ひとり旅 210815  道草寄り道天の道

 

 

 

 

 

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早稲田の稔り 2021.0803

頭を垂れる稲穂です

 

高知平野は稲刈りの真っ最中ですが

台風や長雨で思うようには捗りません。

 

 

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ジャンボタニシにやられたKO大学 2021.0803

冗談では済まないほど広がりつつあります

 

 

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袋を被せられた梨 2021.0803

まだテニスボールほどの大きさです

 

 

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仁淀川中流域の沈下橋 2021.0803

 

道から見下ろす川と

川から見上げる山は

まるで景色がちがいます

 

いつかここにゴムボートを降ろし

ささやかなラフティングをたのしみながら

河口まで川下りする予定

 

運がよければけっこう大型のシーバスが

ロッドのむこうでエラ洗いを見せてくれます

 

 

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町村合併で仁淀町に組み込まれた旧池川町  2021.0803

 

そのむかし四万十川でカヌーを漕いだ椎名誠

川から見ると家々がこちらにお尻をむけているけれど

う~ん、いかがなものかと悩んでいました

1990年代の半ばのことでした

 

1995年に国土事務次官の下河辺敦が梼原町

「第一回四万十川大学院」で講義しました

 

昔は木材を筏に組んで川下りしたものだが

今はトラックが木材をつんで山へ登る

われわれは考え方を変えねばならない

 

村と村が通信で結ばれると町になる

町がネットワークで結ばれると都市になる

都市が結ばれて大都市になり、、というイミフな話を

ときに白髪を撫でながら淡々と語ったものです

 

当時まだ携帯は普及しておらず

腰のポケベルが振動したら慌てて

近場の電話ボックスを探したものでした

インターネットという概念はなかった時代で

狐につままれたようなお話でした

 

やがて全国3300市町村を揺るがす合併論が展開され

市町村数は半減し、事が終わって

やっと講義の意味に気付きました

山間の小さな町で凄い大学院が開かれたものです

 

ただ当の梼原町は合併を拒否しました

恐らくその判断は正しかったと思われます

 

 

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仁淀川の支流 2021.0803

鮎漁という名の遊び人が7人ほど見えます^^

 

 

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奥深い川沿いの集落 2021.0803

 

この辺りだと4Gの電波は届き

探せばパラボラアンテナも見えます

 

 

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このような道を抜け 2021.0803

 

 

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四国の真ん中 2021.0803

 

深い谷間をさらに登ると

周囲の山々は1000mを超え、その向こうには

西日本一の高峰1982mの石鎚山が鎮座まします

 

 

 

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標高600mほどに在る寒村 2021.0803

 

 

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谷間の村2021.0803

 

道路幅ほどの段々畑に家を建て

部屋の面積を追加すると

お尻が飛び出す

 

 

 

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越し屋根がおしゃれな廃屋 2021.0803

 

やがて柱は朽ち、屋根は崩れ

蔓がからまり、樹木に覆われ

ヒトに寿命があるように村は寂れます

 

 

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廃屋の庭に咲く百合 2021.0803

 

 

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百日紅の下の石碑 2021.0803

「道ヲ貫キテ遥カ天ニ通ズ」

 

モッコとツルハシで山の斜面に

九十九折りの道を造った

峠に立ち天を仰げば

青空に雲が流れる

 

村人は、樹を伐り、火を放ち、

切り株を除き、畑で鍬を打った

路傍で見かけた墓碑には

 

椿山をこよなく愛し

焼き畑を慈しんだ父

ここに眠る

とありました

 

 敗戦を記念した不思議な日に

2021.08.15記 つづく

 

ひとり旅 210809   道草寄り道スズメバチ その2

 

 

 

 

 

 

むかしモハメッド・アリとアントニオ猪木がリングで闘ったときアリは軽快なフットワークで「蝶のように舞い」強烈なパンチでスズメ「蜂のように刺し」ました。対する猪木はローキックをかましてリングに寝そべり両手でカモンしましたが、決着はつかなかったですね。わくわくしながらテレビに見入ったわが青春のひとコマです^^

 

黄色の縞々から虎を連想したか、China語でスズメバチは「虎頭蜂」「大黄蜂」、英語で「イエロージャケット」と呼ばれます。同時にスズメバチは「ワスプ」「ホーネット」とも呼ばれることを知って、はたと連想するものがありました。ワスプ=WASPはホワイト、アングロサクソンプロテスタントの略称ですが、同じ綴りでスズメバチを意味します。強力な毒針をもって敵を倒すスズメバチにあやかり、第二次大戦時のアメリカ空母は「ワスプ」「ホーネット」と名付けられました。

 

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B25爆撃機 ネットより

 

太平洋を挟んだ日米戦争は、1941年12月8日の真珠湾攻撃に始まります。その4カ月後の1942年4月18日、B25爆撃機16機の編隊が空母ホーネットを発艦、日本本土を空爆し、中国大陸へ抜けました。厭戦気分が広がる米国において世論喚起のため、あえて行なう象徴的な爆撃であったようです。

 

B25爆撃機16機は分散し、東京、川崎市横須賀市名古屋市、神戸市、三重県、栃木県、新潟県を襲い、地上の死者は50人を数えました。大型爆撃機は空母に着艦できないので15機は中国大陸に向かい、1機はウラジオストクに着陸しています。16機80人の隊員のうち不時着時に5人が死亡。運よく蒋介石の支配地域に逃れた兵士はアメリカに帰還しましたが、日本軍の捕虜になった3人は上海で死刑、1人は獄中死を遂げています。

 

真珠湾で大戦果を挙げたわずか半年後、1942年6月5日のミッドウェー海戦によって日本海軍は空母4隻、航空機300機を失う大敗北を喫しました。その日を境に戦局は大きく変わり、劣勢に追いやられた日本は、1945年4月に始まる沖縄戦を経、8月6日のヒロシマ、9日のナガサキによって敗北したと(ぼくの記憶領域ないし学校教科書では)簡潔に描かれます。国家と国家が存亡を賭けて争い、空母vs空母という人類史初の海戦さえ展開される中、アメリカの圧勝、日本の壊滅的打撃という印象を受けますが、では日本海軍はやられっぱなしであったかと言うと、そう単純なものではないようです。

 

 

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1942年9月15日

雷撃を受け炎上する空母ワスプ

 

ミッドウェー海戦の3カ月後、空母ワスプは日本の潜水艦伊19号によって雷撃、撃沈されました。国際法を遵守した潜水艦長は最大魚雷数6発を発射し、うち3本がワスプに命中、他の1本は10㎞先の戦艦ノースカロライナに、もう1本は駆逐艦オブライエンに命中したというから恐るべきヒット率でした。(なお伊168号は空母ヨークタウンを、伊175号は護衛空母リスカム・ベイを撃沈しており、日本の潜水艦が撃沈した米空母は3隻になります)

 

 

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1942年10月26日

九九艦爆の急降下爆撃を受ける空母ホーネット Wiki

 

空母ホーネットは10月26日の「南太平洋海戦」において攻撃隊54機を飛ばし「空母翔鶴に450キロ爆弾4発を命中させ」「重巡筑摩を撃破した」一方「日本側機動部隊からの攻撃により(ホーネットに)250キロ爆弾3発と魚雷2発が命中。艦爆と艦攻各1機がホーネットに体当たり」しました。

 

 

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トマホークの一撃で沈む空母ワスプ 「ジパング」巻6より

 

空母ホーネットの乗員2200名のうち「140名が艦と運命を共にし」

空母ワスプの乗員約2000名のうち「戦死者193名、負傷者366名」

一方、潜水艦伊19号は翌1943年、米駆逐艦爆雷を受け「105名全員が戦死」

 

そのようにしてスズメバチの空母2隻は

撃沈また自沈を余儀なくされ

敵味方とも桜吹雪が舞うように人のいのちが散りました

 

ぼくが子どものころ読んだ漫画や雑誌には

アメリカ優位、日本劣位のなか兵隊は

強い精神力で対抗したという定型がありました

 

日清日露の勝利で舞い上がった日本軍は、欧米列強を敵に回し、2発の核攻撃を受け、軍民合わせ300万柱の犠牲をもって戦争は終結した。つくづく日本は愚かな戦争をしたものだ。だが悪いことばかりではなかった。敗戦によって日本は軍国主義を脱し、技術も市場も惜しみなく与えてくれたアメリカによって経済復興を遂げ、戦後世代は幸せな民主主義を獲得した。アメリカは偉大なる父だ。われわれも頑張ろうという、嘘ではないけれど、背中が痒くなりそうなロジックを気付かぬままインプットされたように思います。

 

それは一面の真理ではあるのだけれど

では戦後日本が失ったものは何か?

