ちょっと道草 201107  ウルトラマラソンの周辺5  球磨川から川辺川へ

 

 

 

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本年7月洪水時の人吉市中心部

西日本新聞201104よりてんさい(--!

 

 

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熊本県人吉市の鉄橋 200901

 

7月の線上降水帯による豪雨で堤防が決壊した人吉市。向かいの鉄路には9月になってもまだ濁流で押し流された木屑が引っかかっていました。木屑の高さを水平に広げて街を覆うと上記写真のようになります。

 

 

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球磨川堤防近くの民家 200901

 

堤防脇の民家には屋根に浮遊物が残されており、水没家屋の周辺では今なお多くの人がゴミの撤収作業に当たっていました。濁水が家屋に浸入すると家電製品を含め家財道具の一切が使い物にならず、粗大ゴミとして学校の校庭や空き地に積み上げられます。その量たるや凄まじく、これだけの物量をいったいどこへ運ぶのだろうと恐ろしくなります。加えて人吉では多くの死者を出し、その経緯は新聞テレビで大きく報道されました。

 

ただし映像は真実を伝えるかと考えたとき難しい問題が残ります。四次元世界を一枚の静止画に押し込めることは原理的に無理です。無理を承知で撮るのだから、撮り手は極端な部分を狙い、映像は視聴者に過大な印象を与えがちです。ビデオはもう少しマシですが、管の先からものを見ることに変わりはありません。見られてなんぼの映像は、そのあたりを差し引いて考えなければ全体像を見誤ることでしょう。

 

忘れもしない東日本大震災津波の爪痕を映像で見るかぎり東北沿岸部は壊滅したかのような印象を受けました。現場を歩くと、なるほど津波が舐めた海岸沿いは写真やビデオで見たとおりの地獄絵でしたが、振り返って国道を隔てた西側にはいつもと変わらぬ日常が続いているのでした。津波が街の隅々まで及んだわけではないので被害を受けなかった地域があって当然ですが、報道写真は日常を好まず、絵は極端に作られます。恐ろしい光景の傍らに普通の暮らしがあることに妙な違和感を覚えたものです。

 

 

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人吉市中心街より少し離れた球磨川沿いの制水工 200901

 

右側の出っ張りはまず間違いなく「近自然河川工法」による制水工⇒川に淀みをつくり、魚類の棲み家を担保する古くて新しい土木工法です。この上を豪雨時の濁流が流れましたが、形と機能は失われていないはず、実はこの近自然工法の跡が気になって、ここまでバイクを走らせたので、ちょっとした感激がありました。

 

その発案者である故福留脩文氏が講演会で、コンクリート三面張り工事のスライドを映写し「昔は水の流れを遮る大きな岩があると、発破をかけて砕き、川床を平らにして納入したものです」と苦笑したことを覚えています。川とは大いなる自然の一部であって、そこに強い力で人為が介入するとおかしなことになります。水が最短距離で海へ向かう道は水路であって川ではありません。

 

 

 

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五木村にむかう新設道路 200901

テレビクルーが橋詰から川辺川の渓谷を望む

 

 

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川辺川ダム湖に水没するはずだった谷間 200901

 

谷間の向こうの深い森で道に迷い、日は暮れる雨は降る、Google mapは使えない、巨大迷路を行ったり来たりして散々な目に遭いました。

 

 

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五木村 200901

 

左は高台に移転が終わった五木村。川沿いの中央部は村外の子どもたちを迎える林間学校のような施設です。川辺川ダム建設が進行中の2009年「コンクリートから人へ」の民主党によって工事は停止されましたが、2020年の水害後、もしも川辺川ダムが建設されていたら人吉市はこれほどの被害は受けなかっただろうとの声が高まるなか、あるいは再びダム工事が始まるかもしれません。とすればここは湖の底に沈みます。

 

 

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橋の欄干に嵌め込まれた五木村の成人式 / 撮影年不明

 

