配る用水路だから

機能を満足させれば問題なかろう

という着想で造られたものらしく

コンクリートを鉄で補強した

風情のない工事です

 

昭和30年代の農村の記憶をもつぼくは

わずかな傾きをもって広大な平野に水を配る

土木技術に敬意を表しながらも

もうちょっと艶っぽく作れんろうかと…

 

古代ローマ人はあの美しい水道橋を造り

熊本の石工は通潤橋をこさえたんだぜと思うわけです

 

 

会津磐梯山 2022.07.31

 

奥羽山脈の南端に立つ

磐梯山は標高1816mだから

石鎚山1982mより低いといえば低いのですが

プレートの沈み込みがつくった

しわしわの四国山地の最高峰とちがい

平地からズンと立ち上がる山容が立派です

 

1泊5300円朝飯付きの温泉宿は

まあそれなりのものでしたが宿のご主人から

「うちは外国人客が多い」どこで知ったのか

「ひとり旅の白人女性」も来てくれる

「ハラキリマウンテン」にも興味はあるようだが

「昔ながらの和風旅館に日本を感じるらしい」

 

彼女らびっくりするほど日本語うまいので

「どこで覚えた?」って聞くと「アニメだとさ」

「そういやアニメの少女の語り口に似ている」等々

出発前の玄関口で声をかけられ

ふたりで腰を下ろして長話に花が咲きました

 

 

北海道函館 星型要塞の五稜郭  ネットより

 

不思議な形の五稜郭は西洋由来の城塞です

戊辰戦争で追い詰められた榎本武揚土方歳三

会津をさらに北上し最期に争った地でもあります

 

福島で長く暮らした知り合いによると

高知の出身者はここ会津では分が悪い

坂本龍馬⇒新政府軍という連想から

負けて賊軍となった会津藩士は「ハラキリ」と相成り

敵方の「リョウマは人気ないですよ」と苦笑しました

 

ちなみに土方歳三新撰組

「れいわ新撰組」とは関係がありません

戴く神を異にする組織なのでお間違いなきよう

 

 

山都町の蕎麦 2022.08.01

 

磐梯山を横目に

喜多方経由で西会津へ向かいました

昼飯は喜多方ラーメンにしようと思っていたところへ

上記の知人から電話が入り

「ラーメンより蕎麦です」

「ヤマトへ寄りなさい」

との指令を受け

山都町へ向かいました

 

竹のお皿にちょこっと盛られた白い蕎麦は

丼鉢の大盛りうどんにはない上品さがあります

ぼくはうどんの味は分かりますが

蕎麦はめったに食べないので

味のちがいがわかりません

 

それが旨いか不味いかは

長い経験がつくる味覚の文化なので

蕎麦のことは蕎麦好きに訊く他ありません

と、無理やりつくった落ちでチョン

2022.12.01記 つづく

 

 

 

 

< 2022年の現在史 >

11月25~28日にかけてChina各都市でコロナ規制解除をもとめたデモがありました。ネットでは即座に伝えられましたが、驚いたのはテレビでも同じ映像をがんがん流しており、中国と名が付けば腫れ物に触るような気遣いで言葉をえらぶNHK他がいったいどうしたことかと腑に落ちぬ気がしました。

 

1987年長大な故宮を歩いてたどり着いた天安門広場には自転車の群が洪水のごとく流れていました。その2年後1989年6月4日に「天安門事件」(欧米では天安門虐殺)が起きました。当時のニュースは新聞テレビに頼る他なく、あの広場で何が行われているのか、切れ切れの言葉と映像をつなぎ合わせて想像する他なかったのですが、後に判明したのは民主化を求める3,000人とも10,000人とも言われる市民若者が同胞の軍隊によって撃ち殺されたのでした。

 

