ひとり旅 201219  China 9  赤いドラゴンからイザベラ・バード女史へ

 

 

 

 

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馬龍選手の赤いドラゴン *ネットより

ランキングは上げ下げするので

実力1位が本当です

 

土佐の高知は坂本龍馬⇒卓球の世界トップは馬龍選手です。China選手の赤いユニフォームには龍がデザインされ、ハン振東選手、許キン選手らと数々の名試合を作ってきました。しかし龍の図がいちばん似合うのは抜群の体幹を持つ馬龍選手ですねとファンのバイアスをかけて。ほとんど重さを持たないピン球を、体をしならせ、信じられない球速で切り返す肉体の動きは卓球と体操を同時に見せてくれます。スポーツの勝ち負けは公正なルールの結果だから、恨みや妬みといったいやらしい感情は残らず、負けた悔しさが次の努力につながります。

 

顔立ちのよいオトコは探せばいますが、試合後の馬龍選手の横顔に漂う品のよい明るさは愛されて育った者にのみ与えられる特権かもしれません。人の笑顔は相手がつくります。相手が怖い顔をしていたらこっちも人相が悪くなります。とりわけ人格形成期に見てはならぬものを見てしまった人間は、本人の責任ではないにせよ、ふとした拍子に頬や瞳に陰があらわれるものです。この世でいちばん悲しい瞬間の表情です。

 

当然のことながらヒトの顔は仕事に左右されます。陰謀渦巻く政界の住人は表情筋が固定され、欲と不満が顔に邪気を漂わすと言えば失礼ですが、あながち否定できないでしょう。胡錦濤国家主席温家宝首相の二人には育ちの良さがつくる余裕と教養を感じたものですが、世界を相手に暴れ始めた習政権には、ちかごろ人相の悪いスポークスマンが加わり、おっと北朝鮮かよと思ってしまう語彙をだいぶ教えられました。

 

2008年、四川省地震の際日本のレスキュー隊は必死の努力をしました。当時の日本人一般は中国に畏敬と負目のアンビバレントな感情を抱いており、わかりやすくいえばみな中国が大好きでした。自分もまた遠い他国の地震ニュースに触れるたび心の中で応援していたものです。ところが2010年に尖閣諸島で中国漁船による衝突事件があったころから様子が変わり、東日本が津波に襲われた翌2012年、China全土で反日運動が盛り上がり、これは普通じゃないぞと自分もまた考え方を変えました。机上に地図と年表を貼り、手当たり次第といっても限られた時間で読める書の量なんて知れたものですが、それなりの努力をしたことです。

 

結果として見えたものは、日本の国土は地理地形地質的に特異な位置にあり、そこに発生した列島文化は大陸文化とは違うことでした。えらい人の学説をもって権威付けする趣味はありませんが、世界を7つの文明に区分けしたハンチントン教授は、China一帯を儒教圏とくくり、日本は「一国家一文明」として独立枠を設けています。学校の先生は大陸半島列島の三者儒教文化として一緒くたに教えてくれましたが、ちょっと踏み込めば三者の中身はまるで異なります。大陸および半島の儒教は序列の哲学、日本の儒教は人を水平に並べた道徳だと思うに至りました。

 

 

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日本大使館が雑居するビル前で少女像を囲む集会 190821

 

儒教を道徳と捉えた日本の「お坊ちゃん」は、自分が善意で考えるから他人も善意で応えるはずだとする単純でお節介な思考経路を持ちますが、それで他国と交渉して成功するものかどうか、裏目に出る場合も多々あるはずです。China全土を覆った官制反日またKoreaにおける四季を問わずの反日活動を見るたび、日本とはものの考え方が根底から違うのだなと悲しく振り返ることがあります。

 

「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」「はじめは処女のごとく後には脱兎のごとし」「闘いは正を以て合し奇を以て勝つ」等々の孫子の兵法は、敵の弱点を調べ、騙して忍び寄り、バレたら逃げろ、卑怯な手を使ってでも勝て、負けたら破滅だという大陸的な戦法であり生存の原則と言えます。孫子三国志演義を漫画や小説でたのしむ分には面白いのですが、それは日本の美学ではありません。

 

大陸における易性革命とは王朝交代後に過去を全否定することです。墓を暴いて死者を鞭打つ思想は日本文化にはありませんが、儒教文化圏にはあります。中華文明を信奉する朝鮮半島南においてお役御免となった大統領が例外なく悲劇に遭遇するのも易性革命の一種でしょう。現政権によって李明博元大統領と朴薫恵前大統領は収監され、恩赦特赦がなければ出所時にはそれぞれ95歳、88歳になります。それを見た日本人は、理由はさておき退任後の国家元首を牢獄に閉じ込めるなんて理解できないと呟きますが、あれは日本には存在しない易性革命だから理解できなくて当たり前です。応仁の乱だ、天下分け目の戦いだといっても通常の国が内戦と呼ぶほどの混乱は日本にはなかったし、そもそも日本は王朝の交代劇を経験していません。

 

だから日本人は「お坊ちゃん」なのですが、お坊ちゃんの存在はソフトな文化発展には必須の条件です。わが敬愛してやまない鳥山センセの著作も1990年前後が生んだ平和とバブルがなければあらわれなかったはず、時代の波にのり、列島のぼんぼんが到達した文化レベルはとても高いところにあるので大事にせにゃならんと思うばかりです。

 

自国文化に誇りをもつことは、どの国の誰の心にもある自然な感情ですが、そこを強調すると戦後教育で骨抜きにされた今の日本ではレッテルを貼られて弾かれるので、あえて外国人が見た日本を紹介します。渡辺京二著「逝きし世の面影」は幕末前後に日本を訪れた外国人の何の制約もない目で見られた日本見聞記を網羅しています。その目の何と温かいことか!

