ひとり旅 220109  China番外編 (1

 

220109 ひとり旅  China番外編 (1

 

 

じゃあねと軽く手を振って別れた大学時代の友だち3人と40数年ぶりに連絡が付きメールでやりとりしています。パソコンに強いひとりから「ネット会議をやらんか?」仕掛けは自分が作るからという提案がありました。おれ「カオに自信ないから遠慮するわ」という声が上がって立ち消えとなりましたが、その後も文字のやりとりは続いています。

 

この世で一番早いものは何か?と問われたビートたけしが「それは意識だ」宇宙の果てまで飛んで行くと本に書いていました。なるほど意識は、時空を超え、火星だってイトカワだって一瞬で到達します。その意識が40数年前の教室にもぐりこみ飛び切りの美人だったクラスメートを浮き彫りにしました。たしか山形は酒田の産だった彼女は土佐の高知では出くわしたことのない美形で実はぼくも密かな思いを抱いており冷たくこちらを振り向いた横顔にぞくぞくしたものです。別の野郎が彼女にモーションをかけていることは知っていましたが、40数年後にネット会議を提案した友人まで気があったことを知りました。要するにクラスの男どもはみな彼女に群がって討ち死にしたというワケです。

 

卒塔婆小町を連想するのはとても失礼ですが、花のいのちは短くて今となっては彼女もけっこうなおトシのはず、しかしオレらの意識は思考のプロセスをすっ飛ばし、芳紀二十歳の彼女を髣髴させます。鳥山先生が描く悟空の瞬間移動は空間移動にすぎませんが、オレらの意識は時間軸さえ渡り歩くのでした、、というショーもない前振りで本論に入ります。

 

年賀はがきを印刷したプリンターが絶不調で「解読」に手間取った由、友人から連絡があり、プリンター⇒パソコン⇒スマホ⇒監視カメラと連想してメールを戻しました。世界を相手に喧嘩を売ったChinaを短く括れば、電子技術と結託した軍事国家と言ってよいでしょう。

 

以下、友人たちとの共有メールを一部抜粋しつつ

ぼくの頭の中にある漠たるChina像を置きます

当たっているかどうかは

読んでくださる方のご判断によります。

              *  *  *

昔むかし世の中にワードプロセッサーというものが現れたときなけなしのカネを突っ込んで買いました。たしか本体が35万円、プリンターが40万円ほどでした。民間人が買ったのは高知で初めてだったらしくリコーの社員が一升瓶さげて遠路はるばる訪ねてきました。「何に使っているのですか?」と問うから「下手な字を誤魔化すため」と正直に答えました。当時のプリンターはアタマが悪く本体を揺らしながらジーコジーコと8ドットの点を2度打ちして文字化したものですが、自分の書いた文が活字になったときの衝撃は忘れられません。

 

メール

そうこうしている内にパソコン通信という機能が出現しました。自作の名刺にアドレスを置いたらカッコ良くてうっとりしていると職場の同僚が興味をもってたちまち仲間になりました。毎日顔を合わせているのだから話せば分かることを文字でやりとりして嬉しがったものです。某紙に枠をもらってしこしこ書いていたとき末尾にアドレスを置きました。担当者から「個人のアドレスを載せるのはいかがなものか」という疑念をもらいましたが、当時はまだネット上のルールがなかったのでそのまま掲載され、おかげで長いこと疎遠になっていた人からメールが届きました。

 

Windows

技術はどんどん進化し若者はポケベル⇒ピッチ⇒ケイタイ⇒スマホと移り、おじさんたちはWindows95で舞い上がりました。心静かに振り返ればWindows95~98あたりが時代の転換点だったように思います。良いことがあれば悪いこともあるのが世の常で、パーソナルなコンピュータがつながることによって悪事がはびこり、利便と引き換えに仕事は猛烈に忙しくなりました。

 

報道官

話は飛びます。1980年代に中国を2度歩きました。今のChinaが当時のままなら明日にでもリュック担いで出かけますが、人相の悪い報道官がエラソーな物言いをするChinaには全く敬意が湧きません。むろんアレは演技であり、話しことばに加え、表情ことばをもってChina共産党の意思を伝えているわけですけども語り口は北朝鮮メディアで修行したのではないかと疑いたくなるほど尖っています。たかが報道官が世界に向けて命令するとは、君はいったい何様なのか?

