ひとり旅 221217 日本所々(10) 承久の乱B  定家の「カナクギ文字」考

 

 

 

 

「カナクギ流と言われる定家の文字ですが、なんとPCフォントになったりしてるみたいですね」とコメント欄にありました。定家のカナクギが?  PCフォントに?? ウッソーと半信半疑で開けてびっくり玉手箱!

 

東京の某編集長から上記「コメントがありましたよ」とのメールに「かづらきフォント」で変換したブログ冒頭部のサンプルが添えられていました。

 

 

仕事柄フォントに詳しい某編集長によると

 

「かづらき」フォントは第一水準の漢字しかないのか「鎌倉」の「鎌」さえ抜けてまして、あんまり日常使いはできないんですけど、雰囲気はあるのでピンポイント使用では映えますね。本物の藤原定家の筆跡は、まっすぐ書いてるつもりでもどんどん右に流れてくみたいで個人的にすごく共感するんですが、さすがにパソコンでそこまで高度な「再現」は無理なようですw…とありました。

 

 

藤原定家筆「近代秀歌」冒頭部の歌論

 

やまとうたのみち あさきににてふかく や

すきににてかたし わきまへしるひと

又いくばくならず (以下略)

 

書の絶対条件はタテに一本筋が通っていることです。ところが定家の字は「まっすぐ書いてるつもりでもどんどん右に流れてく」のみならず左にも揺れます。「近代秀歌」を古書店で初めて手に取ったとき子どもの字かよ? 酔っ払いの千鳥足か? これって本当に大歌人定家の真筆なのだろうかと疑いました。あまりにも珍しい字体なので買い求め家で開いてみましたが、まじめに読んでいると気持ちが悪くなるので、ずっと本棚で眠っていました。某君某編集長に指摘され本日ふたたび日の目を見た次第です。

 

 

定家の歌2首を

PCフォントに変換するとタテ線すっきり

がらりと雰囲気が変わります

 

「来ぬ人を」は定家が編んだ「百人一首」97番目に置かれた定家自身の歌です。雨の少ない瀬戸内で我が「身を」焦がしつつ恋人を「待つ」「松帆の浦」で風もなく立ち昇る「藻塩」の煙にむせ、涙にむせぶ私であることよ (と解説するのは野暮ですが)技巧の限りを尽くしながらもなお嫌味のない大吟醸です。そこに存在しない「来ぬ人」を描いて消す手法は定家の得意技であり、和歌という名の絵画の中で人と煙がわずかに動くビデオでもあります。

 

いらんことですが

このような名調子で詠まれた歌を恋文として受け取った女性がよろめかぬわけもなく、ぼくの記憶が確かなら定家は24人だか(もっと多かったかも)の子をもうけています。和歌の大御所にして定家の父藤原俊成も(たまたま)同数の子沢山なので和歌と恋愛は深い関係式で結ばれていることがわかります^^!

 

さて、定家はやっと仕上げた新古今和歌集のお披露目パーティの席で、上司たる後鳥羽上皇(院)に褒められると思いきや「この後、思いがけずも院みずからの手による独自の改定作業がはじめられた」「慎重かつ厳格な撰歌を遂行してきた定家にとって、まことに狂気の沙汰に映ったにちがいない」「ついに両者に大きな亀裂が生じる結果となる*」

*日本名跡叢刊「鎌倉 藤原定家 近代秀歌」古谷稔

 

そうは言っても上皇(院)に逆らうわけにもゆかず、院が好んで向かう熊野詣でに定家も連れられて行くはめになりますが「オレは体が弱い」「体調がすぐれない」とかなんとか愚痴をこぼしていたようです。しかしその恋愛遍歴を見るかぎり体の弱さは弁解理由にならず、ことの本質は後鳥羽上皇藤原定家という和歌の名手による無言の争いにあったようです。

 

やがて勃発した「承久の乱」において敗北した後鳥羽院と二人の息子は隠岐島佐渡島、土佐に流されますが、定家が罪を着せられなかったのは和歌編集において院に対する怨恨が根にあったからだろうと言われます。かくて後鳥羽院隠岐島にて「隠岐新古今和歌集」を再編し、定家は「小倉百人一首」を編むことになりますが、その97番目に定家自身の歌、99番目に後鳥羽院、100番目に次男順徳天皇の歌を置いたのは含むところがあってのことでしょう。

 

 

定家自筆の「近代秀歌」

 

たとえば左頁冒頭の歌

天のはら空さへ冴えや渡るらん氷と見ゆる冬の夜の月

 

の「わ」「氷」「夜」のタテの線は書のルールから見て只事ではありません。ぼくなど看板を見るだけでメシを食う気がなえてしまう「大戸屋」の筆文字を連想させ、これはちょっとな~と思ってしまいます。

 

筆は右手で立てて持つべしという正則があります。定家は筆を傾けて持ったにちがいない。ひょっとしてギッチョだったのかも?とまあいろいろ失礼なことを考えてしまうわけですが、ものの見方は人によりけり、ぼく自身が固定観念にとらわれているのかもしれません。以下、古谷稔氏の解説を引用します。

 

定家が73歳の年に書写した「後撰集」には「澄みきった空間に枯淡の境地がただよう」74歳時の「土佐日記」は「筆の衰えがめだち、無欲恬淡とした姿勢が髣髴とするようである。体力・視力ともにかなりの衰退が想像される。かなの連綿美を生かすほどよい行間をとることを無視し、ただ文字と文字をようやくつなぎ合わせているようにも見うける。しかし文字の骨格は、衰えなどを交えながらも、強靱にして格調の高さを失っていない。(中略) この「近代秀歌」自筆本を「後撰集」「土佐日記」に適合させてみると(中略)70歳前後とあえて範囲を狭めないまでも、晩年期に属する筆と推察されよう。

 

 定家の書は、平安朝以来の伝統的な書法をふまえながらも、晩年になるにつれて、かれ独自の個性が鮮烈に流露する。文字のスタイルや筆法を平安朝古筆に比較すると決して能書といえるものではない。しかし、その巧拙を超えて、われわれの心に迫ってくるのは、いったいいかなる理由によるのだろうか。筆圧の強弱に変化をつけ、思うがままにグイグイと押しまくって書き進める筆法を主体とした定家の書は、いかにも彼の一方ならぬ強靱な性格をにじませる。のみならず、かれのもつ美意識や生活態度に至るまで、定家のすべてを包含するかのような、不思議な魅力をたたえているのである。

日本名跡叢刊「鎌倉 藤原定家 近代秀歌」古谷稔の解説文

 

「決して能書といえるものではない」が「その巧拙を超えて、われわれの心に迫ってくる」ものがあればこそ「かづらきフォント」の製作者は定家の「カナクギ」文字を丹念に拾ったのでしょう。PCフォントで組み立てた和歌は不思議な趣をもって再現されました。某編集長のたまひしごとく「あんまり日常使いはできないんですけど、雰囲気はあるのでピンポイント使用では映えます」ね。タイムマシンで鎌倉時代へ飛び、定家をつかまえて「どや?」って見せたら彼どんな顔をするのでしょうか。

 

と、しつこく書いたのも字の下手さ加減は

我が人生の深いトラウマであり気付いた今は時すでに遅く

臍をかみつつああ子どものころ(高校生くらいでもいいけど)

誰かひとこと示唆してくれていたらオレの人生も

だいぶマシになっていたろうにと

反省しきりの年の暮れです

 

次回「平安朝以来の伝統的な書法」にちょっとだけ触れ

佐渡島順徳天皇、土佐の土御門天皇にもどります

2022.12.17 記 つづく