ひとり旅 211024 対馬の森の音楽堂 古武道 ラマダン 断食

 

 

 

 

 

f:id:sakaesukemura:20211024123145j:plain対馬北部舟志の森に残されたコンサート会場 2021.10.01

 

むかし昔の話ですが学生のころ上野や虎ノ門へバッハやモーツァルトを聴きに出かけました。音響工学の粋を尽くした空間だとステージがよく見えない安席でもバイオリンのくすんだ音色がはっきり聴こえます。本物の音に触れた耳なら電蓄でLPレコードを回しても、脳内変換ソフトで、それらしく聴けるとしたもので、、

 

天然素材の楽器が奏でる古典音楽だと演奏中の咳払いさえ要警戒ですが、耳より体に訴える演奏会なら神経質になることもありません。むしろ客席の自由度を広げた方が気楽に場を愉しめるとしたもので、杉木立でコンサートを開いてもよいじゃないかという自由な発想から生れたのが写真の舞台ではなかったかと想像します。ぼく自身、四国の山奥に内外の学生を迎えてどんちゃん騒ぎをやってきたのでハングルの横断幕を見て思い出すことが一杯ありました。

 

 

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愛媛県西予市の喫茶?庭園?「こけむしろ」 21.10.10

 

愛媛県西予市の杉木立に似たような着想でつくられた喫茶店があります。もとは大変な労力をかけて組んだ石垣に芋や麦が植わっていたはずですが、先祖伝来の段々畑はスギを植えたまま放置され、長い年月をへて杉木立になりました。カネに換算すればさほどの価値はないのでしょうが、かつての風景を思い出せる人にとって、捨ておくのは忍びなかったのかもしれません。スギの森を喫茶店にしようという大胆な着想が生まれました。

 

散策ご希望の方は

小箱に100円入れてご自由に

ゆっくりしたい方は奥の席で

コーヒーをどうぞという仕掛けです

 

仲間と大声で語り合っても

まわりは吸音材だらけなので

叱られることもないでしょう

 

休日だったこともあり

駐車スペースがなく

Uターンする車もあるほどでした

 

 

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こけむしろ 21.10.10

 

よく手入れされた杉は

迷わず空をめざし、緑の天蓋から

教会のステンドグラスのごとく

きらめく光が落ちてきます

 

杉の列柱がつくる背の高い空間で

コーヒーを愉しみ、物思いに耽けるのも

人生のひと駒です

 

ただ、よくよく見ていると

椅子が置かれた喫茶席は

杉の合間にぽつんと植わった楓の木の下でした

落葉広葉樹の傘を透かした緑の光が

ヒトの心をなごませるのでしょう

 

*持病をひきずって無理やり出かけた旅だったので杉木立の斜面を歩くのは控えました。ご興味の方はネットで検索すれば写真が一杯あります。苔の莚だから京都は苔寺を思わせる雰囲気なのかなと、、

 

 

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向かいの山裾に道場を建設中  2021.10.10

 

「こけむしろ」を紹介してくれたのは西予市で民宿を営むご主人でした。アメリカはペンシルバニア州の出身、京都で古武道を修行し、縁あって愛媛に移住したそうです。古武道は実践武道だから刀剣のみならず棒術、弓術、砲術等あらゆるものを武器として闘う武術のはず、不謹慎にも子どものころマンガで見た忍者を思い出し「ひょっとして鎖鎌なんかも使うのですか?」と訊けば「何でもありです」命のやりとりを前提とした武だから「スポーツ剣道とは違う」「あれは斬られても生き返りますもんね」「そう」というような話をしているうちに意気投合し、翌朝は山裾に建設中の道場を案内してくれました。

 

 

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建設中の合宿所?  2021.10.10

 

妻側一面にベンガラを塗り

広い窓に透明ガラスを張ったつくりは

「日本のものではありませんね」と呟くと

ニヤと笑いました

 

