ひとり旅 220907 バイク編(5 廣井勇 坂本龍馬 長宗我部元親 山内一豊 ウクライナ (B)

 

 

 

 

 

一領具足の碑 2022.08.31

 

旧豊臣軍vs徳川軍の争いが終わり

とりたてて素晴らしい功績を挙げたわけでもない

遠江掛川5万石の領主・山内一豊が論功行賞で

縁もゆかりもない土佐20万石の領主となりました

 

徳川の威光を背にした山内一豊は「浦戸城の明け渡し」を命じるわけですが、土佐はもともと長宗我部の国であり、国体を変えられてハイそうですかと引き下がる地侍がいるわけもなく、各地に散らばる「一領具足」は秘蔵の戦闘服に着替え、武器・弾薬(はあったかどうか)槍と刀で武装しゲリラ戦を展開しました。

 

一領具足

一領(一揃い)の具足(武器・鐙)

有事の際に武装して参戦する農民集団の名称

土佐国長宗我部氏によって行われた農兵制度

のちには土佐藩郷士」の別名となる

*大辞林&ネットより

 

 

桂浜 六体地蔵脇の石丸神社縁起 2022.08.31

 

石丸神社の案内板には「抵抗した一領具足273人の首は塩漬け」にして大阪へ送られたとあります。戦場で斬り殺された者は首を外され、捕虜となり後ろ手に縛られた者は次々と斬首されたはず、平時のぼくらは、ずらりと並んだ血だらけの頭部を思い浮かべ、なんと野蛮なことよと思うわけですが、古来戦場とはそのようなものであり、それは今も全く変わりません。▼きわどい映像は注意深く除去されていますが、ロシア軍の砲撃によって崩れたウクライナのアパート住民がどうなったか、あるいは砲塔を吹っ飛ばされた戦車の内部にいたロシア兵がどうなったか、ウロ戦争を伝える映像の空白部を想像すればすぐにも分かることです。「いくさ」が「戦争」と呼ばれるようになり残虐性は規模拡大しました。

 

 

高知城下の山内一豊像 2022.08.30

 

そのような経緯を経て土佐⇒高知には、山内一豊静岡県掛川から連れて来た「上士」と長宗我部くずれの地侍郷士」の区分が持ち込まれました。両者の間にわだかまる差別が具体的にどうであったかは歴史家の考証にまかせるとして、上士は政財界の要職を占有したであろうし、特権を奪われた郷士に不平不満が溜まったであろうことは疑う余地もありません。脱藩した坂本龍馬も廣井勇の曾祖父「遊冥廣井先生」も没落組の郷士でした。

 

*武田哲也・小山ゆうの「おーい!竜馬」は

両者の差別を誇張することによって

読者の感情をゆさぶります

 

*司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は余りにも有名で

おかげで高知は竜馬のロゴだらけ

漢字を6つもならべた高知竜馬空港もありますけど..

ビデオを持って生きた竜馬を追い掛けたかのごとき

小説司馬竜馬には付いていけないところがあります

 

 

山内一豊の妻と名馬の像 2022.08.30

 

案内書きには「17.8歳のころ一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。中でも結婚のとき持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが馬好きの織田信長の目にとまって出世の糸口になった」という逸話が置かれています。高知では有名な話ですが、つらつら思いますに嫁さんに買ってもらった馬がきっかけで信長とお近づきになれたことが武士の自慢になるものかどうか、偉人には胸を打つ物語が付き物ですが、今すこし格好のよいサクセスストーリーはなかったかと..まあどうでもよいことです。

 

 

高知城表門 2022.08.30

 

戦災で失われることもなく残った

天守閣と合わせて一見の価値ありです

 

90年代のいつだったか、とある集まりに参加したとき休憩時間にふと「占領軍」という言葉を耳にしました。なんのことかとよくよく耳を傾けると、ここは長宗我部の「土佐」であり、論功行賞で家康から与えられ遠路はるばるやってきた山内の「高知」ではない。ヤツは占領軍だというワケです。へえ~そんな考え方もあるのかと驚きましたが、なんせ400年も昔の話だから色々あっても時の彼方の物語であり、ぼくなど余裕をもって歴史を愉しめます。そもそもわが家は土佐の高知の端っこの宿毛という僻遠の地にある先祖代々の農家であり上士でも郷士でもないので生まれ故郷の行政区分が土佐だろうと高知だろうとぼくのidentityに抵触する問題ではないからです^^

