日本ところどころ② 四万十川 道端アート 法面工事 近自然河川工法

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流れにまかせてオールを漕げば川下りは簡単にできるが、ボートを降りたあとは元の位置まで歩かねばならない。車ですっ飛ばせば短い時間でも足で歩くと時速4~5㎞だから骨は折れるがカメラ片手に道草を食うと色々なものが目に入る。

f:id:sakaesukemura:20190615224329j:plainとある屋敷の入口に壺の絵が描かれていた。門扉の向こうには見応えのある無数の壺が鎮座していたからいかなる御方がお描きになったものかと気にかかり声をかけたがお留守のようであった。カンバスをぐんと拡げた道端アートは度胸と実力がなければできない。台湾の路傍で見た絵画や彫像もプロなみの腕前だった。

f:id:sakaesukemura:20190615224349j:plainおっとこれが正体かと思わず得心した一枚の擁壁。のっぺりしたコンクリートは殺風景だから石を埋め込んだ大判の化粧板だ。環境保全と暮らしの利便を両立させるため、効率よく面積を稼いでそれらしく見せる仕掛けだが満点ではない。

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工事の右手は川である。誰のための化粧かと言えば川を渡る舟客のためだから、

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この擁壁は川に顔を見せている。椎名誠が川沿いの家々は「川にお尻を向けている」と語って長い年月を経た今、少なくとも中流域のこの土木工事において川が主役を取り戻したと言えそうだ。

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自然の山は無理のない曲線が描かれてやさしいが、そこに道路を走らせると不作法な法面が露出する。究極の法面処理はモルタルを吹きつけて荒っぽくやっちまう工法だが、それではあまりに風情がないので最近は流行らない。知り合いの土建業者によるとコンクリートを剥き出しにした工事には認可がおりないそうだ。写真は下部のコンクリートに砕石を張って化粧し、上部に土を残した。時が経つと木が生えコンクリートの格子は緑で覆われる。

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土留めの柱は森の色。錆止めの溶融亜鉛メッキがてらてら光るより見た目にやわらかい。戦後モダニズムは建築のみならずスジ、ヒラバをコンクリートで埋めつくした。新宿の高層ビルから人工物のカーペットを見下ろすと、よくもここまで大地を固めたものだと人間の手の凄さにおそれおののく。暮らしの利便を求め、人のために良かれと信じて行った土木建設ではあるが、何事も度を越すと窮屈になる。たまに田舎から出向いて梅田や新宿のような未来都市を歩くと木陰でおしっこもできない人工空間でひたすら働く都会の皆さまが気の毒になる。

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高知発の土木工法「近自然工法」を提唱した福留脩文社長にお会いしたのは、国土交通省がまだ建設省と呼ばれていた1991年のことだった。そもそも建設とは自然を制御し人間に有用な空間をつくる行為であって岩場に棲むヘビやトカゲのためではない。だから川は水路のごとくコンクリートを張り、さっさと水を下流に送ればよく「ぼくらも昔は川の中央に岩が残されていたら発破をかけて納入したものです」と講演中の福留社長は頭を搔いた。土木とはそんなものだと世の中全体が思い込んでいたから矛盾を指摘する声はあがらなかったが、社長はスイスを歩いて開眼した。
(下のGoogle Map日商プロパン前の海から撮った近自然河川工法の事例)

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川は排水路ではない。子どもが安全に水遊びでき、淵には魚が群れエビやウナギが捕れたら嬉しいではないか。それは土木の目的と矛盾しないという目から鱗の発案が「近自然河川工法」であった。写真は四万十市井沢の国道沿いにおかれた石組み。直線化された護岸に9カ所の巨石の出っ張りを配した護岸工事である。淀みには小魚が泳ぎ、岩の割れ目にはカメもウナギも棲める。工事の跡だから自然ではないが自然に近い土木ではあるという謙虚なネーミングだ。建設省はこれを「親水護岸」と呼び、今となっては至るところで見られる工法である。台湾にも韓国にも伝播した。惜しまれるのは福留脩文社長が近年病を得て逝去されたことだ。葬儀の場には晩年のご労作である近自然工法をテーマとした博士論文が置かれていた。川は流れ、時は去り、いつしか自分もけっこうな年齢になった。

 

180309記