日本ところどころ⑭ 四万十川 揚水式ダム

f:id:sakaesukemura:20190616025259j:plain

標高1000m吉野川上流の稲村ダムサイトの山桜 2012.05.05以下同じ

敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花

と詠んだ本居宣長は生前に自分の葬儀から墓石の置き方まで細かく指示している。お墓の傍に植えるのはもちろん朱色の葉と一緒に咲く山桜だ。朝日に「匂う」という動詞は山桜を最も美しく見せる光の角度まで教えてくれる。(あいにく当日は曇り空だったが)パッと咲いてパッと散るのが桜の潔さだけれどバイクで走り廻っているうちに高度と緯度をずらせば桜は長く愉しめることを知った。

f:id:sakaesukemura:20190616025323j:plain

5月の山には至るところに春がある

f:id:sakaesukemura:20190616025340j:plain

赤と緑の組み合わせがかわいい

f:id:sakaesukemura:20190616025400j:plain

斜光線に映える躑躅

f:id:sakaesukemura:20190616025417j:plain

土留めに苔の緑

f:id:sakaesukemura:20190616025433j:plain

赤い実に光が落ちた

f:id:sakaesukemura:20190616025501j:plain

杉にからまる蔓の葉アート 

f:id:sakaesukemura:20190616025521j:plain

マイクロドラゴン

f:id:sakaesukemura:20190616025545j:plain

アケボノツツジ

躑躅に霧がもつれると吹雪の中の白雪姫になる。写真展でよく見かける幻想的な構図だが、見るのは簡単でも撮るのは骨折りだ。これは手抜きの絵。

f:id:sakaesukemura:20190616025602j:plain

標高1500mの稲叢山から見た稲村ダム2012.05.05

その昔バイクで山道を走っているうちに道に迷った。怪しいなとは思ったが迷子になってもどこかで国道にぶつかる。ままよとつづら折りの坂道をかなりの高さまで駆け上がると視界が開けて湖が見えた。山の向こうに青空が広がり、空と森に包まれて鳥の声が聞こえる。すり鉢に水を溜めたような湖面は周囲の山の高さと比べてちぐはぐなほど広い。天空の湖にはどこから水が供給されるのだろうと不思議に思って看板を見ると、ここは伊方原発の余剰電力を使い、下のダム湖からポンプで水を汲み上げる揚水ダムなのであった。

f:id:sakaesukemura:20190616025625j:plain

黒色変岩を積み上げたロックフィルダム外側2012.05.05

原発は昼も夜も100%の出力で運転しなければ危ない。昼間はよいが電力需要が下がる夜の電気をどうするかが問題で、庶民は深夜電力を使って風呂の湯を沸かしたりもするが、そんなことでは余剰電力を使い切れない。そこで考案されたのが電力需要に合わせて水を上げ下げする揚水ダムだ。原発で電気をつくり→ポンプを回して水を揚げ→水を落として電気をつくる。この湖はダムなのか巨大電池なのか、原子力発電所なのか水力発電所なのかよく分からないところがある。

伊方原発で出力調整が行われて物議を醸した1980年代に同原発の中央制御室を見学させてもらった。来客は珍しかったとみえ壁に置かれた無数の計器盤の前で特にすることもなさそうな操作員が一斉にこちらを向いた。「これが出力調整の計器です」と説明されたが、どこにでもある針付きの文字盤を見せられてもピンと来ない。ボタンを押すと同時に原子炉に制御棒が差し込まれ炉の熱が急激に低下するといったビデオでも見せられないかぎり素人に出力調整の意味は分からない。

見学の本当の目的は伊方原発1号機56万kwが回す発電機を見ることであった。建屋の中では原子炉発の蒸気で回転力を得たダイナモが大音響でぶん回っているにちがいない。さぞかしデカイ装置だろうとわくわくしながら入ったが、床の上に体を半分あらわしたカマボコ状の発電機は意外に小振りだった。タービンを回した後の蒸気は海水で冷やし液体に戻す。そのため原発には膨大な海水が取り込まれ温排水として排出される。排水口から川のごとく流れる水は海水温を上げるほどだ。

