ひとり旅 220509 ロシア編(15 西能登呂岬 シベリア強制抑留者 平和の礎

 

 

 

 

 

ウチはトマト農家なので最盛期の今は壁のように積み上げられたコンテナの前で毎日毎夜せっせと箱詰めしています。そこへ謎の?中国人がやってきてニーハオのあとで何か言いたげでしたが、彼は日本語も英語も解さず、こちらはシェシェと麻雀用語しか知らないので、あとは肉体言語しか残されていません。

 

無言のまま手と顔でコミュニケーションをはかるのはとても疲れる作業ですが、身振り手振りでがんばっているうちに彼は中国東北部満洲ハルビンの生まれ、近くの台湾料理店で働いていることがわかりました。故郷は「ハルビン!?」と驚いた顔を見せると彼は両の拳を握って震わせました。ハルビンはとても「寒い」そうです。

 

 

ハルビンチチハル宗谷海峡とほぼ同緯度

オムスクは死の家の記録」のドストエフスキーが収容された西シベリア

 

ウチの冷凍冷蔵庫は-30℃をウリにしていますが、マグロ船には-60℃の冷凍庫が設置されています。仮に海上が30℃として90℃の温度差を実現するには発電のため相当量の重油が使われるので寿司屋のマグロは石油の缶詰でもあります、という前振でハルビン満洲旧ソ連⇒シベリア抑留と連想しました。

 

 

宗谷岬の平和記念碑  2015.10.10

 

碑文には、アジア太平洋戦争が始まった昭和16年「宗谷要塞重砲兵連体が創設され」昭和20年敗戦の日まで「ある者は妻子と別れ、ある者は青春を空しくし、寝食を忘れて任務に就き北辺の護りに励んだ。更に(樺太南端の)西能登呂岬(ロシア名クリリオン岬) 要員は敗戦後もシベリアに抑留の身となり4年有余の辛苦の日夜を送った。この間再び故国の土を踏むことなく白玉楼中の人となった7名の僚友の霊に対し深く哀悼し」とあります。

 

 

高知県東津野中学校脇「高知県シベリア強制抑留者慰霊」銅像 2021.10.10

 

碑文には「ソ連スターリンは全面的降伏した我が日本軍を、戦争中の捕虜として流刑の地シベリアに強制連行して酷使し、飢えと寒さに耐えられず、8万人の将兵が惨たらしく死んで逝きました。これは国際法・人道上赦されぬ行為であります。この像は疲労困憊した兵が虱の猛威にたまりかね、伐採山で裸になり痩せ衰えた我が身体を見て落胆しながらも『俺は生きて帰り、この凍土の下に無念に眠る数多くの同胞の霊を浮かばせてやらねばならない』と故国の空に叫ぶ姿を描いた銅像です」とあります

 

 

平和の礎「シべリア強制抑留者が語り継ぐ労苦」巻Ⅹ

 

本書の出版日が平成12年3月

慰霊碑の竣工が平成12年11月なので

碑と書は関係があるはずです

 

本書まえがきには「終戦間近の昭和20年8月9日、旧ソ連邦は参戦し、終戦後旧満州 (満洲末尾に*補注)、樺太、千島から約575.000人の軍人等をシベリア等に強制抑留しました」とあります。635頁に及ぶ本書は第10巻であり、アマゾンで検索すると第15巻まで出版されています。

 

出版元の平和祈念事業特別基金は1)労役の実態 2)抑留者の統制管理の実態 3)抑留中の生活と極限状態における意識を明らかにすることが目的であり、本書巻10の執筆者は76人ゆえ単純計算して全15巻には1140人もの抑留経験者が、酷寒の地の実体験を記述しています。シベリアの強制労働とは何か? それを視覚化すると「高知県東津野中学校脇」で肋骨の浮いた銅像になるのでしょう。

 

夏休みの宿題を忘れた生徒を、白い部屋に閉じ込め、紙と鉛筆を渡して「作文しなさい」と命じるのはおろかな先生です。かしこい先生は「遊んだ経験を思い出して書きなさい」とさとします。プロ作家が書斎で空想をめぐらすのではなく、本書の執筆者は、数奇な運命に巻き込まれ、命懸けで一次情報を取ったのであり、どの頁どの行にも実体験の重みがあります。辞書ほどの厚みをもつ巻Xをめくっているうちに、たまたま目にとまった福井県尾上敏雄氏の「シベリア抑留を顧みて」から抜粋します。

 

 

