抜刀虐殺事件をめぐる3冊の書より
1998年に出版された
桜井信夫著・津田櫓冬画による少年長編叙事詩
「ハテルマ シキナ」かど創房
桜井信夫氏(1931~2010)・津田櫓冬氏(1939~2020 )は幼少期の記憶として戦争をイメージできる世代かと思われますが、直接の戦争体験はないはず、石原ゼミの聞き書き「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリアの波照間島」他の文献から島民の悲劇を想像し、「叙事詩」として創作したのでしょう。よく練られた言葉の扱いに敬意を表しつつも、どこか現場の生々しさに欠けるのは氏が、戦争資料から抽象したイメージを「叙情的」に言葉化したからではないか…理由は以下の通りです。
その長編叙事詩において山下軍曹は鬼か悪魔のごとく描かれています。山下は悪辣な加害者であり、島人(住民に対する島民は差別語だそうです)は可哀相な被害者であったという単純な二元論で話は進みますが、その山下を悪人にした背後の構造に触れることなく、ひたすら恐怖心をゆさぶる言葉を並べ、少年少女の心に迫る戦争詩とは何か?
西表島の炭坑から脱走した台湾人4人を山下軍曹が「抜刀殺害」した現場を、たまたま山桃の木に登っていた4人の子どもが見たという少年長編「叙事詩」の一節を引用します。
***
うしろ手にしばられた男たち
じゅずつなぎにされた麻袋の男たちが
~中略
引き抜かれた日本刀の刃先にこづかれ
うつむきげんに ひざをついた
子どもたちは かくれて息をころし
おそろしい予感に 枝にしがみつき
目をこらして見つめた
右はし 麻袋の男のまうしろから
白刃がひらめき打ちおろされ
男の首がころげおち
一瞬の間をおいて血がふきだす
となりの男のからだがゆらぎ
日本刀の刃先が そのゆらぎをとめ
あらたな血しぶきが流れをそめ
さけび声ひとつなく
3番目の男 4番目の男とつづいた
~中略
このあと3人の子どもたちが
マラリアにいのちをうばわれた
ひとりだけが生きのこり
ながい沈黙の*40年ののち
はじめて ひとにつたえた
「ハテルマ シキナ」p124~126
*部は「もうひとつの沖縄戦」での
聞き取り調査が1981年
初版発行が1983年だから
正確には36年のはず
「抜刀殺害」事件の論拠は
1983年刊行(1985年第5版発行 2012年電子書籍化)
石原昌家氏が石原ゼミナールの学生たちと現地取材した労作
「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリアの波照間島」
おきなわ文庫 (キンドル版943円)にあります
以下(禁を破って)関係部のみ引用します
「私たち子ども4人が木の上で山桃を食べているときでした。そのとき、山下がシタダレ川のそばに台湾人たちを連行してきました。そこと私たちが登っている木は、*10メートルから15メートルぐらい離れていました。台湾人たちはみんな20代の後半、27~8歳に見うけられました。台湾人の他には山下だけで、部下はいませんでした。山下は一言もしゃべらず、凶行を行いました。台湾人たちは首をハネられた瞬間は血は出ませんでした。しかし、しばらくしてから*一気に首の根元から血が噴き出しました。私は人間が犬畜生のように殺されるのを見て、いたたまれない気持ちになりました。山下は4人の首を落とすと、台湾人の胴体を川に放り込みました」
~中略~
