海事つれづれ五目めし200713 ちょっといっぷく2号 よさこい鳴子踊り 震洋秘匿壕 加計呂島

 

 

 

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御畳瀬漁港 200602

 

みませ見せましょ浦戸を開けて♪と唄われる

月の名所の桂浜 ♫ はすぐそこですが、、

 

 

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よさこい鳴子踊り 190811

 

リオのカーニバルも青ざめそうな

ヨッチョレヨ! の掛け声が

今年は聞けなくなりました。

 

 

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御畳瀬漁港の船揚場 200602

 

ここは横浪桜丸☞わがゴムボートの出航地でもありますが、

仕事はある雨はふる、とんとご無沙汰しています。

梅雨明けの青空がほしいです。

 

 

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厳島神社 200124

 

どの港にも必ず神社があります。板子一枚下は地獄の漁師が最後に頼れるのは神様だからでしょう。たかがゴムボートに乗っただけであれこれ言うのは気が引けますが、何かの拍子に空気が抜けたら、沖でエンジンが止まったら、携帯が使えなくなったらとそれなりに不安はあるものです。

 

九州が大洪水の日にゴムボートで沖釣りに出てオールが折れて救助を呼んだというニュースに対し、バカな奴だと一蹴するカキコ諸氏の評は容赦ないものでした。しかし港を離れて船外機のプロペラを傷め、風上に向けてオールを漕いだことのあるぼくには、ヒトはみなバカを背負った不安定な存在だから、ちょっとくらい大目に見たれやという気持ちもありますネ。むろん土下座と経費負担は覚悟してもらわねばならんのですけど、、

 

 

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厳島神社から少し離れた深浦神社の参道 200124

 

海から陸を見て気づいたことですが、半島や小島には神社の参道が桟橋のように伸びて途切れたところがあります。船の舳先を参道の高さにぴたりと合わせて参拝客を降ろすには、釣り客を磯に渡す船頭くらいのテクニックが要りそうです。磯の散歩道2つ目の神社に作法通り二礼二拍手一礼させてもらいました。

 

 

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秘匿壕 200124

 

この洞穴は、250㎏爆弾を積む1人もしくは2人乗りの高速特攻艇「震洋」の秘匿壕です。終戦までに6,197隻が建造され全国に配備されました。高知県で言えば香美市夜須、高知市御畳瀬、須崎市野見、土佐清水市、大月町柏島に基地の名残があります。

 

 

 

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高知県香南市夜須の手結港に置かれた震洋隊殉国慰霊塔 180820

 

 

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慰霊塔裏面の殉国者一覧 180820

 

碑文には「呉鎮守府第23嵐部隊第9震洋隊は本部を須崎に置き、竹中清作大尉の率いる160名の隊員は、本土決戦を期して当住吉に駐屯、昭和20年8月16日午後6時作業中、火薬爆発、一瞬にして散華す。ここに殉国者111勇士の名を録して永遠に弔はん」とあります。

 

犠牲者の出身地は「北海道、青森、岩手、宮城、山形、福島、茨城、埼玉、千葉、東京、神奈川、新潟、富山、長野、岐阜、静岡、愛知、三重、大阪、兵庫、奈良、和歌山、鳥取、島根、岡山、広島、山口、徳島、香川」と全国29都道府県に及びます。ここに高知がないのは不思議ですが、それはたまたまのことでしょう。鹿児島県知覧の特攻記念館にはしっかり高知出身者の名も刻まれています。それよりも終戦の翌日8月16日に通常はありえない事故が起きたことに何かしら得心できないものが残るのです。

 

 

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奄美大島本島の軍用観測所から見た加計呂島 170720

 

小説家の島尾敏雄は「第十八震洋特攻隊隊長」として加計呂島に赴任していた「1945年8月13日に特攻作戦が発動され、出撃命令を受けたが、発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎え」ました。当時、島尾と恋仲にあった小学校教師の大平ミホは、そのことを上等兵曹から聞き「島尾が出撃したら自分も短剣で喉を突き海中に身を投げる覚悟で入り江の浜に正座して」いました。

 

 

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観測所の外から見た加計呂島 170720

 

終戦後「二人は(上京し)夫婦となったが、子どもが生れて平凡な毎日を送っていた中、トシオの浮気が発覚し」「両親の深い愛情と穏やかな南島の環境で育ち、嫉妬や憎悪の感情を知らずにきたミホ」の「思いは裏切られ激しい嫉妬心で精神のバランスが崩れ」「家庭は修羅場と化した」が、やがて二人は奄美に移住し「郷里の環境に身を置くことで、ミホの神経症状は次第に回復していった。その闘病記録は小説『死の棘』として完成する」(引用はwikiより)

 

高知と奄美大島の特攻隊員には、時代に翻弄され、生きながら死の淵を見、そのまま冥府へ逝った者もあれば、たまたま生還した者もいます。終戦詔勅を経た翌16日の爆発事故がなければ高知に集まった隊員には、その後の人生があったはずです。もともと身体強健、頭脳優秀な若者の集まりですから解散後は戦後復興に一役買ったであろうことが容易に想像されます。

 

しかしながら8月15日を境に、死を賭して信じたものが失われ、価値が180度転換した世界に放られて人は正気を保てるものでしょうか? 死ぬと決めた翌日、回り舞台の裏が表になり、負けた、と言われても新たな状況に合わせた振る舞いができるものでしょうか?爆発事故はその精神性の齟齬に起因するものでなかったかと、勝手な物語が、ぼくの頭の中で回ります。

 

ちょっといっぷくにしては

堅苦しい文になりました

200713記 つづく