その伊方原発は2018年7月現在1.2.3号機とも運転を止めている。1号機は廃炉、2号機は廃止、3号機は停止状態である。火力の電気で水を汲み上げるバカはいないから稲村ダムは今じっと身をひそめていることだろう。問題は3号機だ。

2017年9月12日伊方原発1号機で廃炉作業が始まった。「作業は40年かかり407億円の費用*」が見込まれるという。*産経west 2017.09.12

2018年3月27日には伊方原発2号機の廃止が決定された。「タービン建屋の耐震補強、非常用海水取水設備の作り替えなど大規模かつ長期間を要する耐震対策工事が必要となるなかで、再稼働した場合の運転期間、出力規模など様々な要素を総合的に勘案*」した結論である。*四国電力㍿「伊方原発2号機の廃止について」2018.03.27

 

伊方原発3号機、運転差し止め

2017年12月22日広島高裁は、2018年9月30日まで伊方原発3号機の運転を差し止める仮処分を決定した。原発から130キロ離れた熊本県阿蘇カルデラ破局的噴火で火砕流が到達する可能性を指摘し、立地不能と判断した*」という恐ろしくもユニークな理由からである。*毎日新聞2018.03.22

 

カルデラとは何か?

鹿児島湾の桜島北部は姶良カルデラの名残でもある。その姶良カルデラは2万9000年前に破局的噴火を起こした。噴煙柱は成層圏に達し、やがて崩れ時速100㎞で走る灼熱の火砕流となって半径70㎞の大地を埋めつくした。偏西風に乗った火山灰はわが高知県宿毛市に20mの厚さで積もり圧縮されて2mの地層を残したというからハンパない。

f:id:sakaesukemura:20190616025653j:plain

上野原遺跡資料館2013.07.23

鬼界カルデラは、2015年に噴火し全島避難を余儀なくされた口永良部島、2013年に噴火した硫黄島竹島屋久島に囲まれた海底にある。その鬼界カルデラは7300年前に破局的噴火を起こし、鹿児島県霧島市上野原に遺跡を残す縄文文化を壊滅させた。アカホヤと呼ばれる鬼界カルデラの火山灰は数メートル積もり九州や四国の縄文人を死滅させたという。 

f:id:sakaesukemura:20190616025711j:plain

阿蘇中岳の噴火2014.11.30早朝

山のてっぺんから濛々たる噴煙が沸き上がる光景を始めて見た。遠目に見れば阿蘇中岳から昇る一筋の煙に過ぎないが、望遠レンズの向こうで生きものの如く成長し上昇する黒い球体はビデオで見た核爆発を想起させる。ふと遥か彼方の外輪山で囲まれた阿蘇カルデラ全体から火と煙が吹き上がればどうなるかと想像して恐ろしくなった。

 

阿蘇は過去4回破局的噴火を起こした。とりわけ9万年前に起きた最後のカルデラ噴火は規模が大きく、火砕流は九州全体を覆い、海を超え山口県や四国まで到達し、火山灰は遠く北海道まで降り積もったという。直径25㎞の円内から地中のマグマを吹き上げ、やがて陥没して出来たのが今の阿蘇である。4度あることは5度ある。それが問題だと広島高裁は結論付けたわけだ。

f:id:sakaesukemura:20190616025732j:plain

巽好幸「地震と噴火は必ず起こる」新潮選書p176より

「超巨大噴火が九州中部で発生したとする。~中略~一両日の内に日本列島全域に降灰が及び、北海道を除く地域では10㎝以上の火山灰が降り積もる。この範囲に暮らす1億人以上の人々は一瞬にして日常生活を失うことになるであろう。浄水場の沈殿池の能力は限界に達し給水は不可能となる。~中略~火山灰の重さは約2倍にもなり、送電線の断線による電力喪失や家屋の倒壊も起きる。交通機能は全て麻痺、農作物はほぼ全滅し、森林も壊滅的打撃を受ける。~中略~日本喪失以外のなにものでもない」同書p177

 

火山活動に文明は対抗できるか?