 

かわぐちかいじの「沈黙の艦隊」は、自衛隊を離脱した潜水艦が、核所持を装うことによって米海軍と対峙し、ニューヨークの国連へ向かう物語です。艦長は国連の檜舞台に立ち世界平和の大戦略を語りました。核を使用した国は、沈黙の艦隊が、核をもって容赦なく滅ぼす。その恐怖によって世界秩序が保たれるというのが話の骨でした。

 

同じく、かわぐちかいじの「ジパング」はイージス艦「みらい」が、1942年のミッドウェー海域にタイムスリップしたところから始まります。史実と空想を重ね、実在する武器を組み合わせて誰も知らない理想の戦争を創ることは並大抵の作業ではないでしょう。2001~2009年まで全43巻、緻密な絵とともに骨太の物語をつくり上げた情熱に頭が下がります。

 

作者は自衛隊の味方ですが、単純な防衛力強化論者ではありません。仮にこの戦争において日本軍がアメリカに圧勝したとして(なんせ漫画だから、やろうと思えば出来ます^^! ) 勝てば勝ったで、戦勝に酔う軍部の暴走をどう押さえるか、日本優位の世界秩序をどう構築するかといった恐ろしく複雑な方程式に解を与えねばなりません。

 

 

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ドラゴンボール巻10より

 

それは日本人がもっとも不得手とする大戦略であり

誰も知らない歴史の先頭を行くことの恐怖に

われわれのメンタリティーが耐えられるかどうか

 

ジパング」は、未来を知る者の超人的な活躍により、アジア太平洋戦争における日米戦を相討ちとし、早期講和に導きました。負けなかったが、勝ちもしなかった大戦が終結したあと日本の国体はどうなるのか?という読者の疑念に対し、かわぐちかいじは劇画最終巻において筋立てた回答を置いています。未来が過去に侵入し理想の形で戦後処理すればあるいは可能かもというかたちではありますが、、

 

 

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アジア太平洋戦争 1942年

 

しかし、それにしてもです、1868年の開国以来わずか73年目にして世界を相手に戦い、思い切り支配地を膨らませたあと、急速に萎んだ国があったとは、それがぼくらの親の世代であったとは俄かに信じられないのです。戦前の日本は暗くゆがんだ国であり、長いトンネルを抜けた戦後は光に満ちた国になったと素朴に信じる人もいれば、長い長い物語を描く中で日本とは何か、自分とは何者かと問い詰めた漫画家もいます。

 

戦後民主主義という名の自国卑小化政策

とりわけ教育によって過去の日本を悪とくくり

教育、政治、経済という国家の基幹から、経済のみ残し

教育と政治から精神性を骨抜きにされた日本とは何か?

 

銃後の農村で戦争を見たわが母は、向かいのお寺に駐屯した若い兵隊が「夜中にいじめられる声を聞いた」「兵隊の偉い手はほんまにエラソーやった」と拙い言葉で当時を語ります。現北朝鮮の鉄工所で働いていた父は召集され満洲北部のチチハルで軍役に就きました。終戦後ロシア軍によって列車に乗せられましたが、窓から飛び下り、1年ほどかけて大陸をさまよったあと朝鮮経由で引き揚げたそうです。列車の行き先はまちがいなくシベリアであり、行けば収容所と過酷な労働が待っていたはずです。「戦争はいかんぞ」というのが父の口癖でした。とりたてて教養のない両親が経験的に導いた戦争観に嘘偽りはないでしょう。

 

しかし、各論を積み重ねて全体が作られるものでもありません。個々人の皮膚感覚が戦争を否定することは当然のことですが、その素朴で正しい感覚を政治的にねじ曲げ、違う方向に向かわせるのも世によくある話だから桑原桑原です。

 

この世にタイムマシンというものがあって、1回だけ乗せてやると言われたらぼくは迷わず18世紀の江戸に降ります。2回乗ってもいいよと言うのであれば1941年の東京に降り、朝鮮⇒満洲⇒台湾⇒香港⇒アジア一帯を回って昭和30年代までねばります。戦前と戦後で日本人の立ち居振る舞いが変わったのか、それとも本質は変わっていないのかを自分の目で確認したいからです。

 

写真と引用部はwiki他のネットより

 

 

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ナガサキ平和公園 2020.08.30

 

210809記 合掌 つづく

 

ひとり旅 210731  道草の寄り道「スズメバチでお困りの方に」

 

 

 

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キイロスズメバチの巣の丸い外枠 2021.07.17

陶芸家が見たらデザイン的に刺激されるかも

 

ハチにも種類があり、蜜や花粉をたくわえて幼虫の餌とする「ハナバチ」や獲物に飛び掛かって麻酔注射する「狩りバチ」がいます。ウチのトマトハウスでは交配のため(黒くて丸い)クロマルハナバチを飼っています。性質は穏やか、ずんぐりむっくりの黒い塊が次の花へ移るときの動作はどこかユーモラスです。ミツバチやアシナガバチなら刺されても命にかかわることはありませんが、スズメバチを怒らせると大変なことになります。

 

拙宅の周辺にはスズメバチの巣があるらしく夏になると分蜂が行われ、数年前ふと見上げた書斎の天井に虎の縞々をもつスズメバチが30匹ほど群がっているのを見てビビりました。新居探しの途中でひと休みしていたのか、たんにサボっていたのかは分かりませんが、近づいてよくよく見るとスズメバチって怖い顔をしていますね。

 

 

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ドラゴンボール巻1

 

ぱんと叩かれて飛んだハチは

脚が短いのでミツバチみたいですが

巣の形から見てアシナガバチですね

翅が4枚しっかり描かれています

それにしても亀仙人の爪先が ^^!

 

ミツバチのお尻には釣針のようなアゴの返しがあり、刺したら抜けず、攻撃後は自分も死にます。一方、スズメバチの毒針には返しがなく、何度でも刺し、強力な毒液を注入します。蚊や虻とちがって蜂は刺激しなければ大人しいものですが、いくらなんでも狭い居室でスズメバチと一緒に昼寝するのはイヤだから、薬局でバルサンを求め、缶から白い煙を立てました。ガラス戸を閉め、暫くすると異変を感じたスズメバチは飛び始め、透明ガラスの外へ出ようともがいていましたが、やがて力尽き、床へ落ち、痙攣したあと動きを止めました。

 

2度目は、窓の格子にソフトボールくらいの大きさの巣がぶら下がっていたので、百均でメッシュの箱を買い、頭からすっぽり被って完全武装し、恐る恐るビニール袋に包みました。相当数が袋の中でブンブン唸っており、さてどうしたものかと考えた末、有機リン系の殺虫剤を使うのは可哀相な気がしたので? マイナス85℃の冷気を噴霧する「凍殺ジェット」で固めました!?

 

 

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掃除機改スズメバチ吸引器 2021.07.17

 

3度目の今回は、縁側の奥まった物置で巣を見つけました。YouTubeで駆除プロの手口をパクリ、A4ファイルを加工して掃除機の吸い取り口をラッパにし、

 

 

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スズメバチの巣取り器 2021.07.17

 

百均で買った網袋に

紐を引っぱると口が閉まる

仕掛けを作りました。

 

 

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完全防護 2021.07.17

 

スズメバチは黒いものに反応し

瞳を狙って真っ直ぐ飛び

当たる瞬間に尻を向けるという

恐ろしい一文を見たので

 

これまた百均でゴーグルを仕入

去年の今時分スーパーからマスクが消えたころ

aiさんが送ってくれた手作りの布マスクを2枚重ね

フード付きパーカーの上にヘルメットを被り

さらに厚手の防寒用コートを着込んで

 

ズボンの上に雨合羽のズボンを穿き

登山靴の隙間はガムテープで埋め

仕上げに厚手のゴム手袋を付けたら

汗だくになりました~~!

