ひとり旅 220317 ロシア編(2 日本海海戦 司馬遼太郎 ゼレンスキー大統領

 

 

 

 

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釜山・対馬・博多 ポスターより2021.10.01

 

13世紀の対馬はモンゴル+高麗軍による元寇の中継地であり、16世紀は豊臣秀吉による朝鮮出兵の足掛かりにされた島であり、19世紀は東郷平八郎バルチック艦隊を待ちかまえた争いの海域であり、21世紀の今は韓国人が涼しい顔で「対馬は韓国のもの」と口にする島でもあります。内陸国の争いは国境線上で起こりますが、日本列島は海が障壁となりました。

 

 

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対馬北部の韓国展望所より釜山方面を見る 

小島の白球は自衛隊のレーダーサイト2021.10.01

 

対馬北部は朝鮮半島からわずか50㎞、釜山の夜景が見える距離にあります。世の中には、がん治療を終えた女性が幅34㎞のドーバー海峡を2往復した記録w!もあるそうなので比田勝・釜山間はその気になれば泳いで渡れるでしょう。

 

 

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Wikiより

 

日清戦争日露戦争とも原因をひとつだけ挙げよと言われたら「朝鮮半島」と応える他ないでしょう。日清戦争朝鮮半島の独立をめぐっての争いであり、日露戦争はロシアの南下を恐れた日本が、緩衝地帯としての朝鮮半島にこだわったことから開戦に至りました。▼その意味で朝鮮半島は、NATOとロシアに挟まれたウクライナに類似します。プーチンの最終目的がどこにあるかは誰も知りませんが、ウクライナが西側に付くとミサイルがモスクワに届くので、それは許せないというのが2月24日に始まる侵攻理由でした。当初キエフは電撃的に陥落するだろうと言われましたが、今日で21日目になります。

 

 

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バルチック艦隊の航路wiki より

 

1904年10月にバルト海を出たバルチック艦隊は、7ヶ月後の5月27日に対馬沖で東郷平八郎率いる連合艦隊と衝突し、歴史的な敗北を喫しました。日本側から見れば大勝利を挙げたわけで、当時タイと日本を除き、白人国の支配を受けていた東洋全域に強い印象を残したことは間違いありません。世界13カ国から集結した観戦武官がロシアの勝利を疑いもせず注視するなか極東の小国が大国を打ち負かしたわけです。

 

 

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バルチック艦隊の予想航路

 

地球の裏側から遠くアフリカ大陸を周り、インド洋、東シナ海を抜けたバルチック艦隊が、日本海へ入る航路は3通りしかありません。宗谷海峡はさておき、津軽海峡を回るか対馬海峡に来るかは、海戦における勝ち負けを超え、日本国の存亡にかかわる大事でした。結果を知る我々は117年前の戦争を読み物として愉しめますが、もしもこの一戦に敗れていたなら大日本帝国制海権を失い、ロシアの占領地となり、ひょっとすると現代のわれわれはロシア語でものを考えていたかもしれません。

 

 

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310145_00000

 

NHK for School

さすがNHKよくぞこの映像をと感心させられますが

満洲と言わず中国東北部と呼ぶのはやはり、です

 

 

事の次第は司馬遼太郎が、膨大な文献をさぐり、当時まだ存命していた乗組員に取材して4年がかりで描いた「坂の上の雲」に詳しく、読者は400字詰め原稿用紙換算ざっくり4000枚超の長大な物語にタイムスリップさせられます。

 

その「あとがき」には準備時間が5カ年ほどあったから「私の40代はこの作品の世界を調べたり書いたりすることで消えてしまったといってよく、書き終えたときに、元来感傷を軽蔑する習慣を自分に課しているつもりでありながら、夜中の数時間ぼう然としてしまった。頭の中の夜の闇が深く遠く、その中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行ったような感じだった」とあります。

 

 

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戦艦三笠 ネットより

 

