ちょっと道草 200909 Goto まとめ2 潜伏キリシタン

 

 

 

 

 

f:id:sakaesukemura:20200909065157j:plain

福江島三井楽の海岸墓地 200830

 

やはり写真には色が欲しいので

三度目の挑戦で早起きしました。

 

 

f:id:sakaesukemura:20200909065242j:plain

福江島井持浦教会のルルド 200829

 

ルルド聖母像を守るように

オオタニワタリが葉を広げ

島っぽい雰囲気を醸しています

 

 

f:id:sakaesukemura:20200909065406j:plain

上五島若松島土井の浦教会のルルド 200826

 

ルルドとは聖母があらわれたフランスの村の名

今はカトリックの聖地とされています

聖母が出現した奇跡の物語は以下の通りです

                                               *     *    *

ルルドは、南フランス、ピレネー山麓の小さな村です。一方に岩山があり、その上には城がそびえたち、そこからこの村を見渡すことができます。現在、ここには4つの教会と多くの病院が建ち、世界中から巡礼に訪れています。特に、病気の癒しを求める人々が熱心な祈りをささげます。またカトリック教会では、2月11日をルルドの聖母の日として祝います。なぜ、人々がこの寒村を訪れるのでしょう。


 これは1858年2月11日、ベルナデッタ・スビルー(1844-1879)という14歳の貧しく無学に近い少女に、聖母マリアが現われたことにはじまります。ベルナデッタは、薪を拾うために妹のトワネットと隣の石切り屋の娘ジャンヌと一緒に出かけました。他の少女たちは、水路を渡り向こう岸で薪拾いをはじめたのですが、喘息で体の弱いベルナデッタは、それが出来ず渡れるところを捜していました。どうしても捜し出すことができなかったため、岩壁の下にある小さな洞窟の前で靴を脱ぎはじめたとき彼女は、風の音のようなものを聞きました。


そしてベルナデッタは、小さな洞窟から光が輝射し、その中に真っ白な着物を着て、両手を開き、ほほえんでいる美しい女性を見ました。そのとき、ベルナデッタはポケットに手を入れるとロザリオに触れ、ひざまずき、この方の前でロザリオを唱えました。「15日間ここに来るように」とその女性から言われたベルナデッタは、洞窟に通い続けました。はじめは、ベルナデッタがおかしくなったと思い、冷笑していた人々も、しだいに彼女とともに、洞窟に通い、祈るようになっていきました。


2月25日のご出現のとき、その女性の言われるままに、ベルナデッタは洞窟を掘り、そこから湧き出た濁った水を飲みます。人々が後で、彼女が掘った穴を見つけ、同じように水を飲もうとすると、水は量を増して、こんこんと湧き出、次第に澄んでいきました。その日のうちに水を汲み持って帰った人がいました。彼は、片目を病んでいましたが、何日かたつとその目を覆っていた眼帯はとれました。


ベルナデッタが、その女性に「あなたはどなたですか。」と尋ねると「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ(私は無原罪の御宿りです)」とお答えになりました。
聖母は、ベルナデッタに18回現われ、そのメッセージは「罪を償うことと、ここで行列をし、聖堂を建てて欲しい」ということでした。


聖女ベルナデッタ
聖女ベルナデッタ


詳しい調査の結果、カトリック教会はルルドに聖母が現われたことを認めました。その後1866年にベルナデッタはヌヴェールの修道院に入り、2度とルルドを訪れることはありませんでした。ご出現から21年目の1858年、病弱な身をイエスに捧げながら35歳の生涯を閉じました。現在、彼女の遺体は腐敗せぬまま安置されています。1933年、ベルナデッタは聖人に加えられ、記念日は4月16日とされました。

         「ルルドの聖母キリスト教マメ知識」ネットより

 

 

f:id:sakaesukemura:20200909065447j:plain

上五島の三叉路中央に置かれたマリア像 200824

 

どの教会のマリア像も頬のあたりがふっくらとして若く美しく慈愛に満ちたお顔をしていらっしゃいますが、ここ上五島の道の真ん中でキリストを抱く聖母は、丸顔の東洋人であられる故か、あるいは曲面を重ねた構図が重力との関係式において矛盾なくわれわれを迎えてくれるからか、白人像とは違う親近感を覚えます。ここはスクールバスの停車場でもあり女子中学生がバスに乗り込む姿が見えました。朝な夕な母と子が対面する原初的な構図を見る彼女は心のどこかに大切なものを沈着させているのかも知れません。

 

 

 

f:id:sakaesukemura:20200909065520j:plain

福江島カトリック堂崎教会 200827

 

明治6年、西洋からの圧力によって禁教令が解かれ、俄かに活気づいた潜伏キリシタンは、大正昭和にかけて至る所に立派な教会を建設しました。この堂崎教会もそのひとつ、中に入ると天井を作るリブヴォールトの組み合わせが美しく、中央上部のステンドグラスから色の付いた光が落ちてきます。神社仏閣にはない光の使い方です。その宗教空間が賛美歌の歌声で満たされると日常を超えた天上世界があらわれ、宗教的な高揚感を覚えることになりそうです。

 