平和の礎「シべリア強制抑留者が語り継ぐ労苦」巻Ⅹ末尾地図より

 

「8月9日ついに日ソ開戦となった」「8月15日ついに来るべきものが来た。正午、天皇玉音放送があった。私は通信室で日本の降伏を知り、筆舌に尽くし難い空しさと、敗戦のみじめさに涙が出てきた」「同僚の一人は、敗戦を悲しんで拳銃で自殺した」

 

ソ連軍の命令で、ハルビン市郊外の某日本兵舎に移動し、そこで武装解除された」「本当の捕虜扱いとなった」「天皇陛下の御為、御国の御為と教育され、ただ勝つことのみの教育ばかりで、敗戦してそれ以後の方針や教育はひとつもなかった」「11月19日、牡丹江から貨車に乗せられて当地を出発した」「監視のソ連軍ロスキーは“ヤポンスキー東京ダモイハラショ(東京へ帰る、良いだろう)”と言っていた。この言葉を信じて喜んでいた者と、またその言葉は欺瞞で、我々をソ連の陣地構築に連れて行き、終われば銃殺という悲観者もいた」

 

「防寒被服や防寒靴が支給された」「一列に並んで雪道を歩いた。食物も与えられず空腹のままだった」「見わたすかぎりの森林地帯、そしてそこかしこに転々と撤収した幕舎の跡があった」「この幕舎にドイツ兵の捕虜が収容されていたとのこと」「夜中に小便に起きて戻って来ると、もう寝る場所はない。しかたがないから次の者が起きるまで、中央のストーブ周辺で暖を取り待っている。この繰り返しだった」

 

「ここでの作業は伐採、道路工事、建物の基礎工事等に分かれた。私は森林伐採の作業に行くことになった」「空腹と酷寒、そして重い防寒被服をまとっての作業の連日」「その頃は零下35度は下っていた。生きて帰りたい一心でこの作業についていた」「朝の点呼に数人の姿が見えないので、各幕舎を点検したら、既に息絶えていた。かわいそうに栄養失調で死に神が迎えに来たのであろう。ここに約2カ月間滞在したが、その間に約100人ほどが栄養失調で亡くなっていった」

 

「零下40度近い酷寒と空腹、そして銃を持った監視付き、その上重労働の強制は、自分の気力にも限界を感じた。夕暮れになると望郷の念が強く、我が身もこれまでかと思い、人目をしのんで両手を合わせて合掌した」「大変な労働だったので、春を待つ4月頃までに300人ほどが亡くなり700人くらいになってしまった。亡くなった方の姿は、あばら骨がまるで洗濯板のようで、本当に骨と皮だった」

 

「我々の監督はソ連の囚人で、その上の監督はソ連軍法会議にかかったソ連の軍人、その上の監督がソ連正規の軍人とのことだった」「収容所の規則では、零下40度を基準として、39度では舎外作業に出るが、40度では舎内待機となった。

 

「野菜貯蔵庫の改築工事は~案外楽で、その上野菜等は十分いただき、食糧不足の折り大変助かった」「ソ連人宿舎の補修工事や個人宿舎の修繕~馬糧(乾草)の運搬作業や、馬鈴薯の植付けから除草、収穫まで色々な仕事をさせられた。しかし、どんな作業に分かれても、歩哨は監視について来た。そのため心の休まりはなかった」

 

「入浴は一人一桶くくらいのお湯が割り当てられたが、そのお湯で顔を洗い、身体をふく程度だった」「21年の夏ころだったか、全身の身体検査があり、ソ連の女医さんが私たち一人一人の尻の肉をつまんで1級から4級までに分けた。1、2級は所外の重労働、3級者は軽労働で、4級者は作業はなく、等級によって作業の量や食事の量が変わった」

 

「休日等は近くの川に行き魚取りや、野原に出ては若草や木の芽、茸などを採取して腹の足しにした」「あの頃は腹いっぱい食べたらいつ死んでもいい、一度でよいから腹いっぱいぼたもちを食べたい。いや何でもいいから、腹いっぱい食べたいと思っていた」

 

「21年の夏頃からと思うが、共産党の講義が始まった。~会場の正面にスターリンモロトフの写真があり、その両横に日本の野坂参三徳田球一両氏の写真があり、この写真に礼拝してから講義が始まった」

 

「ある日この病院内の監視人の時計がなくなった。その盗人の疑いが私にかけられた。~自分ではないことをどんなに説明しても、受け入れてくれない。この病院の軍医さん、上海に20年も住んでおられて日本語が上手にできる方が~取り計らってくれ、入院中のソ連の民間人が常習犯と分かり白状したので、私は直ちに自由帰還者の身となった」

