ちょっと道草 201103 ウルトラマラソン周辺4 四万十川から球磨川へ

 

 

 

戦後復興が始まった1950年代は「ダムの時代」と呼べるかも知れません。インフラ整備の基幹は電力確保にあり、電力は水力が主役の時代でした。全国の川という川に無数のダム計画が持ち上がり、四万十川流域には既存のダムを含めて13のダムが予定されました。行政としては一定の割合で反対運動につぶされることも想定したはず、反対、撤退を含めてのダム計画ではあったのでしょう。電気がなければ暮らしは成り立ちませんが、他人の暮らしを豊かにするために「はいどうぞ」と家も土地も提供できるかといえば、冗談ではありません。

 

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釧路湿原160926

 

むかし静岡県浜松市からダムを数えながらバイクで天竜川を遡ったことがあります。またあった、ここにもあったと指を折りながら源流の長野県諏訪湖にたどり着いたころには数が分からなくなりました。ネットで調べると2016年現在天竜川には本流に8基、支流を含めると22基ものダムがあります。細切れにされた水が農業、工業、生活用水にまわされ、落差で電気をつくるうちに川は痩せます。その意味で無傷とはいえないにせよ川の原形を保ち、カヌー好きが真っ先に指摘するところの釧路川四万十川は、今となっては特別な存在のようです。

 

美しくも悲しく「最後の清流」と呼ばれる四万十川を元高知県知事の橋本大二郎さんは、川を愛する人たちが集う講演会で「最後の清流か清流の最後か」と駄洒落を飛ばしましたが、笑えぬ冗談でした。支流の梼原川に本格的な津賀ダムがどんと座り、本流には分類上ダムではなく堰であるところの家地川ダムが水を湛えています。

 

ダムがなければ川は自然なままであるかといえば、ことはそれほど単純ではありません。山があり豊かな森が残っての清流ですから植林率実質日本一の高知の山は河川環境として十全とはいえません。四万十川の名に惹かれてやって来た県外客が、周辺の山々がどこまでもスギ・ヒノキの畑であることに気づいてさっさと帰ってしまったという話もあります。今となっては贅沢な願望かもしれませんが、保水力の弱い針葉樹の単層林ではなく、しっかり根を下ろした樹木が土をつかみ、水をたくわえていれば、大雨の日も日照りの日も川の水量が大きく変わることはなく、嵐の日に斜面の崩落を招くこともありません。山は「樹あるを以て貴しとなす」わけで、厚い年輪をもつ樹木で賑わう森が理想の森であり、天然のダムです。

 

そうは言っても平地に産業がなければ、人は山に入らざるをえません。かつては鬱蒼たる原生林であった森で炭を焼き、巨樹は筏で流し、河口の下田から全国へ運びました。(森の樹木+ヒトの暮らし)÷2=二次林がつくる里山になります。ヒトと自然の関係に現実的な折り合いを求めて生まれたのが「トトロの森」の雑木林なのでしょう。ヒトの匂いがのこる農山村を散策するのはよいもので、ぼくなど都市のきらびやかな人工物にはすっかり関心が失せ、棚田や段々畑を渡る風に「おもひでぽろぽろ」になったりします。

 

 

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熊本県瀬戸石ダム 180723

 

熊本県人吉市から球磨川を下ると瀬戸石ダムが見えます。ダムは高い所につくり、低いところへ水を導いて発電するものと思い込んでいましたが、ここではダムサイトに発電所が置かれ、わずか17mの落差で水車を回し、最大20,000Kw(通常3,000Kw)も発電するのだそうです。

 

 

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ダムサイトの壁に描かれた発電図 180723

 

それが何であれ動きさえあれば電気はつくれますが、このような発電方式があることを初めて知りました。1958年の竣工というから戦後復興におけるインフラ整備の一環なのでしょう。何がなんでも電気が欲しいという時代の執念が伝わってきます。

 

 

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撤去後の荒瀬ダム180723

 