五木村の人口は1959年の6299人から2018年現在1116人に激減しました。山間部の人口はどこも減少しているので必ずしもダム計画が原因とはいえませんが、もはや山間地の成人式にこれだけの若者が集まることはなく、村の昔を知る人は寂しいことでしょう。

 

 

 

 

 

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五木の子守唄歌碑 200901

 

その昔バブルで舞い上がった時代に友人と連れ立って「熊本アートポリス」なる建築群を訪ねました。新たな挑戦やよしとのこのこ出かけたことでしたが、少なくともぼくが見た建築は、奇をてらい、目立ちたがるばかりで、じっと見つめていると胸が悪くなるようなものでした。後味の悪さを引きずりながら人吉に宿を取り、夜遅くまで友人と語り合ったことでした。

 

そのとき球磨川で高知発の「近自然河川工法」が使われ、「五木の子守唄」で有名な川辺川上流でダム建設が進行していることを知りました。ダムはどこにでもありますが、五木の子守唄の里はここにしかありません。台風に追われながらも、あえてこの村を通り九州の森を横断したのは唄に惹かれたからだろうなと思っています。

 

幸せいっぱいの人には縁のない唄ですが、悲しみを背負った人は、どこか御詠歌を思わせる寂声に包まれ、目頭を押さえて、もう少しがんばろうかという気になるのかもしれません。貧しさゆえの哀しみを美の世界にまで昇華させた詩人と作曲家および歌い手さんに心より敬意を表します。

201107記 つづく

 

 

五木の子守唄 山崎ハコhttps://www.youtube.com/watch?v=nFvUhswter4

武田の子守唄 山本潤子 https://www.youtube.com/watch?v=Xg_QDpVLGH0

島原の子守唄 緑崎香澄https://www.youtube.com/watch?v=rktrk_jIkdU

 

 

ちょっと道草 201103 ウルトラマラソン周辺4 四万十川から球磨川へ

 

 

 

戦後復興が始まった1950年代は「ダムの時代」と呼べるかも知れません。インフラ整備の基幹は電力確保にあり、電力は水力が主役の時代でした。全国の川という川に無数のダム計画が持ち上がり、四万十川流域には既存のダムを含めて13のダムが予定されました。行政としては一定の割合で反対運動につぶされることも想定したはず、反対、撤退を含めてのダム計画ではあったのでしょう。電気がなければ暮らしは成り立ちませんが、他人の暮らしを豊かにするために「はいどうぞ」と家も土地も提供できるかといえば、冗談ではありません。

 

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釧路湿原160926

 

むかし静岡県浜松市からダムを数えながらバイクで天竜川を遡ったことがあります。またあった、ここにもあったと指を折りながら源流の長野県諏訪湖にたどり着いたころには数が分からなくなりました。ネットで調べると2016年現在天竜川には本流に8基、支流を含めると22基ものダムがあります。細切れにされた水が農業、工業、生活用水にまわされ、落差で電気をつくるうちに川は痩せます。その意味で無傷とはいえないにせよ川の原形を保ち、カヌー好きが真っ先に指摘するところの釧路川四万十川は、今となっては特別な存在のようです。

 

美しくも悲しく「最後の清流」と呼ばれる四万十川を元高知県知事の橋本大二郎さんは、川を愛する人たちが集う講演会で「最後の清流か清流の最後か」と駄洒落を飛ばしましたが、笑えぬ冗談でした。支流の梼原川に本格的な津賀ダムがどんと座り、本流には分類上ダムではなく堰であるところの家地川ダムが水を湛えています。

 

