ひとり旅 201010 1984年のChina 4 文化大革命

 

 

 

大陸で文化大革命が進行していた1970年代に大学で中国の政治を専門とする教授の講義を受けました。ぽっと出の学生が異国で進行中の事態を理解できたわけはありませんが、かすかに覚えている講義のキーワードは「富農」と「貧農」でした。新体制が生まれた当初は平穏が続くが、やがて時が経つと富農はますます富み、貧農はますます貧しくなる。そのバランスが限界を超えたとき革命が起こる。大陸の歴史はその繰り返しだというのが講義の骨でした。

 

 

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西安周辺? 1984

 

そこから生まれた殺し文句が文化大革命における「プロレタリアート独裁」ではなかったか。フツーに考えてプロレタリアートという「大衆」が「独裁」するのは複数と単数を混同した矛盾であり、ことば本来の意味でいえばプロレタリアートに支持された一党独裁ひいては個人が権力維持のために独裁すると捉えるべきです。その際、大衆の幸福は関係がありません。「政治は言葉だ」という名言を吐いたのはサッチャー女史ですが、政治の言葉は黒を白と言い換える呪力に満ちています。プロレタリアートが独裁すると言ってしまえばロジックは消えますが、政治の言葉はそれでも有効なのですね。

 

当時の新宿駅には、いかにも活動家然とした若者がいて、そのスジの用語で頭のメモリを一杯にしたねえちゃんが、語尾をはね上げ、酔ったように語りかけて来たものです。「体制内的人間はァ間接的戦争加担者でありィ」という決まり文句の後にイミフな言辞がつづき、まじめに耳を傾けても理屈がつながらないので呪文のように聞こえましたが、その言説を否定しようものなら直ちに囲まれそうな雰囲気でした。

 

大学の教室のドアに丸い穴が空いているから、気安い女先生に「あれは何のためですか?」と尋ねたら「中で静かに講義が行われているか、教授が吊るし上げにされていないかを外から確認するためのものです」と教えてくれました。他者を否定するのは確固たる理念を持って初めて可能な行為ですが、受験勉強を終えたばかりの若者に、そのような知の蓄積があろうとは思われません。にもかかわらず師弟・長幼の序を無視し、教授をドヤし付ける学生とは何か、それは具体的にいかなる行為であったか、幸いにも自分は学生運動がピークを過ぎた次の世代なので、この目で現場を目撃したことはありませんが、後年、吊るし上げの犠牲になった教授が思い出したくない過去を唾棄するがごとく短く呟いた横顔ははっきり記憶しています。「メガホン持って耳元で喋るんだよ。おかげで今でも難聴の気があるんだ」と、議論のできない若者に思い込みと暴力で囲まれた無念は消えないでしょう。

 

いかれた若者を背後で誘導した存在は実のところ何であったのか? それは革命理論という厳密なロジックであったのか? そもそも革命に筋の通った理論があるのか? むしろそれは生物集団の縄張り争いに似た行為ではなかったか? と疑問符つきで以下すこしばかり、わが青春(と呼ぶには余りに粗末な若年期)を振り返ります。見たことのない過去ではなく、自分と同時代の出来事はリアルな視点で辿れる歴史だからです。

 

1970年に共産主義同盟赤軍派が「よど号ハイジャック事件」を起こしました。田舎の高校生だった自分はラジオを聞きながら何か大変なことが起こっているようだと漠然と考えたことでした。

 

1971年に埼玉県浦和市で新聞配達をしていたころ「成田闘争」第二次執行において警察官3名が死亡しました。近所のたばこ屋で顔見知りの若い警官と雑談していたら「じつはその事件は自分が交代した直後の出来事だった」と聞かされ、返答に詰まったことを覚えています。

 

1972年に「テルアビブ空港乱射事件」が起きました。「死んでダビデの星になる」という意味不明な文句を吐いた岡本公三は、よど号ハイジャック事件の岡本武の弟でした。後年、北朝鮮を本籍とする関西の大学教授と会う機会があり、じつは岡本武(よど号妻)の娘が高知県の山間部で祖母に育てられている。「会ってやってくれんか」と頼まれました。オレみたいな者が会ってどうすんだと思う反面、数奇な運命にある人と出会えたら凄い話が聞けそうだと惹かれるものはありましたが、野次馬根性で面会する相手ではないし、そのままにして長い年月が経ちました。

 

