220513 ひとり旅 220513 ロシア編(16 ロシア 中国 津軽海峡 大隅海峡 サハリン 香港 台湾 宗谷岬

 

 

 

 

 

北海道オホーツク海沿いの放牧場  2015.10.10

 

南アフリカを旅した友人から「とても広くて帰るのがイヤになりました」という葉書が届きました。高知の土佐湾沿いで暮らしていると太平洋が広いのは分かりますが、車で30分も走ると山の谷間に畑があり村があり、空は三角、山は壁です。乳牛が遊ぶ北海道の大地を見て胸がスカッとしました。南アフリカもこのような風景なのでしょうか?

 

 

富山県人が作った地図

 

ウクライナ侵攻の4カ月前、2021年10月19日にロシア軍と中国軍の艦艇10隻が津軽海峡を越え、伊豆諸島から足摺岬沖の海域を航行し、大隅海峡を抜けました。両海峡とも国際海峡であり違法行為ではありませんが、これ見よがしに日本列島の首と足を切る航路は、明らかに軍事的意図をもちます。

 

日本地図を横に寝かせて大陸から見ると、いかにも日本は列島だなという気がします。北海道は樺太の延長であり、南シナ海に点在する南西諸島は、その気になればいつでも突破できる薄い壁です。

 

日本列島をロシア中国から見れば点在する島々にすぎません。大なるものをよしとする上下関係でいえば、広い面積をもつ大陸が偉く、間宮海峡で切られた樺太(サハリン)は文化文明の果つる地となります。序列を尊ぶ「大陸儒教」でいえば大陸⇒半島⇒海に浮かぶ小島は小日本(シャオリーベン)として低く見られます。▼フェイクかも知れませんが、ウクライナで投降した兵士や民間人は連れ去られてサハリンへ運ばれるというニュースを見ました。

 

2022年4月1日ロシアの政党党首が「ロシアは北海道にすべての権利を有している」と言明しました。「ふざけんな!」と思うわけですが、ウクライナに侵攻したロシアの議員にあってみれば、上掲ヨコ地図のごとく樺太(サハリン)の目と鼻の先にある北海道はロシアの領土だと考えることもありそうです。逆にいえば、1905年の日露戦争で敗北したロシアは、樺太の南半分を日本に取られていたわけでもあり、その土地を誰のものとするかは時代の力関係が決めることなのでしょう。

 

「ひとつの中国」とは、台湾が中華人民共和国に所属するという意味ですが、蒋介石が日本軍と戦ったという史実をもって言えば、むしろ中華人民共和国が台湾に所属します。しかし歴史の正論ではなく目の前の軍事力でいえば、中国が上、台湾が下であり、下は上に従わねばならないとするのが大陸儒教朱子学としたものです。それにしてもつい数十年前まで香港・台湾の経済力は大陸を圧倒していたにもかかわらず、変われば変わるもの、ぼくの頭の中では1980年代に中国を歩いた残像がビデオの早送りごとくです。

 

 

宗谷岬の歌碑 2015.10.10

 

1976年にヒットした「宗谷岬」は、いかにも長閑な平時の歌であり、戦時を想起させる文言はどこにもありません。戦後31年目の当時、憲法前文で言うところの「平和を愛する諸国民」は「公正と信義」をもって戦後復興にいそしんでいました。「流氷とけて春風ふいて」「外国船の煙もうれし」と北の暮らしを誇らかに歌う「宗谷岬」は豊かな文明に支えられた高い文化性をもちます。文化は経済・軍事の上に立つものだからです。その仕合わせも賞味期限が近づいたかなという気がして悲しいです。

 



千葉紘子の宗谷岬

 

2022.05.13記

 

 

ひとり旅 220509 ロシア編(15 西能登呂岬 シベリア強制抑留者 平和の礎

 

 

 

 

 

ウチはトマト農家なので最盛期の今は壁のように積み上げられたコンテナの前で毎日毎夜せっせと箱詰めしています。そこへ謎の?中国人がやってきてニーハオのあとで何か言いたげでしたが、彼は日本語も英語も解さず、こちらはシェシェと麻雀用語しか知らないので、あとは肉体言語しか残されていません。

 

無言のまま手と顔でコミュニケーションをはかるのはとても疲れる作業ですが、身振り手振りでがんばっているうちに彼は中国東北部満洲ハルビンの生まれ、近くの台湾料理店で働いていることがわかりました。故郷は「ハルビン!?」と驚いた顔を見せると彼は両の拳を握って震わせました。ハルビンはとても「寒い」そうです。

 

 

ハルビンチチハル宗谷海峡とほぼ同緯度

オムスクは死の家の記録」のドストエフスキーが収容された西シベリア

 

ウチの冷凍冷蔵庫は-30℃をウリにしていますが、マグロ船には-60℃の冷凍庫が設置されています。仮に海上が30℃として90℃の温度差を実現するには発電のため相当量の重油が使われるので寿司屋のマグロは石油の缶詰でもあります、という前振でハルビン満洲旧ソ連⇒シベリア抑留と連想しました。

 

 

宗谷岬の平和記念碑  2015.10.10

 

碑文には、アジア太平洋戦争が始まった昭和16年「宗谷要塞重砲兵連体が創設され」昭和20年敗戦の日まで「ある者は妻子と別れ、ある者は青春を空しくし、寝食を忘れて任務に就き北辺の護りに励んだ。更に(樺太南端の)西能登呂岬(ロシア名クリリオン岬) 要員は敗戦後もシベリアに抑留の身となり4年有余の辛苦の日夜を送った。この間再び故国の土を踏むことなく白玉楼中の人となった7名の僚友の霊に対し深く哀悼し」とあります。

 

 

高知県東津野中学校脇「高知県シベリア強制抑留者慰霊」銅像 2021.10.10

 

