いっぷく10号 200812  李登輝元総統へのささやかな追悼のために 「KANO1931海の向こうの甲子園 」

 

 

 

 

 

f:id:sakaesukemura:20200812121150j:plain

台湾 嘉義市の中心 181027

 

ロータリーの真ん中で

投手ふりかぶって投げましたw

なんでこんなとこで野球やっとん?

 

f:id:sakaesukemura:20200812121222j:plain

と思いながら、何も知らずに嘉義の街を歩いていると

やたらとKANOの文字が目に付きます 181027

 

 

 

f:id:sakaesukemura:20200812121246j:plain

ずんずん歩いて行くとKANO歩道までありました 181027

 

 

f:id:sakaesukemura:20200812121310j:plain

道路脇のパネルには

「すべてはここから始まります」と日本語で書かれ、下に

中国語と英語が併記されています 181027

 

 

f:id:sakaesukemura:20200812121336j:plain

嘉義農林学校 準優勝

 

続くパネルを歩きながら読み込んで行くと最後に1931年8月22日の朝日新聞が貼られていました。嘉義農林学校と中京商業の決勝戦の様子が描かれ「再三の猛襲も遂に空しく嘉義農林力つき敗れる」とあります。1931年の甲子園大会は、アジア太平洋戦争が始まる5年前の全国高等学校野球選手権大会であり、当時は大連や京城の「外地」からも参加しています。その甲子園で嘉義農林学校は準優勝を果たしたわけです。

 

ずっと昔の話ですが、高知県四万十市の中村高校野球部が奇跡を重ねて甲子園の決勝までたどり着き、無念の涙を飲んだことがあります。大会参加は優勝が目的だから負けて悔しいのは当たり前ですが、野球通に言わせると高校野球の理想は甲子園で準優勝することだそうです。勝ってしまえばそれっきり、負けた悔しさが人間をつくり、濃い記憶を残すのだとか、、その意味で台湾と高知の野球部員および何万何十万の応援団は共通の価値を手にしたと言えます。

 

日本人の野球好きは今に始まったことではなく、そもそもbaseballを野球と訳し、今でも使われる打者、走者、死球、飛球といった用語を開発したのは、明治35年に物故した正岡子規というからMLB田中将大が投げ、大谷翔平がホームランをかっ飛ばすまでには100年を超える歴史があったわけです。

 

 

 

f:id:sakaesukemura:20200812121408j:plain

 

映画「KANO1931海の向こうの甲子園」は2014年に封切られました。制作にあたってはあたう限り史実に即して再現したというから視聴者はスクリーンの向こうに台湾の歴史を重ねて良いのでしょう。本年7月30日に逝去した李登輝元総統は「KANOを見たあと感動のあまり泣いてしまった」そうです。ゲオでDVDを借りパソコンの前に3時間半ほど張りついた自分もそれなりに思うところはあったから、昭和史と共に波乱の人生を歩んだ元台湾総統にとって「KANO」が野球の再現映画にとどまらなかったことは容易に想像されます。

 

                                                                *   *   *

 

以下、台湾理解の一助として、特別対談「李登輝×魏徳聖 KANO精神は台湾の誇り」Voice 2015年2月号から適宜引用します。全文お読みになりたい方はネットをご覧ください。李登輝氏の著作は本屋なり図書館なりで手にすることもできます。

                                                                                       https://ironna.jp/article/1743

 

(李登輝台湾総統)

嘉農が甲子園の決勝に進んだ1931年、私はまだ9歳の子供でした。ただ、台湾から選抜されたチームが甲子園で強豪を次々と破っている、との報道を聞いて、「大人たちに交じって嬉しかった記憶が」あります。

 

(魏徳聖 KANOの映画監督)

当時のチームのエース、呉明捷選手は嘉農を卒業後、早稲田大学に進学し、六大学野球で活躍(通算7本の本塁打記録は、1957年に立教大学長島茂雄選手が8本の新記録を出すまで、20年間破られなかった)。~日本では呉氏がどんな人物だったかを知る人は少なかった。これは意外に思うと同時に、残念に思いました。

 

(李登輝)あなたがいいたいことはよくわかります。戦後の日本人は、台湾と日本の歴史について知らないことが多いですから。

 

(李登輝)司馬遼太郎さんは~二度も「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と問われ、答えに窮してしまった。そんな場面を司馬さんは『街道をゆく 台湾紀行』に書いています。

 

(李登輝)霧社事件の背景には、日本人の台湾原住民に対する民族的な優越感があり、それに原住民が反発したことがあるのは間違いない。

 

