30数年ぶりに
連絡がとれた大学時代の友人は
旅先で短歌を詠むのが趣味でした
彼は定家が好き⇒定家は後鳥羽上皇の家来
両者とも歌の名手だよなって遣り取りをしていると
そこへ割り込んできた別の友人が、大河ドラマで
「鎌倉殿の13人」をやってるぜと教えてくれました
へえ~それは見なくっちゃと応えはしたものの
今ぼくは田んぼで日に12時間働いているので
テレビを見る暇はありません
平安期の武士は
天皇家のガードマンでしたが
力をつけた鎌倉幕府が威張り始めました
分をわきまえぬ下級国民がエラソーするのを見た上皇は
やっちゃれと武装蜂起したものの逆にやっつけられて
隠岐神社 2019.07.30
観光マップのごとく「島前」の3島は
中央部の焼火山(たくひやま)を
取り巻くように小島が円形に分散し
桜島が浮かぶ鹿児島湾のような形をしています
この海域は地下に怒りを秘めたカルデラの名残です
承久の乱に破れ
中ノ島海士町(あまちょう)に流された
マグマが500万年の眠りから目覚めたりすると~~!
隠岐神社の歌碑 2019.07.30
人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は (後鳥羽上皇)
世渡り上手の定家は乱の巻き添えになることもなく歌人また和歌の編集者として生涯を終えます。その定家が編んだ「百人一首」99番には罪を得て隠岐島へ流された後鳥羽上皇の歌が置かれています。感情を風景に包んでさりげなく意を述べるのが和歌としたものですが、碑の歌は「惜し」「恨めし」「あじきなし」と感情むき出しです。
隠岐島海士町後鳥羽院資料館展示 金子鴎亭書 2019.07.30
我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風こころして吹け (後鳥羽上皇)
流刑に際して詠まれたこの歌を
隠岐の波風よ「やさしく吹いてね」と
手弱女振りに解釈する人もいますが
「こそ」「よ」「吹け」と畳みかける語気の荒々しさから
都の頂点にいた上皇が荒き波風に命令を下したと解釈すべきです
血の気の多い後鳥羽上皇は、天皇の仕事が退屈だったかさっさと息子に渡し、24年の在院期に熊野詣でを28回も繰り返し、歌を詠み、刀剣を愛し、遂には「承久の乱」を起こして破れ、機械船でも2時間かかる隠岐島へ配流の身となりました。隠岐神社のある「島前」中ノ島は刑務所よりは広いのですが、バイクで回ればあっという間にもとの位置へもどります。広い世間から沖の小島に捨てられた後鳥羽上皇は日々何を思って暮らしたのだろうと、その威徳を偲ぶ立派な神社を歩きながら考えたことでした。
隠岐神社には至るところに
後鳥羽上皇の歌が置かれています
歌の姿は書体にもあり
変体仮名 (異体仮名くずし文字)を
縦横に使い分けた書には惚れ惚れとしますが
今どきの日本人は忙しく、美しい筆文字も
読めなければ意味がありません
上皇の歌が通常の仮名で書かれているのはよしとせよ
機能一点張りの活字文字ではパッとしないので
せめて筆で書いてもらえんろうかと…
見るままに山風荒くしぐるめり都も今は夜寒なるらん (後鳥羽上皇)
定家が編んだ「新古今和歌集」を
書家に書かせた文字は見事です
以下いらんことですが
歌の名手にして名編集者の定家は
56年もの間カナクギ流の筆で
「明月記」を書きつづけました
和歌俳句を含めて好きな詠み手を
一人だけあげよと言われたら
ぼくは迷わず蕪村と応えます
その蕪村も決して字はお上手とはいえません
芭蕉は美しい字を書きますが
「奥の細道」は書家に発注し
たしか2冊作って一冊は兄に渡したそうです
兄は風流を解さぬ男だったようですが、彼の功績は
弟の本を失くさなかったことだとか^^
「島前」中ノ島 宇受賀命神社前の田んぼ 2019.07.30
春雨に山田のくろを行く賤(しづ)の蓑吹き乱る暮ぞさびしき
(後鳥羽上皇「遠島百首」9番)
人の暮らしに災害は付きもの
今も昔も地震や飢饉はあったはずですが
和歌は美しい自然や狭い宮中の人事は描いても
庶民の悲惨を歌うことはまずありません
のみならず下々の暮らしを描くことさえないのですが
この歌は田んぼの畦道を行く農夫の姿に目をとめています
雨風に打たれて蓑を揺らす貧しい「賤」に自身の境遇を重ね
春なのに「さびしき」夕暮れを詠んだ天皇は
これが最初にして最期ではないでしょうか
2022.12.13 記 つづく
< 2022年の現在史 >
スペインに勝ったモロッコが
ボルトガルにも勝ちました! 首都ラバトでは
街に王様まで繰り出して狂乱のお祭りだそうです
日本とモロッコが対戦していたらあんたは
「どっちを応援するんだ?」と訊いたところ
「これは難問」しかし「感無量」との返信が届きました
12月15日にはかつての宗主国フランスと準決勝です
本日12月13日 20:00~21:00ころ
井上尚弥vsバトラーの試合があります