「山下の台湾人虐殺現場を*目撃した人は4名だったが、3名の方はすでに故人となり、*Fさんは唯一の生き証人となっている。(山下が、島に出入りするようになったので、具合が悪いから本名を出さないで欲しいという本人の要望があり、符号で表すことになった)」
「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリアの波照間島」
おきなわ文庫キンドル版p949/1891~
津田櫓冬画「ハテルマ シキナ」より
川沿いの山桃の木に登った4人の少年が
山下軍曹による台湾人惨殺の現場を目撃した図
ぼくも子どものころヤマモモの実を取りに裏山へ登ったものですが、山桃の葉は厚く繁り、幹にすがって葉の隙間から外部を伺うことはなかなかできません。管の穴から外を見るようなもので、ちらちら動く影は捉えられても物見台から見渡すような視界はとれないものです。上の絵は状況説明のため、手前の葉を取り除き、子どもの姿を浮き彫りにしていますが、現実的にこのような構図はありえません。
Fさんの口述中
よく分からないのは
1)いかに深い森の中とはいえ「*10メートルから15メートル」といえば目と鼻の先である。その山桃の木に登っていた4人の子どもが、一部始終を映画のように目撃するには広い視野が必要だ。しかるに葉を繁らせたヤマモモの「木の上」から広い視野を確保するのは難しい。挿絵の如くたまたまヤマモモの枝葉に広い隙間があり、そこに4人の台湾人が曳かれたのだとすれば、逆に山下に見つかる可能性だってある。「*一気に首の根元から血が噴き出し」というズームアップした描写が事実なら両者は至近距離にあったわけだが、そもそも深い森の一点で子どもたちが、待ち構えたように山下一行と出会う確率は限りなく低い。子どもたちは驚くべき偶然によって惨劇の現場を見たことになるが、本当だろうか?
2)「目撃した人は4名だったが、3名の方はすでに故人となり、*Fさんは唯一の生き証人となっている」とすれば、唯一の生き証人の口述を保証する第三者がいない。Fさんの話は嘘かもしれないし本当かもしれない。
3)石原ゼミの聞き取り調査は1981年だからFさんが、事件後36年(叙事詩では40年?)に渡って沈黙を続けた理由がよくわからない。ヤマモモの木に登っていた子どもたちは、たまたま恐ろしい光景を見たのであって彼らには何の罪もない。自分に罪がなく、かつ山下を憎む重苦しい記憶があれば、どこかで誰かに伝えたいものだ。とすれば聞き取り調査以前に「抜刀殺害」の噂は小さな島の誰もが知っていたと考えることもできる。誰ひとり知らないのであればFさんの心の傷があまりにも深かったか、もしくは作り話だったのかもしれない。
4) Fさんは「山下が、島に出入りするようになったので(本名をあらわすのは)、具合が悪い」というが、戦後20年目の1972年に沖縄返還が済み、さらに戦後36年を経た1981年においてなお「本名を出さないで欲しい」という理由は何だろう。かりにヤマモモの木に登った当時15歳だったとすれば、聞き取り調査時にFさんは51歳、山下軍曹は61歳の計算になる。その年齢になってなお喋れば抜刀した山下に追い掛けられるとでも言うのだろうか。それほどの秘密であれば、石原ゼミの学生の前でぺらぺら喋ったのはなぜか?
5)「長編叙事詩」にも「聞き書き」にも、なぜ山下が台湾人を殺害したのかという理由説明がない。「聞き書き」調査員は、なぜそこに台湾人がいたのか、斬られた理由は何だったのかと、よしんばFさんが返答できないにせよ、質問しなかったのであろうか?
