海事つれづれ五目めし200424 四万十町上ノ加江港1

 

 

 

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両手を丸めた花崗岩の防波堤が海水浴客をまもる200419以下同

 

このブログを眺めてくださる極少数の皆様の中には高知出身の方がいて連休には帰りたいな、でもそんな雰囲気じゃないなと都会で溜め息を付いている人もいるのではないでしょうか。在宅勤務でパソコンと睨めっこしながら、田舎道を歩きたいな、サーフィンーしたいな、釣りに行きたいなと思っている人にはちょこっと見てもらいたい撮れたて写真です。

 

 

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標準レンズで撮った下ノ加江港(キャノンM6に22㎜のパンケーキ)

 

 

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ゴムボートの出航地を探してここまで来ました。いつもは人影のない港ですがアレの関係で休日の行き場がなく、子連れで釣りにということでしょう。近ごろはルアーをひょいと投げてシャカシャカっと引くのが流行ですが、ここは珍しく浮きに餌釣り。埠頭の隣ではご近所さんと思しき仲良し親子が5人ほど車座になってお弁当を開いていました。

 

 

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トレーラーに大層な文句が書かれているけれど、、(^^!

 

この台車ならそれなりの釣り舟を乗せ、白波を残してカッコよく港を出られます。お値段はいかほどだろう、自宅に倉庫があるのだろうか、マリーナに預けたらけっこうなおカネが要るんだけどと、みみっちいことを考えてしまう自分がイヤになりました。

 

 

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4月19日の琵琶はまだ青い

 

 

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今が田植えの真っ盛り

 

4月24日の今日は雲ひとつない空から強い日が差し若葉の緑が眩しいほどです。農業科の先生に「春の葉っぱは何であんなに光るのだ?」と問うたら彼どこかへ消えた後また出てきてペクチンがどうだこうだと説明してくれましたが、よく分からないみたいでした。

 

あらたふと青葉若葉の日の光

 

と詠んだのは元禄2年4月1日の松尾芭蕉ですが、こんな素敵な春の日に全国民が引き籠もりだなんて、、

 

 

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田植機に乗せてもらった男の子をスマホで撮るお母さん

 

 

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田んぼの中の黒いのは

 

 

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これです

 

 

 

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分かりにくい写真ですが上ノ加江の森に残された石垣

 

さほど遠くない昔、日本の里山は陸も島も石垣だらけでした。愛媛県宇和島市遊子水荷浦ユスミズガウラの段々畑は見事なもので、ユンボもトラックもない昔これほどの石をこれほどの高さまで積み上げた農民の執念に恐れ入ります。今は一部が観光用に残されているだけですが、昔の写真を見ると島じゅう隈なく芋畑です。

               https://www.youtube.com/watch?v=rciQ5bIC95k

 

今昔物語集」「宇治拾遺物語」には小舟で遊んでいた兄妹が沖に流され宿毛市沖ノ島にたどり着いて夫婦になったという話があります。その縁起にちなむ「妹背山」は標高404mもあるので海抜0mから歩いて登るとけっこう息が切れます。ぼくは巡航船で弘瀬側に降りたのでいきなり胸突き八丁、ビルの階段を上がるようなものでした。母島側から整備された林道をゆるゆる歩いて弘瀬に下りるのがお勧めです。海から見ると島は森ですが、森の中は妹背山のてっぺんまで石垣が続き、少しだけ想像力を働かせれば島の昔の暮しが見えます。

https://sukumo-darumayuhi.jp

 

 

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宿毛湾を公試航行中の戦艦大和wiki

 

戦艦大和宿毛沖で全力航行したころ沖ノ島は全島だんだん畑の芋畑だったはず、その頃ぼくの母は宿毛市宇須々木の芋畑で鍬を振っていました。娘時代が軍国時代でお勉強の方はさっぱりですが、畑で鍛えた体はたいしたもので92歳の今でも自力で歩きます。

 

妹背山には至るところに石組みが残されています。ああこんなところにも暮らしがあったのだなあ、してみればヤマトの乗組員も昭和20年4月7日に鹿児島県坊ノ岬沖で撃沈されるまで芋飯食べて頑張ったのかなと余計なことまで想像しました。

 

 

 

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徳之島犬田布岬  戦艦大和を旗艦とする艦隊戦士慰霊塔170715

 

上ノ加江の石垣から徳之島まで飛んでしまいましたが、同じ日本だし歴史といっても高々75年前の出来事にすぎないのでイミフな飛躍というわけでもないのかなと、、ちかごろ山川出版「もういちど読む日本史」を買いました。ネットのカキコを見ていると近隣某国が歴史を創作し返す刀で反日をやりまくるという批判があります。しかし遅蒔きながらこれ某国よりむしろ自国の歴史の書き手に問題があることに気が付きました。作られた歴史の伝達員として自分が何をしているのか分からぬまま仕事をし、取り返しがつかぬまま終えてしまったことに反省しきりのこの頃です。

 

歴史には文部科学省がつくる強烈な国家史がある一方、ひとりの人間が生きて考えた個人史もあります。国家と個人の共通の土台は、4つのプレートが集結し、東シナ海で大陸と絶妙の距離を置いた列島の住民であることでしょう。ハンチントン教授は世界の文明を7つに分類し日本を一国家一文明と規定しました。温帯モンスーン地帯にある日本は、地震もあれば温泉もあり、四海に護られ、長い安定の中で、温かく湿った文化を発達させました。そこで生れて働いてぼちぼち先が見えてきた自分とは何であったか、某編集長に唆され励まされ、今年の夏は旅行どころではなくなったことだし、かれこれ20年デジカメが生れた頃から撮り溜めた山盛りの写真を整理しながら振り返ります。

 

この段まだ続きますが、写真が多すぎるとパソコンが追いつかないので一旦切ります。理屈っぽいところはすっ飛ばして写真だけでも眺めていただければ幸いです。

200424記