 

Korea儒教

儒教の国のKoreanと長く付き合って気付いたことですが、日本儒教が原典から道徳部を抽出した美しい思想であるのに対し、Korea儒教は序列の思想なのでした。地位・年齢が上か下かで序列が決まり、秩序が維持される不思議な社会です。「日本だってそうだろ?」と言われればそうなのですが、上下関係が中身ではなく見た目で決まるところに大きな違いがあります。だから朝のごみ捨てに行く時にも地位ある人は服装に気をつけねばならず、乗る車は立派でなければなりません。軽四でゴルフに行った日には冷笑されます。

 

メンツ

昨秋、講演会に出かけました。北朝鮮の研究で博士号を取ったという女性が、中国人は言うまでもなく韓国人も面子にこだわる。だから交渉するときわれわれは彼らの面子を意識しなければならないという発言がありました。しかし日本人だって誇りはあるぜ「おれらのメンツはどうしてくれるの?」と問いたかったのですが時間切れで機を失いました。

 

誇りと面子はどう違うかと日本語で考えるとき、誇りは人格、面子は体面と括ってよいでしょう。人格は必ずしも外形にとらわれませんが、体面は格好がすべてです。それを証明する実例には、彼らと長く付き合う中で何度か出くわしましたが、ここでは省略します。

 

儒教の本家たるChinaが孔子の時代の儒教を引きずっているかと言えば謎です。日本人はちょっと勉強すれば古文が読めますが、Chineseは漢文がすらすら読解できるわけではないようです。

 

「容易には信じがたいことかもしれないが、中国人にとって漢文とは外国語同然なのである」「漢文には日本語のように動詞や名詞といった品詞の区別がない」「同じ動詞であっても、そこには時制という概念もないから、過去形なのか現在形なのかという区別もできない。さらには句読点もないから、どこからどこまでが一文であるのか分からない」「日本人は漢文を見て、返り点もなにもない白文を、中国人はすらすら読むのだから大したものだと思いがちだが ~ ほとんどの中国人にとって、白文は日本人と同じようにチンプンカンプンなのである*」

*岡田英弘「この厄介な国、中国」ワック株式会社 p120~121

2001年出版2008年改定出版

 

考えてみれば、ぼくら日本人は漢文と称して中国人にも読めない古代中国語を学んでいるわけです。かつて温家宝首相が来日し、論語だかの解釈を日本人から聞かされ、なるほどそういう意味だったのかと感心したという話があります。中国イノチの荻生徂徠が江戸から品川に引っ越したとき「唐に二里近い」と喜んだという逸話があるように江戸期の儒者が訓詁注釈にかけた情熱はすごいです。China古典の解釈学は日本の方が発達しているのかもしれません。というより1949年に成立した中華人民共和国孔子の時代とつながっているのだろうか、世界中に孔子学院を置いた習近平国家主席論語をきっちり読んでいるのだろうかという疑念さえ、、

 

天皇家系図で歴史が区分される日本はかなり特殊な国です。王朝が興亡する中で異民族の支配を受けた大陸と四海に守られ安穏と暮らしてきた日本ではものの考え方に大きな違いがあって当然でしょう。

 

受験で漢文を学んだ日本人が思い描くChina像とChineseが思い浮かべる自国の歴史は合致しているのだろうか。ひょっとすると日本の政治家は、中国に対する過度の思い入れと日中戦争の贖罪意識で、ゆがんだChina像を描いているのではないだろうか。三国志は面白いけど野蛮な話であり、孫子の兵法は勝てばよいとする戦争プラグマティズムで一貫しています。日中の文化は似て非なるもの実は同床異夢かもしれません。とすれば岸田政権の対中政策はどうなんだろ大丈夫だろうかと心配になります。

2022.01.09 記 つづく