ひとり旅 200929  1984年のChina 2 広州 西安 蛇餐館

 

 

 

フェリーを降りて広州駅行きのバスに乗り込んだら切符売りのおばさんが身振り手振りで何かを伝えようとしていました。後でわかったことですが、このバスは遠回りするからお前はあっちのバスに乗れと言っていたようです。1時間ほど揺られたバス代を日本円に換算すると1毛=10円くらいでした。

 

 

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広州?西安? 1984

 

当時の北京は地下鉄の建設が始まったばかりで、行って戻るだけの直線コース1区間が公開されていたから用もないのに乗ってみました。ここも10円ほどだったように記憶しています。バックパッカーが集まるドミトリーは400~600円/泊ほど、それでもちゃんと水洗トイレがあって、ぶら下がった紐を力強く引っ張ると轟音とともに水が落ちたから大したものです。

 

そこがホテルであっても四囲が仕切られたトイレはまずなくて、前の戸がなかったり、足元に隣のヤツの脛毛が見えたりしましたが、そのくらいのことはすぐ慣れます。しかし西安空港の便所小屋に入ったとき1ボックスに仲よくしゃがんだ2人の男の4つの目がこちらを見上げたときには焦りました。見通しのよい小屋に細い水路が一本引かれ、その上に野郎どもが跨がって世間話をしていることもありました。「地球の歩き方」を見るとChinaを旅する賢い女性は大きめの風呂敷を持ち歩いたそうです。ことトイレに関するかぎり日本人は繊細すぎるとも言えますが、その繊細さが音姫やウォッシュレットを考案し、来日観光客に喜ばれているわけでもあります。

 

 

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西安周辺? 1984

 

中華料理を一人で食べるのは難しいのでホテルのロビーで日本人とおぼしき旅行者を探し、ときに声を掛けられたりして3~4人でテーブルを囲みました。Chinaの庶民には高嶺の花であった青島ビールで乾杯した勘定が300円/人くらい、もちろん道端の屋台で済ませれば何十円かで足ります。列車にも飛行機にも乗りましたが、料金を覚えていないのは安かったからでしょう。万事そのような調子なので、貧乏旅行者にはありがたいのですが、この落差を素直に喜んでよいのだろうかと複雑な気持ちでした。

 

「空を飛ぶものはヒコーキ以外、足の四つあるものは机以外」なんでも食っちまうのがChineseです。広州で出会った若い日本女性がぼくの名を呼び「ヘビ食べに行きません?」と誘ってくれました。ヘビといえば芥川龍之介の「羅生門」に魚の干物と偽って蛇を売る鬼のような婆が登場します。日本ではマムシを焼酎に漬けることはあっても青大将を蒲焼にすることはないので一瞬ひるみましたが、断るわけにもいかず、やや重い足どりで夕暮れの道を歩きながら、原型が見えない料理であればよいが、ヘビの活け造りとかが出されて顔がこっち向いてたらイヤやな、スッポンで試したことはあるけどヘビの生き血をブレンドした赤ワインとかが置かれたらどうしようと妄想を広げているうちにヘビ料理の専門店、蛇餐館の看板が見えました。幸か不幸かたまたまその日はお休みで事なきをえましたが、ちょっと心残りではありました。

 

 

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西安周辺? 1984

 

言葉がわからない自分は新しい街に着いたら必ず市場へ寄ることにしています。肉、魚、野菜、衣料品や生活用具の類を眺めていると土地の人がどのような暮らしをしているか大体想像が付きます。さすがにここは広州だから肉類の売り場はえらい騒ぎやろなと思いながら市場に向かっていると、住宅街の通路に椅子を持ち出した婆さんが、檻の中のアルマジロに餌をやっていました。どう見てもその目はペットに餌を与える目ではなかったので、これは凄いことになりそうだと直感しました。

 

市場へ入ると針金を組んだ丸い籠に入れられた無数のヘビが、土用丑の日に盥の中で捌かれるのを待つウナギのようにうごめいていました。その脇には狭いケージに入れられた猫が怯えた顔で行きつ戻りつし、猫の上には今しも皮を剥がれ、真ッ二つに割られた裸の猫がぶら下がっているのでした。命あるものの命をいただくのがこの世の定めと知ってはいますが、子どもの頃からずっと一緒に暮らしてきた猫の末路がそのようであることに無常を感じないわけにはまいりません。南無、、

 

 

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西安?北京? 1984

 

この2人が何をしていたのかよく覚えていませんが

なんでもかんでも人の手で行う牧歌的な時代ではありました

 

一昨年来タイ、ラオスベトナム、台湾の市場を繁々と観察しましたが、蛇、猫、アルマジロの類は見たことがないので、これら過激な食材はChina市場の特色だと言ってよいでしょう。自分の目で目撃したわけではありませんが、若い女性が新聞紙を丸めたとんがり帽子を逆さにし、天津甘栗のようにこんがり焼き上げたゴキブリを入れて歩くのも広東名物らしいので「空を飛ばず足が四つ」もない蛇を食すことなど取り立てて驚くほどのことではないのかもしれません。

 

ふと思いついて今ネットで広州・蛇餐館を検索したところ、あるわあるわ蛇料理のオンパレードです。Chinaのヒトはなぜゲテモノを食べるのか? それは薬だからだという説があります。すべての植物が薬効を持つように、すべての生物は医食同源の薬であり食材でもあります。たまに毒性を秘めたものもありますが、それを選り分け、長い年月を経て漢方薬が生まれたのではありましょう。専門店には樹皮、木の実、黒ずんだ蜥蜴、干からびた虫などが一面に置かれて混沌たる状況です。値を訊くとびっくりするような数字が返ってくるのは、そこに売り手と買い手が共通の価値を認めたからにほかなりません。

