230311 ひとり旅 日本所々(24) 承久の乱P 土御門天皇 土佐國の幡多 じゃがたらお春 春風馬堤曲   WBCチェコ選手

 

 

 

「土佐國幡多といふ所」にある奥御前宮  2022.12.12

 

郷土史家によると土御門上皇が「幡多」まで来たかどうかは確証がないようです。しかし行在所をピンボイントで確定したからといって歴史の何が見えるわけでもなく、ぼくにとっては不遇の天皇が土佐に滞在したという事実だけで充分です。

 

都を故郷とする親子三上皇

隠岐佐渡、土佐へ配流され、望郷の思いやまず

ふたたび都の土を踏む日を夢見て歌を詠みました

 

土御門天上皇は、詠歌を趣味としつつも「よろづの事もて出でぬ御本性にて*」出しゃばることはお嫌いで「人々など集めて、わざとある様には好ませ給はず」わざわざ歌会を催す事はお好きでなかったことからも万事控えめな性分だったようです。その意味で明月記に「紅旗西戎は我が事に非ず」と記し軍事に興味をもたなかった定家と通じるところがあったのかも知れません。承久の乱の首謀者は後鳥羽上皇順徳上皇であり、土御門上皇は「初めより知しめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど」承久の乱に関与していなかったことから敗戦後の軍事裁判において罪を問われることはなかったのですが、「父の院、遥かにうつらせ給ぬるに、のどかに宮こにあらん事、いと恐れあり」父後鳥羽上皇隠岐島へ配流されたにもかかわらず自分だけ都でのうのうと暮らすことはできないと考え、あえて望んで土佐配流の罪を受けたわけです。(*増鏡以下同)

 

うき世にはかかれとてこそ生まれけめことはり知らぬ我涙かな  (土御門上皇)

 

徳島から室戸を越え土佐へ向かう道すがら「雪かきくらし風吹き荒れ吹雪して*」この先のどうなることかと「御袖いたく氷りて、わりなきこと*」多く、このように苦しい旅を強いられるのも前世の因縁かと涙を流すばかりでした。

 

 

遍路図 ネットより

 

四国遍路を終えた人に訊くと徳島「薬王寺」から室戸「最御崎寺」間がもっとも長く、途中に宿も少なく難儀するそうです。わずかな「御供」を連れ、黒潮洗う海沿いを「あやしの御手輿(みたごし簡素な御輿)」に乗り、かつて紀貫之国司として滞在した南国市周辺あるいは増鏡に記された「幡多」をめざしたのでしょう。

 

鏡野やたが偽りの名のみにて恋ゆる都の影も映らず  (土御門上皇)

 

この歌は徳島で詠んだものらしいのですが、ひょっとすると上皇が歩いたかもしれない高知工科大学前の「鏡野公園」と架空すれば、その「鏡」野とは名ばかり「都の影」も映らないではないかと不平不満を述べた歌になります。すると(鏡野からさほど遠くないところで働くぼくには)旅姿の上皇ご一行が映画のごとく哀しく見えてきます。

 

吹く風の目に見ぬ方を都とてしのぶもくるし夕暮れの空  (土御門上皇)

百敷の庭の橘おもひ出でてさらに昔をしのぶ袖かな      (土御門上皇)

 

たどりついた異境の地で思うのは都のことばかり、夕暮れ時に都の空を仰ぎ、蜜柑の花の香をかぐにつけ「しのぶ」「しのぶ」と故郷がしのばれるのでした

 

 

ジパング隠岐佐渡、土佐

熊本県天草市崎津集落ガイダンスセンターの展示より  2020.08.31

 

伊能忠敬が驚くほど詳細な日本地図を完成させたのは19世紀初頭であり、16世紀に日本を訪れたスペイン人が所持していた日本地図がこのようなものであったことから13世紀の日本人にとっても四国はおよそこのようなイメージだったのかもしれません。離れ小島に幽閉された父後鳥羽上皇隠岐島海士町に18年滞在し60歳で、順徳上皇佐渡島真野町に21年滞在し45歳で、土御門上皇は土佐⇒徳島に10年ほど滞在し37歳で崩御します。

 

谷深き草の庵のさびしきは雲の戸ざしの明け方の空        (土御門上皇)

行きつまる里をわが世と思へどもなほ恋しきは都なりけり  (土御門天皇)

 

本州本土から見れば四国は島であり「土佐國の幡多」地域は「行きつまる里」です。21世紀の今、高知⇒四万十市は高速道路を2時間ほど走れば行き着きますが、人馬が行き来した800年前の往還は、トンネルをぶっ飛ばすわけにもゆかず、途中にコンビニがあるわけでもなく、食事ひとつ取ってもさぞ難儀な道だったことでしょう。その土佐國のどん詰まり「幡多」という「行きつまる里」で土御門天上皇は、都の空を眺めては「さびしく」「恋しく」歌いました。

 

「さびしさ」とは、あるはずのものが欠けて満たされない状態を言います。土御門上皇にとって「あるはずのもの」とは、都の風景であり、都の人々との関わりだったはず、幼少期にインプットされた都の記憶が強い磁場をもって「故郷」に惹き付けたのでしょう。▼逆に言えば「土佐國の幡多といふところ」で生まれたぼくが、京都の町を歩き回って草臥れて、土讃線の下り列車に乗ったときの感覚かもしれません。

 

 

市松模様の袱紗に書かれた「じゃがたら文」 ネットより

 

イタリア人を父にもつ14歳の美貌の少女「じゃがたらお春」が、江戸初期の鎖国令によりインドネシアに追放され、故郷の「うば様」宛てに茶を贈った袱紗の書き付け末尾の文面です。

 

かりそめにたちいでて

又とかへらぬふるさととおもへば

心もこころならずなみだにむせび  (中略)

おもひやるやまとの道のはるけきもゆめにまちかくこえぬ夜ぞなき(後略)

あらにほん恋しや、ゆかしや、見たや、見たや、見たや

 ?