6)さらに言えば、Fさんが本名をあらわさないのであれば、Fさんの口述の真偽は何によって担保されるのか。いざと言う日には公開するのが学術の原則だから、Fさんの名は著者が秘匿しているはずだが、本書が電子版として復刊された2012年において既にかなりのご高齢であったはずのFさんの名は尚も伏せなければならなかったのであろうか。しつこいようだが、ここは本書の信憑性を示す骨だから拘らざるをえない。発言の真実は第三者によって担保されるのであり”私の言葉は真実だ”と本人が言っても意味をもたないのである
1994年に出版された毎日新聞特別報道部取材班による
「沖縄 戦争マラリア事件」東方出版
本書の冒頭部に「忘勿石」と波照間小学校の「星になった子どもたち」が置かれており、たまたま旅先で出くわした自分の経験と重なるのでオヤと思いながら読み進みました。さすが取材を仕事とする人たちで、軽いフットワークにものを言わせ「沖縄の離島に分散配置された11人の工作員のうち、山下軍曹(波照間島)、菊地中尉(伊平屋島)、山川軍曹(黒島)、西村軍曹(伊是名島)」の4人を訪ね、散り散りの事実をつなぎ、推理小説のような謎ときで読者を引っ張ります。なぜか参考文献を記載していませんが、まちがいなく本書は石原ゼミの聞き書き「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリアの波照間島」を下敷きにしており、取材班は戦後48年を経た1993年、滋賀県在住の山下軍曹(当時72歳)に面会しています。
離島残置工作員配置図「沖縄 戦争マラリア事件」p116
以下「台湾人虐殺事件」に関し
Fさんの証言を元にした記者の質問と
山下軍曹の弁明が食い違う部分を引用します
記者:「西表島で山下軍曹が台湾人青年の首をはねたという噂について」
山下:「住民が『山下先生、なんとかしてください』というので、台湾人の坊主を縄に縛って連れて行き、アルミのパイプで頭を殴った。山シシの肉を物々交換しようと、波照間の人と接触しようとしたんだ。山道に連れて行って『もうするなよ』と放してやった。戻ったら住民が『先生、どうした』というから、『首を切って殺した』というように言っておいた。私は人の首を切ったことなど一度もない」「敵のスパイが肉に*バクテリアを入れる恐れがあって、そのために(台湾人を)とっちめただけ。もし(スパイ行為が)はっきりしたら殺したかもしれんが」
「沖縄 戦争マラリア事件」p88~89
*バクテリアとは何か⇒「一人のスパイは一個師団に勝ると言われる。一個師団は、だいたい1万人。それぐらい殺すのは、訳ないですよ」 S氏(山下軍曹)は簡単に言ってのけた。「万年筆に忍び込ませたバクテリア菌を米軍の補給タンクに入れてごらんなさい。そんな訓練は平気で受けましたから、いざとなったらやりますよ」同書p92
自分が細菌兵器を所持しているから敵スパイが「バクテリア」を使うこともあり得るというロジックです。当時の石垣島には日本軍が駐屯していたから、あるいはという危惧もあったかもしれませんが、西表島の炭坑を脱走し、乞食のような姿で徘徊していた台湾人にまでスパイの嫌疑をかけねばならないものかどうか、戦争を知らない自分にはよくわからない話ではあります。ただ戦時と平時を想像力の及ぶかぎり区分けして考えることは必要です。
よく分からないこと
1)山下軍曹は、沖縄県史を含め自身に関する記述資料は確認していたようだから、取材班の多くの質問に澱みなく応えている。上記の返答もまた質問者の意図を見透かすかのような受け答えであり、自らに罪が及ばない配慮がなされている。むしろ筋立てた弁明が逆に怪しい気もするが、取材班はそこを突破する証拠をもたない。
2) 住民には「首を切って殺したというように言っておいた」が「私は人の首を切ったことなど一度もない」と山下軍曹は弁明した。殺していないのに「殺した」とするのは住民を恐怖で支配するための脅しであり、切ったかもしれないのに「切ったことがない」とするのは自己の不利益にならぬための伏線ともとれる。おしむらくは山下軍曹の発言の真偽を確かめる第三者保証がないことだ。真相は藪の中なのである。
特務機関員の消息「沖縄 戦争マラリア事件」p120