ダムがなければ川は自然なままであるかといえば、ことはそれほど単純ではありません。山があり豊かな森が残っての清流ですから植林率実質日本一の高知の山は河川環境として十全とはいえません。四万十川の名に惹かれてやって来た県外客が、周辺の山々がどこまでもスギ・ヒノキの畑であることに気づいてさっさと帰ってしまったという話もあります。今となっては贅沢な願望かもしれませんが、保水力の弱い針葉樹の単層林ではなく、しっかり根を下ろした樹木が土をつかみ、水をたくわえていれば、大雨の日も日照りの日も川の水量が大きく変わることはなく、嵐の日に斜面の崩落を招くこともありません。山は「樹あるを以て貴しとなす」わけで、厚い年輪をもつ樹木で賑わう森が理想の森であり、天然のダムです。

 

そうは言っても平地に産業がなければ、人は山に入らざるをえません。かつては鬱蒼たる原生林であった森で炭を焼き、巨樹は筏で流し、河口の下田から全国へ運びました。(森の樹木+ヒトの暮らし)÷2=二次林がつくる里山になります。ヒトと自然の関係に現実的な折り合いを求めて生まれたのが「トトロの森」の雑木林なのでしょう。ヒトの匂いがのこる農山村を散策するのはよいもので、ぼくなど都市のきらびやかな人工物にはすっかり関心が失せ、棚田や段々畑を渡る風に「おもひでぽろぽろ」になったりします。

 

 

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熊本県瀬戸石ダム 180723

 

熊本県人吉市から球磨川を下ると瀬戸石ダムが見えます。ダムは高い所につくり、低いところへ水を導いて発電するものと思い込んでいましたが、ここではダムサイトに発電所が置かれ、わずか17mの落差で水車を回し、最大20,000Kw(通常3,000Kw)も発電するのだそうです。

 

 

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ダムサイトの壁に描かれた発電図 180723

 

それが何であれ動きさえあれば電気はつくれますが、このような発電方式があることを初めて知りました。1958年の竣工というから戦後復興におけるインフラ整備の一環なのでしょう。何がなんでも電気が欲しいという時代の執念が伝わってきます。

 

 

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撤去後の荒瀬ダム180723

 

瀬戸石ダムから少し下ったところに荒瀬ダム跡があります。何も知らずに道を走ればきれいな川にコンクリートの出っ張りが残ってら、くらいに思って通り過ぎるところですが、実はこのダム跡が見たくて来たのだから車を停めて歩きました。

 

 

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案内板の一部180723

ダム撤去の経緯は下記サイトが詳しい

 

https://www.youtube.com/watch?v=5WbN2U6qgaA

荒瀬ダム門柱爆破 3分ほど

 

https://www.youtube.com/watch?v=dFBCSGsJg1E&t=41s

荒瀬ダムの撤去 15分版 ⇦おすすめです

 

https://www.youtube.com/watch?v=MDjsu2wFQjY

荒瀬ダムの撤去 30分版

 

 

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四万十川源流 201002

 

まだ使えるダムをなぜ壊したのか?「清流を取り戻すためだ」と言ってしまえばそれまでですが、では「清流さえあればヒトは幸福に暮らせるのか?」と問い返された時どう応えるかは難しい問題です。

 

四万十川がなぜ清流を保てたのか?「田舎だから僻地だから」という言葉あそびもありますが、本当のところは暮らしの根幹たる土地を奪われたのでは生きていけないと地元住民が切迫した危機を覚えたからでしょう。高知県では1950年代からダム設置推進・反対運動が繰り返され、家族の暮らしがかかる地元民のみならず地域の存亡を賭けた首長連合が反対運動を展開しました。

 

「十和村の人々は1932年と1937年の満州開拓で悲劇を体験し、それ以来国に対する不信感が強い*」とのこと、当時の反対運動は死地を潜った者がもつ迫力があったようです。

田淵直樹「家地川ダム撤去運動への視点*」水資源・環境研究vol22 (2009)

 

 

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四万十川源流 湖底に沈むはずだった大野見久万秋周辺 201002

 