碑文には「ソ連スターリンは全面的降伏した我が日本軍を、戦争中の捕虜として流刑の地シベリアに強制連行して酷使し、飢えと寒さに耐えられず、8万人の将兵が惨たらしく死んで逝きました。これは国際法・人道上赦されぬ行為であります。この像は疲労困憊した兵が虱の猛威にたまりかね、伐採山で裸になり痩せ衰えた我が身体を見て落胆しながらも『俺は生きて帰り、この凍土の下に無念に眠る数多くの同胞の霊を浮かばせてやらねばならない』と故国の空に叫ぶ姿を描いた銅像です」とあります

 

 

平和の礎「シべリア強制抑留者が語り継ぐ労苦」巻Ⅹ

 

本書の出版日が平成12年3月

慰霊碑の竣工が平成12年11月なので

碑と書は関係があるはずです

 

本書まえがきには「終戦間近の昭和20年8月9日、旧ソ連邦は参戦し、終戦後旧満州 (満洲末尾に*補注)、樺太、千島から約575.000人の軍人等をシベリア等に強制抑留しました」とあります。635頁に及ぶ本書は第10巻であり、アマゾンで検索すると第15巻まで出版されています。

 

出版元の平和祈念事業特別基金は1)労役の実態 2)抑留者の統制管理の実態 3)抑留中の生活と極限状態における意識を明らかにすることが目的であり、本書巻10の執筆者は76人ゆえ単純計算して全15巻には1140人もの抑留経験者が、酷寒の地の実体験を記述しています。シベリアの強制労働とは何か? それを視覚化すると「高知県東津野中学校脇」で肋骨の浮いた銅像になるのでしょう。

 

夏休みの宿題を忘れた生徒を、白い部屋に閉じ込め、紙と鉛筆を渡して「作文しなさい」と命じるのはおろかな先生です。かしこい先生は「遊んだ経験を思い出して書きなさい」とさとします。プロ作家が書斎で空想をめぐらすのではなく、本書の執筆者は、数奇な運命に巻き込まれ、命懸けで一次情報を取ったのであり、どの頁どの行にも実体験の重みがあります。辞書ほどの厚みをもつ巻Xをめくっているうちに、たまたま目にとまった福井県尾上敏雄氏の「シベリア抑留を顧みて」から抜粋します。

 

 

平和の礎「シべリア強制抑留者が語り継ぐ労苦」巻Ⅹ末尾地図より

 

「8月9日ついに日ソ開戦となった」「8月15日ついに来るべきものが来た。正午、天皇玉音放送があった。私は通信室で日本の降伏を知り、筆舌に尽くし難い空しさと、敗戦のみじめさに涙が出てきた」「同僚の一人は、敗戦を悲しんで拳銃で自殺した」

 

ソ連軍の命令で、ハルビン市郊外の某日本兵舎に移動し、そこで武装解除された」「本当の捕虜扱いとなった」「天皇陛下の御為、御国の御為と教育され、ただ勝つことのみの教育ばかりで、敗戦してそれ以後の方針や教育はひとつもなかった」「11月19日、牡丹江から貨車に乗せられて当地を出発した」「監視のソ連軍ロスキーは“ヤポンスキー東京ダモイハラショ(東京へ帰る、良いだろう)”と言っていた。この言葉を信じて喜んでいた者と、またその言葉は欺瞞で、我々をソ連の陣地構築に連れて行き、終われば銃殺という悲観者もいた」

 

「防寒被服や防寒靴が支給された」「一列に並んで雪道を歩いた。食物も与えられず空腹のままだった」「見わたすかぎりの森林地帯、そしてそこかしこに転々と撤収した幕舎の跡があった」「この幕舎にドイツ兵の捕虜が収容されていたとのこと」「夜中に小便に起きて戻って来ると、もう寝る場所はない。しかたがないから次の者が起きるまで、中央のストーブ周辺で暖を取り待っている。この繰り返しだった」

 

「ここでの作業は伐採、道路工事、建物の基礎工事等に分かれた。私は森林伐採の作業に行くことになった」「空腹と酷寒、そして重い防寒被服をまとっての作業の連日」「その頃は零下35度は下っていた。生きて帰りたい一心でこの作業についていた」「朝の点呼に数人の姿が見えないので、各幕舎を点検したら、既に息絶えていた。かわいそうに栄養失調で死に神が迎えに来たのであろう。ここに約2カ月間滞在したが、その間に約100人ほどが栄養失調で亡くなっていった」

 

「零下40度近い酷寒と空腹、そして銃を持った監視付き、その上重労働の強制は、自分の気力にも限界を感じた。夕暮れになると望郷の念が強く、我が身もこれまでかと思い、人目をしのんで両手を合わせて合掌した」「大変な労働だったので、春を待つ4月頃までに300人ほどが亡くなり700人くらいになってしまった。亡くなった方の姿は、あばら骨がまるで洗濯板のようで、本当に骨と皮だった」

 

「我々の監督はソ連の囚人で、その上の監督はソ連軍法会議にかかったソ連の軍人、その上の監督がソ連正規の軍人とのことだった」「収容所の規則では、零下40度を基準として、39度では舎外作業に出るが、40度では舎内待機となった。

 

「野菜貯蔵庫の改築工事は~案外楽で、その上野菜等は十分いただき、食糧不足の折り大変助かった」「ソ連人宿舎の補修工事や個人宿舎の修繕~馬糧(乾草)の運搬作業や、馬鈴薯の植付けから除草、収穫まで色々な仕事をさせられた。しかし、どんな作業に分かれても、歩哨は監視について来た。そのため心の休まりはなかった」

 

「入浴は一人一桶くくらいのお湯が割り当てられたが、そのお湯で顔を洗い、身体をふく程度だった」「21年の夏ころだったか、全身の身体検査があり、ソ連の女医さんが私たち一人一人の尻の肉をつまんで1級から4級までに分けた。1、2級は所外の重労働、3級者は軽労働で、4級者は作業はなく、等級によって作業の量や食事の量が変わった」

 

「休日等は近くの川に行き魚取りや、野原に出ては若草や木の芽、茸などを採取して腹の足しにした」「あの頃は腹いっぱい食べたらいつ死んでもいい、一度でよいから腹いっぱいぼたもちを食べたい。いや何でもいいから、腹いっぱい食べたいと思っていた」