とりわけ巻末、日本海海戦における感情抜きの記述は、個々の事象が絵コンテのように置かれ、絵が結ばれて映画のごとく動き、よくもこれだけ調べかつ書いたものだと畏れ入ります。著者を突き動かした情念はどこに由来するものだろうと考えたとき司馬という珍しい姓から司馬遷を連想し、紀伝体編年体といった歴史の記述方式が思い浮かびました。

 

歴史とは事実の集積と、それを見る人間との「関係」によって成り立ちます。時系列に沿って事実をならべた学校教科書が正しい歴史を写しているかといえば、そうとも言えず、かといって読みものとしては面白いけれど思い入れが過ぎるようにも見える戦前の教科書を眺めていると、いかがなものかという気はします。歴史は、時間軸に沿う編年体と人間の物語たる紀伝体を重ねて描く他ないのでしょう。

 

坂の上の雲」はすごい本ですが、日本海海戦に先立つ203高地の要塞攻略戦において「感傷を軽蔑する習慣を自分に課している」はずの著者が、冷静さを失ったかのごとく乃木希典を愚将と断じ、罵倒するのは何故か? あたう限り歴史考証し浮かび上がった人間像に命を吹き込むのが歴史小説であるはずなのに、こと乃木希典に関しては論理より感情が先行するような気がしてなりません。

 

 

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ウランバートル 2016.01.01

 

大阪外語大モンゴル語科のOBから届いた年賀状の写真

ウランバートル南のザイサントルゴイから見たボグトハーン山です

宅地開発の並びがふもとまで押し寄せています」とあり

Chinaに隣接するモンゴルもまた

恐ろしい勢いで変容しているようです

 

大阪外語大モンゴル語科に在籍し、戦車兵として満洲へ学徒出陣した司馬遼太郎もまた当然のごとく「何のために死ぬのか」と考えたはずです。鉄の箱とはいえ”ぺらぺらの装甲を突き抜け内部に侵入した砲弾はぐるぐる回って人間ミンチをつくる。自分がそこにいることは余り考えたくなかった”というようなことをどこかに書いていました。それ以前に司馬は昭和の戦争そのものを疑ったようであり、確信がもてない争いに巻き込まれ、死なねばならない不条理に思い悩んだことでしょう。

 

司馬の歴史小説は「明治はよかった。昭和はひどい」という単純な二元論で説明されがちですが、そもそも司馬は昭和の大戦を描いていません。歴史家が現在を描くためには、自身を切り離し、他者として見る目が必要です。が、それは原理的に不可能な作業のはずです。▼ウクライナの現実を芝居がかったナレーションで語る報道番組を見ていると、現場では命のやりとりをしているのに、遠い世界の遊びごとのように見え、平和ボケも極まれりという感があります。音を消し映像だけ注視しているとキャタピラーが外れ、砲塔がふっとんだ映像がありました。日本のテレビは死体を映さないという約束があり、内部は想像する他ないのですが、敵味方を問わず、確信のもてない戦場に放られた人間はやりきれないだろうなと思いますね。

2022.03.17 記 つづく

 

 

 

追記

3月16日米連邦議会でオンライン演説をしたゼレンスキー大統領は「1941年の(日本による)真珠湾攻撃を思い出してほしい。(2001年の)米同時多発テロを思い出してほしい。空からの攻撃で街が戦場になった。私たちはロシアによる空からの攻撃で毎日、毎晩、この3週間、同じことを経験している」と訴えました。2022.03.16毎日新聞

 

真珠湾攻撃」と「米同時多発テロ」を並列した演説を見て、おいおい真珠湾とテロは違うだろ、このノリで日本の国会でも演説したいとは何と浅い歴史認識だろうと呆れました。まあ大統領より取り巻きに問題があったのでしょうけれど、この一報で熱烈にウクライナを支持していた日本人は醒めるやろなと思いました。案の定、書き込みは批判の嵐です。

 

ゼレンスキー大統領は日本の国会でもオンライン演説を求めていますが、請けるかどうかはまだ決まっていません。ぼくは、非はプーチンにありウクライナはむごい犠牲を払わされたと思う者ですが、この世に白黒けじめが付くことは滅多にないので、ほぼ全マスコミが同じ方向で番組を流すことに不気味な思いがしています。