仲間川河口マングローブの森 170705
若いころマングローブの北限は
鹿児島湾の喜入と聞いたので
バイクに乗って出かけました
行ってみたら沖に巨大な原油タンクが
ずらりと並んでいるばかり
騙されたような気がしたものです
何年か前に車で寄ると
なんといっても自生の北限であり
海沿いのわずかな面積に
疎林がちらほらという程度でした
マンローブは奄美大島、徳之島
西表島が最大面積を誇ります
仲間川の観光船 140420
視野一杯に緑が広がり
ヒトの気配はなく電線は見えず
行き交う観光船の白い航跡は
マングローブの根元で消され
すぐにも太古の静寂が取り戻されます
仲間川の上流へ向かう170701
河口のショップでカヤックを借り
水と弁当を載せて日が暮れるまで漕ぎました
この世でいちばん目線の低い乗り物は
サイドカーだと信じていましたが
タイヤの分だけカヤックが低いですね
川沿いに咲く花170701
向かい風に対抗しやっと戻った
船着場で立ち上がった途端
バランスを崩してドボンして
ミラーレスと22㎜がおシャカ~~!
幸いメモリは無事でした
泳ぎには多少自信をもっていますが
着衣のまま不意打ちを喰らったら
たぶん水泳選手でもヤバイです
救命胴衣はありがたいものだと知りました
船着場から観光船を見る170701
陸から川を見るのと
川から陸を見るのとでは
まるで風景がちがいます
仲間川中流
サキシマスオウノキの巨木 170701
観光船を降り
日本一の板根の向こうで
記念写真をとる恋人たち
仲間川上流
サキシマスオウノキの樹間と板根に
着生したオオタニワタリ 170701
小さな板根をもつ樹ならウチの裏山にもありますが
これほど立派なトラス構造は西表島ならでは
台風が直撃し森がざわめいても
サキシマスオウノキが倒れることはありません
その樹の上と下でオオタニワタリが
盛大に葉を広げているのは
落ちてくる有機物をかき集め
養分にして吸収するためだそうです
ふと「天空の城ラピュタ」を思い出しました
アナジャコの巣 170701
エビの大親分みたいなのがアナジャコ
深さ1mにも及ぶ巣穴をつくり
掘り返した土で巨大な塚を立ち上げます
ウチの裏山を下りた渚にも
同じ形の小さな巣がありますが
アナジャコそのものを見たことはありません
ひょっとすると蟹の巣かも、、
アナジャコは美味で高価な食材ですが
食べるより釣る方が面白そうです
穴ぽこに書道の筆を差し込むと
アナジャコは入ってきたものを押し戻す習性があり
下から押した勢いで穴から顔を出したところを
はさみ獲るという
どっか馬鹿馬鹿しくて長閑な釣りです
川沿いを歩く 170701
離れて見れば砂場にすぎませんが
この辺りは感潮域なので土はやわらかく
踏んづけた足の下には無数の生きものが暮しています
すんまへんなと詫びながらカヤックに戻りました
野生生物保護センターに展示されていた
笹森儀助の登山姿140422
このおじさんは何をしているかと言うと、日清戦争の2年前1892年に南洋諸島調査のため奄美大島、沖縄本島、久米島、宮古島、石垣島、釣魚島(尖閣)と渡り、西表島に上陸したさい「刳舟クリブネに棹さして」仲間川を遡上し「樹木繁茂」する中を標高420mの御座岳を越え、島の西側へたどりついたときの写真です。
傘は雨よけではなく樹間から吸血虫の山蛭が降ってくるのを防ぐためらしく、着物の裾をまくり膝下の筋肉が盛り上がっているところなど旅行家と呼ぶより、国家を背負った探検家の出で立ちです。その記録「南島探験」は、観光旅行で遊びに来たぼくのような者が読むのは憚られるほどの迫力があります。山越えの一部を紹介します。
カヤックから見た仲間川 170701
自然のままの川水だが
水は濁り底は見えない
一行は仲間川を2里ほど遡り「舟ヲ捨テゝ森林ニ入ル」「河水赤濁ヲ呈ス」とあります。木材伐採のための「仮小屋跡」捨てられた田んぼの「畝跡」を見ながら山へ入ると「樹木天ヲ蔽フテ昼暗黒ヲナス」「山蛭ノ夥シキ比スベキナシ」「休マントスレバ蟻付ス」と蛭と蟻の攻撃にさらされながらも「石炭」を見つけ「其見本ヲ採ル」とあります。▲のちに西表島は石炭の産地となりますが、これを香港へ運んで売れば儲かるだろうと考えたところなど並の探検家ではありません。
案内板より140420
中央部はマングローブの樹林
正午に「ゴザ岳ノ絶頂ニ達ス。木ニ登リテ四方ヲ望見ス。東ハ仲間湾、西ハ舟浮湾ヲ望ミ」とあり、ぼくがバイクと巡航船で島を半周した仲間川⇒舟浮間を山のてっぺんから同時に見渡しています。
今は仲間川から北部の浦内川へつづく山道があり、山好きの元気者は足と観光船を使って山越えします。ぼくも挑戦すべく調べてみましたが、どう計算しても途中で一泊せねば山越えは無理です。月のない夜の森を行くのも旅の一興かもしれませんが、山道と言っても枝葉が頬を打つ細道なので、足を踏み外して身動きできなくなったら一巻の終わり、助けを呼ぶにも携帯は使えません。南の登山口には2002年に行方不明になった若者の情報提供願いが貼られています。
浦内川から仲間川にいたる山越えの難所
案内板より140420
山に水場がないことも問題で、2日分の水4ℓをリュックに詰めたら重くて歩けず、奥山で危機を覚えた登山者は、あれを捨てこれを捨て、さいごはカメラまで捨てて逃げ帰ることになります。ようやく大原の町までたどり着いた若者が自販機の前で缶ジュースを8本空けたという逸話もあるくらいで、人間は腹を減らして飯をもとめるより喉が渇いて水を欲しがる気持ちがより切実なようです。
笹森儀助が登った明治期にペットボトルなどという気の利いた容器があろうはずもなく、水は竹の筒にでも入れたのでしょうか。前人未到の森なのでそこに水があるか無いかもわからず、たぶんあるだろうくらいの期待をもって出かけたのだろうと思われますが「西表島山中ノ河水、概ネ暗濁ニシテ、其ノ清メルモノ殆ント希レナリ」とあります。しかし喉の渇きは如何ともしがたく「医師ノ厳戒ヲ遵守スル」ことあたわず、この「悪水」を飲んで死んだらおれの体は実験材料にしてくれ「豈医学上一進歩ヲ与フルナカランヤ」「悪水何ソ恐ルルニ足ランヤ」と覚悟を決め、ついに「之ヲ掬テ一連ニ牛飲シ」とあります。やや芝居がかった文体は生きて帰った後の作文なので大目に見てあげましょう^^!
仲間川河口部の森を切り拓いた田んぼ 170704
蛭、蟻、水、毒蛇、マラリアの恐怖を押しのけ笹森儀助の一行が西表島を南西に横断したのは、南の大地を開墾して食糧庫とし、山道を切り拓いて、西側の天然の良港に運べば「実ニ我カ帝国南洋第一ノ海軍要港トナルヤ、信シテ疑ヒナシ」という気宇壮大な調査行ではありました。
210310記 つづく