 

「21年の夏頃からと思うが、共産党の講義が始まった。~会場の正面にスターリンモロトフの写真があり、その両横に日本の野坂参三徳田球一両氏の写真があり、この写真に礼拝してから講義が始まった」

 

「ある日この病院内の監視人の時計がなくなった。その盗人の疑いが私にかけられた。~自分ではないことをどんなに説明しても、受け入れてくれない。この病院の軍医さん、上海に20年も住んでおられて日本語が上手にできる方が~取り計らってくれ、入院中のソ連の民間人が常習犯と分かり白状したので、私は直ちに自由帰還者の身となった」

 

「ナホトカ港に着いた。~舞鶴港へ入るころは波も静かだった。~藁葺き屋根の家々、そして日の丸の旗が見えた。帰って来たんだ。本当に日本だ。甲板の上で感涙にむせぶ声がする」

                                                                                    「平和の礎」巻Ⅹp225~234より

 

本書の執筆者は、北は北海道から南は熊本まで順に並んでおり、高知出身者が一人だけいます。斉藤拓三氏「密林の火葬」を引用します。

 

「氷点下30度~40度という寒冷の中を、毎日歩哨に銃を向けられながら伐採作業や木材の集積作業に従事したが、このような重労働のため疲労衰弱の上に、食糧不足による栄養失調に陥り、下痢を伴ったままやせ細っていく。その体は骨と皮ばかりになり、まるで枯れ木のようであった。山から帰る途中疲労のため倒れ、そのまま死ぬ人も増え続け、収容所から見える林の中では、死んだ人を焼く真っ赤な炎が夜を徹して燃え続けていた」

 

「死ぬと急激に頬がこけ始めるためか、頬の肉が骨に食いついて、まるで骸骨のようであった」「歩哨がマッチを一人の兵に差し出すと、その兵が屈んで火をつけようとしたが、寒さのため手が自由にならず幾度も繰り返すうち、ようよう火がついた」「心の中で黙祷しながら、薪木を運んでは炎に投入する。ぱらぱらと火の粉が、その人の御霊のように大きく暗黒の中に昇天して消えてゆき、その真下の真紅な一塊の炎だけが闇に閉ざされた大密林の中で灼熱のごとく猛り燃えているのである」「しかし、死ぬということについては恐れはしなかったが、この極寒にシベリアの密林の中で飢餓の状態のまま死ぬということは、人間として耐え難い矛盾のように思えた。生きたいと思った」

                                                                                        「平和の礎」巻Ⅹp 596~598

 

ぼくの父は、ハルビンの近く、北はソ連(ロシア)、西はモンゴルのチチハルで従軍していました。冬場に歩哨に立つと吐いた息が凍って耳の後ろでかすかな音が聞こえたそうです。気温が-40℃まで下がると軍用車が川を渡り、おしっこが積もったとも。敗戦後、武装解除され、北へ向かう列車に乗せられたとき、窓から飛び下りて走ったそうです。晩年の父が司馬遼太郎の「ノモンハン事件」を繰り返し読んでいたのは、小説を手がかりに、当時の記憶をさぐっていたのでしょう。

 

若い頃のぼくには、父の戦争経験を聴き取る力もなければ興味もなく、父がどのようにして満洲朝鮮半島を経て引揚げたのか訊くことはありませんでした。今にして思えば惜しいことをしたものです。もしも父がシベリア行きの列車に乗ったままなら、本書に描かれたような労務を強制されたであろうし、運が悪ければ大陸の北辺で身まかり、ぼくはこの世に存在しなかったのかもしれません。

 

 

*補注/ネットには「旧字体は『満洲』であるが『満州』の表記も用いられている。当用漢字、常用漢字『洲』がないためとされるが『満州』が中国の一部であることを強調するためと説明されることもある」とあります。この点は東洋史が専門の岡田正弘氏も論文の中で鋭く指摘しているところでもあります。

 

「平和の礎」には旧ソ連(ロシア)が、投降した日本兵を奴隷のごとく使役し、死に至らしめたことへの直接的構造的な批判が伺えません。ひょっとすると編集者に記述の細部また骨格において対中対露の政治的配慮があったのかもしれず、とすれば本書の資料としての価値は大きく減じられます。歴史は言葉なのです。

2022.05.09記 つづく

 

 

 

 

< 2022年の現在史 >

農業には「窒素リン酸カリ」の3要素が要ります。窒素は空中からとれますが、(年次によって数値はまちまちながら)一説に、カリは日本の必要量の25%をロシアとベラルーシから、リンは90%を中国から輸入しているそうです。2021.07.30に中国国内の一部肥料メーカーが「一時的に輸出を禁止する」と発表し農家に緊張が走りました。ウチは水耕栽培なので大量の肥料を水に溶かしてトマトの根元まで届けます。ロシアの切り札は核使用のみならず、石油・天然ガス、肥料にまで及びます。ウクライナ戦争が肥料に飛び火して農家の足元まで迫ってきました。桑原桑原です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとり旅 220505 ロシア編(14 宗谷海峡の米軍潜水艦 奄美大島の対馬丸 ジパング ウクライナ

 

 

 

 

北海道宗谷海峡 平和の碑1015.10.10

 

碑文には「太平洋戦争のさなか1943(昭和18年)10月、ここ宗谷岬の沖合で日本とアメリカ合衆国との間で5時間に及ぶ戦いが繰り広げられました。この時、旧日本海軍の攻撃で、アメリカ海軍潜水艦ワフー号が乗組員80名を乗せたまま撃沈されました」「そのワフー号は日本海を北上してきましたが、その途中、関釜連絡船『崑崙丸』をはじめ商船などへの攻撃を繰り返し、多くの日本人が犠牲になっています」とあります。

 