瀬戸石ダムから少し下ったところに荒瀬ダム跡があります。何も知らずに道を走ればきれいな川にコンクリートの出っ張りが残ってら、くらいに思って通り過ぎるところですが、実はこのダム跡が見たくて来たのだから車を停めて歩きました。

 

 

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案内板の一部180723

ダム撤去の経緯は下記サイトが詳しい

 

https://www.youtube.com/watch?v=5WbN2U6qgaA

荒瀬ダム門柱爆破 3分ほど

 

https://www.youtube.com/watch?v=dFBCSGsJg1E&t=41s

荒瀬ダムの撤去 15分版 ⇦おすすめです

 

https://www.youtube.com/watch?v=MDjsu2wFQjY

荒瀬ダムの撤去 30分版

 

 

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四万十川源流 201002

 

まだ使えるダムをなぜ壊したのか?「清流を取り戻すためだ」と言ってしまえばそれまでですが、では「清流さえあればヒトは幸福に暮らせるのか?」と問い返された時どう応えるかは難しい問題です。

 

四万十川がなぜ清流を保てたのか?「田舎だから僻地だから」という言葉あそびもありますが、本当のところは暮らしの根幹たる土地を奪われたのでは生きていけないと地元住民が切迫した危機を覚えたからでしょう。高知県では1950年代からダム設置推進・反対運動が繰り返され、家族の暮らしがかかる地元民のみならず地域の存亡を賭けた首長連合が反対運動を展開しました。

 

「十和村の人々は1932年と1937年の満州開拓で悲劇を体験し、それ以来国に対する不信感が強い*」とのこと、当時の反対運動は死地を潜った者がもつ迫力があったようです。

田淵直樹「家地川ダム撤去運動への視点*」水資源・環境研究vol22 (2009)

 

 

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四万十川源流 湖底に沈むはずだった大野見久万秋周辺 201002

 

昭和36年(1961年)、知事の認可により再び測量が強行された。ダム反対期成同盟は故郷と清流守るため、実力で建設に反対することを宣言、体制の強化を図った。各部落から集まった人々は腰にノコギリ、手に鎌を持ち、目をギラギラさせていた。建設省の測点に火の手があがり、打たれた杭はいつの間にか煙となり、引かれる巻き尺もみるみるうちに寸断された。このかつて太平洋戦争の戦場で生き残った者のゲリラ戦を見て、村人達も笑いをこらえられなかったという*」

桑名隆一郎「永遠なる四万十川*」リヨン社p83

 

今の若い人は知らないでしょうが、日経平均株価が38,957円を記録した1989年をバブル経済の頂点とすれば、1990年代は「失われた10年」に向かいながらも経済は好調であり「1億総中流」という言葉がまんざら嘘でもなかった時代です。1991年のソ連崩壊によって世界の軍事情勢は安定し、Chinaは改革開放路線が緒についたばかりで大人しく、韓半島南は民主化路線に乗って目を輝かし、朝鮮半島北はひっそりと「この世の楽園」を謳歌していました。

 

社会が安定し、暮らしの不安が解消されるとヒトは豊かな文化を追い始めます。その最たるテーマが環境保護運動ではなかったでしょうか。野の草木に愛を送り、山も川も美しくあれかしと願う自然保護論者の心は文化的に高い位置にあります。そこを否定し経済一元論で突き進んだ日にはヒトは何のために生きているのか分からなくなるでしょう。闘争に破れ、あるいは誘致運動に成功し、田んぼも畑も、世代を通じて培った人間関係も、先祖の墓も何もかも失った。見たこともないカネを手にしたが、さてこれからどうやって生きて行こうと途方に暮れた人々も多かったのではないでしょうか。

 

荒っぽく言ってしまえば、食うや食わずの時代には、アユやウナギの心配をするより我が身の命をつなぐことで精一杯だから、川の水が塞き止められようが、曲げられようが、それが明日の飯と直結した問題でないかぎり誰も関心を持たないでしょう。ざっくり言ってそれが人間というものであり、世界の趨勢であり、開発途上国と呼ばれる国の現実なわけです。