昭和36年(1961年)、知事の認可により再び測量が強行された。ダム反対期成同盟は故郷と清流守るため、実力で建設に反対することを宣言、体制の強化を図った。各部落から集まった人々は腰にノコギリ、手に鎌を持ち、目をギラギラさせていた。建設省の測点に火の手があがり、打たれた杭はいつの間にか煙となり、引かれる巻き尺もみるみるうちに寸断された。このかつて太平洋戦争の戦場で生き残った者のゲリラ戦を見て、村人達も笑いをこらえられなかったという*」

桑名隆一郎「永遠なる四万十川*」リヨン社p83

 

今の若い人は知らないでしょうが、日経平均株価が38,957円を記録した1989年をバブル経済の頂点とすれば、1990年代は「失われた10年」に向かいながらも経済は好調であり「1億総中流」という言葉がまんざら嘘でもなかった時代です。1991年のソ連崩壊によって世界の軍事情勢は安定し、Chinaは改革開放路線が緒についたばかりで大人しく、韓半島南は民主化路線に乗って目を輝かし、朝鮮半島北はひっそりと「この世の楽園」を謳歌していました。

 

社会が安定し、暮らしの不安が解消されるとヒトは豊かな文化を追い始めます。その最たるテーマが環境保護運動ではなかったでしょうか。野の草木に愛を送り、山も川も美しくあれかしと願う自然保護論者の心は文化的に高い位置にあります。そこを否定し経済一元論で突き進んだ日にはヒトは何のために生きているのか分からなくなるでしょう。闘争に破れ、あるいは誘致運動に成功し、田んぼも畑も、世代を通じて培った人間関係も、先祖の墓も何もかも失った。見たこともないカネを手にしたが、さてこれからどうやって生きて行こうと途方に暮れた人々も多かったのではないでしょうか。

 

荒っぽく言ってしまえば、食うや食わずの時代には、アユやウナギの心配をするより我が身の命をつなぐことで精一杯だから、川の水が塞き止められようが、曲げられようが、それが明日の飯と直結した問題でないかぎり誰も関心を持たないでしょう。ざっくり言ってそれが人間というものであり、世界の趨勢であり、開発途上国と呼ばれる国の現実なわけです。

 

江戸期の平穏は260年も続きましたが、石油エネルギーが解放され、Windows95が通信概念をガラリと変えたあたりで人類史は急速に回転を増し、2020年の今は、かつての100年が10年に圧縮されたかのようです。日本海東シナ海を挟んだ近隣諸国の変貌ぶりを見るにつけ、日本列島という特殊な風土が生んだ柔らかい文化は急速に失われ、荒々しい文明に取り込まれて消えるのではないかとさえ思われます。11月3日のアメリカ大統領選は日本の歴史にとっても大きな岐路になるでしょう。

 

 

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あえて残した荒瀬ダム東岸 180723

 

ざっくりそのような文脈で四万十川の水問題を捉え、その目で日本初のダム撤去をやってしまった荒瀬ダムを見に来ました。20世紀末は文化と文明が対決した時代であったと捉えることもありかと思います。通常、荒々しい文明とやわらかい文化が対立したとき、文明が文化を捩じ伏せることになりますが、バブルの1990年代は札びらが飛び交う狂乱の時代ではあったものの、社会も経済も安定し、人々が希望をもって未来を見つめた文化の時代であったともいえます。清流を取り戻すためにダムを撤去せよ論と、ふざけんなまだ使えるのに勿体ない残せ論を文化と文明の対立の構図で説くことも可能かと思います。

 

今朝こんな夢を見て目が覚めました。

外国人科学者が講演を終えたあと慰労の酒席に2人の日本人と自分がいました。賑やかな談笑にひと区切りつき場が静まったところで質問しました。「科学と技術を極限まで追求することは人間の夢ではありますが、近代科学は個別のテーマを深く掘り下げる他なく、そのことよって見失ったものは多い。たとえば原発の専門家なんていません。巨大技術は微細な専門領域の集積であり、みんなが細部を追求した結果、水力の何十倍、何百倍もの出力をもつ発電機をつくりあげましたが、機械があまりにも大き過ぎて全体が見えなくなりました。その後スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと各国交代で爆弾回しが行われ、次はどの国で事故が起こるのか誰も知りません。

