上ノ加江の山の麓でひっそりと田植えを待つ苗200419
上ノ加江と言われても高知の人だって普通は知らない過疎の村です。その村の小さな田んぼさえ区画整理され農機が入るようになったから苗は四角い箱になりました。そのむかし田植えは人力で行なわれ、早乙女と呼ぶには抵抗があるわが母も親類縁者の応援を得、水を張って鏡になった田んぼを揺らしたものです。細かく語ればキリがないのですけれど、あの時代の農村風景は忘れてはならない日本の原形だと思います。
桁外れの面積を十条植えの田植機が緑に変える秋田県八郎潟の田植え130520
元はと言えば干拓地の八郎潟をGoogle Mapで覗くと顕微鏡で覗いた半導体のように区画されています。高知ではありえない広さだから「いやあ広い田んぼですね~」と驚いていたら青いカッパのご主人は言ってる意味が分かんねえという顔でこちらを向きました。彼は北海道から入植したそうなので田畑が広いのは当たり前「近ごろは1町5反の田んぼが流行っていますよ」と平然と言う。1町5反といえば満洲から復員したぼくの父が母と二人でせっせと働きあちらこちらに分散して買いためた全面積より広い。トマトを作っているウチのビニールハウスが3反≒1000坪だからその5倍→5000坪wもしもこの田んぼがビニールで覆われていたら見るだけでヤル気を失いそうです。
10条植えの田植え機なんて高知では見たことがない130520
こちらを向いた女性は東南アジアからの農業研修生かもしれません。ウチの隣の韮農家ではベトナムの若者が4人ほど働いています。文旦農家の親戚はずっと前からフィリピン人を雇っており、3年かぎりの契約だからもう何人も入れ代わったようで「人にもよるけどみな良く働いてくれる」と満足しています。
苗と一緒に延効性の窒素肥料を積み
行って戻って20条!
瞬く間に田植えは終わった130520
今どきの農業の最終目的は収穫物の向こうにあるカネだから市場原理が総てを仕切ります。群馬県嬬恋村の見事に太った出荷前のキャベツ畑がトラクターで均されてもそれは価格変動期における正当な行為なので嘆き悲しんではいけないのです。自分でやって分かったことですがトマトの市場価格もオシロスコープのツマミを回したように激しく上げ下げします。「箱代もない」というのは農業関係者がうそぶくときの決まり文句ですが、一度だけ本当に箱代もない日を経験しました。だから数字が限界を超えたら畑を潰す他ないことは分かってんだけど作り手としては何だかなあと「ぢっと手を見る」ぼくたちなのでした。
手植えが機械植えに変わっても田植えと聞けば松尾芭蕉の「田一枚植えて立ち去る柳かな」が思い出されます。ためしにネットを覗いたら凄い量の書き込みがありました。俳聖を前に必死カッパの俳諧オタクが侃々諤々の議論を続け、なかには旅の芭蕉が早乙女と並んで田植えを手伝ったというボランティア説もあったりして微笑ましい光景ではあります。芭蕉が見た目前の柳は私淑する西行の「遊行柳」と重なります。春風に吹かれ、揺れる柳のむこうで早乙女のおみ足が、泥田に差し込まれ、抜かれしながら緑が広がったにちがいありません。
かつて四国を制覇した長曽我部元親を祀る高知市若宮八幡宮の「どろんこ祭り」190406
「どろんこ祭り」の見物客は、田植えを終えた早乙女に囲まれ、顔に泥を塗られて嬉しげです。顔が泥だらけになることと無病息災がどういう理屈でつながるのかは分かりませんが、まあ難しいことは考えない土佐の祭なのです。たしか「七人の侍」のフィナーレに太鼓叩いて豊穣を祈る田植えのシーンがあったような、、ひと仕事終えたサムライが村一番の美女に手を振ってカッコよく別れるあれですね。
農が業となり恐ろしく効率的にコメが作られ、得たものなんぼと通帳見つめてにんまりする時代になりましたが、農は本来マツリゴトであり食べ物を作るのが目的でした。「祭りって何だ?」と問われたらぼくは「人が集まることだ」と応えます。みんなで集まって田植えをし、御馳走を囲んで収穫を祝い、自然に生れる井戸端会議の中で仲間意識が作られてきました。祭りがあるから社会が結ばれるわけですが、あろうことか今年はよさこい鳴子踊りも中止になりました。人が集まっちゃいけないのだそうです。
200428記