火山灰がわずか1㎝降り積もっただけで鉄道は信号障害を起こし、空港は閉鎖され、停電、断水と続く。いずれは噴火する富士山が山から煙を吐いただけで東京文明がどこまで耐えられるかまだ誰も知らない。ましてやカルデラ破局的噴火に現代文明が対抗できるかといえば普通に考えて出来ない、ことを著者自身が矛盾した筆で描いている。「まず私たちが覚悟を持ち、その上で共に生きてゆく術を探すこと、そしてその思いを分かち合うことが大切である」(同書p195)と意味のない抽象論が置かれて本書は終わる。これほどの破局的噴火が起これば対策の打ちようがない。人間は諦める他ないのだ。

 

破局的な噴火が起これば原発どころか日本文明の崩壊につながる。噴煙が地球規模の気象異変を引き起こせば人類史的な影響も想定されよう。火に焼かれ灰に埋もれた原発はやがてメルトダウン放射能をまき散らす。伊方原発3号機のプルサーマルで使われるMOX燃料には半減期24000年のプルトニウムが混ぜられている。半減期を10回繰り返して初めて生命活動が安定すると仮定すれば、次に四国に住むヒトは24万年後まで待たねばならない。その間に阿蘇カルデラでは次の噴火があるだろう、、という虚しい空想を余儀なくされる。

 

160㎞向こうにある阿蘇カルデラ破局的噴火で火砕流が」伊方原発に到達するかもしれないから再稼働させないという広島高裁の論理には普通に考えて無理がある。危険は火砕流に限らない。地震津波、経済的破綻、軍事的な不安定も大きな脅威だ。そもそも次の破局的噴火が百年後なのか一万年後なのか誰にも分からない。誰にも分からないことが問題になるとすれば人間はどこに住めばよいのか? それが裁判の中心課題であるとは思えないのである。

 

すると広島高裁は何を狙ったのか? 

4つのプレートがせめぎ合う日本列島は地殻変動の巣であり普通に考えて原発を置く場所はない。2016年4月の熊本地震では伊方原発のある佐田岬半島の延長線上で別府、熊本に連なる断層を揺らした。先日、地質の専門家に「裁判の本質は、火砕流ではなく、中央構造線(大断層)にあるのではないですか?」と問うたが、「いや裁判では中央構造線については全く触れられていません」とのこと。中央構造線を無視して火砕流を論ずる広島高裁は何を考えているのだろう。

 

プルサーマルか?

2011年の東日本大震災後、全国58基の原発が停止した。だが2017年には玄海原発3.4号機、高浜原発3.4号機、川内原発1.2号機、大飯原発3.4号機、伊方原発3号機が、安全審査を通過し、再稼働した。9基に共通しているのはウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料を使うプルサーマル発電を予定していることだ。

 

ぼくの推論にすぎないが、

3.11のあと原発再開のための安全審査が厳しくなり経済整合性がとれなくなった。儲からない事業から撤退するのは企業として当然の措置だが、国には別の論理がある。問題はプルトニウムだ。

 

国は再処理を経て抽出したプルトニウムを「ふげん」「もんじゅ」といった新型転換炉・高速増殖炉で再使用しエネルギーの循環を図る予定であった。だが技術的に失敗し両炉とも電気をつくることなく廃炉が決まった。今は廃炉そのものの困難にぶつかって立ち往生している。

 

既に溜まったプルトニウムは原爆6000発分に及ぶ。その気になれば日本は短期間に核爆弾をつくる技術がある。固形燃料ロケットは開発済みだ。今の日本人は自分を平和主義者だと信じて疑わないが、何かの拍子で考え方を変えるかもしれない。かつて日本は武力を海外に向け、あのアメリカと正規戦を戦った唯一の国でもある。その国に大量のプルトニウムが溜まるのは危ない、と外国人の目には映るのではなかろうか。

 

日本国としては、そのような危惧を解消せねばならず、厄介なプルトニウムは何としても減らさねばならない。そのためには再稼働した玄海原発3.4号機、高浜原発3.4号機、川内原発1.2号機、大飯原発3.4号機、伊方原発3号機でMOX燃料を使おうとしているのではないか?