 

自分は小さなダムというか堰堤を見るのが趣味です。高知には野中兼山という江戸期の土木家がいて川にゆるやかな曲線をもつ堰を残してくれました。堰とは川に石を置いただけと冷たく言ってのけるムキもありますが、むかしの技術が退屈かといえばそうでもなく、人に教えられてよくよく目を凝らせば、複雑で美しい技術が各所に使われています。それで利水の目的は充分に果たし、かつ川の自然を痛めることは全くありません。堰は電気をつくりませんが、電気がなくてもヒトは生きられたわけだし、江戸期260年は21世紀のわれわれが想像もできないほど豊かな文化をつくり上げても来ました。たんなる懐古趣味ではなく、そこには現代土木が失った豊かなテクノロジーが残されているように思うのですが、、」

 

というようなことを語ったら3人は、否定はしなかったものの場の空気がシンとしたところで目が覚めました。夏目漱石の顰みに倣って「夢十夜」ならぬ夢の朝でした。

201103記 つづく

 

 

 

高知の今

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山雀 201031

 

毎朝やってくるヤマガラのご夫婦には、それぞれ個性があって、こいつはやたら人懐っこく軒先に吊るした小籠にヒマワリの種がないと新聞紙を揺らしたり、手に持ったiPhoneにとまったりして請求します。

 

 

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201031

 

その相方は臆病で、近づいたところで一声鳴いては方向転換します。むかし祭りの金魚すくいで取ってきた(餌キンと可哀相な名で呼ばれる)金魚にもヒトの気配を察して寄ってくるのがいれば、いつまで経っても懐かないのがいました。姿かたちは同じでも生きものにはみな個性があるようです。

ちょっと道草 201027 四万十川ウルトラマラソンの周辺3 家地川ダムの水争い

 

 

 

 

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家地川ダムを撤去する会の看板201004

 

この看板はどういう意味かといえば少し説明が要ります。むかし椎名誠倉本聡野田知佑といった有名人が中流域にカヌーを浮かべて四万十川の宣伝をしてくれました。四万十川にはダムがないから上流から河口までカヌーで下れるというのがウリでしたが、寡聞にして彼らが上流の水問題に目を向けたという話は聞きません。

 

 

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家地川ダム⇒家地川堰堤⇒佐賀取水堰180429

 

実を言うと四万十川の支流と呼ばれる梼原川には立派な津賀「ダム」があり、大きく蛇行して旧窪川町(いま四万十町)につながる本流には家地川「堰堤」があります。ダムと堰堤のちがいは堤の高さが15mあるかないかで区別されるので、背の低い家地川ダムは分類上堰堤とされ、したがって四万十川の本流にダムはないというマジックが成立します。

 

 

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家地川堰堤の湖水 180429

 

その家地川堰堤にたくわえられた水は、導水トンネルを伝って別水系の伊尾木川に落とされ、わずかな電力と引き換えに佐賀の海へ「棄て」られます。だから四万十川本流の水量が絞られ、アユの生息域は狭められ、流域住民は面白くないというわけです。

 

 

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伊尾木川 180429

 

発電を終えた水が

別水系に「棄て」られ

佐賀の海へ向かう

 

そこで立ち上がった川好きの医師センセイが「永遠なる四万十川」と題した写真集を出版しました。元環境庁長官鯨岡兵輔の賛も寄せられ、手間隙かけて撮った写真には愛情一杯の説明文がおかれています。末尾の論文には川と人のあるべき姿が冷静な目で描かれ、結論を短く言えば家地川堰堤を「撤去」せよというものでした。出版パーティーに招かれて話を聴いたところセンセイの戦略はとてもユニークでした。

 