 

f:id:sakaesukemura:20200909065558j:plain

福江島楠原天主堂 200829

 

朝早く起きて海岸墓地のマリア像を撮り、この天主堂にたどり着いたらミサが終わった直後でした。カトリックの礼拝では皆このような衣装で身を包むものなのでしょうか、時節柄マスクを付けた信者さんは同じ服装で教会を後にしました。場違いな格好をした自分は迷惑かもしれんなと遠慮していたら「朝はやくからお疲れさまです」と笑顔のご挨拶をいただいたのでホッとしました。教会内部の写真撮影は禁止されており、ミサ後の数分に信者と遭遇する機会はまずないので貴重な一枚になりました。

 

 

f:id:sakaesukemura:20200909065650j:plain

上五島頭ケ島天主堂 200825

 

たとえばフランスの田舎町でこの教会を見かけても取り立てて違和感はないでしょう。しかしここは平戸や長崎から遠く離れた上五島であり、さらに海峡で分断された小島の入り江です。バイクで走ってもGoogle mapで見下ろしても、平地といえば教会周辺にわずかな面積があるばかり、教会関連地と共同墓地で全面積を使い果たした今は芋畑の面積さえ残っていません。衣食住に優先順位を付けたなら真っ先に食が来ます。この島に入植した人たちはいったいどうやって暮らしを立てたのか、ぼくなど石造りの立派な教会を見て驚く前にメシのことが心配になります。

 

クニの自慢になりますが、宿毛宇和海国立公園は島と半島がつくる美しい海域です。それを見た観光客がきれいだなと呟くのは簡単でも、道も車もない昔ヒトはどうやって生きたのか、年がら年じゅう魚と貝と海草だけではちょっとな、炭水化物も欲しいし ☞ 答えは急斜面の段々畑にあります。

 

高知県宿毛市沖ノ島は今でこそ照葉樹が繁る森に包まれていますが、森の中を歩くと木の根元に段々畑の石組みが標高404mの頂上まで残されています。愛媛県宇和島市遊子水荷浦には、観光用ではありますが、段々畑が大切に保存されています。当時の写真を見ると「耕して天に至る」という名文句は、この芋畑のために作られたのではなかったかと思われるほどで、石と土の急峻な階段が等高線のごとく天に昇り、それを実現した農民の勤勉さに圧倒されます。

 

 

f:id:sakaesukemura:20200909065741j:plain

森に埋もれた頭ケ島天主堂遠景 200825

 

では上五島の頭ケ島はどうなのか、残念ながら森の中に入っていないので何ともいえませんが、この頭ヶ島の教会周辺も、前日訪ねた津和崎灯台に向かう半島脇の集落もかつては段々畑の擂鉢の下ではなかったろうかと思うわけです。「だったらなぜ森に入って自分の目で確認しなかったの?」 と問われるならお答えしますが、えいやの勢いで持病を押してクニを出たのが間違いで、足引きの病に祟られ、鎮痛剤で騙しだましのバイク行でした。森歩きどころではなかったので、次に行ったときには調べてみます。

 

 

f:id:sakaesukemura:20200909065813j:plain

頭ケ島天主堂建設のために石材を運ぶ信者たち

教会脇のパネルより 200825

 

教会という公共建築は材料と労力を組み合わせて行なわれる総合芸術です。天主堂を建設するため、まずはみんなで議論し、位置を決め、技術者を呼び、費用を算出し、どれだけの石材が要るか、その石材をどこで切り、誰がどうやって運ぶか等々こまかな決定がなされてやっと動きます。祭りの日のご馳走作りみたいなもので、みんなが参加し、手分けして作ることに意味があるわけです。竣工式には村人すべてが集まり涙を流して喜びを分かちあったにちがいありません。

 

東京都庁東京スカイツリーといった大規模建築は、税を取られるヒトと造るヒトのよそよそしい関係の中で工事が進行します。つくり手といっても複数の業者が寄り集まった分業体制だから、エレベーターはウチだけど通信関係はアノ会社という風に分断され、担当部門ごとに祝杯を挙げることはあっても全ての関係者が一同に会して完成を祝うことは、そもそも物理的に不可能です。竣工の式典では知らない人がテープを切り、都民は口を開けて見上げるだけと言ってしまえば失礼ですが、どう考えても小さな島に天主堂を完成させた人達とは喜びのレベルが違います。ヒューマンスケールを超えて工事が大規模化すると、人間は疎外され、技術が一人歩きすると悲しく括ってよいかと思われます。

 

                                                                               

f:id:sakaesukemura:20200909065908j:plain

頭ケ島のキリシタン墓地 200825

 

石材は向かいの島から船で運んだそうです。島で生まれて島で生き、祈り、互いに助け合わなければ生きていけないので、反目するより引き合うことの方が多かった。似たような暮らしのなかで強い仲間意識がつくられ、やがて誰もが別れの日を迎えるけれど、目の前に一時滞在するホテルがあり、時が来れば天国へ昇って行ける。あの世に行けば先祖と会える。葬儀で世話をかけた今の世の滞在組もいずれやって来る、、という生と死と昇天の経過が無理なく想像できるとすれば、死は恐れるほどのことではないのかもしれません。

200909記 つづく