廣井勇先祖の墓から見た佐川町 2022.08.25
明治維新の6年前、文久2年(1862)に脱藩した坂本龍馬は高知市⇒梼原町経由で愛媛⇒下関へ向かいました。海沿いを通れば須崎市から(カワウソが棲息していた)新庄川を上って梼原町へ向かいますが、脱藩は人目を忍ぶ行為なので山道をえらび(お酒の司牡丹で有名な)佐川町の山中を抜けて梼原町へ向かったのかもしれません。同年、廣井勇はこの佐川町で生まれました。
佐川町の山裾にある廣井勇生誕地の石碑 2022.08.25
石碑裏面 2022.08.25
廣井勇は郷土が生んだ土木工学のさきがけであり
後年すぐれた土木家を輩出した師でもありました
石碑裏面には「港湾橋梁の碩学」と簡素に説明されていますが
今すこし具体的な説明があればと思いました
ご先祖さまの墓所 2022.08.25
左端「遊冥廣井先生墓」は案内書に「名教館の教授としても知られる曾祖父・廣井喜十郎(遊冥)のもの」とあります。「遊冥」は雅号かと思われますが、みずからの墓碑に本名ではなく号を置いたところにやや風変わりな人となりが偲ばれます。「遊」は外遊遊学の遊、「冥」は冥界幽冥界の冥だから次は冥土で学問しますよという意味でしょうか、廣井勇のおじいちゃんはどこか屈折した信念の人を思わせます。
そのむかし豪族と呼ばれる小規模集団が土佐各地に点在し互いに牽制しつつ勢力拡大を狙っていました。 (早明浦ダムが水を湛える本山町の)本山氏を破り、(国道55号線沿いの国虎うどんで有名な^^)安芸国虎を自害に追い込み、(四万十川は赤鉄橋の西と東で対峙した)一条兼定を攻略し…土佐統一の後、阿波讃岐伊予を攻めて四国統一を果たしたのが(ウチの近くの若宮八幡宮の参道入口に立つ)長宗我部元親です。
銅像下の豪族が群雄割拠する図 2022.08.31
長宗我部元親が四国制覇を完全にやり遂げたかどうかは異論があるそうですが、出る杭は打たれるの伝で土佐の豪族は浮き沈みを繰り返します。元親は織田信長と同盟を結んだものの⇒すぐさま破棄され⇒ヤバイところで明智光秀が「本能寺の変」を起こし信長をやっつけてくれたので事なきを得⇒晴れて四国統一を果たしたところへ今度は豊臣秀吉が元親討つべしとの因縁をつけて四国討伐隊を結成⇒(豊臣軍にかなうわけもなく)長宗我部元親は阿波讃岐伊予を放棄して降参し、土佐一国の領主に戻ったのみならず⇒豊臣秀吉のパシリにされて九州は島津氏と戦うも敗北⇒争いのなかで跡継ぎの長男を失った元親は人が変わった」そうです。
元親は長男の死後、次男三男という序列を飛ばし、四男の盛親に家督を渡すことになります。が次男は病死、三男は(何があったのか) 弟の盛親に殺害されるという戦国時代を縮小したような憎しみの絵図が展開されます。
桂浜花街道脇に立つ「六体地蔵」 2022.08.31
後継者争いを勝ち抜き土佐の新領主となった盛親は「関ヶ原の戦い」で西軍に与し、徳川家康と敵対したことから長宗我部氏は「改易」されます。
改易
武士の所領や家禄・屋敷を没収し
上籍から除くことをいう
蟄居より重く切腹よりは軽い
*大辞林
盛親は再び大名に返り咲こうと豊臣方に加勢し、徳川家康に対抗して『大坂冬の陣・夏の陣』に臨み」ますが、健闘むなしく敗北⇒盛親は5人の息子もろとも斬首され、長宗我部氏は滅亡しました。
2022.09.03記 つづく