四国電力に対抗するには多数を巻き込んだ撤去運動が必要だ。そのためにはカネが要る。幸い自分は皮膚科の医師である。皮膚の延長線上に髪があり、髪の不足で悩む人は世に多い。じつはねと小声になって、いま毛生え薬を開発している。これが成功したら資金ができる。それを使って四万十川の水を取り戻すのだという三段論法なのでした。

 

へぇ~皮膚と髪は関係があるのか。その話がホントだったらいいな。早いとこ頼むぜと半信半疑で期待しつつ、ある日別件で氏の診察室を尋ねたところ髪の話になり、ついでにオレの頭も見てもらうことになりました。センセイはちらと一瞥をくれた後やおらカメラを取り出し高いところからシャッターを切っては考え込んでいましたが、目はどこか自信がなさそうでした。育毛剤といっても効能は人によりけりだそうです。後日その話を九州から遊びにきてくれた友人にすると呵々大笑し「高知の人は面白いね」とばかにされました。

 

 

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家地川ダムの魚道 180429

 

ところがどっこい瓢箪から駒といえば失礼ですが、医学博士の創出した育毛剤は製薬会社が様々な名を付けて売り出したから、いささかの疑念を抱いた自分は反省せねばなりません。ヒトさまの財布を覗く趣味など毛頭ありませんが、あれだけ宣伝したからにはきっと資金もできたであろう。だから皆して「さあやるぞ」と旗を振ったかと言えば、そうでもなく家地川ダム撤去の話はいつしか立ち消えとなりました。それは決して四国電力という大組織に少数が立ち向かったところで勝てるものではないという年寄りくさい思考に陥ったわけではなく、環境保護とは別の事情があったようです。そのような次第で大河は、川好き鮎好きの悲しみを乗せ、時は流れて今に至ります。が話はもう少し続きます。

 

 

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家地川ダム下流側 180429

 

一昨年、家地川ダムを訪ねて職員に訊くと「規則どおり一定の流量は川下に流しています」とのことでした。踏み込んで確認したわけではありませんが、逆にいえば「規則」のない昔、水はダムで完全遮断され、写真の河原は魚道の手前まで広がっていたはずです。

 

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家地川ダム=佐賀取水堰の地図と河川維持流量の立て札180429

 

とすれば「撤去」せよというセンセイと流域漁協の声は無駄に消えたわけではなく、その幾ばくかは四国電力に届き、結果として写真の河川維持水量が放水されることになったのかもしれません。であるなら 家地川ダム=佐賀取水堰で分断された伊尾木川=四国電力vs四万十川=流域住民の水争いは痛み分けというか7対3くらいで四国電力のカチなのでしょう。が、まあ世の中こんなものかと。ちなみに既存のダム撤去日本初の栄誉(?)は熊本県に取られました。その経緯は次号で触れます。201021記

 

 

追記

どうも気になるので家地川ダム⇒佐賀取水堰の担当者に電話で問い合わせたところ写真の看板にある河川維持流量は、昭和63年(1988年)旧建設省が策定した法律に沿い、平成13年(2001年)の水利権更新年に合わせて放流量を増したとのことです。それまでは「魚道に水を流すだけ」だったから堰堤下流は干上がっていたはずですが、今では佐賀取水堰から津賀ダム下流域まで水が流れ、それなりに川が復活したことはGoogle mapでも確認できます。

 

 

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「永遠なる四万十川」p95 に置かれた古い写真 撮影年不明

 

写真は家地川ダムの下流

魚道に水はない

涸れ川はここから始まる

 

さて、国の方針に沿って規定量を放流していることは分かりましたが、国が全国すべてのダムに事細かな指令を出すわけもなく、実際の流量設定は現場が行うはずです。その「放流量を具体的に設定する際、かつてダム撤去まで訴えた流域住民の声はどう反映されたのですか?」と担当者に問うたところ「流域漁協のお声はしっかり聴かせていただきました」「すると住民の声は反映されているのですね?」「住民のご意見には誠意をもって対応させてもらいましたが、その声が流量と関係があるかというと、あるとはいえません」「すると住民の声は無視されたのですか?」「いやそういうわけではありません」「、、、?」と概ねそのような埒の明かない話がつづきました。