そのとき両手に小荷物を提げた青年が戦車の前で行く手を阻む映像が流されました。「行くなら俺を轢き殺して行け」とでも言わんばかりの気合に押され、ためらいがちに左右へ動く戦車を見て視聴者は、ああ解放軍といえども同じ国民に手を出すことはためらうのだと勇気ある青年「Tank man」を賞賛し、かつ戦車兵の気持ちを推察したものです。▼が、これから起きる出来事を待ち構えていたかのごとく捉えた映像はむしろ不自然で、あれはヤラセのプロパガンダ説もあります。

 

類似した事件は1980年の韓国でも起きました。時の軍事政権に民主化を求めたいわゆる光州事件として知られます。これまた新聞記事には切れ切れの局面情報がまとまりもなく置かれ、どういう構図で何が行われているのかさっぱり分からなかったものですが、今にして思えば、国民は自由を求めて叫び、独裁者は武器使用を命じたという点で天安門事件光州事件は共通しています。

 

現在進行中のデモから天安門事件を連想する報道がありますが、監視カメラとAIで管理された学生市民に国家を覆すほどの叛乱を起こす力があるかどうか、目立つ動きをした市民は特定され、生贄にされ、大衆は黙るという図式が見えます。▼香港の民主派アグネス・チョウ(周庭)さんは今どこにいるのでしょう。一緒に連行された男子学生また台湾へ逃避行の途中で逮捕された面々は今どこで何をしているのでしょう。歴史は繰り返すといわれますが、むしろ歴史は民主化に背を向け、祭壇にコンピュータが祀られた独裁社会へ向かっているように思われてなりません。

ひとり旅 221126 日本所々(6) 阿蘇中岳 桜島 大野原遺跡 鬼界カルデラ 姶良カルデラ W杯

 

 

 

 

熊本県阿蘇中岳の噴煙  2014.11.30

 

車中泊して目が覚めた朝の一枚

頭部を中岳に向けた”噴煙ドラゴン”です

 

阿蘇の中岳はしょっちゅう噴火を繰り返しています

今のところ火口から煙を上げる程度で済んでいますが

阿蘇市自体が外輪山に囲まれた広大なカルデラなので

地下のマグマが一挙に噴出したら「破局的噴火」になります

 

阿蘇から昇った巨大な火砕流が豊後水道を越え

佐田岬半島を渡って伊方原発を襲ったらどうなるのか?

「んなバカな」と思っていましたが

 

退職前の裁判長は不思議な判決を出すことがあり

広島高裁は阿蘇火砕流を理由に伊方原発を止めました

火砕流が迫れば原発はヤバイってことくらい

子どもでも分かりますけど

問題は発生頻度と確率なわけで...

 

脱線します⇒2017年

NHKの受信料を合憲とした

寺田逸郎最高裁裁判長は翌年定年退官しました

長い判決文をネットで落して眺めましたが

なんぼ読んでもぼくにはイミフなので途中で投げました

事の本質はNHKの政治性にあるのですけど

「それは言わない約束でしょ」って感じです

 

 

鹿児島県桜島  2022.09.13

 

桜島がガンガン煙を吹いていたころ

「夜は落雷みたいな火花が散ってますよ」と

阿蘇で出会った人が教えてくれました

残念ながら自分の目では目撃していません

 

 

桜島の埋没鳥居  2022.09.13

 

1914年(大正3年)

大噴火で埋没した黒神神社の鳥居です

大量の降灰が鳥居を埋め、溶岩流出によって

桜島大隅半島とつながりました

 

 

鬼界カルデラ降灰図  wikiより

 

7,300年前は縄文時代です

屋久島沖の鬼界カルデラで「破局的噴火」が起こり

降灰は鹿児島湾沿いの「大野原遺跡」を埋め

縄文人に「壊滅的打撃」を与えました

 

わが高知県宿毛市でも30㎝の

「アカホヤ」地層が見られるそうだから

圧縮される前の降灰層を10倍とすれば

火山灰が3mほど降り積もったことになります

 

 

鹿児島県大野原(縄文)遺跡展示館のジオラマ  2013.07.23

 

