旧ソウル駅左面190822
赤煉瓦の上にドーム型の屋根がデンと座り
色も形も複雑な部分が組み合わされ
統合された美観を形成しています
旧ソウル駅右面190822
旧ソウル駅舎は、厚い壁、小さな窓、半円アーチが特徴のロマネスク様式です。空間の主役は人間であり、建物は脇役なので、外壁にきらきらしい色彩は使わないのがセオリですが、白をベースに赤と緑を控えめに配したところなど上品な唐三彩を連想させます。
一橋大学 *ネットより
東京にお住まいで丸っこいデザインが好きな方はロマネスク様式の一橋大学へどうぞ。外観、内部空間とも半円アーチの繰り返しが優美です。タイムマシンで19の春に戻り、伊東忠太が設計した緑濃きキャンパスで、書をひらき、恋にくるしむ青春よふたたび^^!
一橋大学 *ネットより
ですが何かの気配を感じたときには乞うご用心
あちらの隅こちらの高みから監視カメラのごとく
あなたのことを妖怪が見張っています
一橋大学 *ネットより
沖縄のシーサーは愛嬌者ですが
ここの獣像はマジ顔で睨みます
魔をもって邪を払う正義の味方なのかも
旧ソウル駅入り口ホール190822
駅が列車に乗るところなら吹き抜けの天井高もステンドグラスも要りません。建築が人民を威圧する場であるなら、優美なロマネスク様式ではなく、旧ソ連が得意とした中心が天に向かうソユーズロケットのような形体がふさわしいでしょう。
ゴシック様式の尖りアーチが天を指す東京大学安田講堂もまた両翼に配下を従えた権威主義を彷彿させます。時代と建築は切り離せない関係にあり、この講堂が竣工した1925年(大正14年)は11年後に真珠湾を控えた不穏な時代でした。地べたから塔を仰ぐと高所より指令のだみ声が届きそうな気がします。
安田講堂につづく銀杏並木 *ネットより
たしか安田講堂の地下には学食があったはず
友人に案内されて銀杏並木を歩いていると
木陰からバイオリンの音色が聴こえました
キャンパスという贅沢空間はないに等しい
おれっちの大学とえらいちがいで
つくづく羨ましかったです
日露戦争後の1910年に日本は朝鮮を併合し、1925年にソウル駅舎が竣工しました。時代は帝国主義、軍国主義にあったわけですが、しかし旧ソウル駅舎の設計思想は、装飾を取り払った機能主義でもなければ支配のための権威主義でもありません。ギリシャ風の円柱は高さがもたらす解放感を与え、かすかに赤みを帯びた花崗岩と相まって温かい空間を演出しています。
建築家は何を思って日本にもない豪華な空間を造ったのか? 為政者は何のために莫大な建設費の持ち出しを許可したのか? つらつら思いますに建築を学びに西洋へ向かった明治大正期の留学生は、日本建築とは設計概念がちがう石の空間に惚れ、新時代の象徴として図面を引いたにちがいありません。新時代とはなにか?
日露戦争後の5年目、ハルビンで伊藤博文が暗殺された1909年に夏目漱石は、大連⇒ハルビン⇒ソウル⇒釜山と渡った旅行記「満韓ところどころ」(青空文庫所収)を書いています。内地にいるときは日本人を「憐れ」だと思っていたが「満洲から朝鮮へ渡って、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となっている状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた」そうです。
その旅行記で使われた差別的表現は後世、内外の批判を浴びることになりますが、現在の価値をもって過去を断罪する批判は、言ってみれば後出しじゃん拳みたいなものです。過去の価値がゾンビのように起き上がって現在の価値に反論するわけではないので、大して意味のある行為とは思えません。むしろわれわれは漱石の心に湧いたナショナリズムを当時の時代思潮として、そのまま受け取るべきではないでしょうか。
鹿鳴館 *ネットより
時代思潮を形にするためには、障壁の多い内地より外地がてっとり早いことから当時の建築家は、満州、朝鮮、台湾において伸び伸びと腕を揮ったにちがいありません。カネを出す為政者は、白人に一目置かれる西洋建築を求めたはず、鹿鳴館でダンスをしたメンタリティーの延長線上で、まずは西洋空間のコピーから始め、欧米列強に追いつけ追い越せの時代ではありました。当時アジア一帯が植民地化され、China大陸は白人国に蚕食される中で独立を保ったのはタイと日本だけでした。
210118記 つづく