ひとり旅 2022.08.15  バイク編(1  廣井勇  青山士  久保田豊  八田与一

 

 

 

 

 

原付110㏄のクロスカブで7月21日に高知発

日本海キセルして北海道は小樽へ渡り

18県3524㎞を走って8月10日に戻りました

 

旅の記憶はヒトそれぞれですが

過ぎてしまえば幻のようでもある旅を意味づけるため

撮り溜めた写真を整理しながら所々ふり返ります

 

日本最北端の礼文島でルアー投げちゃろ、あんなものに食い付くバカ魚がいたら酒場の手柄話にはなるかなと考えバイクの荷台に釣り道具を忍ばせて出ました。しかし7月23日の小樽は肌寒く、氷雨そぼ降る北の空と丸裸のバイクは最悪の取り合わせやなと反省しきり、中国語なまりのオーナーが新装したドミトリーを占有し仕方なく3泊しました。

 

車高を低く押さえた改造4輪はシャコタン⇒小樽の西側は積丹半島をひと回りして北海道北部が快晴になる日を待ちましたが、ダウンジャケットを着て見上げる鈍色の空は、南国高知の感覚でいえば晩秋です。晴れれば気温は上がりますが、雨の中をバイクで飛ばしても意味がないので針路変更し、苫小牧から秋田へ南下しました。

 

(日本海美女ラインを)秋田⇒山形⇒新潟とゆるゆる下り、佐渡島の金山を冷やかしたあとフェリーで舞鶴へ戻る予定でしたが、(雨に追われて)岩手⇒福島⇒新潟⇒(フェリーに乗り損ねて)富山⇒石川⇒福井⇒(豪雨で道路が寸断され大きく迂回して)岐阜⇒三重⇒奈良と渡り、ざっくり上記地図のような線をたどって「よさこい鳴子踊り」のクニへ戻りました。▼たまたま小樽で「よさこいソーラン」祭に出くわし1990年代に高知から札幌へ飛び火した「鳴子踊り」の経緯を思い出しました。後日レポートします。

 

 

小樽港 街なかの看板より  2022.07.24

 

右端は「小樽港北防波堤」

設計者は高知県佐川町出身の廣井勇いさみ博士

生まれは文久2年 (1962年) というから坂本龍馬が活躍した幕末です

 

「小樽港北防波堤」はコンクリートブロックを斜めに積み上げた日本初の「斜塊構造」です。橋でも防波堤でも目に見える部分より水面下の隠れたところに技術者の苦心があるらしく、その道のプロは上を見ながら下の構造に思いを馳せるようです。

 

 

上空から見た「小樽港北防波堤」 ネットより

 

水平に広がる構造物を写真に撮るには高いところから狙うほかありません。この日のためにドローンを買い求めたものの独学で操作を覚えるにはあまりにややこしく仕事は忙しく勿体ないけど押し入れで寝ています。東北から中部地方にかけて広い農地に散在する「散居集落」を狙ったときにもバイクで、あっちへ走りこっちへ戻り、高さが取れれば絵になるのだがと残念でした。

 

弓に弦を張ったような防波堤は

幅7.3m、水深14.4m、全長1,289m

というから結構な深さ長さです。

 

素人がボンベを背負って水深14mで荒い息をするとアッという間に空気量が低下します。プロダイバーは筋肉の動きを最小限に押さえ特殊な呼吸法で酸素消費を倹約して長時間滞在しますが、深度と滞在時間は逆比例し、深場の作業時間はわずかなものです。ぼくのお師匠さんは「いきなり浮上すると減圧症で死んぢまう」ので両の拳を上下にくっつけ右左を繰り返すつもりでゆっくり上昇しなさいと教えてくれました。

 

お師匠さんによると、むきむきマッチョの力自慢を連れて潜ったとき「窒素酔いで」おかしなふるまいをしたから「鉄拳を喰らわして連れ戻したこともある」とのこと。へえそんなものかと話半分に聞き流し、一緒に水深19mまで降りたとき、なぜか無性にタバコが吸いたくなって口にくわえた呼吸器と水中眼鏡を外そうとしたことを覚えています。あれも軽い窒素酔いだったのかもしれません。思い出すたび恐ろしく以来タバコはきっぱりやめました。素潜りなら100m下がって急浮上しても気絶しないかぎり問題はありませんが、深い海面下で人工呼吸器を付けた長時間作業には様々な危険がともないます。

 

 

小樽港北防波堤のスローピング・ブロック・システム(斜塊構造)   ネットより

 

斜塊構造とは

「断面方向に幅が異なる三種類の斜塊ブロックを

垂直方向に互い違いとなるよう積み重ねて

ブロック同士が互いに支え合うような構造」とのこと

 

