台湾ひとり旅⑧ 花連市の地震

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地球内部の熱によってマントルに対流が起こり、対流によって運ばれたフィリピン海プレートが沈み込んで海溝をつくる。写真はグーグルマップをカメラで撮って張り付けたもの。四国沖から琉球孤を経て台湾にぶつかったところが2月7日の午前0時40分、マグニチュード6.4、震度7地震に襲われた花蓮市だ。

震源に近い花蓮で民宿を営む(日本人)片桐秀明さんは」「民宿の三階にいた。縦揺れと横揺れが同時に来て、がたがたと揺れた。壁にかけている額が落ちたり、棚の引出しが飛び出したりした」(2時26分配信NHK)。その民宿にぼくは2泊した。ご主人の片桐さんには太魯閣と清水海岸を案内してもらい、車の中でプレートや地震のことも伺った。数ある宿でたまたま出会った人の声を日本の記事で読むのはかなりの偶然だ。すぐに見舞いのメールを送った。


旅の途次、花蓮市に帰省中という音大の学生と知り合った。アドレス交換していたので日本語→英語の機械翻訳で見舞いのメールを送ったところ中国語→日本語の機械翻訳で「あなたの心配をありがとう。私たちの家は安全です。ありがとう、日本の友人は、台湾を助けるようにこの地震は本当にひどいですまた怖い私は幸いにも、」という返信があり、写真が2枚添えられていた。怪我はなかったようだが今はまだ余震に怯えていることだろう。

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彼女の部屋だろうか?

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倒れたというより横揺れの衝撃でブロックが飛んだようにも見える。台湾は地震の国なのに鉄筋を入れないのだろうか? 

f:id:sakaesukemura:20190615151650j:plain宿のご主人に案内してもらった太魯閣国立公園。花蓮市の近くにあり観光客で賑わう。背後の山が鋭く切り立っている。

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斜面というより崖を切って造った道。併合時代に日本軍が造った。

f:id:sakaesukemura:20190615151734j:plain道というよりほとんどトンネル。下は清流。

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堆積岩がプレートに圧迫されて立ち上がった。この迫力なら世界ジオパーク室戸岬に置いても互角に闘えそうだ。

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視野一杯に広がる褶曲層のダイナミックなデザイン! 下手な抽象画を見るよりずっと面白い。

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露出した岩は石灰岩。流れに含まれる微粒子も石灰岩質なのだろう。不思議なことに隣の川は青く澄んでいるのに、ここはセメントを溶いたような水が流れる。

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大理石で作られた宝珠。花蓮の蓮をイメージしたものだろうか。花蓮市は大理石の大産地である。「大理石は石灰岩がマグマの熱を受けて接触変成作用で再結晶したもの」「古代ギリシャパルテノン神殿、ローマのコロッセオ、インドのタージマハルなどがよく知られているWikipedia」。タージマハルやミロのビーナスほど良質材ではないが、花蓮の街では大理石が道路の舗石にも使われている。

ついでに言えば、わが高知県石灰石の産地で標高1000メートルの鳥形山のてっぺんから須崎湾まで真一文字に採石が運ばれる。石灰石はセメントの材料だ。「コンクリートから人へ」の民主党時代にセメント産業は低迷したが、3.11後の「国土強靱化計画」によって息を吹き返したようでもある。

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峨々たる山々は深山幽谷の気配を漂わせているが、標高は300メートルほど。プレートによる造山活動がつくった壁のような斜面が続く。

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太魯閣を下りたところに清水海岸(断崖)がある。案内してくれた民宿のご主人は「山が海に突き刺さっています」と巧いことを言う。ご覧いただきたいのはこの絶壁を水平に走る線である。その昔、併合時代の日本人がここに道を造ろうと思い立ち現実に「ノミとモッコ」でやってのけた。高知でいえは柏島の手前にある大堂海岸に線を引いたようなもので、そもそもこんな断崖に道を造ろうとした先人の着想力に恐れ入る。この道が完成して台湾はぐるりと一周できるようになった。

その下をプレートが潜り、背中に乗せた付加体が削られて重なり、地震と共に隆起して台湾東部の山地山脈を形成した。そこに文明がなければ地震津波もささやかな自然現象にすぎないが、人間活動が拡大するにつれ自然災害は巨大化し、人的規模でいえば2004年のスマトラ島沖地震は28万人もの命を奪った。2011年の東日本大震災の死者数約3万人より遥かに多いわけだが、万を超える人の命を数で比較しても意味はない。むしろ2011年時点の高性能ビデオが至る所で津波を捉え、人類が生々しい映像を共有したことに意味があるのではないだろうか。

3.11東日本大震災のあと台湾は200億円という巨額の義援金を届けてくれた。にもかかわらず当時民主党の日本政府は「各国代表が献花するさいに国名を読み上げる指名献花から台湾を外した」「台湾の四大紙に謝意広告を掲載する予定だったが、予算が足りず?!見送られた」うっかりしていたという子どもじみた説明もあったように思うが、外務省がそんなミスをするわけがない。台湾は「ひとつの中国」問題を抱えている。1972年に日中国交回復がなされ、日本政府は台湾を捨て大陸に寄り添った。だから日本は台湾と正式の国交がないのだが、経済交流は活発という矛盾した関係にある。

かつて沖縄で出会った台湾人女性がぼくに向かい、あっけらかんと「台湾人は親日です」と言ってのけた。「親日」という言葉に驚き、以来ぼくは台湾を強く意識するようになった。台湾を歩いた日本人旅行者は口を揃えて「とても親切にしてもらった」と言う。ぼくもまた至るところで作り物でない笑顔に出会った。

問題は200億円である。1億人が200円ずつ出してやっと200億円になる。小さな額ではない。宿のご主人によると「人口2300万人の国で募金箱を置いて集まる額ではありません。ある日社長が社員を集めて号令をかけた。恩を返すのは今だ。今日から全員の給料を10%天引きする」というようなことだったらしい。自然は真空を嫌う。あの映像をみた市民の間に日本支援の熱狂が生れたのではなかったろうか。

そこまでして届けてくれた義援金に対し、日本のメディアはどう反応したのか。中国を過剰に意識するがゆえ悲しいほどちぐはぐな対応しかできなかった日本政府はいかなる政治理論を持っていたのか。自分を含め日本人は台湾をどう捉えるべきなのか。単なる友好国であることを超え(中国側からみれば台湾は、国ではなく地域であり、現在日本から派遣されている救援隊は地震の政治利用であって「けしからん」ことになる)、日台関係は今後の日中、日韓、日朝、日露関係を占う上でも重要なテーマとなる。

180209記