戦争終結後に「鬼鹿沖」でロシア潜水艦の攻撃を受けた樺太引揚げの「三船」と違い、戦時の商船は間接的に戦争に加担するので攻撃側が100%悪いとは言い切れないところがあります。その商船を沈めた潜水艦も日本軍に沈められたというから、海上で光を浴びつつ意識を失った人々も、海中の狭い空間であえいだ兵士も、この世の生を全うできなかった恨みは残ります。戦争を遠くから見れば、いのちのいたずらな消耗にすぎません。

 

 

奄美大島宇検集落の対馬丸慰霊碑 2017.07.19

 

碑文には「太平洋戦争終戦の1年前、昭和19年8月22日午後10時すぎ、沖縄から学童、一般疎開者を乗せて長崎へ向かっていた『対馬丸』が悪石島付近で、米国潜水艦ボーフィン号によって撃沈されました。犠牲者およそ1500人、そのうち学童780人余、就学前の幼児をも合わせると1000人余りの幼き命が一瞬にして奪われました。当時、ここフノシ海岸や枝手久島をはじめ周辺一帯には多くの遺体が漂着しました。あまりの無残さにとても正気では埋葬できず焼酎を煽り、感覚を麻痺させながら浜に横穴を掘るなどして、村民が手厚く埋葬しました」とあります。

 

 

かわぐちかいじジパング」巻12より

 

 

多くの遺体が漂着したフノシ海岸 2017.07.19

 

子どもを含む「犠牲者およそ1500人」の遺体が散乱したであろうフノシ海岸を歩きながら73年前の夏を想像しました。これが映画なら突然の雷撃または砲撃によって大混乱に陥った船上の光景をフラッシュバックさせるシーンですが、ぼくの想像力は貧弱なので、漂流物とてない渚を占有し、水中眼鏡にシュノーケルを付け、透明度の高い海で珊瑚を探したことでした。誰もいない海辺で過去を思い出させるのは石碑に書かれた文字だけです。

 

 

対馬丸碑  2017.07.19

 

ウクライナはロシアに対し一般市民を退避させる「人道回廊」をつくれと訴えています。ロシアはウクライナに対し一般市民を「人間の盾」として使うのは卑怯だという論陣を張っています。どちらの言い分が正しいのか、地球の裏側で二次情報を組み合わせて考えるぼくにはわかりません。ただ、戦争という愚かな行為の背後に、勝者敗者を超えた大いなる存在の意志が感じられるばかりです。

 

なぜプーチン大統領は「特別軍事作戦」を執行したのか、目的は何か、まだ誰も充分な説明をしていません。NATOに傾いたウクライナをロシア側へ引き寄せ、NATOとロシアの間に緩衝地帯をつくるためというのが専らの理由ですが、5月現在その目論見は逆に回り、ロシアと国境を接するフィンランドおよびスウェーデンNATO側に着くと腹を括ったようです。5月9日の対独戦勝記念日プーチン大統領は虚飾の賞賛を浴びることでしょう。しかし歓喜の拍手は無言の体制批判であるかもしれず、今後の状況によっては体制崩壊さえないとは言い切れないようです。

 

いま世界は新たな冷戦に向かっています。世界の核の半数をもつロシア、西側の資本と技術を取り込み急激に台頭した中国、西と東の間を揺れながら自国ファーストを貫くインド、理念ではなく利得で大国に追随する南米・アフリカといった東側vsアメリカ、カナダ、西ヨーロッパを中心としたNATOすなわち西側の対立です。

 

ずらりと戦車を並べても尖端技術で見劣りするロシア軍は、西側の最新兵器を持ち込んだウクライナ軍に苦戦しています。ロシア・ウクライナ戦争という兵器展示場において西側の歩兵携行式多目的ミサイルが有名になりました。1~2㎞も先にある戦車に向け、ロックオンして発射すれば目標の直前で舞い上がり戦車の上部を狙って落下するのだそうです。ネットには戦車内部の砲弾に誘爆し、砲塔が吹っ飛んだ映像が無数に置かれています。

 

玩具のドローンならぼくも持っていますが、ミサイルを搭載したトルコ製のドローンは絶大な戦果を上げているようです。結果として赤茶けた鉄が散乱する光景は、ネットの視聴者をゲーム感覚で楽しませますが、配信者は狭い戦車の内部にいた3人の兵士がどうなったのかは語ろうとしません。茶の間の映像として相応しくないという言い訳もできますが、悲惨な映像を見せられ、戦争忌避感情が蔓延すると兵器市場に影響があるからかもしれません。

 

侵攻当初キエフは2日で陥落するだろうと言われましたが、「芸人あがり」の大統領は逃げずに立ち向かいました。NATO諸国は、核使用の脅しにめげず、ウクライナへ武器支援をつづけています。親ロ親中のメルケルと交替したショルツ首相は、対ロ政策を180度転換しウクライナへの武器支援を決断しました。日経新聞2022.05.05には「EU ロシア産石油禁輸」とあります。ロシア産天然ガスの将来的禁輸と合わせてEUは、返り血を浴びることになっても、ロシアに軍事支配されるよりはマシだと判断したのでしょう。一方、戦争の大義を確信できないロシア兵は意欲を失ったのではないかとの報道もあり、ロシア内部には政変を予想させる事態が進行中のようでもあります。

2022.05.05記 つづく

 

 

ひとり旅 220501 ロシア編(13 鬼鹿 ポーツマス条約 樺太(サハリン)   戦術核

 

 

 

 

 

北海道鬼鹿沖の夕陽 2015.10.07

 

びっくりするほど足の速い新日本海フェリーで1泊し敦賀⇒新潟⇒小樽に着きました。都市の顔はどこも似たようなものなので、時計台の札幌はパスし、北海道西岸を北上していると「鬼鹿」という不思議な名の渚にアーチが掛かっていました。

 

 

 

鬼鹿のアーチ碑 2015.10.07

 

鬼が馬だったら大変なことになるなと考えていたところ

やはり土地のヒトも気にかかるとみえ

「名にも似ず姿やさしき女郎花」とありました^^!