同じ離島残置工作員としてフィリピンはルバング島で「遊撃戦」を展開し、戦争終結から29年後に帰還した情報将校・小野田寛雄少尉もまた陸軍中野学校出身でした。上記3冊とも戦中戦後生れの作家画家、学者記者が、彼らを平時の倫理で裁くことに主眼を置いていますが、小野田少尉も山下軍曹も陸軍中野学校出身者であり、強い使命感をもって、ぼくら戦後世代とは違う時代を生きたことを銘記すべきでしょう。
語弊のある言い方ではありますが、血気にはやった記者が、書いてなんぼの質問を投げたにせよ「(中野学校に)入校後は家族・親類との連絡も絶った。他の軍人にはあった『満期』もなかった。卒業後、沖縄への赴任に伴い、軍部の手により戸籍は抹消、戦死公報まで出て、家族も戦死したものと信じきっていた」(同書p91) 筋金入りの工作員と勝負できるわけもないでしょう。時は戦時であり、軍人であり、特務機関員でもあった彼らを、戦後の平和憲法に守られたわれわれの倫理・道徳で切って捨てることができるかどうか…
以上3冊の本を組み合わせ
ぼくは何を言いたいのか
⇒長編叙事詩を支えるFさんの証言が、
1)仮に正しいとしても戦時の人間を戦後の倫理で捉えることには無理がある。
2)もしも証言が誤っているか、狂言であったとすれば、それは読者を特定の思想に押し込める誘導になる。違う思想をもつ側から見れば、書き手の悪意と取られても反論できない。
大人の世界ならまあ何でもありですが、
問題は「叙事詩」が子どもの読み物として描かれたところにあります。
* * *
日本国憲法21条には「表現の自由」が明記されています。今の日本では何を書こうと書き手の勝手なわけですが、子ども相手の読み物に、史実めかして架空の舞台をつくり、いたずらに日本人を貶め、子どもの心を汚すことが許されるものかどうか…それは事実だ。事実を詩文に置き換えて何が悪いというのであれば、巻末に引用資料を付記し、それが事実であることを証明せねばなりません。その義務を怠ってなお「表現の自由」を求めてはならないと思うのです。
▽またぞろ「表現の不自由展」が東京で開かれる気配です。自由を謳歌する人がいれば、不自由をかこつ人もいるわけで、自由と不自由は背中合わせの関係なのだよと子どもに説教するようなことはさておき、彼らの信仰する「自由」とは、何をやっても身に危害が及ばない平和な国で自由気ままに振る舞っているだけではないかと悲しく思います。かりに彼らが今の香港人のごとく体を張ってChina共産党に対峙し、逮捕されるのであれば、信念を持つ者の立派な行為ですが、ひょっとすると彼らは自分でもよく分からない力に支配されているのではないか、ぶっちゃけて言えば、あなたがたを突き動かす理論とカネはどっから来てんの?と問いたいこともあります。
面倒くさい話になりました。
読んでくださった方にはお疲れさまと申し上げます
Go to西表島はこれでお仕舞いにする予定でしたが
中途半端はイヤなのでもう少しつづきます
2021.07.10記 つづく
# # # 高知の今 # # #
高知県本山町の棚田 2021.06.24
Google Mapを広げていると
四国の中ほどに曲線で仕切られた田んぼの群が見えました
おっとこれがたまるかと思ってバイクを飛ばすと
本山町の棚田 2021.06.24
ところどころ見晴らしのよい場所に
フォトスポットの看板が立っていますが
いくら高いところに登っても
山は谷に向かって下るので
画角がとれず
田んぼは数枚しか入りません
本山町の棚田 2021.06.24
そこで考えました
こっちから見るのではなく
あっちから見たら
山肌の全景が見えるはずだ
物干し竿にスマホを付けて
高いところから写せないだろうか
大きな風船にカメラをぶら下げて
遠隔操作でシャッターを切れないか…
本山町の棚田 2021.06.24
地べたに張りついた自分を
空中から眺めることができたら
人生観が変わるかもと思い付き
某編集長に相談すると
ドローンを紹介してくれました
iPhon12 miniが欲しいなという気持ちを
ドローンに振り向け えいやの勢いで
買っちゃいましたが ネット配布の
マニュアルを落としてびびりました
細かい文字で無数の条件が書かれています
本山町の棚田 2021.06.24
自己流でドローンを使いこなすには
車の運転免許を取るくらいのワザが要ります
浜や河原で舐めたマネをしていたら
たちまち水没するでしょう
そんなわけで
じっくり勉強して
谷間の向こうから
秋の夕陽が差し込み
金波銀波の稲穂が揺れるころ
ドローンの目を借りて空中散歩します
乞うご期待です