驚いたのは材料の大半が

ご近所さんからのいただきものだったことです

ムラには余所者には見えないルールがあり

そこを踏み外すと村八分にされます

外国でこれだけの人間関係をつくれるのは

人徳だろうなと思いました

 

室内にはまだ乾いてない土の断熱材に

ドラム缶を埋め込んだオーブンもあります

「ピザも焼ける」そうだから

「次に来たときはご馳走してよ」と

 

 

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建設予定の道場の礎石 2021.10.10

 

ユンボも借りもの

借りたまま「もう1年になります^^」などと

ほのぼのとした笑いがとれる外国人は珍しいです

遠からぬうちに円形道場が立ち上がります

 

恐らくは古武道修行の一環なのでしょう、彼は断食の経験があるそうです。それも20日間に渡ったと言うから俄かに信じられず何度も問いただしました。3日目が一番苦しい。そこを越えると楽になる。もちろん水は飲んだ。不思議なことに食べなくても通じはあったが10日目あたりからそれもなくなった。仕事は普通にしてきた。特に期間を決めていたわけではなく20日で終えることにした等々、ぼくに信じ込ませようとか、何かを伝えようとしてレトリックを駆使したということは全くなく、涼しい顔で淡々と語るから聞かされた自分は考え込みました。

 

ぼくも三畳一間で浪人していた二十歳の年に水だけ飲んで3日を送ったことがあります。月に2万円の仕送りが途絶えて飯が食えなかっただけの話で、断食という高度に哲学的な行為ではなく、好まない絶食を強いられたわけですが「3日目が一番苦しい」という言葉には納得できるものがありました。

 

かつてインドネシアで働いていた友人が「ラマダン(断食月)の季節になった。お前も一緒にやらんか」というメールを送ってきたので「じゃ付き合うわ」と軽い約束をしました。しかし仕事で歩き回っていると腹が減ります。お昼になって皆がお弁当を開けているとき知らんぷりして水場へ向かう自分がみじめでした。好き好んで断食しているのだから文句を言う筋合いはないのですが、それは頭で考えるロジックであり、体の感覚は別物ですね。同僚がご飯をいただいている傍らで腹を減らした自分は、除け者にされたように思われ、そうか哲学でいう疎外とはこのことなのだ。それは除け者、はぐれ者の意味なんだとばかなことを考えたことでした。

 

結局、自主的ラマダンは昼飯を抜いただけで終わりましたが、インドネシアの友人はやり遂げたようです。思いますに、それは友人の意志が強かったということでは必ずしもなくて、みんなで一斉にやるから出来たのではないか。真面目なムスリムラマダン時には唾も飲み込まないというが、断食とはいえ日の出前、日の入り後は飲み食い自由なので命にかかわるほどのことではないだろう。むしろ皆が一斉に断食を強要されることで宗教的一体感を共有できるのではないか。ラマダン明けの解放感ってどんなだろう。祭りの歓喜に似ているのではなかろうかといろいろ考えました。

 

誰にも見られず、誰にも知られず、孤高を誇りつつ自滅することは不可能です。しかし他者への強い愛があり、看取ってくれる人がいれば、あるいは可能かもしれません。「東北に即身成仏した人のミイラがあるけれど知っていますか?」と問うたところ「もちろん」とのことでした。かつて車中泊しながら東北を旅していたとき山形県は海向寺を訪ね、飢饉、天災、疫病から人々の救済を願い即身仏となった2体の住職の前で小一時間滞在したことがあります。断食どころか地の下で自滅を予定した修行って何だろうと骨に皮が貼り付いた上人のお手やお顔を拝見し思うところ多でした。

 

剣道や柔道ではなく古武道を極めに日本へやってきた

修行上の必然性はあったかもしれないが、とりたてて

強要されたわけでもないのに20日に渡って断食した

そのことを誇る風もなく普通に語れるアメリカ人って何なのか?

世の中には不思議な人がいるものです

2021.10.24記 つづく