荒波寄せる小樽北防波堤
*佐川町立青山文庫刊「近代土木の先駆者広井勇」より以下同
スリランカは元イギリスの植民地であり
港湾土木においてもイギリスは尖端技術を有していました
軌道起重機でコンクリート塊を運ぶ
富国強兵、殖産興業の明治期には
欧米の学者を招きあるいは留学し
おそるべき勢いで港湾技術を吸収しました
小樽港北防波堤はその応用編であったといえそうです
運んで落す
今でも学者の世界には
「お弟子さん」という
古風な言葉が残っています
知識だけなら書を読めばよいが
新しい地平を開拓するには
師と仰ぐ存在が体から発する何かを
受け取らねばならないのでしょう
何かとは何か?
それは「気」と呼べるのかもしれません
元気、勇気、本気、やる気…
師のもつ雰囲気の「気」です
逆にいえば
戦後日本の教育界からすっぽり抜けたのは
師が弟子に言外の余韻で伝える
雰囲「気」ではなかったかと思うわけです
落とす前の整地作業は潜水士の仕事
ここで手を抜くと防波堤は水平をたもてない
港湾工事の潜水作業にご興味の方は以下へどうぞ
https://www.youtube.com/watch?v=wPRiFG1LtoE
「海底の自然傾斜に近い、緩やかな傾斜をつけ、土台が波の影響で削られる量を最小限にとどめる工夫」(*同上)がなされた海面下の坂道。その傾斜を駆け上がった波は「斜塊」前のブロックの階段によって力を減衰させます。へえ~なるほどと思いながら「海底の自然傾斜」を真似たところにほっこりするものを感じました。
弟子は師から「気」を受け取ればよいとして
師を蔭で支える力は何か?
廣井勇にとってそれはキリスト教であったようです
今の日本では連日宗教の弊害が報道されますが
とかく政治に首を突っこみたがる宗教グループはさておき
土木家になる前に伝道師を志した廣井勇にとって
キリスト教⇒神とは
人為を超えた大いなる存在への畏怖であり
道徳ではなかったかと思うわけです
互いに噛み合い一丸となって
荒波に対抗するコンクリートブロック
現代の港湾土木は、個々のブロックを寄せ集める代わりに巨大なケーソンを沈めますが、当時そのような大規模技術はありません。周囲を圧するほどデカいケーソンの型枠に重機でコンクリートを流し込む作業を見ていると、いかに自分が卑小な存在であるかを知らされます。人間が造ったものを見て人間がコンプレックスを感じるのは矛盾しています。人間は大きなものをつくり過ぎたのかもしれません。明治大正昭和初期の土木は規模が小さく多くの人手を要しましたが、むしろ小なるものにあらんかぎりの人為をこめたからこそ後世のぼくらは港湾土木に情緒めいたものを感じるのではないでしょうか。
話はオカへ飛びますが、
巨石を素朴に積み上げた高知城の石垣は、石の隙間から蛇が顔を覗かせたり、忍たま乱太郎が足を入れて忍術修行できそうで、およそ城塞の体をなしていないから、ぼくは「殿様の遊園地」と呼んでいました。ところがある日、高知の土木家に連れられ、石垣の角が日本刀の尖端のような反りを見せる前で「素朴に見えても実はしっかり計算されている」ことを知りました。面取りしていない石の組み合わせなので一見乱雑に見えますが、大津発祥の「穴太衆積み」の技法は熊本城にも高知城にも使われているのでした。高知城は平時に構築された城であり、要塞としての機能には今ひとつ不安が残りますが、構造上の強度は押さえているようです。
しかし熊本城の城壁は2016年の熊本地震で無残な姿をさらしたではないか、高知だって震度6だ7だの無茶苦茶な揺れに襲われたらひとたまりもないだろうと思っていましたが、さにあらず「地震で崩れた熊本城の石垣の大部分が明治時代に修復されたもので、築城当時の石垣はほとんど崩れずに残っていた」(ネットより)そうです。高知城だって竣工後412年を経る間には大地震にも揺られたはずですが、それなりに耐えて来たところを見れば、必ずしも後世の技術が過去の技術より優れているわけではありません。
技術は進化すると言われますが、ヒトと構造物の関係で言えば、それは「変化」にすぎません。たとえ地上1000mの建築をやってのけたにせよ、省エネの時代にべら棒な電力を使ってエレベータを上げ下げすることが「進化」と呼べるかどうか。「どうだ、すげえだろ」と力ずくの物理量で自慢するより、高さが欲しければ山に登ればよく、地上で歌のひとつも詠むほどの文化力を磨いた方がよろしいのではないかと思ったりしますネ。
日本初の港湾工事をやった人々には
力と誇りが漲っています
2022.08.27記 つづく