 

 

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北京? 1984

 

COVID-19、新型コロナ、武漢肺炎、中国ウィルス等さまざまな名で呼ばれ、9月29日現在世界の死者100万人を超えるコロナ禍を発生させたのは、武漢の海鮮市場だというのがChina当局の主張です。それが真実であるかどうかはさておき(フツーに考えて近場のウィルス研究所が怪しいわけですが)、広州の市場を見た自分には、コロナと関連付けられたコウモリやセイザンコウが市場に並び、客に選ばれ、持ち帰られる風景が何となく想像できます。が、その程度のことを不気味がっていてはChinaの歴史に参入することはできないでしょう。

 

ぼくの本棚には篠田統著「中国食物史」凸版印刷株式会社が挟まっています。京都大学動物学科卒の著者による全387頁の大変な労作ですが、随所に散見される奇怪な食の話を引用するのは恐ろしいので控えます。むかし昔ぼくが東京の予備校で習った漢文の先生は、中国に12年も留学した方でした。予備校の教室なんて通常は潮が引くように学生は消えてしまうものですが、この先生の教室は日が経つにつれ受講生が増え、どう見ても授業料を払ってないヤツらまで椅子を持ち込み、詰め込めば200人も入ろうかという教室に熱気をつくっていました。扇子の代わりにチョークを握り、落語か講談のノリで展開される授業は、なんせ経験と教養が詰まっているのでお笑いを超えたものでした。受験の要点を押さえつつ終了間際に拍手をもらえる講義はとても珍しいと言えるでしょう。その講義の所々に置かれた古代Chinaの怪しい食の話題は当時、話を盛って受験生をリラックスさせるためだろうと思っていましたが、上記「中国食物史」を紐解き、どうやら嘘ではないようだと考えるに至りました。

 

 

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北京? 1984

 

乗客の穏やかな表情から見て

八達嶺への長城ツァーだったかも

通常の路線バスだと席の争奪戦になるので

昇降口は大混乱になります

 

再び、Chinaのヒトはなぜゲテモノを食べるのか? と問うとき、中緯度温帯モンスーン地帯にあって海という天然の要塞に囲まれた海幸山幸の仕合わせのクニ、日本の常識では説明できない歴史があるからではないかと思うわけです。「天高く馬肥ゆる秋」は、秋の好時節をいう語ですが、大陸にあっては馬肥ゆ→収穫の秋→北方の匈奴が馬に乗って襲いに来るという意味でもあります。Chinaの歴史は、たとえば元はモンゴル、明は漢民族、清は満州族と異民族にやられて王朝そのものが交代した歴史でもあります。

 

戦争があると日本では多くの「人」が死にますが、大陸では「人口」が減ります。争いによって耕す土地を奪われ、疫病が蔓延し、飢餓が浸透すればヒトは本能的に食糧確保に目を向けます。すべての生き物は食べ物でもありますから、追い詰められたヒトは命をつなぐためにあらゆるものを食したことでしょう。その経験の集積が薬とされ、あるいは珍味とされて今に至ったのではないか、という取り立てて傍証のない説を自分は持っています。

 

高知県四万十市下田の「いやしの里」には中医研究所が併設されており、見学させてもらう機会がありました。壁一杯に仕切られた格子状の棚にずらりとガラス瓶が置かれ、それぞれに色褪せた漢方薬が入れられラベルが貼られていました。その漢方薬を個々の患者に処方するとき薬と患者の順列組み合わせはほぼ無限になります。目の前いっぱいに広がる薬瓶を眺め、その薬効を確認するために行われた膨大な作業を想像すると頭がくらくらする思いでした。

 

 

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行商人を見下ろす公安? 1984

 

漢方と同じく無数にある人体のツボもまた長い歴史を持ちます。松尾芭蕉は「奥の細道」に旅立つ前「足の三里」に灸を据えました。なぜ膝下の窪みが「胃もたれ、座骨神経痛、貧血」に関係するかは謎ですが、経験と分析の結果、灸と病の関係点が見つかったわけです。薬と同じく人体のツボにも悠久の歴史が流れています。

 

忘れもしない30代の後半、寝て起きて仕事をする繰り返しが長く続いたからか首筋が痛く、どちらかといえば西洋医学に疑念を持つ自分が、いよいよ明日は病院に行こう、薬も貰おうと覚悟を決めた日に、このひとり旅の途次上海で知り合った方が訪ねてきてくれました。当時のChinaで中医の研究をされたと聞きます。

 

ときに首筋を押さえつつ車で四万十市のトンボ公園をご案内し、自然な農地に自然に発生する生物がざわめく里を歩いているうちに氏は私を停め、後ろから羽交い締めにしました。何すんだと思っていたら気合のこもった瞬間の力が首筋にかかり背骨が整列するような音がしました。

 

四角四面のコンクリートの一室ではなく、ゆるやかな山の稜線を渡り、農地をたどって風が吹くトンボ公園で、土の道を踏みながら談笑していると身も心もゆるみます。氏はその頃合いを見切ったに違いありません。奇蹟を伝導する趣味など毛頭ありませんが、頸の痛みはきれいに消えました。

200929記 つづく