 

江戸期の平穏は260年も続きましたが、石油エネルギーが解放され、Windows95が通信概念をガラリと変えたあたりで人類史は急速に回転を増し、2020年の今は、かつての100年が10年に圧縮されたかのようです。日本海東シナ海を挟んだ近隣諸国の変貌ぶりを見るにつけ、日本列島という特殊な風土が生んだ柔らかい文化は急速に失われ、荒々しい文明に取り込まれて消えるのではないかとさえ思われます。11月3日のアメリカ大統領選は日本の歴史にとっても大きな岐路になるでしょう。

 

 

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あえて残した荒瀬ダム東岸 180723

 

ざっくりそのような文脈で四万十川の水問題を捉え、その目で日本初のダム撤去をやってしまった荒瀬ダムを見に来ました。20世紀末は文化と文明が対決した時代であったと捉えることもありかと思います。通常、荒々しい文明とやわらかい文化が対立したとき、文明が文化を捩じ伏せることになりますが、バブルの1990年代は札びらが飛び交う狂乱の時代ではあったものの、社会も経済も安定し、人々が希望をもって未来を見つめた文化の時代であったともいえます。清流を取り戻すためにダムを撤去せよ論と、ふざけんなまだ使えるのに勿体ない残せ論を文化と文明の対立の構図で説くことも可能かと思います。

 

今朝こんな夢を見て目が覚めました。

外国人科学者が講演を終えたあと慰労の酒席に2人の日本人と自分がいました。賑やかな談笑にひと区切りつき場が静まったところで質問しました。「科学と技術を極限まで追求することは人間の夢ではありますが、近代科学は個別のテーマを深く掘り下げる他なく、そのことよって見失ったものは多い。たとえば原発の専門家なんていません。巨大技術は微細な専門領域の集積であり、みんなが細部を追求した結果、水力の何十倍、何百倍もの出力をもつ発電機をつくりあげましたが、機械があまりにも大き過ぎて全体が見えなくなりました。その後スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと各国交代で爆弾回しが行われ、次はどの国で事故が起こるのか誰も知りません。

 

自分は小さなダムというか堰堤を見るのが趣味です。高知には野中兼山という江戸期の土木家がいて川にゆるやかな曲線をもつ堰を残してくれました。堰とは川に石を置いただけと冷たく言ってのけるムキもありますが、むかしの技術が退屈かといえばそうでもなく、人に教えられてよくよく目を凝らせば、複雑で美しい技術が各所に使われています。それで利水の目的は充分に果たし、かつ川の自然を痛めることは全くありません。堰は電気をつくりませんが、電気がなくてもヒトは生きられたわけだし、江戸期260年は21世紀のわれわれが想像もできないほど豊かな文化をつくり上げても来ました。たんなる懐古趣味ではなく、そこには現代土木が失った豊かなテクノロジーが残されているように思うのですが、、」

 

というようなことを語ったら3人は、否定はしなかったものの場の空気がシンとしたところで目が覚めました。夏目漱石の顰みに倣って「夢十夜」ならぬ夢の朝でした。

201103記 つづく

 

 

 

高知の今

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山雀 201031

 

毎朝やってくるヤマガラのご夫婦には、それぞれ個性があって、こいつはやたら人懐っこく軒先に吊るした小籠にヒマワリの種がないと新聞紙を揺らしたり、手に持ったiPhoneにとまったりして請求します。

 

 

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201031

 

その相方は臆病で、近づいたところで一声鳴いては方向転換します。むかし祭りの金魚すくいで取ってきた(餌キンと可哀相な名で呼ばれる)金魚にもヒトの気配を察して寄ってくるのがいれば、いつまで経っても懐かないのがいました。姿かたちは同じでも生きものにはみな個性があるようです。