 

 

高知城表門欅?の梁 2022.08.30

 

継ぎ目なしの一本柱

見上げるだけで立派な古材が鑑賞できます

槍鉋で削った表面はザラザラしていますが

ペンキを塗るより長持ちするそうです

 

しかし休憩中のおじさんたちには深刻な問題だったらしく、やがて城下に設置された占領軍⇒山内一豊像の撤去を求め、あれは宗教施設であり公共の場に置くべきではないという論法で裁判を起こした記憶があります。(ネットを検索しても見当たらないので有耶無耶になったのかもしれません) してみれば、おじさんたちのご先祖さまは「一領具足」の末裔であり江戸期には不平不満をつのらせた郷士であったのかも..「土佐」と「高知」の間には今なお零落者の悲哀が沈んでいることを知りました。

 

 

高知城の石垣 2022.08.30

 

エジプト人も一目置くにちがいない大坂城の石垣に置かれた巨大な岩石、あるいは登ろうにも靴を差し込む隙もない本気の要塞⇒熊本城の石垣とは比較になりませんが、高知城の「野面積み」は、船でいえば龍骨にあたる角の曲線にきっちり面取りした石が置かれ、自然と人為がほどよく調和した美しい石組みです。

 

 

三の丸の石垣 2022.08.30

 

自然石を積み上げた石垣は隙間だらけ、地震がゆれたらヤバイんじゃねえのと心配するムキもありますが、さにあらず「穴太衆積み」の特徴は「積み石の内寄りに重心を置き、石垣の奥に大きさの異なる2つの小石の層を設ける」ことによって「石が安定し排水がしっかり行われ」、耐荷力実験では「コンクリートの1.5~2倍の強度」が確認されたというから、むしろ昔の土木の方が丈夫で美しいとも言えます。

 

 

 

★まとめにならないまとめ

この段で言いたかったことは以下の3点ですが

うまくオチないうちに時間切れとなりました

 

1、過去の土木とは比較にならないほど

現代土木が「進化」した..というわけでもない。

 

2、歴史をなつかしむ人たちは

歴史の時間軸を好みの一点で切り取って

identityのよりどころとする

 

3、遠い歴史は物語として愉しめるが

つくられつつある歴史は恐ろしい

 

3⇒かつて満洲で戦車兵をやった司馬遼太郎が、今なお存命でウロ戦争を見たとして、砲塔が吹っ飛びキャタピラが崩れた無残な戦車を見て何を思うのでしょうか。とりあえずぼくら日本人にとっては地球の裏側の争いという距離があるのでやや余裕をもって戦争の成り行きを見られるのですが、戦車兵の記憶を引きずった司馬遼太郎がウロ戦争の行方をどう読むか、叶わぬ夢ではありますが、非常な興味があります。▼荒っぽく言えば明治はよかった。昭和はいけないとするのが司馬史観のホネです。ならば昭和の何がいけないかを具体的に描いて欲しかったわけですが、明治以前の物語はどっさり作っても昭和の大戦史には触れぬままでした。

 

ネット情報と比較するかぎり偏向(あるいは些末記事を大きく扱って大事なところは伝えない)表メディアにぼくは深い疑念を抱きます。普通に考えてウクライナは次の台湾であり南西諸島および北海道をふくむ日本です。Russia高官は北海道をオレのものだと言い、Chinaは尖閣のみならず沖縄諸島に虎視眈々です。孫子の兵法に「戦わずして勝つ」という名文句がありますが、沖縄で現地の新聞をめくるたび、ひょっとすると日本国は「戦わずして負ける」のではないかと思うことさえあります。

 

戦後民主主義という名の敗北史観で教育されたぼくら世代は、平和が大事、命が大切と当たり前の文句を後生大事に唱えてきました。しかし今いちばん大事なのは、どうやって平和をつくるか、命をまもるかではないでしょうか。与党も野党もこそこそした議論ばかりやっておらずに、今のウクライナ(他の荒れた国々)のごとく限界状況に置かれたときどうするのか、戦後77年の平和を経て、辛い議論をせねばならない時にきたと思うわけです。

 

 

下記、ロシアの軍事が専門の小泉悠氏と

テレ東の豊島晋作氏の対談です

うなりました。ご参考までに

https://www.youtube.com/watch?v=noQd_19fWm8

 

2022.09.07記 つづく