同1972年には新左翼組織、連合赤軍のメンバー5人が人質の女性と浅間山荘に10日間に渡って立てこもった「連合赤軍あさま山荘事件」も起きました。かつてないほど高視聴率を稼いだ国民注視の事件で、新聞配達の合間にたばこ屋でテレビを見たり配達所の新聞を読んだりしましたが、記事には個々の事象は置かれても背後説明がなく、なぜ若者が人質を取り、命を張って銃撃戦を展開しているのか、出来事の核心がつかめませんでした。以来、報道とは細部を語って全体を見えなくさせるものというヒネた考えに囚われて今に至ります。一方、急激に発達したネット情報には、現象の背景を歯に衣着せず解説してしまう凄さと恐ろしさがあります。以下はwikiで見つけた「あさま山荘事件」の核心部です。

 

 

毛沢東廟の参拝者 北京 1984

 

「山荘内のテレビでアメリカ合衆国ニクソン大統領の中国訪問のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている[28]

私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。……ここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた」wiki

 

そうか、インドシナの争いが中国に伝わり世界に広がれば多くの人が死ぬ、との思いが彼らを突き動かしたのだ。多く殺さないために少なく殺すことは許される。見たことのない他者を救うため仲間を殺すことも正当化される。平和のためには実の親に銃口を向けることさえ厭わないという不思議なロジックが作られたのでした。

 

素朴な正義感に支えられた若者は、不完全な論理でつくりあげた舞台に身を置いた。ところが銃撃戦を展開しているうちにニクソン米大統領は中国を電撃訪問し毛沢東主席の手を握った。米軍は中国軍と争わないことが分かった。そこで彼らは論理破綻し、闘うことの意味を見失ったというわけです。当時未成年の加藤倫教は刑期を終え今は静かに暮らしているようですが、心の中の廃墟をさまよいながら生きているにちがいありません。たまたま私と同年齢なので思うこと大です。

 

あさま山荘事件のメンバーのひとり板東国男は、1975年のクアラルンプール事件によって釈放されています。日本赤軍が在マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館を占拠し50名の人質を盾に収監中の仲間の解放を要求したテロ事件に対し「三木内閣はテロリストの要求に屈したため日本赤軍はさらに同様な事件を起こしたwiki」という曰く付きの解放騒ぎでした。武(ぶ)を失った戦後日本の問題先送り外交は今も続きます。

 

それにしても、です。事の正当性はさておき日本の若者は、知らない国の可哀相な人々のために命を張ったとは言ってよいでしょう。元はといえば世のため人のためという素朴な正義感に発し、結果として組織がアプリオリに持つ悪意に取り込まれ、仲間殺し、警察殺し、無関係の人殺しに至りました。世界同時革命などという幻想をどこまで信じていたかは知りませんが、冷たく見れば世界のテロリスト集団の鉄砲玉として使われたわけです。板東国男の父親は「あさま山荘事件」が終結した日に首を吊って世に詫びました。母親はクアラルンプール事件において「息子の出国を阻止することを検事に強く懇願した」そうです。テルアビブ空港乱射事件で29人を殺した岡本公三の父はイスラエル大使に対し「極刑に処してほしい」との詫び状を書きました。三者とも日本人がもつ普通の責任感覚でありましょう。

 

ひとりの日本人としてそこまでは分かる気がしますが、さて彼我の立場が逆だったとすればどうなのか。極東の島国の可哀相な人々のために人生を賭け、命を捨てて闘ってくれる外国人はいるのだろうか、いないのではないかという疑念が拭い切れません。彼らの行為は日本という文化文明が生んだ特殊な感覚から生まれたものではないかと考えながら36年前の写真を眺めています。

 

 

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36年前の天安門広場 1984

 

文革期のChinaでは充分な人格形成を経ぬ若者が「造反有理」「革命無罪」と教えられ、密告し、批判し、ときに自己批判が不十分な者に対し過酷な仕打ちを行ったと聞きます。フツーの国語力をもって読めば、造反が有理とは言えず、革命と無罪は必ずしもつながりません。あの難しい大学入試の国語を突破した学生なら、強い酒をくらっていないかぎり、そこで考え込むはずですが、「東京大学の正門には毛沢東の肖像とともにこの標語が掲げられていた時期もあった。wiki」そうだから当時は社会全体がいかれていたのでしょう。

 

学生運動の残り火がくすぶる70年代に大学へ授業を受けに行くと、入り口が机と椅子で塞がり、バリケードがつくられていることがありました。そこに張られたスローガンには簡体字が使われ、歴史の歴が雁垂れのレキであったのを見て、へえ~こんなレキもアリか、簡単でいいワと自分も真似したことがあるから人間というものは易きに流れる存在です。

 

