海事つれづれ五目めし200504 塩の道(1  

 

 

 

 

 

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高知県黒潮町佐賀131130

「土佐の一本釣り」を描いた故青柳裕介氏は環境がらみで演壇に立つたび「田舎の小学校にプールを造るのは最低の行為だ。四角い箱の塩素水に子どもを放り込んでどうする」と嘆いていました。「すぐそこに綺麗な海があるのだから海に連れて行けばよい。山の学校なら川で学べ。しかるに日本の教育行政は、」と喋りだしたら止まらない。やおら会場から手があがり「そうは言っても、」と反論されると「まああなたね、たかが漫画家の言うことだからムキにならなくてもいいじゃない」と逃げ口上をかまえているので喧嘩にならない。

 

太平洋に向けて両手を広げ、四国一の面積を誇り、人口自然減に一番乗りしてどんどん過疎化が進む土佐の高知は、カネがうなる三密のクニよりずっと自然は豊かです。1人当たり県民所得256万円(平成28年度)はざっくり東京の半分ですが、別の指標を持ち込めば最終ランナーが一番になることだってあるので、ものは考えようです。

 

 

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黒潮町佐賀の製塩場131130

高知県黒潮町佐賀の海沿いを走ると照葉樹の森から海が見えます。黒潮洗う太平洋岸は磯遊びにはもってこい。その清浄な海水を天日で煮詰めて塩作りを始めた知り合いがいます。かつて塩とタバコは専売公社が独占していましたが、研究用という名目でお目溢し的に公認されたグループが伊豆大島におり、そこで修行したO氏が地元佐賀へ戻って始めたのが「土佐の海の天日塩あまみ」でした。

https://sumireya.org/blog/creators/p3291/

今となっては昔のことだからよく覚えていませんが、氏と面識を得たのは90年代の半ばだったように思います。当時ぼくは仕事以外のことなら何でも面白かったので、彼と知りあったのは反原発の集まりか、自然環境を考える市民の会か、まあそんなところだったように思います。1991年に元NHK職員の橋本大二郎氏が高知県知事として舞い降り、刺激された市民グループが雨後の筍みたいに顔を出したので、覗いてみたい議論の場が職場の外に一杯ころがっていました。バブルの峠は越えましたが、まだしも社会に余裕のあった時代です。

 

 

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海水を汲み上げ屋上から散布する製塩場131130

1997年に塩専売法が廃止され、O氏の塩づくりが本格的に動き始めました。佐賀の海から水を汲み、タワーのてっぺんから撒いて、風と光で濃縮する。それを煮詰めて塩にする。原理は単純ですが、作業には熟練のワザと情熱が要ります。さすがに今では誰もやっていないでしょうが、塩づくりを始めたころ氏は、町を廻っててんぷら油の廃油を集めていました。反原発→エネルギー使用の最小化→廃油利用という真面目な流れです。書から得た知識で大言壮語する人は一杯いますが、理念を体で翻訳できる人は滅多にいません。

 

 

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佐賀の海岸線を更にのぼった熊野浦の製塩所131130

文明が進むと自然が汚れ、清浄な海の水を求めて塩作りは奥へ奥へと進みます。人里離れたこの辺りが日本最後のフロンティアなのかもしれません。上記サイトで女性3人グループがレポートしているように元はと言えばO氏が手さぐりで始めた製塩所から仲間が広がり、ぼくの知るだけで国道56号線に2カ所、佐賀の海岸沿いに3カ所あります。

 

 

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新潟県鼠ヶ関「ミネラル工房」151018

京都は若狭湾にどっさり置かれた原発を訪ね、福井、石川、新潟と日本海沿岸を原発行脚していると右手にでっかい看板が見えました。

 

 

 

 

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地べたに生えた三角形の後ろに湯煙が見え、裏へ回ると、

 

 

 

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平底の釜に廃材が突っ込まれ赤い炎がゆらいでいました。作業場はここしか見ていないので自信をもって言えませんが、釜の海水は既に何らかの方法で濃縮されたものだろうと思われます。が、ひょっとすると海の水をそのまま沸騰させていたのかもしれません。とすれば大変な薪が要るわけで、、

 

鍋に塩水を入れて実験するとすぐわかりますが、与えた熱量に対し鍋底に付着する塩はわずかなものです。かりに濃度3%の海水をそのまま煮詰めて鹹水をつくり、塩に変えるとすれば膨大な薪が必要になります。そこで昔の人は海藻を使い、最小の熱量でたぶん灰だらけの塩を作ったわけです。そこから「藻塩焼く」という枕詞のような用語が生れ、歌に情緒が付加されました。

 

佐賀のグループはまず天日と風で濃い塩水(鹹水)を作り、それをビニールハウスで更に濃縮するという手法を使っています。自分の経験で言えばビニールハウスに夏場の日が差し込むと温度計は見る見る上昇し、40度を超す中で作業していると汗のプールで泳ぐような錯覚に襲われます。いったん外に出て冷水をガバガバ飲み、シャツの上から水をかぶって再び出撃^^! てなことを繰り返しているうちに日が傾き、38度くらいになるとオヤ涼しくなったなと体が感じますね。佐賀の塩づくりも楽な仕事ではないだろうと思います。

 

 

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写真説明

左から伊勢物語東下りの段。檮原町のチムジルバンに使われた岩塩。お土産に貰った100%All natural hand harvested SEA SALT ←Thank you for your comment Deborah. This is the salt from Florida you gave me as a gift. ウイーンでモーツァルトを聴いた友人からお土産にもらった薄い色が残る岩塩の粉末。みんなが知ってる食卓塩。新潟県笹川流れというエレガントな地名の海岸で作られた真面目な塩。特別出演はウチのハナでした。(つづく)

200504記