 

 

アーチ脇の碑 2015.10.07

 

北海道東岸の知床半島と同緯度にある鬼鹿の碑文

「戦い終わりし七日目に」「海のもくずと沈み行く」

とある文を見て樺太引揚者の悲劇を知りました

 

 

アーチ脇の慰霊碑 2015.10.07

 

昭和20年8月23日「この日泰東丸、第二新興丸、小笠原丸の三船は戦乱の樺太(サハリン)より緊急引き揚げの老幼婦女子乗組員5082名を乗せ鬼鹿沖にかかりしが突如旧ソ連軍の潜水艦による雷砲撃に遭い瞬時にして沈没或いは大破し1708名の尊き生命を奪わる留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山を目睫にしてこの惨禍に遭う悲惨の極みなり」とあります。

 

「雷砲撃」とあるのは旧ソ連の潜水艦が

潜望鏡に映った民間船に魚雷を放ち

浮上後は大砲でとどめの一撃をかけたのでしょうか

 

第二次世界大戦における日独伊三国軍事同盟は、1945年4月25日にイタリアが抜け、5月7日にドイツが降伏し、8月15日に日本は敗戦の日を迎えます。ところが旧ソ連は「日ソ中立条約」を破って8月9日に対日宣戦布告し、終戦の1週間後、8月22日に戦争の終結を知らぬわけもない潜水艦が鬼鹿沖の民間船を「雷砲撃」し、三船の乗員5082名中1708名が「命を奪われ」ました。投げ出されて海上を漂い、あるいは船とともに海中に沈んだ引揚者たちの地獄絵が目に浮かびます。

 

戦闘中のウクライナではロシア兵による民間人への残虐行為が糾弾されています。そうはいっても戦争だからという弁明もありましょうが、戦争法は民間人と戦闘員の間に明確な境をもうけています。ましてや戦争集結後、他国の民間船を「雷砲撃」することが許されるはずはありません。

 

 

宗谷岬の看板 1015.10.10

 

なぜ5000余名もの日本人が、ロシア領の樺太(サハリン)から引揚げたのかといえば、1905年日露戦争後のポーツマス条約において樺太の中央部、北緯50度以南は日本領とされたからです。ご興味の方は外務省のホームページをご覧ください。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_keii.html

 

日露戦争後の40年間に多くの日本人が入植し、樺太には至る所に日本名のムラやマチが生れました。「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」の詩で有名な宮沢賢治は、北海道稚内から樺太コルサコフ(大泊)へ渡り⇒ユジノサハリンスク(豊原)⇒スタロドゥブスコエ(栄浜)に向かっています。

 

 

宗谷岬宮沢賢治文学碑 1015.10.10

 

けふのうちに

とほくへ いってしまふ

わたくしの いもうとよ

みぞれがふつて

おもてはへんにあかるいのだ

「永訣の朝」

 

と詠んだ宮沢賢治

若くして身まかった妹トシ

の残影を追いつつ樺太鉄道を北に向かい

「オホーツク挽歌」「銀河鉄道の夜」

のモチーフを得たようでもあります

2022.05.01記 つづく

 

 

 

< 2022年の現在史 >

プーチン大統領は、5月9日の対独戦勝記念日に合わせ、ロシア国民に戦果をアピールすべくウクライナ東部で「電撃的」な戦法をとるかもしれないと伝えられます。ウクライナにむけた西側の武器供与を牽制するブラフなのでしょうが、すべては5000発とも6000発とも言われる核のボタンを常時携行し、人類の生殺与奪の権を握る独裁者の胸三寸にあります。まさかとは思いますが、戦術核の使用をにおわせる言葉が恐ろしいです。

 

4月5月の光を浴びて庭先の草花がぐんぐん伸びてきました。これは花、あれは雑草という分類には興味がないので拙宅の庭は荒れ放題です。生命科学はヒト遺伝子をすべて解析し、有用植物の遺伝子組み替えさえ実用化しましたが、タンパク質をつくり、遺伝子そのものを合成するには至っていません。生命科学といっても未知の存在によって作られたものを切ったり貼ったりしているだけであり、ヒトは神たりえません。人類は月も火星もイトカワも覗きましたが、残念なから「生命の痕跡」を目撃するには至らず、もしも地球がほんの少し太陽に近かったり遠かったりすると生命活動はないことを実証したとも言えます。かくてわが家の庭の草花は永遠の謎を秘めて嬉しげです。いのちざわめく地球にあって破壊力を誇示する独裁者とは何なのでしょうか?

 

ひとり旅 220427 ロシア編(12 巡洋艦モスクワ バルチック艦隊 知床半島

 

 

 

 

 

ロシア海軍の旗艦モスクワ

 

CNNによると「米国防総省の高官は2022年4月15日、ウクライナの対艦ミサイル”ネプチューン”2発が(ロシアの巡洋艦モスクワに)命中したことを確認した」米紙ウォール・ストリート・ジャーナルによると「露海軍で艦隊の旗艦が戦時に沈没したのは、1905年の日露戦争日本海海戦で、バルチック艦隊の旗艦が日本の連合艦隊の攻撃により撃沈されたのが最後という」

 

 

対馬北部「日本海海戦」の海 2021.10.01

 

かつてこの沖で東郷平八郎率いる連合艦隊

圧倒的戦力を誇るバルチック艦隊が衝突し

東洋の小国日本が軍事大国ロシアに対し

信じがたい勝利を収めました

 

 

バルチック艦隊の残存兵が上陸した対馬北部西泊 2021.10.01

 

1905年5月27日、日本海海戦の翌日、対馬北部の西泊に流れ着いた100人以上のロシア兵は「井戸で体を洗い」「傷の手当を受け」「六軒の二階建ての家に分宿」する等「土地の人々から手厚いもてなしを受けた」と碑に記されています。西洋の騎士道と東洋の武士道が生きていた時代の話ですが、異国の漂流兵を迎えた対馬の人たちの気持ちが、現代のわれわれと大きく違うことはないでしょう。

 

 

殿崎公園に設置されたレリーフ下の文言 2021.10.01

 

皇国の荒廃ハ

此ノ一戦ニ在リ

各員一層奮励努力セヨ

 