強固な岩盤上で暮らす

大陸のヒトにはピンと来ないでしょうが

日本列島にはプレートの裂け目が4つもあり

構造線がタテにもヨコにも伸びる特殊な地形なので

おのずと自然災害は大がかりになり

 

ジオラマのように長閑な縄文風景が

鬼界カルデラのひと吹きで消滅し

不毛の大地となりました

 

が、話はさらに

過去へと向かいます

 

 

鹿児島湾姶良カルデラ  wikiより

 

鹿児島湾は湾そのものがカルデラであり

南部の桜島を外輪山として含みます

29,000年前「姶良カルデラ」は大噴火し

 

「噴煙柱は3万メートルを超えて、やがて崩れると摂氏800度近い灼熱の火砕流を時速100キロで、半径70キロを埋めつくした。仙台原発は50キロ圏内にある。まさに破局的噴火である」「火砕流圏外の南九州では(降灰が圧縮され)3メートルの厚さで堆積しており、高知県宿毛市で2メートル、鳥取県大山付近は80センチ、京都市で40センチ、東京で1センチ、東北ではミリ単位で地層に残っている」「すなわち姶良カルデラ噴火時は、南九州30メートル、高知県宿毛市20メートル、島根県大山付近8メートル、京都4メートル、東京10センチ、東北数センチとなる」(2015.06.29 author 漆原次郎 ネットより)

  

20mもの降灰が圧縮され2mの地層を残したという「宿毛市の観測地は具体的にどこか?」と地学が専門の知り合いに電話しました。「聞いたことはあるが新しい時代のことはよく知らない」「新しいたって2万9000年も昔の話なんですよ」「いやぼくは3000万年とか7000万年とかをやってきたので」というワケで地質世界のヒトとは話がかみ合いません^^!

 

そこで市議の友人を誘って車でうろうろした結果

ぼくの見立てでは宿毛市錦付近だろうと推定しました

近くには宿毛貝塚なる縄文遺跡もありますが

破局的噴火」は旧石器時代の話なので参考になりません

 

にしても鹿児島湾(錦江湾)から吹き出した火山灰が

豊後水道を渡ってわが宿毛市に20mも積もっただなんて!

 

在るものは

崩れ焼け埋もれ没し

モノは壊れるヒトは死ぬ

そこから文学は世のはかなさを嘆き

社会は生と死の間に特殊な文化を発達させました

元はといえばプレートのもぐり込みに発する

火山活動の結果ではありますが

つくづく日本て変わったクニやなと...

2022.11.26記 つづく

 

 

 

< 2022年の現在史 >

W杯対ドイツ戦が

1-0となったところで

結果は見えたので風呂に入り

出てきたらとんでもないことになっていました

 

短距離選手みたいに足を回し

狭い射角に打ち込んだ浅野のシュートを

YouTubeのビデオを停めながら何度も見ましたが

何であれが入るのかどうしても分かりません

 

ドイツやスペインがいる悪籤を引いちまいましたが

ひょっとすると今年の日本は台風の目になるかも…

 

 

PS

昨朝のブラジルvsセルビア戦では

延髄切りの故アントニオ猪木も目を覚ましそうな

空中回転蹴りゴールが見られました

DFの頭をかすめGKの指先をわずかに離れて

ネットを揺らせた球をカメラが見事に捉えています

 

リシャルリソン選手の空中姿勢を制御する

手足4本の位置をぴたりと収めて漫画に描けと言われたら

天下一武道会鳥山明センセしかいないでしょう^^

 

サッカーは戦争の代理行為といわれます

ロシアとウクライナは武器を捨ててカタールに来い

勝ちが決まったら花火の代わりに

ミサイルを打ち上げて叫べと

思ったりしますけどね

 

ひとり旅 221122 日本所々(5) 十和田湖 有珠山 蔵王の御釜   田中陽希

 

 

 

 

 

秋田青森の県境 十和田湖  2013.05.25

 