 

 

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掃除機の回転タンク 2021.07.17

 

掃除機をブン回すと

巣の破片と一緒にスズメバチ

回転箱に収まりました

猛烈な勢いでぐるぐる回され

目が回ったようです

 

タンクからビニール袋へ移したとき

逃げ出した1匹が

酔っぱらったように大きな円を描きながら

柿の木の向こうへ飛んで行くのを見て

 

亀仙人が、ガメラの背に乗り

くるくる回りながら降りてきて

あっち向いてゲロ吐いたコマを

思い出しました

 

ちなみにaiさんは

ご自宅でスズメバチの巣を見つけ

業者を呼んだら、ハチと一緒に

福沢諭吉が飛んで行ったそうです

こちらはゴム手袋390円+網袋とゴーグル220円=610円ナリ

かなり得した気分です

 

スズメバチの幼虫 2021.07.17

 

美しい球形の外枠が剥がれると

ハニカム構造の巣の中で

幼虫が蠢いていました

 

さて図書館の子どもコーナーは知の宝庫です

お幼稚や小学校低学年の子をかき分けて

中村雅雄著「おどろきのスズメバチ講談社を借りてきました。

著者は小学校の先生、「スズメバチ研究者」「日本昆虫学会会員

「カーリットの森を守る市民の会代表」他の肩書の持ち主でもあります

 

本書によると、スズメバチの幼虫は「女王バチや働きバチが身の回りの世話をしてくれるから幼虫には脚がない」とのこと、なるほどビデオを見ると六角形の揺りかごの中でうごめく幼虫には脚がありません。

 

面白いのは「ハナバチ」のミツバチが花の蜜をエネルギーとするのに対し、「狩りバチ」のスズメバチは「幼虫のために昆虫やクモをつかまえてはエサとして与え」「とらえた昆虫の胸などの肉は大あごで、やわらかいかたまりにして幼虫の口元に置いてあげる」幼虫は「いくら食べてもすぐにエサをさいそくするので、女王バチは休む間もなく狩りに出かけなければ」ならないそうです。

 

では女王バチ自身の食事はどうしているのか、「よくよく観察してみると、女王バチは狩りに出かけるとき、大きな幼虫ののど元を大あごで刺激して、透明な液のようなものをもらって」おり、「これが女王バチの栄養ドリンクになっているのです」「この透明な液は、幼虫だけが出すことができるものです。女王バチや働きバチの栄養になる飲み物で、彼女たちが活動するためのエネルギー源になる糖分などがふくまれています。その栄養は、1回受け取ると2時間近くも活動ができ、一説には、1日に100㎞も飛べるエネルギーの源になると言われ」「この液をヒントにして人間向けのスポーツドリンクが商品化されているほどです*」同書p42

 

というワケでハチの親子の栄養のやりとりが

ヒト世界の商業主義さえ巻き込み、われわれは

複雑きわまりない網の目のなかにいます

 

むだ話をもうちょっと

じつは「スズメバチはたいへんなごちそう」で「中国南部の雲南地方では、市場でスズメバチが食糧として大々的に取り引きされています」「日本でも、長野県や岐阜県ではスズメバチは珍味として、当たり前のように食べられています。とくにスズメバチの幼虫である”はちのこ“は、スーパーでも瓶づめや缶づめが売られるほど人気があります*」同書p42

 

「空を飛ぶものはヒコーキ以外、足の4つあるものは机以外」何でも喰っちまうのがChineseの凄いところで、それは過酷な状況下における生存の欲求と美味を求める飽くなき探究心の賜物でしょう。おれら高知の人間はイナゴの佃煮を見たら引くし、生きたハチノコは蛆虫みたいでイヤなんですけど、、

 

むだ話その2

ジョギングの途中スズメバチに刺されて病院送りされたヒトは可哀相ですが、見つかるやいなや毒虫あつかいされ1~3万円ほどの謝金で駆除されるスズメバチだって可哀相です。農家の伜たるぼくは小学校で、スズメは害鳥、ツバメは益鳥と習いました。スズメは空気銃で打たれたものですが、ツバメは屋敷に入り込んで巣をかけ、お構いなしにウンチしても新聞紙でトイレを作ってもらえます。スズメだって害虫も食べるだろうし、害虫だって悪いことばかりしているわけではありません。害とは何か、益とは何かとまじめに考えるとワケが分からなくなります。

 

スズメバチは益虫の一面をもちますが、ヒトを刺すこともあります。昆虫界のチータと呼ばれたり、ハイエナと蔑視されることもあります。スズメバチにしてみれば人間どもが勝手な価値観で何か言ってるけどウザいわと思っていることでしょう。この世のすべては網の目のようにつながり、あらゆる存在に意味があります。生態系の一部がこわれたらどうなるかは、図書館の子どもコーナーに集まるよい子のみなさんはフツーに知っています。

210731記 つづく

 

 

 

ちょっと道草 210724  写真で Go to西表島24 「住んでびっくり西表島」

 

 

 

 

 

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山下智菜美著「住んでびっくり西表島双葉社2006年刊

 

行ってみた。住んでみた。「2003年の夏、東京での仕事を整理し、友だちを残し、親しい知人も収入のあてもない西表にひとり、不安いっぱいで引っ越してきた」「自然の恵みをいただく生活を基本にしながら、祭りなどの行事を通じて村の人びとが強い結束を保っている」干立(星立)という村で「都会の生活が失った豊かさを感じ」「蚊とたたかい、ゴキブリとたたかい、ハブともたたかった」「住みはじめた当初は,高温多湿な気候にとまどい、吹き出す汗を不快に感じながら」「なかなか地元にとけ込めず、なんで来ちゃったのかなぁと気弱になることもたびたび」だった。

 

 

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ヒカゲヘゴ 2014.04.20

 

「収入のあてはほとんどなく、主に貯金を取り崩す生活」「お金がなくなったら島を出ればいいと気楽に考えて」の島暮しだから本気の移住者ではないのですが、なればこそ一定の距離を置いて島の暮らしを見つめられもしたのでしょう。都会を逃れ、田舎に移住した人たちが口を揃えて語るところの異文化ショックは「プライバシーがない」ことです。しかし彼女のように濃い人間関係を愉しめる人ならムラという名の24時間監視カメラに見張られても生きていけるようです。そこから導いた豊かな人間とは「作物を作り新鮮な野菜をご近所にお裾分けできる人」「他人にわけてあげられるくらい魚を釣ってくることができる人」であり、結論として「人はお金があまりなくても生きていける」そうです。

 

チャップリンの名作「街の灯」に、この世で大切なものは「少しのお金と愛だ」という台詞があります。お金は「あまり」なくても「少し」あればという微妙なフレーズが妙にリアルです。

 

 

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見ての通りのヤブレガサ 2014.04.20

 

Amazonに以下の書評がありました。

1)「いずれにせよベストセラーになる分野ではないですよね(笑)。強烈に何かを主張する本でもないし。Amazonで見る限りパッケージ(売り方)も十分に下手っちーだし。でも、中身がある。沖縄、離島、民族、伝統、風土、自然、共同体、地方、祭り、暮らし、お金、心、世代、自立、助け合い、はたまた昆虫(ゴ×写真だけはやめて〜!)、サバイバル…いろんな興味ジャンルの人に、ゆっくりゆっくり伝わり、ロングセラーになる本だなと思いました」

 

 

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ギランイヌビワの幹生花  2014.04.20

 

2)「昨06年8月末に3日間だけ西表に行った。白浜に泊まり、シーカヤックで舟浮にも行った。車で行ける端から端まで行った。たまたま遭遇した干立の芸能祭に行き、宿で付いていた筈の晩飯も、祭の屋台に替わったり、レンタカーを借りていたのが私だけだったので、ひとりだけ酒抜きだったりもした。なんか、客と言う扱いもなく、気楽な気分になった。翌日は白浜の公民館の祭りにも参加した。あの一体感、ある意味”強制的な共同体生活”も良いじゃないか。どうせ、一人で生きていけるわけじゃなし」

 

 

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里芋の葉を大きくしたようなクワズイモ  2014.04.20

突然の雨に打たれたら傘になります^^

 

会社に鉄の掟があるようにムラ共同体にも様々な強制があります。税務署より厳しい奉加帳やムラを挙げてのドブ掃除は、知らん振りをしたら村八分だから、その辺りの呼吸がわからない移住者と村人との目に見えぬ軋轢はどこにでもあります。会社からも社会からも解放されたくて田舎に住処を求めたのに、なんで鬱陶しい近所付き合いをせねばならんのかと憤る新規参入者よ、待てしばし、