 

同上 2021.10.01

 

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セント欲ス」との檄文は司令長官東郷平八郎の意であり「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」は当日の天気予報です。この海戦に敗北しておれば日本国の歴史は違っていたはず、まさしく「皇国の荒廃」はこの一戦にありました。「坂の上の雲」の主人公・秋山真之がさりげなく置いた「天気予報」は決死の覚悟の檄文と情緒深く重なります。

 

 

ネットより

 

砲撃を受けた瞬間死を迎える場にあってなお秋山参謀が「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と韻文めいた一文を付加したのは、万葉集古今和歌集以来のヤマトの伝統なのでしょうか。秋山真之のふるさと愛媛県松山市は、正岡子規が句を詠み、夏目漱石が「坊ちゃん」を書いた土地でもあります。軍事と文学が違和感なく溶け合った不思議な時代でした。司馬遼太郎が40代を捧げた大変な労作「坂の上の雲」は、ひょっとしてこの一文に支えられてのことではなかったかとも、、

 

 

対馬町西泊殿崎公園の慰霊碑 2021.10.01

 

「2005年5月27日ロシア政府が建立」とあり

ロシア兵5045人、日本兵117人の名が記されています

 

1979~1989年のアフガニスタン侵攻において旧ソ連軍は7000人ほどの死者を出したといわれます。2022年4月現在の特殊軍事作戦⇒ロシア・ウクライナ戦争におけるロシア兵死者数は5000人とも15000人とも伝えられますが、「日本海海戦」ではわずか1日の海戦でロシア兵5045人+日本兵117人の命が失われたことになります。板子一枚下は地獄でした。

 

それにしても露日の死者数の差をどう捉えればよいのかと碑の前で戸惑いました。図を拡大すれば3枚のプレート上縦29列がロシア兵であり、右端1列のみ日本兵の名が記されています。意欲、戦力、状況において日本側有利ではあったにせよ全く一方的な戦いに終わりました。これだけの大敗北を喫した艦長ないし司令官は船とともに沈むのが筋かと思われますが、ロシアの司令官ロジェストベンスキー中将は、自軍兵士5000余名の死者を出しながら捕虜となり、日本の病院で手当を受けています。戦争以前に日露の民族性のちがいを考えざるをえません。

 

 

殿崎公園の国道脇に置かれた巨大なレリーフ 2021.10.01

捕虜となったロジェストベンスキー中将を見舞う東郷平八郎

 

戦争とは国家と国家の争いであって個々人に恨みがあるわけではありません。知らない海で、知らない敵に砲を向け、敗れた敵兵を対馬の漁民はあたたかく迎えました。いくさが終わればひとりの人間であり、昨日まで敵対した日本国軍人に敗残兵を蔑む気持ちは全くなかったはずです。ましてや奴隷として強制労働させようなどという発想は日本人にはありません。

 

肉弾戦をともなう陸戦とちがい敵と味方が砲弾のやりとりをする海戦は、一種の舞台ともいえ、個人の恨みは発生しにくい戦闘です。芝居がはねたら互いに人格を尊重すべしという暗黙の諒解が、海軍軍人の心にはあるように思うのです。

 

このレリーフは、捕虜となった敵将ロジェストベンスキー中将を見舞う東郷平八郎の図です。ベッドから上半身を起こしたロジェストベンスキー中将と立ったまま手を差しのべる東郷平八郎の間には、角度があります。(読み返す時間が惜しいので記憶曖昧ながら)「坂の上の雲」では、相手と水平の目線をとるため、東郷は椅子に腰を下ろしたのではなかったかと、、

 

日清戦争日露戦争で清とロシアを打ち負かし、台湾を取り、朝鮮を取り、満洲へ侵攻し、アジア太平洋戦争の緒戦で真珠湾およびマレー沖海戦で米英に圧勝した日本軍は一時期、太平洋一円を支配しましたが、1945年の夏2発の核爆弾をくらい、軍民あわせて300万柱の死者を出し、敗北しました。

 

前号で述べたことの繰り返しになりますが、凶暴な悪魔アメリカは、終戦を境に柔和なマリア様のお顔に変わり、戦後のわれわれは、奴隷として扱われることはありませんでした。かつて白人国スペインが南米で、イギリスがインドで、フランスがインドシナ半島で行った強烈な搾取が、大東亜戦争(アジア太平洋戦争)下の日本国になかったとは言えませんが、縄文の昔からのんびりと平和を食んできたヤマト国は、鬼のごとく悪辣な国家ではなかったはずです。


戦後世代のぼくらは、GHQが布石した無言のバリアに封じられ、自由な思考を失い、かつ幸せでした。その幸せも今次ロシア・ウクライナ戦争の行方によっては終わりかなと漠然と考えています。

2022.04.27記 つづく

 

 

 

 

< 2022年の現在史 >

2022.04.23知床半島の観光船がカシュニ滝の近くで消息を絶ちました。乗員乗客26名中「3歳の女の子を含む11名の死亡が確認された」「観光船でプロポーズを予定していた男性もいた」と涙を誘う記事もあります。高知でいえば、年間を通じて3月の水温が最も低く、頭から爪先までウェットスーツで身を覆っても長時間の遊泳は危険です。ダイビングのお師匠さんに「正月の朝、車のフロントガラスが凍った日に珊瑚の海を眺めてきました」と報告したところ「低体温症に気をつけなさい」とマジ声で注意されました。事故現場は3mの波、海水温は5度というから船が傾いたときの乗客の恐怖が想像されます。美しい半島の海で(恐らく)26名の幸せが失われました。合掌

 

 

世界遺産知床半島  2016.09.24

 

 

 

 

 

ひとり旅 220423 ロシア編(11  イマジン ロシア・ウクライナ戦争 大谷翔平

 

 

 

 

 

 

ジョンレノンが Imagine を書いたあと妻オノヨーコは「当初これほど大きな歌になるとは思わなかった」と語りました。静かな曲に乗せた非戦のイメージが、ベトナム戦争に嫌気が差した若者の心に浸透したのでしょう。歌の価値はファンがつくります。

