日本ところどころ⑨ 四万十川 戦後復興期のダム計画

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*頓挫したダム計画 高知県内水面漁協連合会「土佐の川」1992年刊p129より

個人史を持ち出して恐縮だが、ぼくは戦後復興期(1945~1954)に生れ、高度成長期(1955~1973)に中学、高校、就職、浪人、大学をやっつけ、安定成長期(1974~1984)に宿毛市土佐清水市中村市四万十市)で働いた。急激な円高が始まるバブル期(1985~1990)には、趣味のオフロードバイクで林道を走り、おっとこんな山奥にもコンクリートがあるのかよと驚いたり、眼下に広がる山々をスギ・ヒノキの植林が埋めつくす様を見て森とは何かと考えさせられたものだ。

「秋の夕日に照る山もみじ」はレンズを透かして局部的に切り取る他なく、「小鮒釣りしかの川」といっても、もはや昭和30年代に祖父と一緒に釣り糸を垂れた池も川も存在しない。今となってはアウトドア雑誌を開いて本物の森を空想する他ないのだろう。たった一人の人生時間の中で野山はどんどん姿を変え、バブル崩壊後の「失われた10年」は、いつしか20年を過ぎ、30年に近づいた。


高度成長期には普通預金金利が3%、定期貯金は何と10%を超えることもあったという。高校生のころ商業科の友人が「金利8%で5000万円寝かしたら10年足らずで倍になる。余裕で暮らせるぞ」と嬉しげに説明してくれたが、いくら金利が高くても元金というものが要るわけで貧しい農家の伜には縁のない話だった。しかし今にして思えばあれが高度成長というものだったのだろう。ろくに字も読めず四則演算だって怪しい母が、大八車を引いて松田川の河口で採った青海苔を出荷し、壁の前でじっと通帳を見つめていたのを覚えている。


東京でしがない浪人生活をしていたころ池袋の本屋で1972年刊「日本列島改造論」を見た。得意気に顎をしゃくり、だみ声でまくし立てる田中角栄が官僚に作らせた本だ。列島を改造するという神をも畏れぬ題名に政治家と土建屋の無神経を感じ手に取ることはなかったが、もしも当時の自分に幾ばくかの資金があり、文学部などというカネにならない学科ではなく経済か商学を志しておれば、田中角栄の言説を徹底分析し幾ばくかの財を成していたかもしれない。列島改造の結果、自然が壊され、地域住民が古里を失うことになっても痛痒を感じないのであれば、投資のストライクゾーンはとても広い時代だったからである。


戦後のダム計画を年代順に並べると以下のごとくである。戦後復興期からバブル期に至るまで、窪川原発を挟み、四万十川上流にはダム計画が次々と現れては消えたが、下記年表(田淵直樹「家地川ダム撤去運動への視点」より構成)を見るかぎり反対運動はバブル期を境に前半成功、後半失敗という傾向が見える。

 

1950~63 大野見村松葉川村栗の木ダム→志和又は興津に落とす→海へ流す(中止)

1950~63 大野見村久万秋上ダム→新庄川に落とす→海へ流す(中止)

1958~63 大正町瀬里ダム→海へ流す(中止)    

1958~63 大正町田野々ダム→瀬里ダムと繋いで佐賀町へ落とす→海へ流す(中止)

1964~79  梼原ダム(中止)

1977~   梼原ダム→愛媛分水(中止)

1973~88 窪川原発(中止)

1984~89 大野見村島の川ダム(中止)

1986~89 津賀ダム撤去運動(失敗)

1982~98 中筋川ダム(完成)

1998~01 家地川ダム撤去運動(失敗)

2009~   横瀬川ダム(建設中)

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*梼原川の津賀ダム140828

上記一覧「大野見村松葉川村栗の木に堤高100mのダムを建設し志和または興津に落とす案」と「大野見村久万秋上にダムを建設し須崎市の新庄川に落とす案」は、家地川ダムと同じく、電気と引き換えに四万十川の水を海へ捨ててしまう荒々しい計画である。戦後復興期には何としても電力が必要で、そのためには地方の暮らしも山間地の自然も眼中にない時代であった。

栗の木ダムは何と「最高出力67万kw」を予定していたという。伊方原発1~2号機が56万kwだから原発並の大出力である。津賀ダムが1.8万kw、早明浦ダムが4.2万kw、徳島県長安口ダムが6.2万kwであることに比べ俄かに信じられないほどの大出力だが、黒部第四ダムが33万kw、揚子江を塞き止めた三峡ダムが1基70万kwのタービン×32基=2250万kw→理論的には大型原発16基ほどの出力を持つというから、ダムの目的を発電に絞り、導水路で運んだ水を太平洋へ捨てる覚悟なら、あるいは可能であったのかもしれない。もしも「67万kw」が6.7万kwの間違いであればすぐにも納得できる数字だが、この件詳しい方がおいでたらぜひお教え願いたい。(引用「」は田淵直樹「家地川ダム撤去運動への視点」より)

これらが建設されると「大野見村の大部分が水没し、松葉川村や梼原町まで被害が及ぶので村役場が主導する村ぐるみの反対運動が展開され、計画は1968年頃には消滅した。」その後も年表のごとく反対・撤去運動は続くが、日経平均株価がピークを指した1989年を境に、いつしか建設は再開され1998年には三原村に中筋川ダムが完成し、さしたる反対運動もないまま2018年現在宿毛市側に横瀬川ダムが建設中である。いま四万十川水系には8つのダム・堰堤がある。

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*高知県内水面漁協連合会「土佐の川」1992年刊p129より

上記「四万十川とダム問題」をぜひお読みいただきたい。戦後の焼け野原から立ち上がった官僚は国の為によかれと願ってダム計画を練ったにちがいないが、暮らしの場がダム湖に沈められる地域住民はたまったものではない。役場主導の村ぐるみで反対運動が展開され、「各部落から集まった人々は腰にノコギリ、手に鎌を持ち、目は怒りでギラギラさせ、建設阻止に強い団結をみなぎらせていた」(高知県内水面漁協連合会「土佐の川」p130)という。「十和村の人々は1932年と1937年の満洲開拓で悲劇を体験し、それ以来国に対する不信感が強い」(田淵直樹「家地川ダム撤去運動への視点」)ことから死地を潜った者が持つ迫力で官と対峙したのであろう。追い詰められた人々の反ダム闘争は環境以前に生活防衛だったのである。

180521記(つづく)