この一文は西川如見の偽作ではないかという説もありますが、仮に偽作代作であったにせよ、ありもせぬ出鱈目を創作したわけではないでしょう。時代の流れに翻弄されジャガタラ(ジャカルタ)に追放された少女に代わって思いを述べた歌と捉えればとりたてて問題はありません。あたかも鮭が故郷の川へ誘われるように生まれ故郷の日本に惹かれ「あらにほん恋しや、ゆかしや、見たや、見たや、見たや」の一節が有名です。

 

 

ネットより

 

江戸中期の与謝蕪村は、奉公先から休暇をもらい淀川を下って母の待つ故郷へ帰る少女に仮託した「春風馬堤曲」をものにしています。日本文学史の中からお前の好きな詩をひとつだけ挙げよ、と言われたらぼくは迷わずこの詩を挙げます。▼漢文和文を重ねた長い自由詩末尾には、やっと辿り着いた「春又春」の古里で母と再会し、枕を並べた幸せが綴られます。

 

戸による白髪の人

弟を抱き我を待つ 春又春 

藪入の寝るやひとりの親の側

(春風馬堤曲)

 

鮭の故郷が川であり

ぼくにとっては幡多であり

乱の三天皇にとっては京の都が

プーチン大統領にとってはロシアが

なつかしさの因って立つ空間なのでしょう

 

戦争とは土地と人口の奪い合いですが

その情念の淵源をたどれば、各々が

どこに故郷をもつかによるのかもしれません

 

さて昨年12月から書き始めた「承久の乱」シリーズをABCで区分けしていたところ、うっかりLMSと記し某編集長より「服のサイズじゃないんだから」真面目にやりなさいとお叱りを受けました。だらだらと書き綴るうちに梅の春から八重桜に交替したところで「乱」を閉じます。

 

気がつけば2020年3月から始めた「ひとり旅」も足かけ3年197本目⇒たまたま「土佐國幡多といふところ」の四万十川源流から河口までの距離197㎞になりました。世の中には長大な小説や漫画をつくる人たちがいますけども書き手のエネルギーはどこから湧いてくるのだろうというのが積年の謎でした。自分でやってみて少し分かったことですが、探れば探るほど謎は広がり興味が湧いてくるのですね。しかし人生は短く時計を見ながら田んぼと書斎を行き来する毎日です。

2023.03.11(震災12年目)記 つづく

 

 

 

 

< 2023年の現在史 >

3月11日WBC対中国、対韓国につづく対チェコ戦ではスポーツの原点を見せられました。チェコ選手は各人が職業をもつセミプロ集団らしく先発したサトリア投手は電気技師、他は金融トレーダー、学校教師、野球連盟の職員、セールスマン、消防士、学生、三塁コーチは木こり、監督は精神科医と多彩な職業人が野球で結ばれ東京ドームで非プロ的ベースポールを展開しています。

 

サトリア投手の直球は120㎞/h代というから佐々木投手の160㎞/hに比べれば見劣りしますが、チェンジアップで大谷翔平を惑わせたところがニュースになりました。チェコチームの目標はWBCに参加することにあったらしく選手交替のさいも終始たのしげな表情を浮かべています。

 

時速120㎞の直球は田舎の高校生でも出せなくはありません。が、死に物狂いで投げた石が目の前から飛んで来るわけだから打席に立つと恐怖です。高速道路で120㎞/hの速度に乗ると視線が狭まります。漫画に描けば先細りの効果線で速度をあらわす絵になるでしょう。かつて高校野球の練習を見ているうちにむらむらッとして「オレにも打たせろ」とバットを握ったことがあります。目の前を掠める球を見、こいつが変な気を起こしたらオレは死ぬと思いましたね。

 

むきむきマッチョの元ラグビー選手が「野球は軽スポーツだ」と斜めにつぶやいた言葉を覚えています。しかしもし彼が佐々木の全力投球を打席で見たらどうなんだろ…160㎞/hの球は映像で見ても重力無視の直線だから思わず体がよけて前言撤回したりして^^! ▼ぼくの中学時代の同級生は高知市の高校でラグビーをやっていたとき飛んできた野球の球が頭に当たり、当日は何事もなかったようですが、翌日亡くなりました。丸顔の彼の笑顔を今でも思いします。

 

野球ニュースは書き込みが面白いです。なかに「中国、チェコとの対戦は次回も見てみたい」との一文がありました。韓国を入れなかったのは韓国投手がヌートバー選手の背中に当てた死球に対する当てつけを含むかと思われます。その場面をアマプレで再生し、素人目ながら怪我をさせないていどに「狙ったな」と思いましたね。とりわけ対日戦においてなぜ韓国人選手は危険球を投げねばならないのだろう…

 

ぼくは人生で一番大事な40~50代に多くの韓国人と付き合ってきました。長い年月を経た今、たのしかった日々とその背後にある必ずしも愉快でないコトの意味を「ひとり旅」するときかなと思い始めています。