 

ジョン・レノン

 

イマジン(想像しなさい)は平和を願う人々の聖書であり

異論を挟むことは許されないほど「大きな歌」ですが

ロシア・ウクライナ戦争の現在から読むかぎり

夢想家の寝言でしかありません

 

Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

 

天国はない

地獄もない

ひとは今を生きる

 

いきなり天国を否定された宗教家は困惑したことでしょう。悪いことをしたら地獄へ落ちるぞと脅されてヒトは良い子に育ちますが、この世に地獄も監獄もないとなれば、本能の赴くまま何をしたってかまわないことになります。

 

高知県須崎市の廃高校に「今を生きる」という碑があります。かつて橋本大二郎高知県知事が揮毫したものですが、大ちゃん若かりしころ日本武道館ビートルズのライブを観たそうなので氏の記憶にLiving for todayというフレーズがあったのかもしれません。

 

Living for todayという不思議なフレーズには過去も未来もありません。昨日がなければ明日もなく、ビデオの瞬間を切り取ったような「今」を生きることが、果たして人間にできるのだろうか?

 

 

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace
 

国家はない

殺し殺されることもない

宗教さえない

 

国家がなければ戦争はありません。宗教がなければ宗教戦争はありません。戦争原因を除去すれば殺し殺されることもありません。しかし国家も宗教もない絶対平和の空間でヒトは幸せに生きられるのだろうか? 仏教的な平和状態にあって平和という言葉は意味を成すのだろうか? 世界がひとつになれば、むしろ新たな争いがつくられるのではないだろうか?

 

 

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

だからI'm a dreamer(だと伏線をはり)

その夢を皆で見れば(と他者をさそい)

「世界はひとつ」になるだろう(と願望をのせて)

平和がもたらされるという流れ図です

 

 

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world
 

所有せず欲張らず

すべてを分かち合えば

飢えることもない

 

それは宗教家が肉体を痛めつけて到達しうる悟りの境地であって常人が参加できる場ではありません。ひょっとするとそれは終戦時12歳だったオノヨーコが空爆下の東京でつちかった非戦のイメージかも知れず、あるいは彼女の体に染みついた仏教的涅槃のイメージが、ジョンレノンに感染したのかもしれません。

 

 

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one
 

みんながそう思えば

世界は「ひとつ」になる

 

平和願うジョンレノンの心に偽りはないだろうし、なればこそ世界の人々はイマジンに共感したのでしょうけれど、世界が「ひとつ」になれば逆に悪徳を迎え入れることだってあるのではないだろうか?

 

集団には引力と斥力が同時に働きます。それが身近な仲間であれ、国家群の統合状態であれ、分散した小集団が「ひとつ」になれば、すぐにも内部分裂が始まります。

 

かつてソ連という社会主義共和国連邦がありました。1991年に12の独立国家共同体に分裂したさい「ウクライナにはICBM176基、戦略爆撃機46、核弾頭は実に1592発が存在していたが、第一次戦略兵器削減条約のリスボン協定に基づいて、全てロシアの管理下におかれた」「こうしてCIS(独立国家共同体)内にロシアを中心とする統合派と、ウクライナジョージアなどからなる反統合派の2つのグループが成立することとなった」wikiとあります。

 

経済においてはルーブル圏を離脱し、西側を志向するウクライナに対し、ロシアはウクライナを引き寄せようとして「ロシア・ウクライナ戦争」を始めました。いまロシアと長い国境を有するフィンランドにも同様の動きがあり、ロシアの出方によっては新たな悲劇が作られるかもしれません。

 

 

「全ロシア将校協会」イヴァショフ会長

 

国家間の斥力はどこに発生するのか?

ウクライナ侵攻の8日前2/16(水) 6:03に配信された「全ロシア将校協会が“プーチン辞任”を要求…!」と題する記事においてイヴァショフ会長は「ロシアは、ウクライナを自分の勢力圏にとどめておきたい。どうすれば、そうすることができたのか?」「ロシアの国家モデルと権力システムが魅力的なものである必要があった。しかし、ロシアは魅力的なシステムを作ることができなかったので、ウクライナは、欧米に行ってしまった」と、恐らくは身の危険を省みず、堂々たる分析をしています。

 

上記記事は★220222ひとり旅(番外編)で引用したものです。フェイクではなかろうと思われますが、局所拡大的な記事ではあるのかもしれません。嘘と本当の境が見分けられない時代なので自分を信じる他ありませんが、「ロシアは魅力的なシステムを作ることができなかったので、ウクライナは、欧米に行ってしまった」の一文は見事です。

 

国家間の引力は「魅力」がつくり、「魅力」のなさが斥力を生みます。しかしその「魅力」が自由主義国にあるのか、社会主義を標榜する独裁国にあるのかは、にわかに判断できないところがあります。独裁者プーチンは、所得の極端な格差をもたらしたアメリカ的資本主義は、もはや公序良俗を逸脱したレベルにあり、矛盾にみちていると語ります (アメリカ人は反論できないでしょう) 。しかし旧ソビエト社会主義共和国連邦は崩壊すべくして崩壊しました。ぼくは真の社会主義は人類の理想だと思う者ですが、今のところ社会主義が独裁の別名であることは誰だって知っています。

 

仲間⇒ムラ⇒マチ⇒県と広がる最大規模の集合体が国家であり、国家が安定するためには敵性国家が必要です。ロシアという敵を迎えた今、ウクライナの民心は強固に結ばれたそうです。大戦時、米軍による空襲下の東京都民も互いにいたわり不足を補いあったそうです。

 

国家の壁が溶け

世界が「ひとつ」になるには

地球をゆるがす大災害が発生するか

宇宙人の来襲に対抗すべく

否応なしに結束するほか考えられません

 

過去も未来もなく

殺し殺されることもない

安寧を想定するのは自由ですが

仏教的涅槃のような平和は

夢想家の夢でしかありません

 