 

「ナホトカ港に着いた。~舞鶴港へ入るころは波も静かだった。~藁葺き屋根の家々、そして日の丸の旗が見えた。帰って来たんだ。本当に日本だ。甲板の上で感涙にむせぶ声がする」

                                                                                    「平和の礎」巻Ⅹp225~234より

 

本書の執筆者は、北は北海道から南は熊本まで順に並んでおり、高知出身者が一人だけいます。斉藤拓三氏「密林の火葬」を引用します。

 

「氷点下30度~40度という寒冷の中を、毎日歩哨に銃を向けられながら伐採作業や木材の集積作業に従事したが、このような重労働のため疲労衰弱の上に、食糧不足による栄養失調に陥り、下痢を伴ったままやせ細っていく。その体は骨と皮ばかりになり、まるで枯れ木のようであった。山から帰る途中疲労のため倒れ、そのまま死ぬ人も増え続け、収容所から見える林の中では、死んだ人を焼く真っ赤な炎が夜を徹して燃え続けていた」

 

「死ぬと急激に頬がこけ始めるためか、頬の肉が骨に食いついて、まるで骸骨のようであった」「歩哨がマッチを一人の兵に差し出すと、その兵が屈んで火をつけようとしたが、寒さのため手が自由にならず幾度も繰り返すうち、ようよう火がついた」「心の中で黙祷しながら、薪木を運んでは炎に投入する。ぱらぱらと火の粉が、その人の御霊のように大きく暗黒の中に昇天して消えてゆき、その真下の真紅な一塊の炎だけが闇に閉ざされた大密林の中で灼熱のごとく猛り燃えているのである」「しかし、死ぬということについては恐れはしなかったが、この極寒にシベリアの密林の中で飢餓の状態のまま死ぬということは、人間として耐え難い矛盾のように思えた。生きたいと思った」

                                                                                        「平和の礎」巻Ⅹp 596~598

 

ぼくの父は、ハルビンの近く、北はソ連(ロシア)、西はモンゴルのチチハルで従軍していました。冬場に歩哨に立つと吐いた息が凍って耳の後ろでかすかな音が聞こえたそうです。気温が-40℃まで下がると軍用車が川を渡り、おしっこが積もったとも。敗戦後、武装解除され、北へ向かう列車に乗せられたとき、窓から飛び下りて走ったそうです。晩年の父が司馬遼太郎の「ノモンハン事件」を繰り返し読んでいたのは、小説を手がかりに、当時の記憶をさぐっていたのでしょう。

 

若い頃のぼくには、父の戦争経験を聴き取る力もなければ興味もなく、父がどのようにして満洲朝鮮半島を経て引揚げたのか訊くことはありませんでした。今にして思えば惜しいことをしたものです。もしも父がシベリア行きの列車に乗ったままなら、本書に描かれたような労務を強制されたであろうし、運が悪ければ大陸の北辺で身まかり、ぼくはこの世に存在しなかったのかもしれません。

 

 

*補注/ネットには「旧字体は『満洲』であるが『満州』の表記も用いられている。当用漢字、常用漢字『洲』がないためとされるが『満州』が中国の一部であることを強調するためと説明されることもある」とあります。この点は東洋史が専門の岡田正弘氏も論文の中で鋭く指摘しているところでもあります。

 

「平和の礎」には旧ソ連(ロシア)が、投降した日本兵を奴隷のごとく使役し、死に至らしめたことへの直接的構造的な批判が伺えません。ひょっとすると編集者に記述の細部また骨格において対中対露の政治的配慮があったのかもしれず、とすれば本書の資料としての価値は大きく減じられます。歴史は言葉なのです。

2022.05.09記 つづく

 

 

 

 

< 2022年の現在史 >

農業には「窒素リン酸カリ」の3要素が要ります。窒素は空中からとれますが、(年次によって数値はまちまちながら)一説に、カリは日本の必要量の25%をロシアとベラルーシから、リンは90%を中国から輸入しているそうです。2021.07.30に中国国内の一部肥料メーカーが「一時的に輸出を禁止する」と発表し農家に緊張が走りました。ウチは水耕栽培なので大量の肥料を水に溶かしてトマトの根元まで届けます。ロシアの切り札は核使用のみならず、石油・天然ガス、肥料にまで及びます。ウクライナ戦争が肥料に飛び火して農家の足元まで迫ってきました。桑原桑原です。