 

ところが強い毒性を持ち、核分裂が容易なプルトニウムMOX燃料として軽水炉で安全に扱うことは難しい。事故を起こせば通常の核事故を超える被害が想定されることからプルサーマルの危険性を指摘する向きも多い。

 

のみならず伊方原発中央構造線という巨大断層のすぐ傍にある。「四国電力によれば原発敷地の沖合8㎞先を通っていると主張するが、わずか600m沖にあるとの疑念が急浮上した*」*週刊金曜日161021 核に敏感な広島高裁は、核事故が起これば通常の原発より更に危ないMOX燃料に警鐘を鳴らしたのではないか?

 

司法の限界?

2018年7月4日名古屋高裁金沢支部は、大飯原発3.4号機の差し止めを命じた一審判決を取り消し運転を容認した。興味深いのは判決文が法制度にも言及し「原発の廃止・禁止の当否の判断は司法の役割を超える。国民世論として幅広く議論し立法府や行政府による政治的な判断に委ねられるべき事柄だ」(180705日経新聞) と指摘していることだ。一歩間違えれば事故は国家の存亡に関わることを我々はフクシマで知った。その社会的意義をどう捉えるかは司法の領域を超える。国民、議員、官僚それぞれの責任で考えてくれというわけだ。

 

伊方原発3号機に関する広島高裁の真意は不明だが、ヒロシマは核と放射能に敏感な土地柄でもあり、とりあえず2018年9月30日まで運転は差し止められた。嫌味な見方をすれば、9月までは停止だけれども「四国電力が同高裁に申し立てた異議審」がどう判断するかは知らないよと広島高裁が最終的な判断責任は追わないことを前提にしているかのようでもある。原発という国家の大問題に対し司法の領域はそこまで広くないのであろう。ぼくは9月以降、伊方原発3号機の再稼働は容認されると見ている。

 

元首相2人の真意は?

あの小泉純一郎が今や反原発の最先鋒だから世の中変われば変わるものだ。フクシマ後の2014年に細川護煕と組んで都知事選を争い、なぜかメディアは全く触れないが、その後も一貫して反原発行脚を続けている。在任中は推進、離任後は反対という変わり身のすばしこさは言うまでもなくフクシマを見てしまったからであろう。立場が自由になったから正論を吐けるのだとシニカルに評することも可能だが、元首相という立場を引きずりながら、かつて原発を推進した自分の間違いを認め、全廃せよと訴えることは勇気の要る行為ではなかろうか。原発の存廃は政治が判断せねばならないとする小泉元首相は、光、風、地熱、バイオマスに期待を寄せる。

 

除染とは何か? 

2016年11月、当時フクシマで除染作業に従事していた知り合いと組んで「環境とエネルギーを考える座談会」を開いた。除染作業とは、放射能で汚れた土を剥ぐ。運ぶ。きれいな土を被せる。道路脇20mまでの下草を刈り取る。袋に詰めて運ぶ。この作業の繰り返しだ。だから除染は「移染」だというのが彼の持論なのである。

 

残念ながら大地に撒き散らされた放射能を草木もろとも剥ぎ取って持ち去ることはできない。せっかく作業をしても雨が降れば山から放射能が降りて来る。現場で働く人には酷な言い方だが、小石を積んでは鬼にこわされる賽の河原のようである。

 

その座談会の目的は、除染の現場で働いた知人を交え、参加者各々が原発の意味を考えることにあり、とりたてて反原発を訴えるものではなかった。というより座談会を提案した自分自身いまさら原発を否定することに意味があるのかないのか分からなくなったのである。原発は造ってはいけないものであったが造ってしまった。起こしてはいけない事故が起きてしまった。日本の海岸線に54基並ぶ原発を一時的に停めることはできたが、棄てることはできない。そこを起点に考えたとき対案のない反対運動は無責任だと思うのである。

 

かつて原発が夢のエネルギーともて囃されたころ大学工学部原子力工学科には第一級の頭脳が集まった。いま原子力は不人気で大学に「原子」を含む学科はわずか3大学しかない。大学院には東大、東工大、京大を含めて8大学あるものの名称は「原子力国際専攻」「原子核工学専攻」「原子力システム安全工学専攻」等、原子力工学原子力発電のイメージを微妙にぼかした名称になっている。