 

 

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クワズイモの花 2014.04.20

水芭蕉の仏炎苞に似た造化の妙です

 

あなたが通る道はあなただけのものではないしあなたの車がドブにタイヤを取られたとき真っ先に救いの手をさしのべてくれるのはご近所さまです。田舎であろうと都会であろうと目に見えぬ無数の約束事に縛られ、かつ助けられて生きるのが人間というもの「どうせ、一人で生きていけるわけじゃなし」という上記書評に共感しました。

 

 

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南北を縦断する登山道の森  2014.04.20

多種多様な植物の宝庫です

 

ヒトは完全に孤立した状態では

肉体的にも精神的にも生きていけません、しかし

それは分かるんだけどオレはオレと呟くのも人間

では最小限の社会生活とは何かと考える上で

西表島は興味深い場です。

 

白浜の港からカヤックで行ける沖合に無人島の外離島ソトバナリジマがあります。そこに全裸おじさん~~! が住んでいて、どちらが先かは知りませんが、日本のテレビとフランスのテレビで紹介されました。無人島のロビンソンクルーソーは社会生活を忘れないため折り目を正して食卓に向かったそうですが、それは個人の趣味であり、全裸おじさんは誰もいない島で四六時中風呂に入っているようなものだから、すッ裸で何をしようと咎められる理由はありません。森を分け、海に入ってその日の糧を得、自由気ままに生きられるなんて羨ましい。オレもやってみたいと多くの人が夢見るのではないでしょうか。

 

 

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サキシマキノボリトカゲ  2014.04.20

 

それにしても木の実と魚ばかり食ってたら飽きるのではないか、醤油だって欲しいだろうし炭水化物も必要だ。病気をしたらどうするのだろとあれこれ考えていたところ、実はこの全裸おじさんには月1万円を仕送りしてくれる姉がいるのだそうです。この日ばかりは服を着て小舟で白浜へ向かうのだから、絶対孤独とは言えず、ちょっと醒めたかなと、、

 

 

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密林の細道に置かれた案内板 2014.04.20

書の基本を押さえた文字を見て感動しました

 

漢字のクニの台湾は言わずもがな

南西諸島ではしばしば美しい書体を見かけます、が

片やヤマトの文字は大混乱です

大戸屋のロゴなんて見ただけで引きますネ

 

健康な肉体のみならず、人間には情報を通じた社会生活も必須です。このおじさんはラジオを持っており、台湾の天気予報を聞いては一日遅れで対策するそうだからそれなりに社会生活を営んでいます。あの辺りはラジオ電波が国際交流しているので日本語放送のみならずChina、Korea、強烈な出力でわめくDemocratic People's of Korea、やたら元気な米軍放送も耳にしたことでしょう。そのような全裸おじさんの暮らしを日本とフランスの放送局が電波に乗せたものだから、面白がった観光客がカヤックを漕いで離島へ上陸し、ふたり並んで同じ姿で記念撮影した馬鹿もいたりして、それがテレビ電波に乗りました。かくて孤独を愉しんでいた全裸老人はリモート共同体の一員にされ、公序良俗を乱すトガで島を追っ払われました。(ネットを探ればFreeなChinにボカシを入れた写真とともに何の責任も取らない記者による面白半分の記事や、ビデオをonにしたまま潜入したのか分けのわからないYouTube動画があったりします)

 

 

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高知ではこの葉で餡餅を包みます  2014.04.20

 

西表島の出来事は何でも見てやろうという山下智菜美女史は、この全裸おじさんにも面会していますが、若い女性が頭に鉢巻きだけ締めた老人を見たからといって嬉しいはずもなく、とりたてて深い感想は載せていなかったですね。▽この話は数年前ネットで見たものですが、今は消去されたようです。山下智菜美というライターは「住んでびっくり西表島」の著者としてのみネットに置かれ、個人情報の露出は注意深く避けているようです。賢明です。

 

 

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渚のアート 2014.04.21

 

やや漫画化され電波に載せられた

全裸おじさんのみならず、西表島には昔から

いわゆる社会と切り離され

孤独な暮らしを営む人たちがいたようであり

 

過去を知られたくない人の逃避の場なのか

海と空に引き籠もりの場を求めてのことか

あるいは大学探検部の活動かは知りませんが

密かにテント暮らしをする人たちが今もいます

 

そのような人びとをおおらかに迎え黙認する

懐の深さが西表島はあるように思われます

 

人それぞれの事情を十把一絡げにはできませんが

できることなら病院の片隅で療養するより

背に手つかずの森を置き

寄せては返す波音を聞きながら

しばし休息をとれるなら

ひとは幸福になれるのかもしれません

 

 

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砂岩が浸蝕され不思議な造形を見せた 2014.04.21

 

2003年に西表島へやってきた山下智菜美女史は、女ひとりの島暮し体験を雑誌BE-P@Lに連載し、2006年に本書を上梓しました。ずっぷり島に浸かった本気の移住者が、自らを対象化し記述することはまずありません。東京時代の彼女は書き手でしたが、西表島では書きかつ書かれる側に転身し、ネットによくある「やってみた」シリーズの先駆けになりました。3年がかりの突撃取材は自分自身が一次情報なのでリアルさ満点です。出版後8年を経た2014年現在、西表島には新風俗が押し寄せ、最後の秘境もあわやという観があるものの本書はまだ色褪せていません。

 

 

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南風見田ハイミダの浜  2014.04.21

 

遠からず西表島は、沖縄本島北部、徳之島、奄美大島とセットで世界遺産に組み込まれます。新たなルールが持ち込まれ、島の暮らしは劇的に変容することでしょう。その前にコロナ禍で浦内川の観光船は稼働しているのだろうか、お客さんを失った由布島の水牛はしっかり餌をもらっているのだろうかと心配です。急がねば!

2021.07.24記 つづく

 

ちょっと道草 210716  写真で Go to西表島23  戦争マラリア e  

 

 

 

 

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西表島から由布島を見る  2014.04.26

 

西表島の向かいにある由布島砂州でつながっており、観光客は水牛に牽かれ、三線を抱えたおじさんの唄声と共にゆっくりゆっくり由布島へ渡ります。ここではお金を払って牛車に乗るのが決まりみたいですが、歩いても反則ではないようです。写真を撮りたいこともあって、ぼくはリュックにサンダルを仕舞い、裸足で浅瀬を渡りました。砂は引き締まっており牛が歩いても足を取られることはありません。

 

 

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陸から  2014.04.26

 

高知県宿毛市の咸陽島では、向かいの小島が砂嘴でつながり、干潮時に露出した岩場で潮干狩りに没頭しているとひたひたと潮が満ち、満潮になると一帯が海の底になります。大潮の日の高知の海岸は干満差が2m近くあり、港に係留した船は日に2回大きく上下します。中学理科の時間に月と地球の関係を習い、海の水は寄せたり引いたりするものだと信じていましたが、、

 

 

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海へ  2014.04.26

 

京都府日本海側にある伊根の「舟屋」を訪ねたとき、港に接した家屋が口を開けて漁船を迎えることに驚きました。家が港だからとても便利なのですが、太平洋側の住人は潮が満ちたらどうなるのだろと心配になります。調べてみるとあの辺は干満差がほとんど無いのですね。隠岐の島にも舟屋があります。広くもあり狭くもある日本海では、月の引力が太平洋の水を引っ張り込むうちに状況が変わるのでしょうか。

 

 

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行きつ戻りつ  2014.04.26

 

 

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やっと由布島に着きました  2014.04.26

 

一方、干満差世界一はカナダのファンディ湾。なんと15mもの上げ下げがあるそうです。寄せる波が5階建てのビルを埋める勢いだから津波が来たようなものです。

 

 

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ダレたらひと休み  2014.04.26

 

西表島由布島の間は400mほどであり、ヒトもウシも難なく渡れますが、わずかな風も嫌がるハマダラカが飛んで渡れる距離ではないのかもしれません。この島はマラリア禍をまぬがれ、波照間島民を強制疎開させた山下軍曹はこの由布島に滞在してもいたようです。

 

 

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安間繁樹著「西表島自然誌」晶文社1990年刊

 

