ひとり旅 220412 ロシア編 (8  故郷 国家スポーツ共同体 隠岐本新古今和歌集 サリン

 

 

 

 

 

故郷とは何か?

サケが帰巣本能をもつようにヒトもまた生れ故郷にこだわります。さみしくなったら帰っておいでと招くのは母が待つ狭い故郷です。一方「堺事件」の箕浦猪之吉がフランス人公使に向け「日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったときの故郷は、潮江村でも土佐でもなく、故郷を最大限にひろげた日本国です。箕浦猪之吉以下11名は、フランスが意識させた日本人として国家共同体に所属したわけです。故郷とは、自分が所属する集団と対立する集団との関係の中で生まれる概念でもあります。

 

 

f:id:sakaesukemura:20220412101242j:plain

オホーツク海 河口で鮭釣り 2015.10.11

 

ハチマキ締めて「国の為」と言えば「あいつ右翼かよ」と白い目で見られますが、バットを握って「フォアザチーム」なら仲間の賞賛をあびます。チームは語ってもよいが国家を論じてはいけないという無言の縛りの中で、ぼくら戦後世代は生きてきました。

 

天皇」を意識させる「国歌」はよろしくないという議論もあります。古今和歌集で「君が代は千代に八千代に」と歌われた君とは天皇のことであり、天皇を言祝ぐ歌は、議会制民主主義にそぐわないという考え方です。が、そこまで否定されると高等学校で古典文学を学ぶことさえいけないことになります。世界史を横に見て源氏物語ほど緻密かつ長大な恋愛小説は他にないようであり、その古典文学を支える精神的支柱は天皇を中心とした秩序にあります。

 

源氏物語を読めば(拾い読みするだけで^^)すぐにもわかりますが、全編ことごとく恋愛がテーマであり、裏をあばいてカネをとる週刊誌でさえ手を止めそうな、あやしくも美しい領域に踏み込んだ愛の物語です。つまるところ天皇家のみなさまは御所にこもって恋をし、歌を詠み、文化をつくって世に広めて来たのであり、ウクライナを苦しめる国家元首のごとく権力をほしいままにする独裁者ではありません。

 

 

f:id:sakaesukemura:20220412101416j:plain

隠岐新古今和歌集 哀傷歌 太上天皇(後鳥羽上皇)

 

思いいづる折り焚く柴の夕煙

                     むせぶも嬉し忘れ形見に

 

その書体の見事なこと

文字とは即ち絵だなと

眺めるたびに惚れ惚れします

 

その天皇が本気でいくさを起こしたのは承久の乱くらいのものでしょう。鎌倉幕府に対抗した後鳥羽上皇は乱後、隠岐島へ流され、息子ふたりは佐渡島と土佐へ流刑されました。四万十川のほとりを住処とし「幡多郡中村の新町に常照寺を開基され井戸を掘って用水とされた」土御門上皇もまた歌の名手であり、中村(いま四万十市)の御座所から月を眺めた歌が残っています。

 

行きつまる里を我が世と思へども

                              なほ恋しきは都なりけり

 

土佐の高知の西の果てにあたる幡多郡は、21世紀の今でも東京からの時間距離がいちばん長い地域です。都から遠く離れた「行きつまる里」で土御門上皇は故郷を「恋しく」歌いました。苦労するのはイヤだけど「配所の月罪なくて見む」と罪人でなければ見えない月の美を安全地帯で味わいたいものだと書いたのは兼好法師です。「あらあら日本恋しや見たや」と故郷を懐かしんだのは天草生まれの唐行きさんだったような。先ごろ逝去されたカヌーイスト野田知佑氏に四万十川で出逢ったことがあるという東京在住の某編集長もまた故郷をなつかしむ人なので「これを食べて泣きなさい」と四万十川河口でとれた文旦を送ったところ、どうやら唇のサービスだけではないような感想が戻ってきました。要するに天皇から一般庶民まで誰にとっても故郷はなつかしい存在のようです。

 

その故郷にも大小があり、最大規模の形体が国家であるわけですが、国家⇒軍事⇒天皇制⇒戦争反対という流れ図で思考するのは、いささか無理があるように思うのです。むかし職場の日の丸君が代会議において「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」という文句が気にいらないとみえ「岩石がくだけてさざれ石になるのであって、ビデオの逆回しみたいに小石が巌に成長することはない。非現実的だ」と難癖をつけた人がいました。それもそうだなと思っていたところ後年、さざれ石が巌となることはあることを知りました。砕石が堆積し炭酸カルシウム他によって凝結するのだそうです。

 

 

f:id:sakaesukemura:20220412101432j:plain

さざれ石 舞鶴のホテルにて 2021.09.06

 

地質学はさておき、戦争反対氏の話は日本から武を削がんとするGHQの思想に由来したものでしょう。昔といっても数十年前の話ですが、あのころは軍事を連想させるモノコト考え方はすべて否定されました。憲法前文「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」みんなで仲よく生きようやとし、それで20世紀は無事に生きて来られたから「平和を愛する諸国民」がいなかったわけではありません。しかし21世紀の今「ロシア・ウクライナ戦争」はあのような事態にまで進展しました。ウクライナの状況を日本に置き換えて、どう説明するかと問い詰められた某政党の委員長は、

 

「党本部での会合で、ウクライナ情勢を踏まえ、急迫不正の主権侵害が起こった場合には、自衛隊を含めて、あらゆる手段を行使して、国民の命と日本の主権を守りぬくのが党の立場だ」と述べました。2022.04.07

 

自衛隊を否定しつつ「自衛隊を含めて、あらゆる手段を行使」するとは何ごとか、狐につままれたぼくらは、選挙むけの甘言かよ、もうちょっと分かるように説明してくれんかと思うわけですが、最も困惑したのは自衛隊否定党の信奉者ではなかったかと、、

 

日本中のメディアが、ロシアを悪と決めつけ、一斉にウクライナを向いたことに不気味な流れを感じないでもありませんが、ネットをめぐる恐ろしい映像を(眉に唾を付けながら)観るにつけ、核保有国ロシアが「公正」でも「信義」に足るものでもなかったことは確かです。恐るべきは独裁です。

2022.04.12記 つづく

 

 

 

<2022年の現在史>

2022.04.12午前 「ロシア軍がドローンから有毒物質を投下か」と伝えられました。マリウポリ市長は「死者数は2万人を超えるおそれがある」とも。1995年のオウム真理教よる「地下鉄サリン事件」を想起します。