 

電話の向こうのやや苦しそうな声から、反対住民に善意と笑顔で対応せねばならない担当者のつらい胸の内が想像されましたが、別段えぐい話を持ち込んでいるわけじゃねえんだから構えなくてもいいんじゃないのと思うものの、どこの馬の骨かわからない相手に言質を取られてはかなわんという相手方の気持ちもよく分かり、しつこく追うことはやめました。それにしても20年も前の小規模ダムの放流量ていどの質問に言葉を選ばねばならない立場ってつらいやろな、でも立場のしんどさは働く人なら誰でも経験があることだし、攻めと守りの関係は、言ってみればお気楽野党が問題点をつまみ食いして与党を責める図みたいなもので、生産的な議論にはならず、傍から見るとバカにかわらんので、お互いが傷つかないうちに長い電話を終えました。

201027記 つづく

ちょっと道草 201022 四万十川ウルトラマラソンの周辺2  沈下橋 ジップライン

 

 

 

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旧大正町(いま四万十町)の沈下橋 201004

 

画面を広げると川に体を半分沈めたヒトの姿が見えます。アユ竿を振って川面を見つめていると「川がおのれか己が川か」わからない忘我の境に達するそうですが、釣具屋に置かれた軽くて美しい鮎竿には小さな値札に恐ろしい数字が書かれているから要注意です。まあアユだけ欲しければ買えばよいので釣り師の目的はちがうところにあるのでしょう。

 

 

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西土佐 半家沈下橋 201004

 

川の荒ぶる姿が見たい観光客の皆さまには、ぜひ台風が通過する大雨の日においでください。降った雨が川に集まり見る見る増水して沈下橋の橋桁に達したころハンドルを握って向こう岸まで渡り切ったら非常な達成感が得られるかと思います。ただし橋と直角に流れる濁水が目に錯覚を起こすこともあるからご用心^^

 

昔の川は大雨のあともささ濁りの水が、ゆるやかに上がったり下がったりしたものですが、森のダムが失われた今は水流も水質も変わりました。年間降雨量日本一の高知県では、森に降った雨がスギ・ヒノキの植林を滑り落ち、川の水嵩を増したかと思えば、あっという間に引き、引いた後は増水時の高さを示すかのようにビニールごみが木の枝に引っかかってシュールな風景をつくります。それでもカヌー好きに「好きな川は?」と訊けば、ただちに釧路川四万十川が挙げられるから川沿いを100㎞も走るウルトラランナーは元気です、とはいえ今年はコロナで中止に追いやられましたが(--

 

 

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四万十町十和の第一三島沈下橋 201004

 

この沈下橋は今も現役の道路なのですが、釣り客がふたり橋の上に寝っころがって竿の下を覗いていました^^!  洪水時の水の抵抗を下げるため橋桁の縁は丸められており、酔っぱらって月見なんかしていると危険です。が、まあ落ちたって泳げばいいじゃんというヒトには沈下橋ならではのスリルが味わえます。深夜に川面から首を出して見る月は兼好法師の説く「配所の月」にもまさる美を見せてくれることでしょう。

 

夏場は地元の中学生なんかが橋からジャンプしてはしゃいでいますが、彼らは川の怖さをよく知っているから楽しく遊べるのであって、天候、水量、安全な場所が読めない県外客がプールのノリで飛び込むとそのまま浮き上がってこないことがあります。事故に遭った人はもとより、仕事をなぐれて捜索に駆り出される消防隊員も大変です。

 