表紙の写真は由布島へ向かうヒトと水牛です。著者の安間繁樹氏は、動物作家戸川幸夫氏がイリオモテヤマネコを発見した1965年(昭和40年)、20歳の年に西表島へ渡り、通算6年間滞在してイリオモテヤマネコを追い掛けた動物学者です。

 

動物学者にとって新種発見はノーベル賞みたいなものらしく、ひょっとすると西表島には「オオヤマネコ」がいるかもしれないと胸をときめかせながらも「多分いないだろうというのが、私の正直な考えだった。島が小さく、食べ物も決して十分とはいえない西表島で食性や習性などがほとんど変わらないような二つの動物が共存できるとは考えにくい」(同書p242)とクールな判断もしていたようです。

 

 

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由布島植物園のオオゴマダラ 2014.04.26

 

ずっと前の話ですが、四国の剣山山系にはツキノワグマが棲息しており、知り合いが笹を分けて行くクマを見たと嬉しそうに話してくれました。東北や北海道のクマはヒトと出会ったら撃ち殺されて可哀相ですが、高知のクマは稀少生物なみに珍しがられています。ヒグマに比べてツキノワグマは小型だし、人里に入って悪さをした話は聞いたことがありません。そもそもスギ・ヒノキの植林率日本一の高知県では生息域が狭められ、もはや種を維持するだけの頭数が確保できないだろうと前々から言われてきました。だから21世紀も半ばに入った今はもういないのかもしれません。林野庁に問い合わせたら教えてくれるかと思いますが、訊けば悲しい話になりそうで電話する気にもなれません。

 

 

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サナギの脱け殻に止まったオオゴマダラ 2014.04.26

 

若き日の安間繁樹氏は、あわよくば「オオヤマネコ」との邂逅を願いつつイリオモテヤマネコを研究するため森に入り「世界で初めてイリオモテヤマネコの動画撮影に成功した*」そうです。(*wikipediaに1000エン寄付したのでばんばん引用させてもらいます)

 

 

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オオゴマダラの交尾  2014.04.26

 

ちょっと自慢させてもらうと「世界で初めて」ではありませんが、観光客としては珍しくぼくは真っ昼間の山道でイリオモテヤマネコを写真に撮りました。(210401号に添付)ヤマネコは夜行性なのになんで昼間に? と問われたら答えようもありませんが、西表野生生物保護センターの所長さんにお墨付きをもらったので間違いありません。島の住民でも野生のヤマネコを目撃した人は滅多におらず「見た」というだけでステイタスなのですヨ 大谷翔平のホームランを見たようなものです。えっへん^^!

 

 

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オオゴマダラのサナギ  2014.04.26

見事な金ピカ「南国の貴婦人」とも

 

そのヤマネコの減衰とマラリアが関係していることを本書で知りました。「これらは1957年から1960年代の前半にかけて、大量に死んだ可能性がある。DDTのためである。アメリカ民政府は西表島マラリア撲滅のために当時、DDTの一斉散布を行った。これによりマラリアはなくなったが、カ、ハエ、ゴキブリ、ヤモリ、ネズミ、ムカデ、アリなども住宅地から姿を消し、それを食べたネコやイヌの斃死も相次いだ」(同書p172) 生態系の一部が失われると、食物連鎖が断ち切られ、捕食上位者も影響を受けるという事例です。

 

DDTといえば化学物質の害を説いたレイチェル・カーソン女史の「沈黙の春」が想起されます。いかなる薬にも副作用があるように農薬もまた自然環境に良いわけはありません。ただ環境汚染、気候変動といった地球規模での警鐘が必ずしも科学者の予測通りに推移したわけでもなく、PCBにやられて海洋の大型哺乳類が絶滅したわけではないし、DDTによる連鎖反応で鳥や動物が激減したわけでもありません。生命という存在は回復力に満ちたしぶとさを持っているかもしれないし、そうあって欲しいと願います。西表島においても「カ、ハエ、ゴキブリ、ヤモリ、ネズミ、ムカデ、アリ」の類は今でもなんぼでもおります。

 

 

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安間繁樹著「西表島探検」あっぷる出版社2017年刊

 

関係の書を読んでいると西表島マラリアは米軍が「撲滅した」という勇ましい文言を見かけます。1960年に始まるベトナム戦争において米軍は、森に埋もれたホーチミンルートを絶つため枯葉剤を空中散布するという暴挙に出ました。ひょっとするとあのノリで米軍は西表島ダイオキシンを撒きまくったのかなと思っていましたが、それほど荒々しい方法ではなく、以下のごとく合理的な手法を使ったようです。

 

「戦後、予防薬の内服、水系への薬剤投入に始まり、1957年からは米軍にDDT水和剤の一斉散布が行われた。撲滅は、蚊の習性をうまく利用している。蚊は一般にヒトや動物を襲う前後、特に吸血後は壁などで休憩する。この壁に殺虫剤を塗布しておくのである。止まった蚊はすぐには死なない。しかし、皮膚を通して染み込んだ薬で一週間以内に必ず死ぬ。一方、蚊の体内に入った原虫は、感染能力を持つスポロゾイドというステージになるまでに1週間かかる。つまり、汚染された蚊に刺されてもそこにいるマラリア原虫は感染能力を持たないので、ヒトはマラリアに感染しない」(同書p232)というロジックです。

 

西表島を隈なく歩き西表島博士とでも呼びたい安間繁樹氏は、上記「西表島自然誌」「西表島探検」においてマラリアに触れてはいますが、波照間島からの強制移民については記述がありません。南風見田の浜には「忘勿石」の碑があることだし、知らなかったとは思われませんが、社会学的な問題はあえて避けたのでしょうか。それともぼくの見落としでしょうか。よくわからない話です。

2021.07.16記  つづく

 

 

 

 

オータニ現象

今ネットの書き込み欄は大谷翔平にまつわる文飾で山盛りです。みんながあの手この手で他人と違うことを言っちゃおと作文するから、へたに割り込むよりカキコの中に自分の意見を探した方がてっとり早いですね。とはいえオレにも喋らせろと出しゃばりたくなるのがオータニ現象としたもので、、

 

佐々木小次郎燕返しを見たわけではありませんが、大谷選手のスイングは腰の回転力を使う肉体の芸術です。若き日のアントニオ猪木は空中殺法⇒延髄斬りをやったものですが、あの右足の軌跡にも似て体全体でバットを振り回せば、おのずと力は倍加されます。刺青もむくつけきマッチョ選手が上半身の筋肉で運んだ球は壁を越えホームランとなります。一方、体の筋肉を総動員した大谷選手のバットは無駄なく一点に集中し打球は軽々と二階席まで届きます。

 

かつて野茂英雄が投手として信じがたい成果を残したとき日本の野球ファンは湧きました。新聞テレビはあたかも全米が震撼したかのような報道ぶりでしたが、当時アメリカから帰国した辻信一さん(本を書いている方だからペンネームくらい出してもよいでしょう)と拙宅で飲んでいたとき「日本に帰るとさ、野茂英雄って有名なんだけどアメリカでNOMOなんて聞いたことないぜ」と言ってました。考えてみれば3.5億人も抱えた多民族国家で東洋から来た選手が何かやったからといってフツー誰も知りませんわね。で、西海岸でオタニサンゴーンと絶叫しても東海岸までは届かないだろうと思っていましたが、今年のオールスター戦を境に様子が変わったのかなという気がしています。

 

「元々メジャーリーグの支持層は白人の保守派が多かったので、激増するヒスパニック等の非白人対策、ファン層の人種的拡大はMLB機構の課題なのでしょう」というネットの一文が気にかかりました。アメリカンフットボールやバスケットボールに人気を奪われ野球人口が低迷しているのは、サッカー他の競技に野球が喰われた日本とまあ似たようなものでしょう。

 

野球人気が下がったというより、時代が変わりスポーツが多様化する中で、人心が分散したと捉えるべきでしょう。プレステで目を血走らせて育った若者には、ゲーム感覚で濃密な時間を愉しめる競技の方が似合うのかもしれません。言われてみれば野球って長閑な競技です。延長戦にもつれ込んだりすると3時間も4時間もだらだらとつづくので令和の若者がテレビの前に釘付けってことは考えにくい時代ですね。そこに危機感を覚えたMLBの裏方が人気回復の起爆剤にオタニサンを盛り上げようと画策したのかなと、、

