ちょっと道草 200914 Gotoまとめ3 集まること

 

 

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フェリーから五島列島を望む 200830

 

その昔、知り合いの女性と高知大学でお会いし大教室の片隅で長い話をしたことがあります。日もとっぷり暮れ、それでは左様ならと手を振ったとき彼女の顔に影があることに気づきました。それは水銀灯の角度が作ったものかも知れませんが、漫画家がわずかな線であらわすところの影の描画が思い出され、こちらの世界とあちらの世界を行きつ戻りつしているかのような彼女にとって、もはや私の存在はなきに等しいものでした。

 

 

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福江島玉之浦の小島 200829

 

 

どうしたのだろと思いつつ半年ほど過ぎたころ訃報が届きました。じつは彼女は重い病を背負っており密かに闘病生活をしていたそうです。あの影は彼女の体の内部からの作用であったのでしょう。参列者がごった返す斎場で無宗教の葬儀が執り行われましたが、僧侶も宮司もおらず、線香の香も榊の葉もない祭壇に、菊の花を捧げてご挨拶としました。無宗教の方にはお墓も不要であったのか確か彼女の遺灰は海に撒かれたはずです。後日、彼女のお友だちが新聞か何かに追悼文を載せておられました。仰げば雲の輪郭があなたの笑顔に見える。天国で安らかにといった内容でしたが、無宗教の人が天国へ行くものかどうか、いくらか迷いつつ考えさせられたことでした。

 

 

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福江島玉之浦 200829

 

親戚筋の葬儀の際、参列者への挨拶の草稿に身内の者が「天国」の文言を入れたところ斎場の担当者がやって来て、仏式の挨拶に天国はいかがなものか、極楽には向かわれるはずですが云々のチェックが入ったことでした。逝きて尚たのしくあれかしと願う遺族の気持ちのあらわれだから行き先が天国だろうと極楽だろうといいじゃないのと神道ベースの自称仏教徒はおおらかに考えるものですが、宗教家にとってはそうはいかないようです。

 

 

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福江島玉之浦 200829

 

「人は死ねばゴミになる」という乱暴な標題の書を残した人がいます。死んでゴミになる人の心に宗教は存在しないので、彼はこの世における物質的な役割を終え、燃されて炭酸ガスとなり、天国にも地獄にも向かうことなく、すべては終わった、、と言えるのかどうか。ご本人はそれでよいのかも知れませんが、遺族の心には生前の彼の意思が残るはずだし、後輩は彼の仕事を引き継ぐわけだから、ゴミになった彼は死してなお後世の心の中で生き続けます。その辺の配慮もなく「ゴミ」だなんて言ってしまう検事総長はアタマ悪いのではないか、ゴミの後始末をさせられる者の身にもなってみよとまあぼくなど思うわけです。あるいは彼は若いころ特殊な思想に染まったのかもしれません。

 

 

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富江湾を経て鬼岳を望む 200829

 

かつて知り合いの女性と京都は平安神宮のあたりを歩いていたとき、鳥居を見ると条件反射的にパンパンしたくなる自分が「ちょっと寄ってきますね」と声をかけたら「わたしはクリスチャンですからここで待ちます」とのこと、そのとき初めて彼女がプロテスタントであることを知りました。教会で祈りを捧げたこともなく、聖書を読み込んだわけでもない自分にカトリックプロテスタントの違いはよく分かりませんが、カトリックローマ教皇を頂点とするピラミッド型の権威主義であるのに対し、プロテスタントは聖書中心の百家争鳴型とざっくり捉えています。どちらが好ましいかは人の趣味によりますが、ここ五島列島キリスト教はすべて、大小にかかわらず教会が置かれ、ミサを執り行うカトリックです。

 

 

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水ノ浦教会のルルド 200827

聖母の出現に遭遇した聖女ベルナディッタ

 

福江島の水ノ浦教会の門には「私は門である。私を通って入る人は救われる(ヨハネ)」という箴言が大きな文字で彫られています。あくまで個人の趣味で申せば、門を通っただけでなぜ「救われる」のか、その根拠は何かとついいらんことを考えてしまうのです。キリシタン墓地の碑に置かれた様々な箴言も、論拠を示さず結論を押しつけるカトリック型であり、ものごとを理屈で考えがちの自分にはどこか納得できないところがありました。

 

とはいえ宗教の教義をロジックで捉えようとすること自体に無理があることもまあ大体わかります。天国なんて誰も見たことがないのだから天国があるとは言えない、と理屈っぽく攻めるのは子どもの論理です。天国、極楽、楽園、桃源郷、理想郷、、という限りなく美しいフィクションは、信じた方が幸せだから信じることが合理的であり、信じない人間が、おれは「ゴミ」になると顔を歪めて逝くよりずっとマシだと思うわけです。

 

とすれば聖書を原典として理屈を詮索するプロテスタント型より、ひたすら信じることの幸せを享受するカトリック方式が好ましいとも言えますね。激しく議論したからといって良い結論が導けるわけでもないし、バリバリ働いている人は忙しくて神学論争をやる暇はないでしょう。つまるところ信仰とは、理想とする夢を美しく思い描くことではないでしょうか。

 

 

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堂崎教会周辺の複雑に入り組んだ溺れ谷 200827

 

趣味や習い事は暇人の遊びみたいに言われますが、少しでも芸に触れれば、一流どころのワザを見て愉しむことはできます。いやぁ、すッご、まあきれい、という感動が家庭の団欒に持ち込まれたらとかく絆を失いがちな現代家族の安全保障にもなるし、この世の別れに際し、意識がかすれてきたころ精一杯あの世を空想する材料にもなります。

 

同居している老母は、娘時代が軍国時代で勉強どころではなかったこともあり、かろうじて新聞が読めるほどの学力しかありません。理解の枠組みが極端に狭いので趣味といえるほどのものは持ちませんが、花を見てきれいと感じる程度の力は持っています。いよいよとなれば彼女に残されたありったけの力で来世を美しく描かせよう。そのための手伝いをするのがせめてもの親孝行かなと考えています。

 

 

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黒潮洗う玉之浦の渚 200829

 

宗教とは何か

と大上段に構えてモノ申すわけではありませんが、あえて宗教とは何かと自分に問うときそれは「集まることだ」と答えます。どんな立派なことを言っても誰も聴いてくれなければ寂しい。孤高を誇るという一見かっこいい言葉も一人ぼっちじゃ寂しいよという気持ちの裏返しだったりします。いじけて孤独をかこつより、似たようなことを考える仲間と一緒にいた方が温かい。そこへ違う考え方の集団が冷たい視線を送ってきたら、みんなで結束して戦うことだってできる。

 

宗教以前の問題として、集まること、群れることは生物の生存本能ではないかと思うわけです。その求心の軸に、大宗教や新興宗教があったり、利害得失が錯綜する村落共同体あるいは政治共同体があったりしますが、言葉で細かく分類しても仕方のない概念をざっくり捉えれば、ヒトは関係の中で生きる存在であり、集まる性質を持っていると言えそうです。けだし「人間」とは良く言ったものだと昔の人の造語に感心します。

200914記 つづく