三島由紀夫 ネットより
忘れもしない1970年11月25日「楯の会」を擁する三島由紀夫は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーに立ち自衛隊員800名の前で「諸君は武士だろ? 自分を否定する憲法をどうして守るんだ!?」と(あえて)肉声で訴え自刃しました。
2発の核爆弾で止めを刺された日本国は、占領軍の命ずるまま憲法に戦争放棄の条文を盛り込みました。ぼくら戦後世代は「戦力」をもたず「交戦権」を否認した世にも美しい憲法を戴き、敗戦の年から令和4年まで77年間の平和と繁栄を愉しんできました。
憲法9条が有効であるのは、憲法前文「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」からに他なりません。「平和を愛する諸国民w」が丸腰の日本人を撃つわけがないという自己中心的な前提によって「われら」は幸せでした。明治元年~昭和20年⇒77年の間に日清・日露・日中・日米(アジア太平洋戦争)とざっくり4度の戦争を挟んだことを思えば、平和ボケと呼ばれながらも「われら」世代は人類の理想を実現したことになります。
しかし自分が善意の持ち主だからといって相手も善意の平和主義者でいてくれるかどうかは保障の限りではありません。そもそも平和とは両者の武力が拮抗した状態を指すのであって、世界は悪意に満ちており、力の均衡が崩れたとき戦争がつくられます。そのことをウクライナの「特別軍事作戦」が実証しました。
小説家・三島由紀夫は
国家の未来を政治的に憂えた結果
自衛隊駐屯地に死の舞台をもとめたのか
それとも小説上の観念世界が肥大し
ついに生死の境を超えてしまったのか
よくわからないところがあります
三島由紀夫の辞世の歌2首
益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐えて今日の初霜
散るを厭う世にも人にも先駆けて散るこそ花と吹く小夜嵐
いかにも三島らしく言葉の扱いは見事なものです。が、深夜の書斎で詠んだのであろう芝居めいた歌いぶりは、国家の未来を政治的に憂えたというより、むしろ三島美学の結末のような気がします。52年前にこの歌を知ったとき、どこか現実感が希薄だなという印象を受けましたが、それは今も変わりません。
生と死の境を膨大な文字でたどった三島由紀夫が、タイムマシンでウクライナの戦場へ降りたと仮定します。戦場の死を舞台のごとくしつらえ、鳴り響く銃声に初霜を重ね、倒れた兵士を散る桜と見立てて歌を詠むかといえば、そうではなく、鉄の破片が肉体を切り裂く現実の描写になるだろうと思われます。
ただし三島由紀夫という稀代の美文家にとって
文字で切り拓いた観念世界と目前の現実を天秤にかけたとき
観念世界の方が重かったのではないかと思うことがあります
死の前年に出版された「豊饒の海」には、襲撃のあと蜜柑畑を走って逃げた主人公飯沼勲が「空の微光を反映し」黒光りする夜の海の前で自刃する姿が描かれています。
~ ~ ~
「日の出には遠い。それまで待つことはできない。昇る日輪はなく、気高い松の樹蔭もなく、かがやく海もない。
と勲は思った。
シャツを悉く脱いで半裸になると、却って身がひきしまって、寒さは去った。ズボンを寛げて、腹を出した。小刀を抜いたとき、蜜柑畑のはうで、乱れた足音と叫び声がした。
「海だ。舟で逃げたにちがいない」
といふ甲走る声がきこえた。
勲は深く呼吸をして、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突っ込んだ。
正に刀を腹へ突きたてた瞬間、日輪は瞼の裏に赫やくと昇った。」
~ ~ ~
この世の意味を
自己と世界の二元論で組み立てるなら
世界を否定するために
自己を消すという方法もあります
三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自殺を遂げたのは
自己を消すことによって世界を消す
平和主義的な世界破壊であったとも考えられます
2022.03.31記 つづく