 

 

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左はチャップマン  中央のヒトは普通の身長 ネットより

 

 肩に足が生えたような筋肉の上に童顔をのせ

チャップマンと並んでも引けをとらない好青年です

 

道徳教育の題材になりそうな立ち居振る舞いに加え、終始絶やさぬ笑顔が、国を超え民族を超えて人の心を惹き付けたといってもたぶん間違いないでしょう。どこにあるとも知れないレンズで撮られた動画は隠しようのない内面をさらしますが、岩手の田舎で育まれた天衣無縫の青年はカメラなどおかまいなしです。あの人のよさは演技できるものではありません。ネット上の無数の書き込みを要約すれば、彼のピュアな人格を目撃した大衆が、時代とともに失われつつある何かを取り戻そうとしているかのようです。

 

明治期の為政者は国語を共通化し、

NHKは「みんなの歌」を流すことによって

人心をまとめました。

 

大谷翔平は好きで野球をやっているだけでしょうが

結果としてコロナで分散し、オリンピックでも

まとめることができそうにない日本人の心を

野球を通じて引き戻したかのごとくです

 

「中国ウィルス」で憎しみの巻き添えにされた東洋人一般が、オータニ人気によっていささかなりともアシアンヘイトから解放されたとすれば喜ばしい。「激増するヒスパニック等の非白人」人口を取り込んで野球人気が復活すればMLBの裏方さんは嬉しいというワケです。

 

長島茂雄が「非・言語化」タイプの天才であったとすれば

27歳になったばかりの青年は「言葉の人」でもあります

 大谷選手は頭の中にもうひとつの大谷カメラをもっており

カメラに映した言葉でみずからを凝視しているかのごとくです

わかりやすく言うと彼はとても頭が良いです

 

大谷翔平の発言を読むにつれ

むかしの自分を思い出し

若気の至りの人生を恥じかつ悔いました

ご興味の方は以下へどうぞ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/55e9e01b015f22aa8b0cd111acd5fe0e38acf785

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと道草 210710  写真で Go to西表島22  戦争マラリア d

 

 

 

 

抜刀虐殺事件をめぐる3冊の書より

 

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1998年に出版された

桜井信夫著・津田櫓冬画による少年長編叙事詩

「ハテルマ シキナ」かど創房

 

桜井信夫氏(1931~2010)・津田櫓冬氏(1939~2020 )は幼少期の記憶として戦争をイメージできる世代かと思われますが、直接の戦争体験はないはず、石原ゼミの聞き書き「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島」他の文献から島民の悲劇を想像し、「叙事詩」として創作したのでしょう。よく練られた言葉の扱いに敬意を表しつつも、どこか現場の生々しさに欠けるのは氏が、戦争資料から抽象したイメージを「叙情的」に言葉化したからではないか…理由は以下の通りです。

 

その長編叙事詩において山下軍曹は鬼か悪魔のごとく描かれています。山下は悪辣な加害者であり、島人(住民に対する島民は差別語だそうです)は可哀相な被害者であったという単純な二元論で話は進みますが、その山下を悪人にした背後の構造に触れることなく、ひたすら恐怖心をゆさぶる言葉を並べ、少年少女の心に迫る戦争詩とは何か?

 

西表島の炭坑から脱走した台湾人4人を山下軍曹が「抜刀殺害」した現場を、たまたま山桃の木に登っていた4人の子どもが見たという少年長編「叙事詩」の一節を引用します。

    ***

うしろ手にしばられた男たち

じゅずつなぎにされた麻袋の男たちが

  ~中略

引き抜かれた日本刀の刃先にこづかれ

うつむきげんに ひざをついた

 

子どもたちは かくれて息をころし

おそろしい予感に 枝にしがみつき

目をこらして見つめた

右はし 麻袋の男のまうしろから

白刃がひらめき打ちおろされ

男の首がころげおち

一瞬の間をおいて血がふきだす

となりの男のからだがゆらぎ

日本刀の刃先が そのゆらぎをとめ

あらたな血しぶきが流れをそめ

さけび声ひとつなく

3番目の男 4番目の男とつづいた

~中略

このあと3人の子どもたちが

マラリアにいのちをうばわれた

ひとりだけが生きのこり

ながい沈黙の*40年ののち

はじめて ひとにつたえた

「ハテルマ シキナ」p124~126

 

*部は「もうひとつの沖縄戦」での

聞き取り調査が1981年

初版発行が1983年だから

正確には36年のはず

 

 

 

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「抜刀殺害」事件の論拠は

1983年刊行(1985年第5版発行 2012年電子書籍化)

石原昌家氏が石原ゼミナールの学生たちと現地取材した労作

「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島

おきなわ文庫 (キンドル版943円)にあります

以下(禁を破って)関係部のみ引用します

 

「私たち子ども4人が木の上で山桃を食べているときでした。そのとき、山下がシタダレ川のそばに台湾人たちを連行してきました。そこと私たちが登っている木は、*10メートルから15メートルぐらい離れていました。台湾人たちはみんな20代の後半、27~8歳に見うけられました。台湾人の他には山下だけで、部下はいませんでした。山下は一言もしゃべらず、凶行を行いました。台湾人たちは首をハネられた瞬間は血は出ませんでした。しかし、しばらくしてから*一気に首の根元から血が噴き出しました。私は人間が犬畜生のように殺されるのを見て、いたたまれない気持ちになりました。山下は4人の首を落とすと、台湾人の胴体を川に放り込みました」

~中略~

「山下の台湾人虐殺現場を*目撃した人は4名だったが、3名の方はすでに故人となり、*Fさんは唯一の生き証人となっている。(山下が、島に出入りするようになったので、具合が悪いから本名を出さないで欲しいという本人の要望があり、符号で表すことになった)」

 

「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島

おきなわ文庫キンドル版p949/1891~

 

 

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津田櫓冬画「ハテルマ シキナ」より

川沿いの山桃の木に登った4人の少年が

山下軍曹による台湾人惨殺の現場を目撃した図

 

ぼくも子どものころヤマモモの実を取りに裏山へ登ったものですが、山桃の葉は厚く繁り、幹にすがって葉の隙間から外部を伺うことはなかなかできません。管の穴から外を見るようなもので、ちらちら動く影は捉えられても物見台から見渡すような視界はとれないものです。上の絵は状況説明のため、手前の葉を取り除き、子どもの姿を浮き彫りにしていますが、現実的にこのような構図はありえません。

 

Fさんの口述中

よく分からないのは

1)いかに深い森の中とはいえ「*10メートルから15メートル」といえば目と鼻の先である。その山桃の木に登っていた4人の子どもが、一部始終を映画のように目撃するには広い視野が必要だ。しかるに葉を繁らせたヤマモモの「木の上」から広い視野を確保するのは難しい。挿絵の如くたまたまヤマモモの枝葉に広い隙間があり、そこに4人の台湾人が曳かれたのだとすれば、逆に山下に見つかる可能性だってある。「*一気に首の根元から血が噴き出し」というズームアップした描写が事実なら両者は至近距離にあったわけだが、そもそも深い森の一点で子どもたちが、待ち構えたように山下一行と出会う確率は限りなく低い。子どもたちは驚くべき偶然によって惨劇の現場を見たことになるが、本当だろうか?

 

2)「目撃した人は4名だったが、3名の方はすでに故人となり、*Fさんは唯一の生き証人となっている」とすれば、唯一の生き証人の口述を保証する第三者がいない。Fさんの話は嘘かもしれないし本当かもしれない。

 

3)石原ゼミの聞き取り調査は1981年だからFさんが、事件後36年(叙事詩では40年?)に渡って沈黙を続けた理由がよくわからない。ヤマモモの木に登っていた子どもたちは、たまたま恐ろしい光景を見たのであって彼らには何の罪もない。自分に罪がなく、かつ山下を憎む重苦しい記憶があれば、どこかで誰かに伝えたいものだ。とすれば聞き取り調査以前に「抜刀殺害」の噂は小さな島の誰もが知っていたと考えることもできる。誰ひとり知らないのであればFさんの心の傷があまりにも深かったか、もしくは作り話だったのかもしれない。

 

4) Fさんは「山下が、島に出入りするようになったので(本名をあらわすのは)、具合が悪い」というが、戦後20年目の1972年に沖縄返還が済み、さらに戦後36年を経た1981年においてなお「本名を出さないで欲しい」という理由は何だろう。かりにヤマモモの木に登った当時15歳だったとすれば、聞き取り調査時にFさんは51歳、山下軍曹は61歳の計算になる。その年齢になってなお喋れば抜刀した山下に追い掛けられるとでも言うのだろうか。それほどの秘密であれば、石原ゼミの学生の前でぺらぺら喋ったのはなぜか?

