ちょっと道草 210223  写真で Go to西表島(4  舟浮小学校 東郷平八郎 石垣島の電信屋跡

 

 

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白浜港に戻った二人乗りカヤック140423

 

遠くで暮らすことが

ふたりによくないのは

わかっていました♪

 (井上陽水/心もよう)

 

♪⇒ふたりでカヤックに乗り

呼吸を合わせてパドルを回せば

メールや電話より遥かにビット数の多い

情報交換ができますヨ

 

 

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西表島舟浮 140423

 

白浜港から巡航船に乗って

景色に見とれていると

舟浮港はすぐそこです

 

 

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舟浮小学校 140423

 

むかし韓国の大学生を手作りのサマーセミナーに迎えるため四国の山奥で廃校を探したことがあります。大学日本学科の学生は姉妹提携した東京の大学に短期留学することもできますが、友人の教授は「在り来りの研修では面白くない。軍隊暮しでへとへとになり、反日を刷り込まれた学生に日本の田舎の人情を見せたい」ことからふたりで廃校(という言葉を村人は好まないので休校舎)を訪ねて廻りました。

 

そこで気付いたのは、どんな山間僻地の校舎もその土地の最高の立地場所に建設されていることでした。明治5年の学制発布は「邑ムラに不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」という気合のこもった文言で教育を語りました。その熱意に偽りはなく、また学校は災害時の避難場所であることからも、全国津々浦々の小学校が日当たりの良い安全な平地を占有しています。

 

ここ舟浮小学校もまた海と森に挟まれ、南に顔をむけた日当たりの良い場所にあります。平屋建ての小学校であることから建設当初より生徒数は少なかったことが想像され、おそらく白浜小学校への統合案もあったろうと思われますが、年端のいかない子を船で往復させるのはいかがなものかという議論もあったであろうし、学校を失った地域は精神的支柱を失うことから残せという村人の強い声に押されたとも考えられます。ともあれ舟浮小学校では、耳を澄ませば、今日も子どもの声が聴こえ、教育が経済合理性で語られがちの今なお「家に不学の人なからしめん」という思想が生きていることに感動します。

 

 

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赤い花を付けるデイゴ140423

 

デイゴの巨樹の下を行くふたり連れは親子ではなく先生と生徒です。どうやらこの学年の生徒は1名しかいないようでした。声をかけると「今から社会勉強に行くのです」とのことでしたが、社会といっても辺りに人影はなく、生徒にとっては先生が即ち社会なのでした。個人の成長には他者の存在が必要ですが、無い袖は触れません。

 

 

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東郷平八郎 140423

 

西に向けて複雑な入り江をもつ西表島は、両手をひらいて西から人を迎えます。明治38年バルチック艦隊との決戦を前にした東郷平八郎もそのひとりでした。碑文は連合艦隊司令長官が舟浮に上陸し「帰りに立ち寄った民家でお茶とラッキョウの接待を受けた」というほのぼのとした逸話です。

 

 

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石垣島屋良部半島の電信屋跡130925

 

石垣島屋良部半島には、バルチック艦隊を発見した宮古島の漁師が「手漕ぎの船で石垣島へ駆けつけ」台湾⇒石垣島沖縄本島⇒日本本土と渡る軍用通信網でロシア軍艦の通過を報じた電信屋跡があります。

 

 

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アジア太平洋戦争時に米軍機から受けた銃弾跡130925

 

高校社会科を担当した友人に「今の子は乃木希典東郷平八郎を知っているか?」とたずねたところ「 殆どの高校生は名前も知らないのではないでしょうか」とのことでした。乃木希典については「日露戦争要図の一部に旅順攻防戦の日本軍の進路が矢印で示されていてそこに“乃木3軍”とあるくらい」、東郷平八郎については名前すら見あたらないようです。日本海海戦後116年、アジア太平洋戦争後76年を経て歴史事象がどんどん追加され、何かを捨てなければ新しいことが語れない今、無理からぬことではありますが、この2人の名前くらい覚えてもバチは当たらないんじゃないのと思いますけど、、

 

日露戦争に敗れていたとすれば、日本の歴史は大きく変わったはず、ひょっとするとおれら日本人はRussia語を話していたかも知れんなと空恐ろしくなります。いろいろ言われても東京大学法学部が日本の官僚機構を担っていることは事実でしょう。そのエリート官僚が、この2人の名から歴史に参入できないとすれば、彼らの頭脳には違う歴史が差し込まれたことになります。

 

乃木希典日露戦争で2人の息子を死なせ、家系は断絶しています。が、この電信屋跡に連れてくれた長年の友人は乃木家の外戚の子孫にあたる人物で、折に触れ乃木家秘話を語ってくれます。彼をさそって高松にある四国札所を訪ねたとき、そこに置かれた乃木希典銅像の顔が彼そっくりなので思わず笑ったこともあります。身内のバイアスがかかっているかどうかはさておき、司馬遼太郎の「坂の上の雲」において乃木希典陸軍大将が、児玉源太郎とチェンジし203高地の攻防戦は一挙に終わったという段にも納得できないような口ぶりでした。

 

きのう龍馬と飲んでたんだけどさってノリで語られる司馬小説にはあまり興味が湧かないのですが、編年体紀伝体を盛り込んだ日露戦争の顛末「坂の上の雲」は非常に面白いです。ただよく言われるように、明治はよかった、昭和はいけないという司馬的二分法には引っかかるものがあります。そのよかった明治の乃木希典を「坂の上の雲」であれほどまでにやっつけねばならなかった理由は何なのか、とりわけ小説末尾の乃木攻撃には病的なものさえ覚えます。作家を突き動かした背後事情は何なのか、ぶっちゃけて言えば軍および昭和を否定しなければ文筆業がやりにくい時代ではなかったのではなかろうか、戦後の大学においてごっぽり入れ換えられた右⇒左系学者を含め、司馬遼太郎もまたGHQの影を意識していたのではあるまいかと取り立てて根拠もなく思ったりします。

 

学校教科書から英雄を消すことは歴史の書き換えでもあります。日露戦争の英雄が、この立て札のかすれた文字でしか語られない国とはいったい何だろうと悲しく思います。

 

 

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ブーゲンビリア 140423

 

210223記 つづく