 

世界には原発が450基もある。もはや人類は引き返し不可能地点を超えてしまった。進むにせよ退くにせよ原子力産業にはすぐれた頭脳が絶対に欠かせない。フクシマの事故処理には何世代かに渡る手当てが必要だ。後ろ向きの研究ではあるが若者にそっぽを向かれたら国家が成り立たないのである。

 

小泉講演の要点

小泉純一郎の講演録には「原発は安全で、コストが一番安くて、クリーンエネルギーだ。推進論者が言っている3大スローガン、これは全部うそだと分かった」とある。(このあたりネットを探れば資料は山ほど出てくるのでご興味のある向きにはぜひお調べいただきたい)核の平和利用という美しい言葉は、核兵器の製造を裏返した表現にすぎない。所詮は軍事の余剰利用であり、原発は危険でコストがかかって汚いというのが真実だ。

 

ではなぜ日本に原発を持ち込んだかと言えば、将来的な核武装という思想も政治の片隅にはあったのだろうし、何より事故と放射能を無視すればこれほど素晴らしいエネルギーはないからである。農業世界では毒を指して薬と呼ぶ。原子力業界では危険のかわりに安全という言霊が置かれる。事故を想定せず、40年後に始まる放射能処理を無視すれば原発がつくる電気は驚くほど安い。

 

総括原価方式

その原発を制度的に支援したのが電気料金を決める「総括原価方式」だ。すべての費用を総括原価とし、その上に一定の報酬を上乗せして電気料金が決められる。経費に利益を上乗せし全国民から半強制的に電気代を徴収できるのだからこれほど楽な商売はない。というよりこれは自由主義の商行為ではない。事故が起きようと廃棄物処理でいかなる経費が加算されようと事業体はびくともしない不道徳な法律なのである。

 

Google Mapでフクイチを見ると汚染水タンクがずらりと並び今なお大変な作業が続いていることが分かる。フクシマはネガティブな言霊を被せられ県名まで汚されてしまったわけだが、実は汚れたのは福島県だけではない。2013年にフクイチ前の浜通りを抜け、栃木県日光市中禅寺湖にたどり着いたとき、釣ってもよいが持ち帰ってはいけないという看板を見て戸惑った。魚種にもよるが汚染は今でも続く。放射能は軽々と県境を超えたのである。

 

放射線量を表す様々な数値が現実に何を意味するか人類はまだよく知らない。強い放射線をまとめて受けた場合と弱い放射線にじわじわ曝された場合の違いもまだ良く分かっていない。だからこの魚は食べてもよいがこの数値以上の魚はダメだと言われても人体実験したわけではないから基準の意味は誰も知らない、、等々原発放射能の話はどこまでも拡散するが、この辺で一旦整理して終わりにしたい。

 

(主観を含めた)まとめ

4つのプレートがせめぎ合う日本に原発を置ける場はない。
放射性廃棄物の捨て場は原理的に存在しない。
再稼働のテーマはプルサーマルであろう。
造ればつくるほど子孫は迷惑する。
手の打ちようがない問題は爆弾ゲームのごとく先送りされる。
司法、立法、行政とも責任回避する。
メディアは忘れっぽい。
電気料金を総括原価方式で請求できるかぎり原発は止まらない。
もはや引き返し不可能地点を超え、推進と反対が同じ課題を持つに至った。

 

180716記

Aiさま某編集長さま

暑さ日本一の四万十川から暑中お見舞い申し上げます。
本気の夏になりました。予定では再び四万十川に戻り、梼原町のお神楽を考えて四万十川シリーズ、といっても何がシリーズなのか自分でもようわからんところがありますけど^^! は終わり、台湾旅行の目的であった八田与一の烏頭山ダムに戻ります。誰もが期待した難工事に有らん限りの情熱をかけた土木家とその妻の物語に胸を打たれ昨秋ふらふらと出かけた次第です。今日からしばらく夏休みです。ではまた。