 

5)「長編叙事詩」にも「聞き書き」にも、なぜ山下が台湾人を殺害したのかという理由説明がない。「聞き書き」調査員は、なぜそこに台湾人がいたのか、斬られた理由は何だったのかと、よしんばFさんが返答できないにせよ、質問しなかったのであろうか?

 

6)さらに言えば、Fさんが本名をあらわさないのであれば、Fさんの口述の真偽は何によって担保されるのか。いざと言う日には公開するのが学術の原則だから、Fさんの名は著者が秘匿しているはずだが、本書が電子版として復刊された2012年において既にかなりのご高齢であったはずのFさんの名は尚も伏せなければならなかったのであろうか。しつこいようだが、ここは本書の信憑性を示す骨だから拘らざるをえない。発言の真実は第三者によって担保されるのであり”私の言葉は真実だ”と本人が言っても意味をもたないのである

 

 

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1994年に出版された毎日新聞特別報道部取材班による

沖縄 戦争マラリア事件」東方出版

 

本書の冒頭部に「忘勿石」と波照間小学校の「星になった子どもたち」が置かれており、たまたま旅先で出くわした自分の経験と重なるのでオヤと思いながら読み進みました。さすが取材を仕事とする人たちで、軽いフットワークにものを言わせ「沖縄の離島に分散配置された11人の工作員のうち、山下軍曹(波照間島)、菊地中尉(伊平屋島)、山川軍曹(黒島)、西村軍曹(伊是名島)」の4人を訪ね、散り散りの事実をつなぎ、推理小説のような謎ときで読者を引っ張ります。なぜか参考文献を記載していませんが、まちがいなく本書は石原ゼミの聞き書き「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島」を下敷きにしており、取材班は戦後48年を経た1993年、滋賀県在住の山下軍曹(当時72歳)に面会しています。

 

 

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離島残置工作員配置図「沖縄 戦争マラリア事件」p116

 

以下「台湾人虐殺事件」に関し

Fさんの証言を元にした記者の質問と

山下軍曹の弁明が食い違う部分を引用します

 

記者:「西表島で山下軍曹が台湾人青年の首をはねたという噂について」

 

山下:「住民が『山下先生、なんとかしてください』というので、台湾人の坊主を縄に縛って連れて行き、アルミのパイプで頭を殴った。山シシの肉を物々交換しようと、波照間の人と接触しようとしたんだ。山道に連れて行って『もうするなよ』と放してやった。戻ったら住民が『先生、どうした』というから、『首を切って殺した』というように言っておいた。私は人の首を切ったことなど一度もない」「敵のスパイが肉に*バクテリアを入れる恐れがあって、そのために(台湾人を)とっちめただけ。もし(スパイ行為が)はっきりしたら殺したかもしれんが」

沖縄 戦争マラリア事件」p88~89

 

*バクテリアとは何か⇒「一人のスパイは一個師団に勝ると言われる。一個師団は、だいたい1万人。それぐらい殺すのは、訳ないですよ」 S氏(山下軍曹)は簡単に言ってのけた。「万年筆に忍び込ませたバクテリア菌を米軍の補給タンクに入れてごらんなさい。そんな訓練は平気で受けましたから、いざとなったらやりますよ」同書p92

 

自分が細菌兵器を所持しているから敵スパイが「バクテリア」を使うこともあり得るというロジックです。当時の石垣島には日本軍が駐屯していたから、あるいはという危惧もあったかもしれませんが、西表島の炭坑を脱走し、乞食のような姿で徘徊していた台湾人にまでスパイの嫌疑をかけねばならないものかどうか、戦争を知らない自分にはよくわからない話ではあります。ただ戦時と平時を想像力の及ぶかぎり区分けして考えることは必要です。

 

よく分からないこと

1)山下軍曹は、沖縄県史を含め自身に関する記述資料は確認していたようだから、取材班の多くの質問に澱みなく応えている。上記の返答もまた質問者の意図を見透かすかのような受け答えであり、自らに罪が及ばない配慮がなされている。むしろ筋立てた弁明が逆に怪しい気もするが、取材班はそこを突破する証拠をもたない。

 

2) 住民には「首を切って殺したというように言っておいた」が「私は人の首を切ったことなど一度もない」と山下軍曹は弁明した。殺していないのに「殺した」とするのは住民を恐怖で支配するための脅しであり、切ったかもしれないのに「切ったことがない」とするのは自己の不利益にならぬための伏線ともとれる。おしむらくは山下軍曹の発言の真偽を確かめる第三者保証がないことだ。真相は藪の中なのである。

 

 

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特務機関員の消息「沖縄 戦争マラリア事件」p120

 

同じ離島残置工作員としてフィリピンはルバング島で「遊撃戦」を展開し、戦争終結から29年後に帰還した情報将校・小野田寛雄少尉もまた陸軍中野学校出身でした。上記3冊とも戦中戦後生れの作家画家、学者記者が、彼らを平時の倫理で裁くことに主眼を置いていますが、小野田少尉も山下軍曹も陸軍中野学校出身者であり、強い使命感をもって、ぼくら戦後世代とは違う時代を生きたことを銘記すべきでしょう。

 

語弊のある言い方ではありますが、血気にはやった記者が、書いてなんぼの質問を投げたにせよ「(中野学校に)入校後は家族・親類との連絡も絶った。他の軍人にはあった『満期』もなかった。卒業後、沖縄への赴任に伴い、軍部の手により戸籍は抹消、戦死公報まで出て、家族も戦死したものと信じきっていた」(同書p91) 筋金入りの工作員と勝負できるわけもないでしょう。時は戦時であり、軍人であり、特務機関員でもあった彼らを、戦後の平和憲法に守られたわれわれの倫理・道徳で切って捨てることができるかどうか…

 

以上3冊の本を組み合わせ

ぼくは何を言いたいのか

⇒長編叙事詩を支えるFさんの証言が、

1)仮に正しいとしても戦時の人間を戦後の倫理で捉えることには無理がある。

2)もしも証言が誤っているか、狂言であったとすれば、それは読者を特定の思想に押し込める誘導になる。違う思想をもつ側から見れば、書き手の悪意と取られても反論できない。

 

大人の世界ならまあ何でもありですが、

問題は「叙事詩」が子どもの読み物として描かれたところにあります。

    *  *  *

日本国憲法21条には「表現の自由」が明記されています。今の日本では何を書こうと書き手の勝手なわけですが、子ども相手の読み物に、史実めかして架空の舞台をつくり、いたずらに日本人を貶め、子どもの心を汚すことが許されるものかどうか…それは事実だ。事実を詩文に置き換えて何が悪いというのであれば、巻末に引用資料を付記し、それが事実であることを証明せねばなりません。その義務を怠ってなお「表現の自由」を求めてはならないと思うのです。

 

▽またぞろ「表現の不自由展」が東京で開かれる気配です。自由を謳歌する人がいれば、不自由をかこつ人もいるわけで、自由と不自由は背中合わせの関係なのだよと子どもに説教するようなことはさておき、彼らの信仰する「自由」とは、何をやっても身に危害が及ばない平和な国で自由気ままに振る舞っているだけではないかと悲しく思います。かりに彼らが今の香港人のごとく体を張ってChina共産党に対峙し、逮捕されるのであれば、信念を持つ者の立派な行為ですが、ひょっとすると彼らは自分でもよく分からない力に支配されているのではないか、ぶっちゃけて言えば、あなたがたを突き動かす理論とカネはどっから来てんの?と問いたいこともあります。

 

面倒くさい話になりました。

読んでくださった方にはお疲れさまと申し上げます

Go to西表島はこれでお仕舞いにする予定でしたが

中途半端はイヤなのでもう少しつづきます

2021.07.10記 つづく

 

 

 

 

 

      # # # 高知の今 # # #

 

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高知県本山町の棚田 2021.06.24

 