十和田湖は一周50㎞ほどだから

ラソンランナーなら2時間強w

健脚のお遍路さんなら日帰りできます

ダレたら路線バスに乗る手もあるので

やってみようかなと思いましたが…

 

 

ヒメマス漁  2013.05.25

 

水清ければ魚棲まず

山のてっぺんの湖だから

魚種は限られるようです

 

 

むこうの雪山は八甲田山  2013.05.25

 

朝な夕な土佐湾は桂浜街道から

太平洋の荒波を見て暮らす者にとって

十和田湖は眠くなるほど静かです

 

その優美で穏やかな風景とは裏腹に

十和田湖は13000年前に噴火し

陥没して生まれたカルデラ湖だそうです

ヒトの歴史時間でいえば縄文初期の話ですが

地球の地質時間でいえば昨日か一昨日の出来事です

ぼくらが生きたわずかな期間においても日本列島は

地震、噴火、津波に何度も襲われました

 

 

十和田湖カルデラ湖  2013.05.25

 

湖面の標高400m

水深326mなので湖底は海抜74m

あたまに立体図を思い浮かべると不思議な感覚がします

 

 

北海道有珠山の火口  2014.10.24

 

2000年3月27日に噴火した火口

やがてこの火口にも水が溜まり

小さな湖が生まれるのでしょうか

それとも新たな噴火によって

更なる大穴が空くのでしょうか

 

 

宮城県蔵王山御釜 (旧レンズ換算35ミリの風景)  2022.07.30

 

かつて90ccのカブで石鎚山の登山口1492mの土小屋へ向かいましたが、馬力が足らず、頂上付近で坂道をジグザグに上ったことでした。今次110ccの原付二種で標高1800mの蔵王山を目指しましたが、やはり力不足は否めません。若いころ400ccのカワサキGPZで剣山系のダートを走ったこともありますが、オンロードは舗装道路をむしくるバイクであり、それなりの山道を気持ちよくツーリングしようと思えば200cc超のオフロードがお勧めです。

 

 

蔵王山御釜  2022.07.30

 

御釜の写真は何度も見ていますが、そこだけ切り取った写真では、周辺との関係がわからず、不思議な池?湖?やなと思ってきました。モノは二者の関係のなかで分かるのでアップを使いすぎるのは考えものです。御釜ってこんなんだったのかと行って初めて納得しました。

 

水質はPH3.5(レモン水ほどの酸性)なので魚は棲めません。小石の急な崖が湖面へつづくので滑りコケたらヤバイのですが、左端はだらだらと湖面につながっています。入るなと言われると入りたくなるのが人情で夏場に泳いだバカもいるそうな。冬は雪に覆われ湖面は凍結しスキーの途中で(氷が割れ)溺れて死んだ人もいるそうだから桑原桑原です。

 

蔵王山は1230年(鎌倉時代)の吾妻鏡に噴火の記録があり、以降何度も火山活動を繰り返していますが、1897年(明治30年)の「鳴動噴煙」の記録を最期に今は休止しています。だからまあ大丈夫だろうと誰もが考えるわけですが、2014年に御嶽山が噴火し58名の犠牲者を出したように日本の山はいつ暴れるかわからず、登山者は超長期のロシアンルーレットをやっているようなものです。とはいえ人生に運不運は付き物だし、事故があったときだけ「それみたことか」とメディアの味方をするのはやめませう(--!

 

 

新潟県五泉市 田中陽希   2022.08.01

 

本格的な登山となれば覚悟と体力(カネとヒマ)が要りますけどもバスやバイクでちょこっと上って深呼吸するのも人生の清涼剤です。北から南までひと通り走った今、地震津波の日本列島は、海も山もある天然自然のテーマパークでもあることが分かりました。

 

砂漠の国、暑い国、平たい国、監視カメラの国と世界はいろいろ人類は80億を超えましたが、日本三百名山を「一筆書き」したろと着想し、実行した人は珍しい。世の中には大谷翔平とか田中陽希とか変わったヒトがいて愉しいです。

2022.11.22記 つづく