林の下に夕と書けば中国漢字で「夢」の意です。BSフジの政治討論に出演した京都大学の有名教授がまとめの段で林の下に夕と書いた手板を出したとき、おっとこのおっさん何考えとんのやと一瞬ぼくの頭を多くの記憶が流れました。

 

かつて誰もいない大教室で長い話をして別れた女性はたしか京都大学の出身でした。いずれはコスモポリタンとして世界を歩きたいとつぶやいた彼女は、半年後に無宗教の葬儀で送られましたが、宗教を否定し、国家を否定して世界を渡り歩くことが、物理的にはできても、精神的にできるものかどうか、少なくとも自分にはわかりません。地球市民を標榜する知り合いもいますが、地球と市民がどうつながるのか、これも自分には理解できません。

 

 

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映画「ラストエンペラー」の舞台 故宮 1984

 

地球市民とは「人種、国籍、思想、歴史、文化、宗教などの違いをのりこえ、誰もがその背景によらず、人として尊重される社会wiki」だそうですが、そんな社会が本当に実現するものかどうか? そもそも理論的に成り立つものかどうか? 自分はコスモポリタンだと思い込むのは勝手ですが、相手から見れば我々は日本国に住む日本人であり、肌の黄色い人種であり、幼少期からインプットされた歴史、文化、宗教ときとして思想に染められ、色分けされたグループに過ぎません。

 

そこを突破するため若い頃から留学し外国語を身につけることはよいことですが、余りにも外国語が堪能になり、副作用で日本語がお粗末になったら何をしているのか分からなくなります。世の中にはバイリンガルと呼ばれる人が居るにはいますが、言葉の襞にまで分け入って外国語を体得するには幼いころからその国の文化や歴史に触れる必要があり、縦横無尽に2カ国語をこなすためには人生が2度要ることになります。

 

しかも世界で多く使われる言語は20も30もあり、細かく分類すれば7000もの言語があるそうだから、そこをクリアするには銀河系600万語を操れるスターウォーズC-3PO君を呼んで来る他ないでしょう。しかしC-3POも所詮は言語的な交換装置にすぎないようなので、言葉の微かな温度差まで感じ取れるかどうか。要するに言語面だけみてもコスモポリタンは不可能であり、ヒトは生まれた国の歴史、文化、宗教ときとして思想に支配され、だらだらと生きる他ないんじゃないのってぼくは思いますね。

201010記 つづく

 

 

 

高知の今

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高知県須崎市新荘川のアユ掛けおじさん 201002

 

新荘川はカワウソが最後に目撃された川でもあります。そのむかし 大ちゃんこと橋本大二郎高知県知事をやっていたころ、かわうそフォーラムが開かれ、手を挙げたおばあさんが「娘のころ私は新荘川でカワウソと一緒に泳ぎました」と発言して会場が沸きました。ゆるキャラ日本一の「しんじょう君」には、道の駅「かわうその里すさき」に行けばいつでも会えます。

 

当時、朝日新聞がカワウソの写真に100万円の懸賞金を付けたという噂が流れ、それならオレもという写真好きの知り合いが、望遠レンズに追加するテレコンバータを買ったぜと自慢していました。そこへ朝日新聞高知支局の若い記者が「高知城でカワウソの糞が発見された」という速報を流したので皆アッと言いました。ところが専門家が糞の分析をしたところそれはカワウソではなくハクビシンの糞でした。ハクビシンならウチの庭の塀を伝っているところを飼い猫のハナちゃんに追いかけられたりしているので珍しくも何ともありません。後日当の記者に出会ったので「ところでカワウソは?」と尋ねたら嫌な顔をしてあっちへ行きました。フンだりケったりの記者さんは今エジプト支局にいるみたいです。バブルがなだらかに下りかけた仕合わせな時代のおハナシでした。

 

獺の祭みて来よ瀬田の奥 (芭蕉

 

話はもうちょっとあって、2012年に環境庁が絶滅宣言を出したニホンカワウソが本当に棲息しているのであれば100万円どころの騒ぎではありません。2016年に高知県大月町の海岸で撮られたカワウソの証拠写真が2020年の今年になって示されました。事件と言ってよいほどの出来事ですが、ニュースに付加された読者の書き込み欄には、騒ぐとカワウソはますます追い詰められるから「そっとしておけ」という良識派の声が多く寄せられていました。抜いてなんぼの記者の気持ちも分からないではありませんが、書き込み諸子の方がよほど正気じゃないかと思うことが近頃よくあります。いらんことですが、、

 

獺の住む池埋もれて柳かな (蕪村)