海事つれづれ五目めし200510 塩の道(3

 

 

 

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日露戦争wiki

子どものころ沢庵を漬ける塩の袋に塩化ナトリウム99..%と書かれていました。9がいくつも並ぶ純度の高い塩だから高級品にちがいないと信じて疑わなかったのですが、工業用の塩とヒトの体が求めるお塩は別ものらしく、今どきの量販店塩コーナーにNaClの純度を謳う文句はありません。逆にミネラル含有を強調した自然塩が百花繚乱で、それにはワケがあります。

 

1894年に日清戦争で勝利を収めた日本は、1904~5年の日露戦争で勝つには勝ったものの借入れした戦費は当時の国家予算の「5倍とか7倍ともいわれる膨大な戦費にのぼった*」というから戦後は、戦費返済における官僚の智恵と国民のフトコロの争いになったとまあ言えるでしょう。2020年の国家予算がざっくり100兆円×7年=700兆円と言われてもピンと来ませんが、東京都の予算が7.3兆円だから、これまたざっくり東京都民に100年間がんばってもらう計算になります。 *櫻井良治「日露戦争公債発行と返済のための相続税導入」

 

ふざけんなと言われても借金は返さねばならず「翌1906年からイギリス銀行団とユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフに戦費の借金返済を始め、すべて完了したのが1986年だった」(麻生太郎財務大臣談のネット孫引き)というから何と80年もかけて我々の税金はイギリスとユダヤに吸い取られたことになります。われら日本人は何がなんでも借りたカネは返す。泥棒してでも借金は返すという不思議なタチの民族ですが、明治期の貧乏国が国家の存亡を賭けて借り受けた戦費をどうやって返済したのか?

 

先方から塩で払えというプランを提示されたそうです。生きるために必須の塩を専売制とし税金代りに国民のフトコロからカネを抜き取る仕掛けです。むろん所得税増税、地租(固定資産)大増税、タバコの専売等も含めての話であろうし、金持ちには大問題の相続税も元はといえば日露戦争の戦費調達財源として創設されたというから、いつの時代も庶民は「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」なわけです。ちなみに石川啄木日露戦争の7年後1912年に27歳で逝去しています。

 

その国際借金を払い終えたのが1986年というから自分の青年期が支払い末期に当たります。あの頃は給料袋に入れられた現ナマを事務室でうやうやしく頂戴したものです。あらためて振り返ると初めての給料は8枚+だったように記憶しています。物価が安かったかと言えばそうでもなくて100均もない時代だから靴下1枚買うカネも惜しくビールを毎晩1本飲んだら1週間でパンクするような始末でした。ボーナスで「扇風機と自転車を買ったら無くなった」とぼやく同僚もいたりして、それはそれで青年期の貴重な経験ではありました。

 

1986年はアジア太平洋戦争の戦後41年目に当たります。援助だ協力だという美名のもとに敗戦国には戦後賠償がのしかかり、庶民の与り知らないところで日本国の富は流出したにちがいありません。勝利の代償+敗北の代償は相当なはずですが、麻生閣下の講話ではこの辺りの事情は伏せられたかと--! 

 

借金返済80年の過程において塩作りの技術は揚浜式、入浜式、流下式と変遷し、イオン交換膜+真空蒸発缶方式によって現在の製塩技術が確立しました。その結果1971年に施行された塩業近代化臨時措置法によって、昔ながらの塩田は廃止され、塩というより塩化ナトリウムと呼んだ方が正しい食塩が出回り、漬け物は不味くなりました。イオン交換膜は生命活動に必須の鉄、銅、マンガン、クロム、亜鉛といった微量元素を遮断します。たとえば塩化ナトリウムに湿気どめの炭酸マグネシウムをコーティングしさらさら感を出したのが食卓塩であり、製塩技術の進展とともにミネラル分は減少しました。その頃を境にアトピーや喘息という昔はなかった病気が流行したと言う人もいます。

 

やがて「伯方の塩」の伯方島をもつ愛媛県では「自然塩を守る会」が発足し、伊豆大島では天日と平釜を利用した伝統的な自然塩をつくる国家公認の「研究」が続きました。そのころ黒潮町佐賀のO氏は伊豆大島の研究グループと一緒に働きながら学んだのでしょう。クニに戻って佐賀で製塩を始めた当時、海水を濃縮するタワーはブロックを積み上げて風を通す仕組みでした。今は青い膜に換わりましたが、ブロックが造る円筒形のタワーには何か人の心をわくわくさせるものがありました。あれは伊豆大島のやり方を踏襲したものだったのでしょう。

 

日露戦争の戦費支払いが終わった1986年以降も塩の専売はだらだらと続きましたが、1997年にやっと塩専売法は廃止され、やや間を置いて2002年に塩の製造、販売、輸入が自由化されました。そのような過程を経て量販店塩コーナーの賑わいにつながるというワケです。(つづく)

200510記

 

 

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浦戸湾西200430

この拙ブログを眺めてくださる方に高知出身の方がおいでるようなので浦戸湾の春を添付します。仕事でダレたときにでも、、土佐日記紀貫之が55日もかけて都へ帰った出航地です。古地図を見ると昔の海はかなり奥まで侵入しており、高知市周辺に小津、潮江、船戸と海にちなんだ名があるのも納得できます。高知の市街地が続く南国市に29番札所の国分寺があり、Google Mapの書き込み欄には、写真どっさり、ほのぼのとした感想が載せられています。貫之さんはこの辺りで高知県知事の任期を終えたのでしょう。別れの日には仕事仲間が集まって飲んで騒いで「潮海のほとりにてあざれあへり」とあるから酒の勢いで言い合いになったりゲロ吐いたりしたにちがいありません。1086年後の今も違和感のない風景です^^!

 

 

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潮が引くと島の間は砂嘴でつながります200430

あちこち周りましたが、かろうじて原生的な森が残るのは小さな無人の島ではないかと思うに至りました。小島研究会とかつくって木の専門家、花の専門家、地質の専門家とかの案内で島めぐりをしたら愉しかろうといつも思います。

 

 

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誰にも邪魔されないヒミツ基地200430

渚で昼寝してたら藪蚊がすごくて退散しました

 

 

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花の名は知りませんが沈丁花みたいな香りがします200426

 

 

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今年最後の櫻が一輪二輪 200430

 

 

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何の実でしょう? 200430

 

 

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春ですが秋みたいです200430

 

 

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浦戸湾東には造船所があります200508

 

 

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片側がもがれたヒミツ基地の鳥居200426

おしまい