 

 

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イザベラ・バード女史 wikiより

 

19世紀イギリスの旅行家イザベラ・バード女史は「日本紀行」「朝鮮紀行」「中国奥地紀行」をものにした恐ろしくエネルギッシュな白人女性です。バスも列車も走らない明治期の江戸を出立し、山形秋田を抜け、北海道は沙流川日高町まで到達した彼女の筆は、容赦なく日本人の弱点を突きますが、全編を通読した感想を言えば、当時の日本を牧歌的理想郷のごとく描いています。店先に置かれた見事な小物を全部イギリスへ持ち帰りたい。日本人は取引において誤魔化すことはない等々夢のような国を愛おしく描いています。失礼ながら「朝鮮紀行」「中国奥地紀行」とは正反対の書き振りです。

 

 

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北海道沙流川の秋 151014

 

車で寝泊まりし、一ト月ほどかけて日本海側から新潟秋田青森と通り、沙流川平取町に住むアイヌの知り合いを訪ねたことがあります。バード女史の行路を意識したわけではありませんが、地図に線を引きながら振り返るとたまたま似たような行路を走ったことに気づきました。車ですっ飛ばしても結構な距離を実感したことですが、当時の道を自分の足と馬の足で歩いた白人女性とは何か、、

 

彼女は「朝鮮紀行」で日韓併合前の朝鮮をソウルから現北朝鮮の元山まで歩き、「中国奥地紀行」においては護身用のピストルを所持しつつ内陸の成都まで足を運んでいます。黒い煙を吐く船で地球の裏側からやって来た行動力とシェークスピアの末裔の圧倒的な筆力に恐れ入り、どうやら白人は日本人また東洋人とは違う遺伝子を持つのかなと思ったりします。彼女が描いた日朝中の記述を要約すると、日本に向けた目は温かく、朝鮮中国には厳しいです。

 

といった国家間の比較をする際、忘れてならないのはヒトと国家は必ずしも一致しないということです。南北分離国家に7000万人、China国家連合(とぼくは意識するところの)大陸に13~14億人がひしめく人間を十把一絡げにできるわけもなく、高いところからChinese、Korean、Japaneseを国家枠で俯瞰すると構成単位たる人の暮しが見えなくなります。個々の人格を消し、色分けされた地図上にヒトを配置する癖がつくと、そこに面倒が発生したとき、えいやっちまえという恐ろしいことになるかもしれません。米中貿易戦争が米大統領選挙を経てどう展開するか12月19日現在予断を許しません。それでなくとも地球環境が人口圧でパンクしそうな今、巨大技術を手にした略奪型文明の向こうに豊かな未来があるとは思えないのです。

 

ではどうすればよいのかと問われてカッコいい答はないと思います。が、たとえばサッカーは戦争の代理行為だという言い方があるように、ヒトが根源的にもつ闘争本能を満足させ、それなりに経済を回します。スポーツ・文化・芸術において勝った負けたの争いをするのであれば平和的でいいなあと漠然と思います。

201219記 つづく

 

 

 

   # # #高知の今# # #

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高知市春野の土手 201213

 

秋田の人と話していたら「高知はあったかくっていいところ」だそうですが、残念ながら四国にちゃんとした秋はありません。山を剥いで植林しまくったことが原因ですが、東北のように寒暖差がないことも秋色が浅い理由かなと思ったりします。

 

 

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春野 201213

ところが高知にも田んぼを流れる川沿いに

ぽつりぽつりと秋はあるのでした。

 

 

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春野 201213

 

春がよいのか秋がよいのか、どっちなんだぁぁぁぁぁと(ニコ動のノリで)悩んだ額田王は、草木の茂る春の山には入れないのがくやしくて「秋山そ我は」と秋に軍配を上げました。

 

かたや武人にして歌人でもある後鳥羽上皇は、夕暮れの趣は秋が一番と思っていたけれど春だってええぞ「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」とすっきり爽やかに謳いました。

 

春秋の優劣は、ざっくり1300年ほど日本の歌人を悩ませてきた難問ですが、まあどっちでもええようなことです。それを田夫野人のごとく斬って棄てることはせず、言葉をひねくりまわして歌を詠み、 握ったかどうかは知りませんが、 歌合と称して教養ゆたかな文化ゲームを愉しんだわけです。ことほど左様にヤマトのクニは平和裡に歴史を重ねてきたのでした。