(魏徳聖)どうしてこんなにも多くの台湾人が日本を好きなのか、~文化的な考え方が似通っているからだと思います。それはやはり日本が台湾を50年間統治したことによる影響が大きいでしょう。~中国では雪と人間の関係が荒っぽい~日本人は自然とあわせることがとても上手なんですね。雪景色のなかでも、環境に溶け込んで人間らしい愛を発揮している。~ただ日本人は非常に細かい。あれも心配、これも心配。あまりにも小さなことを考えすぎです。

 

(李登輝)日本人はよくいえば、丁寧、悪くいえば,細かすぎる。~家庭内の話なら笑い話で済むかもしれませんが、政治の指導者がそうしたことでは困ります。

 

(李登輝)2014年9月、私が日本を訪問したのは、「これから日本は進路を自分で決める時代が来た」ということを伝えることが目的のひとつでした。安全保障の面に関して、これまで日本はアメリカに完全に委ねた状態だった。「憲法9条があるからこそ、日本は平和を維持している」といった意見も少なくない人々の間に根強くあるようです。しかし60年以上に渡って憲法が一字一句も改正されていないことのほうが、私にはむしろ異常に思えます。アメリカの弱体化、中国の台頭という現実から目を背け、安全保障や憲法の問題を放置したり、無関心でいることは、日本という国の安全を著しく脅かすものだと感じているのです。

 

(李登輝)日本統治時代の台湾では、日本語が強制されていましたから、台湾語は厠に隠れて勉強しました。まだ9歳か10歳だったと思います。そのころ祖父と「論語」の素読をやりました。「先進」篇に「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん(生を知らないで、どうして死を理解できようか)」という言葉があるのを知り、子供ながらにイヤな感じがしたことを覚えています。生を肯定しすぎることは、利己主義や享楽的な人生をめざすことにつながりかねない。他方、日本の武士道は「武士道とは死ぬことと見つけたり(『葉隠』)という有名な言葉が示すように、まず死を前提としたうえで、有意義な生を考える哲学があります。

 

(李登輝)私は日本に対してとても残念に思っていることがあります。東日本大震災のとき、われわれは交流協会台北事務所(正式な外交がない日本と台湾において、大使館の役割を果たす窓口となる)を通じて、すぐに救援隊の派遣を申し出ました。~ところが同隊の被災地派遣に対して日本はすぐに承諾しようとしなかった。日本政府の協力が得られなかったため、同隊は日本のNPOと連携して、自力で被災地に向かうしかありませんでした。なぜ、当時の日本政府は台湾からの民間救援隊の即時受け入れを躊躇したのか。日本の報道によれば、「台湾は中国の一部」とする中国共産党の意向を気にした、とされます。人道的な援助というものは、政治やイデオロギーによって判断するものではない。台湾人としてこれ以上の屈辱、悲しみはありません。

 

(魏徳聖)香港で開かれたある映画祭に招かれたときのことです。会場には中国人や香港人、台湾人、日本人など、大勢のアジア人がいた。日本の代表者が演壇に立ち、東日本大震災の支援に関する感謝を述べたのですが、台湾への言葉はありませんでした。私は聞いていて、とても腹が立ちました。東日本大震災のとき、台湾からの援助は巨額で世界一だったともいわれます。私はその日本人の代表者に抗議しようとする気持ちを抑えるのに必死でした。

 

(魏徳聖)今の日本は台湾から見れば大国です。なのに、なぜ日本は台湾を国として公平に扱ってくれないのか。日本はどこかの国の属国なんですか。どこかの国に管理でもされているんですか。繰り返しますが、われわれ台湾人と日本人は、同じ土地で、同じ時代を生きた経験がある。どうしてそれを日本人はわかろうとはしてくれないのか。私がいま述べたことは少し過激すぎたかもしれませんが。

 

                                                                 *   *   *

 

 

f:id:sakaesukemura:20200812121442j:plain

台湾嘉義市「棒球場」脇のKANO公園 181027

 

 

f:id:sakaesukemura:20200812121514j:plain

ハローウィーンの夜

お姫様のボディーガードは孫悟空です 181027

 

台湾の本屋には日本の漫画が一杯置かれています。もちろん「ドラゴンボール」もあります。高雄の地下鉄駅には、ちびまる子ちゃんだらけのホームもありました。日本アニメのキャラクターを描いた展示コーナーがあったので、写真を撮って某編集長に送ったら、う~ん悪かないけどまだまだかなというシビアな返信をもらいました。が漫画家志望の若い子は頑張っています。

 

現地を歩いて見ればすぐにも分かりますが、台湾人のちょっとした表情や仕種のなかに日本人に対する温かい気持ちを感じます。耳で聴く言葉は分からずとも、目で見る言葉は豊富なビット数をもって迫るので、歩くだけでいろいろなことを感じるものです。それらの多くが李登輝氏の遺産なのかなと思いました。

200812記 つづく