Google Mapを広げていると

四国の中ほどに曲線で仕切られた田んぼの群が見えました

おっとこれがたまるかと思ってバイクを飛ばすと

 

 

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本山町の棚田 2021.06.24 

 

ところどころ見晴らしのよい場所に

フォトスポットの看板が立っていますが

 いくら高いところに登っても

山は谷に向かって下るので

画角がとれず

田んぼは数枚しか入りません

 

 

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本山町の棚田 2021.06.24 

 

そこで考えました

こっちから見るのではなく

あっちから見たら

山肌の全景が見えるはずだ

 

物干し竿にスマホを付けて

高いところから写せないだろうか

大きな風船にカメラをぶら下げて

遠隔操作でシャッターを切れないか…

 

 

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本山町の棚田 2021.06.24 

 

地べたに張りついた自分を

空中から眺めることができたら

人生観が変わるかもと思い付き

某編集長に相談すると

ドローンを紹介してくれました

 

iPhon12 miniが欲しいなという気持ちを

ドローンに振り向け えいやの勢いで

買っちゃいましたが ネット配布の

マニュアルを落としてびびりました

細かい文字で無数の条件が書かれています

 

 

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本山町の棚田 2021.06.24 

 

自己流でドローンを使いこなすには

車の運転免許を取るくらいのワザが要ります

浜や河原で舐めたマネをしていたら

たちまち水没するでしょう

 

そんなわけで

じっくり勉強して

谷間の向こうから

秋の夕陽が差し込み

金波銀波の稲穂が揺れるころ

ドローンの目を借りて空中散歩します

乞うご期待です

 

 

ちょっと道草 210705  写真で Go to西表島21  戦争マラリア c

 

 

 

 

 

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西表島南風見田の忘勿石ワスレナイシ記念碑 2017.07.07

 

波照間小学校全児童合作♪

「星になった子どもたち」

 

(二)

南風見の海岸に

きざまれている

忘れな石と

いうことば

戦争がなければ

こどもたち

楽しくみんな

遊んでた

 

さびしいよいたいよ

お父さん

帰りたい帰りたい

波照間へ

 

碑と詩の関係は以下のように要約できるかと思います。

青年学校の教師を装って来島した山下虎雄=離島残置工作員の酒井清軍曹は1945年、石垣島の司令部に呼ばれ「波照間の全島民を速やかに西表島疎開させよ」との命令を受けた。軍命だから質問も反論も許されなかった。波照間島に戻った酒井軍曹は、住民の前で軍刀を抜き、西表島への移住を強要した。島民は穀物を俵に詰め、牛馬豚山羊鶏はつぶして燻製とした。燻製品の大半は石垣島の軍へ送り、一部を西表島へ向かう住民の食糧としてカツオ船に乗せた。マラリアが猖獗する南風見田ハエミダの海岸でキャンプ生活が始まった。

 

波照間国民学校の児童はろくな教材も持たず浜で勉強した。識名信升校長は悲しんだ。終戦も近い7月20日、校長は波照間へ帰島すべく酒井軍曹と交渉したが、埒が明かず、石垣島の軍司令部へ直接出向いて交渉した。願かなって島民は波照間島へ戻ったが、西表島から持ちこんだマラリアが蔓延した。全島民1590人中1587人が罹患し、死者447人を出した。児童は323人中66人が「星になった」 後年その悲劇を識名校長が忘ルコト勿カレと刻んだ石が発見され、写真の記念碑が建設された。「忘勿石」と「星になった子どもたち」の詩には、ざっくりそのような物語が隠れています。

 

 

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(三)

みんなでたましいを

なぐさめようよ

みんなでなかよく

くらそうよ

六十六名

知らない世界へ

逝ってしまったこと

忘れない

 

静かにやすらかに

ねてください

平和な平和な

波照間に

 

静かにやすらかに

ねてください

平和な平和な

波照間に

 

 

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■「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島

おきなわ文庫 (キンドル版943円)

戦後38年を経た1983年に

沖縄国際大学教授・石原昌家氏が

石原ゼミナールの学生たちと現地取材した労作です

 

同書は悲劇を目撃し生き残った住民からの聞き書きであり、ぼくの知るかぎり波照間島の「戦争マラリア」に関する後続の出版物ないしネット記事はエビデンスの相当部を本書に依拠しています。この段は同書より必要部を引用し、私見を交えず、ストーリーを組み立てようと考えましたが、2012年に電子化された同書末尾に「本作品の全部もしくは一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します」という厳しい断り書きがありました。善意で一部引用⇒広告として拡散することは取材に携わった方々の意に報いることでもあるはずですが、ここまでロックされるとさすがに無断引用は憚られます。惜しいことです。

 

青年教師を偽って波照間島国民学校に赴任した山下虎雄は当初、子どもたちに慕われるよき先生であったようです。その人物がある日を境に豹変し、軍刀をもって住民を威嚇し、西表島マラリアの猖獗地帯へ強制移住させ、結果として波照間島民の1/3を死に至らしめたわけですから島民にとっては恨み骨髄に達する悪人でありました。

 

しかしながら鬼か悪魔のように伝えられる山下軍曹とて所詮は一人の青年です。来島時はおだやかな青年教師として認知されていたことからも好き好んで軍刀を揮ったわけではないでしょう。その軍曹が戦争⇒軍命という大波に巻かれ、個人の意志とは別の運動を始めたところに時代の悲劇があるのだろうとぼくは捉えています。

 

山下軍曹の人となりを伝える後続の書が、加害者(山下)vs被害者(島民)の二元論で分かりやすく描かれているのに対し、同書=石原ゼミの聞き書きでは、わずかながらも山下軍曹が一部島民から信頼されていた事実も置かれ、また戦後に山下軍曹が自身を弁明した文書(中野学校3 p212)にも触れています。歴史の記述者としてフェァな態度です。

 

してみれば石原ゼミの聞き書きは、白と黒に灰色を含ませ、話を複雑にさせた反面、そもそも人間が善悪二元論では説明できない存在であることを一部容認したことになります。

 

原理的に単純化できない存在を敢えて単純化し、あいつは悪い奴だ、やっちまえとするのは活動家ないし革命家の原理です。一方、白でも黒でもなく灰色に揺れるものを揺れるがまま描き、あいつは悪い奴だけどたまには良いこともした。調べた事実はこれだ。白も黒も灰色もある。あとは読み手が判断してくれとするのが調査の原則です。島人の証言と山下軍曹の弁明が食い違った場合、それは人の心の問題だから、どちらが真実であるかは確かめようがありません。

2021.07.05記 つづく

 

 

 

補記 

長いこと西表島を考えてきました

この段でお仕舞いにする予定でしたが

くすぶるものがあるのでいま少しつづきます

 

前号から間が空いたのは

関係の本を読み直していることと

大リーグの大谷翔平選手が原因です。

なんせ毎日出てくるので毎日気になって

時間は盗られる感受性は奪われる

迷惑してますけど今朝も31本目の豪快ホームランを

リアルタイムで見られて嬉しかったです

 

 

 

# # #高知の今# # #

 

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高知県本山町の棚田 2021.06.24 

 

ここは四国のほぼ真ん中の

標高500~600mほどの山間地です

高知の海沿いの田んぼは青々と繁っていますが、

この辺りはやっと田植えを済ませたばかりです。

 

気温は高度100mあたり0.6℃下がるので

平地と山間地では3~4度の温度差があります

初夏の爽やかな風に吹かれてみる棚田は格別です

 

 

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棚田のホタルブクロ 2021.06.24 

 

下界の蛍袋はだいぶ前に終わりましたが

ここは今が盛りです

白い袋の中で蛍が灯をともすから

蛍袋と名付けられたのでしょう

でも実際に見たことはありません

 

いま調べてみるとぼくのカメラは

何とASO25600もありました

これだけの感度があったら蛍のお尻が

ロマンチックに映るかもしれません

 

発光キノコをご存じでしょうか?

茸が光るだなんて冗談だろと思っていましたが

写真家の高橋宣之氏が

高知県佐川町横倉山のてっぺんで撮った

お伽話のような光景を見せてくれました

 

考えみればホタルだってクラゲだって光るので

キノコが発光しても不思議はないのかも…

で今年の5月にはバイクで山道を登る予定でしたが

仕事にかまけてチャンスを逃しました

来年はがんぱります

 

次回つづきの写真を掲示します