地上でも水中でも土木作業は地ならしが基本です。「斜塊ブロックを垂直方向に互い違いとなるよう積み重ね」と文字で書けばそれだけのことですが、写真のごとく「スローピング・ブロック・システム」が水面ときっちり平行を保つためには海底が水平でなければならず、そのためには何らかのかたちで人間が海底で目視する必要があります。防波堤が完成した明治41年(1908年)にスクーバダイビングの技術はなく、潜水士のヘルメットに水上からホースで空気を送る「送気式潜水法」が使われたのだろうと思われます。(今でも港湾工事にはこの方法が使われています)

 

 

遠くに見えるのが小樽港北防波堤  2022.07.24

 

うろ覚えの記憶ですが

完成後の小樽港北防波堤に嵐がやってきたとき

廣井勇は懐に短銃を呑んで事後調査に出たそうです

もしも防波堤が荒波にのまれ崩れていたら

「生きては帰れない」覚悟で出向いたそうですが

幸い防波堤に損傷はなく設計者は66年の天寿を全うし

沖の直線は114年後の今も建設当時の姿を保っています

 

田舎道には立派すぎる道路を走りながら、この道この土木は本当に必要なのだろうか、仕事のための工事ではなかろうかと疑念を抱くことがあります。公共投資の本質は生産と消費をむすび暮らしを豊かにすることにありますが、いつしか生産力が需要を超え有り余る力の捨て場に困って「タヌキしか通らない」立派なトンネルが山奥に出現するのかなと…決して山間部の住民また土木技術者の名誉をけがすわけではありません。飛躍した言い方をすれば、することがないから戦争でもやるかというのが石油文明の陥った罠のように思われます。

 

現代人は余りにも多くの構造物に囲まれ、もはや鉄にもコンクリートにも食傷ぎみですが、明治大正昭和を生きた土木家にとっては、仕事が人々の幸福に直結した迷いのない時代であり、つくれば悦ばれる。頑張れば報われる。工事と幸福の間に矛盾のない時代でした。

 

しかるに社会の必要から疎外された労働をもって

飯のタネとせねばならない現代とは何か?

廣井勇の生きた明治大正昭和の色褪せた写真が

無性になつかしく思われます。

 

 

小樽港運河公園に置かれた廣井勇顕彰碑  2022.07.24

 

「転機は1875(明治5)年にやってきた。~ 廣井少年は片岡に頼み込んだ。『どんな仕事でもしますから、東京へ連れて行ってください』母もそんなに行きたいのなら『行ってごらん』と許してくれた。廣井11歳の旅立ちだった」

 

「上京した廣井は~ 難関の東京外国語学校英語科の最下級に最年少の13歳で合格。内村鑑三や宮部金吾など生涯の友となる人たちともこの学校で出会う」「札幌農学校が~ 官費制であることから、さっそく受験した廣井は見事合格。数え年16歳以上の募集だったが、このとき廣井は15歳。入学規定を満たすため1歳サバを読んだようだ」

 

「廣井はクリスチャンとして、何事にも誠実であろうとした。私利私欲のためでなく、世の中のためになにができるかを常に考え、キリスト教の伝道に携わりたいという思いがあったようだ。しかし、卒業間近のある日、廣井は内村に対して次のように語っている。『この貧乏な国において、民衆の食料を満たすことなく、宗教を教えても益は少ない。僕は今から伝道を断念して工学の道に入る』こうして廣井は、工学によって人々の生活と心を豊かにすることを自らの使命とし、生涯をかけて実践していくのである」

草野作工株式会社HPより

 

教育者としての廣井勇は「寝る直前に床を敷いて、明かりを消し、正座して30分間、今日一日精魂を込めて学生達を教育したかと反省し、翌日の糧にした」wiki と伝えられます。

 

その廣井勇の薫陶を受けた多くの土木家の中に「荒ぶる川」東京荒川の「荒川放水路工事」をやった青山士(あきら)がいます。北朝鮮鴨緑江の「水豊ダム」他を建設し戦後無一文となって引揚げたあとアジア、アフリカ、南米の土木工事を請け負った久保田豊がいます。さらには台湾で「烏山頭ダム」を建設し嘉南平原をマラリアの猖獗地帯から緑の沃野に変えた八田与一もいます。

 

 

烏山頭ダムを見渡す八田与一の銅像 

顕彰碑なのに足を投げ出した珍な座像です^^   2017.10.19

 

三者に共通する信条を短くいえば青山士は「公共のため」。久保田豊は「約束を違えない」こと。八田与一は”男も女も日本人も台湾人もみな平等”という考え方でした。烏山頭ダム完成後の八田与一は、自分のために記念の銅像を建ててくれるというが、それはイヤだと駄々をこね、協議の結果、高いところから見下ろす立像ではなく地べたに座った座像ならよしというところで手を打ちました。三者とも他者と自分を水平の目でとらえています。

2022.08.15記 つづく