林芳正外務大臣がG7の夕食時ビートルズ博物館で「イマジン」を歌いました。即興でピアノが弾けるなんてカッコいいなと感心しつつも日本国を代表する方が、調子にのって「no countries」などと歌って大丈夫か?  氏は「イマジン」のもつ無政府主義をどう捉えているのだろう?   更に言えば報告会において日本メディアから質問も批判も出なかったのはなぜか?  まさか記者たる者がイマジンの歌詞内容を知らないわけはないだろうにと疑念は尽きません。

 

とかくネットの評判はよくない人ですが、ぼくは林芳正氏の話を聴いたことも書いた文を読んだこともないのでネット情報が嘘か本当かは判断できません。何をしても批判されるのが政治家の宿命ではありますが、本居宣長が言うところの「やまとごころ」は忘れてもらいたくないですね

 

Imagine / John Lennon & Yoko Ono

 

2022.04.23記 つづく

 

 

 

 

 

<2022年の現在史>

大谷翔平があんなことをするので

大リーグの超絶選手の間でバントが流行っています^^

投げて打って「疲れないか?」と問われたShohei君は

「疲れるってどういう状態のことですか?」と逆質問しました

なんともはや…

 

それにしても

4月21日の対アストロズ戦にはしびれました

スポーツネットの書き込みがたのしいです

 

 

 

 

ひとり旅 220419 ロシア編(10  Country roads, take me home  おいらの船は300トン コロナ サハリン2

 

 

 

職場にいたころアメリカから来た青年がぼくの隣に席をかまえました。生まれはWest Virginia州というからJohn DenverのCountry Roadsが連想され「おれも知ってるぜ」って言ったらニヤと笑って親指を立てました。

 

Country roads, take me home
To the place I belong
West Virginia, Mountain Mamma
Take me home, country road

 

カントリーロード 故郷へ連れて行け
僕が居るべきあの場所に
ウェストバージニア 母なる山
故郷へ導け カントリーロード

 

 

John Denver 訳詞ともネットより

 

世界のどこで生まれても

79億の人々には79億とおりの故郷があります

ネットの書き込みを見ていると

故郷を思う人の心はみな同じだなと思いました

 

This song is not about people that left West Virginia only. It is about everyone that left back their home, their family, friends and the place where they spend their childhood.

I am not from West Virginia but this song speaks directly to my heart. What a diamond...

 

Take me home, Country Roads

  



ひるがえって高知のCountry Roadsは何だろうと考えるとき、寄っちょれよ♪の「よさこい鳴子踊り」はありますが、ふとした拍子に祭りの歌が職場で口をついたりすると仕事ぶりを疑われそうだし^^! わが古里の「宿毛音頭」ときたらローカルすぎて人前ではちょっとナなのです。

 

しかしマグロ船のふるさと室戸市の「おいらの船は300トン」は素晴らしいです。手拍子に合わせて歌われる「むかし親父も来て働いた」「海はみどりのインド洋」なんて文句にはうなりますね。時間と空間をさらりと日常語で言い切った船乗りの歌です。初めて聴いたとき詩ってこれだと目からウロコの思いでした。

 

長い航海のあと大漁旗をなびかせて故郷の土を踏み、ドヤ顔でマイクを握ったおっさんのダミ声がよく似合います。カウンターの向こうで笑顔のママも拍手をくれるでしょう。Country roadsのようにしんとした情緒を明るくうたう歌ではありませんが、今となっては寂れた港町から離れて暮らす人たちに帰るべき故郷を指し示す悲しい歌でもあります。

 

 

室戸岬 ネットより

 

春爛漫の4月5月に

大海原と照葉樹の森に挟まれた道を

バイクで走るとサイコーの気分です

 

ちょこっと地質学をおベンキョして

ここ室戸が恐ろしい速度で隆起する

世界ジオパークであることを知ると

見えないものまで見えてきます

 

岬の西岸を徳島方面へ向かっていると

捕鯨船のふるさと和歌山県太地町

海岸風景に似ていることに気づきました

マグロ船のふるさと室戸市太地町とならぶ

クジラ船のふるさとでもありました

 

おいらの船は300トン

https://www.youtube.com/watch?v=TQETA-_fCW8

 

2022.04.19記 つづく

 

 

 

 

 

<2022年の現在史>

コロナ「2類相当→5類」指定に見直しへ、岸田首相が決断

DIAMOND ONLINE 2022.04.09 6:01配信

 

今更感はありますが、やっと動きそうです

ネット上の発言さえ封じられた井上正康医師は2年前から「2類を5類」に移せばコロナ対策は完了すると説いてきました。その後の動きはほぼ氏の予想通りに推移しています。▼ウチで働いている方が一昨日3度目のワクチンを打ち、予定通り発熱して(~~ 昨日は仕事を休みました。これまた発熱と肩痛で仕事を休んだ別の方は「4度目はえいワ」とのこと。かしこいお母さんは「あたしは元から打ってません」とおっしゃいます。

 

トランプ前大統領に「中国ウイルス」と呼ばれた本家本元の上海2000万人都市が今ロックダウンされています。おそらく朝日もNHKも伝えないニュースかと思われますが、ネットでは大変な騒ぎです。で感染の実態はといえば、蚊に食われたていどのことだから、かの国はいったい何をやってんだろと考え込んでいたところ、どうやら権力闘争の一環のようですね。主席がゼロコロナと語ったからには感染(陽性)者はゼロでなければならない。神をもたない国ではトップの口からもれた言葉が神にかわるお告げであり、そのコロナ原理主義を利用し、権力をめぐって丁々発止なのかどうか、よく分かりません。

 

一方わが国トップは、体を揺らし、頼りなげに原稿を読むのが常ですが、だらだらとした仕事ぶりを点検すると、結果として、やっとんちゃうかと思うこともあります。ロシアに制裁を加えながらも天然ガスのサハリン2から「撤退せず」2022.03.31との方針を出しました。灰色の海を泳ぎながら概ね正しい方向へ国を導くのが政治なので100点はありません。でも紙の新聞を見てオヤと思うことが度々あります。