何年か前ゴムボートで2日かけて川下りした経験から言うと、さして水量もない夏の日でも川には至るところに魔の仕掛けが置かれていました。水と一緒にゆったり流れていても川幅が急に狭まるとボートは制御できないほどの速さになり、その勢いで曲がりの淵に差しかかると、水は渦巻き、かたわらで不気味に盛り上がった水が波紋を広げています。そんなところへ川に不慣れな人が落ち込んだら、急流の横圧で水中の岩肌に張り付けられるかもしれず、濁水にまぎれて上下感覚を失うかもしれません。パニックを起こしたら残された時間はわずかです。

 

そうは言ってもせっかく四万十川までやって来たのだからという元気者は、中学生と一緒に飛び込むのが賢い遊び方ですね。泳ぐのはちょっとなというジジババは、屋形舟に乗って川岸の風景をたのしみながらエビやウナギのお弁当をあけるのもよろしいかと。川にはうねりがないので平底の川船で七輪を使うこともできます。舟によっては投網のエキシビジョンを見せてくれることもありますが、客の前でちょっと投げたくらいで成果を期待されると船頭はつらいでしょう。

 

 

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四万十町十和  予土線第4四万十橋梁のトラス橋  201004

 

かつて鉄道は物流を促し生産性を上げるための投資でしたが、いまは鉄道本来の目的から大きく外れ、観光客を楽しませるトロッコ列車を曳くようになりました。ミッキーちゃんの東京ディズニーみたいにちんけな遊び場ではなく、ここは高知と愛媛にまたがる巨大テーマパークなのです。ウソ偽りのない川が流れ、魚が泳ぎ、いささかの入漁料を払えばアユが釣れ、子どもは川遊びができます。二人連れでサイクリングしたり、川辺で石切りしたり、黒ずくめの集団がハーレーダビッドソンでドコドコ走ったり、ここにはテーマパークが構築する擬似的な自然空間が昔から只であります。もしも豊島園の経営者が四万十川に目を付けていたらコロナで倒産はなかったろうにと、ついいらんことを、、

 

気がつけば30年も昔の話になりましたが、日本経済が絶頂期のころカネは唸るほどあってもモノの生産にむけた投資先がないという時代に「遊びが経済を回す」というイミフな概念が持ち込まれました。生産と消費の関係式からヒトの幸福がつくられていたところへ遊びが割り込んできたので、ぼくなどびっくりしたものですが、あれよあれよという間に世は移り、いつしか国が国民にカネを配って遊べ、泊まれ、メシを食えだなんてことになりました。21世紀のぼくらは資本主義も社会主義も突き抜けた、まだ名前のない経済の中に放られています。

 

 

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四万十町十和 201004

 

向かいはジップラインの発進地、手前の川岸は舟で上陸する遊客です。川はあちらとこちらを分断する場ですが、ここでは舟にのって時間をかけ目的地へ着く前に胸の高まりをつくる水の道になっています。神社仏閣の参道みたいなものです。

 

 

 

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ふたりでGo!

大声で叫ぶ間もなく対岸へ

いま大人気です

 

これは誰の発案かと訊いたら「地元の議員さんがどこかで仕入れてきた」とのこと。県外にはけっこうある遊びのようですが、噂の四万十川をジップラインで渡ったヒトはそれなりのステイタスをゲットできるのかも。むかし橋本大二郎さんが県知事をやっていたころ高知に名所をつくろうというフォーラムで高知大学の学生が「足摺岬バンジージャンプ」という大胆な提案をしました。あの岬で恐怖をたのしむのは若い者にまかせ、ワイヤーに吊られて川を渡るくらいならぼくにも出来そうだから折りをみて一度と思っています。四万十川は別名「渡川」とも言います。空中を渡りながら見る川の風景ってどんなでしょう、やってみるまで分かりません。

 

 

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栗が最盛期です 201004

 

201022 記 つづく

 

ちょっと道草 201018 四万十川ウルトラマラソンの周辺1 曲線斜め堰 沈下橋

 

 

 

 

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後川の麻生堰 201004

 

四万十川は河口部で二手に別れます。みんなが知っている四万十川は西の大河ですが、川の通には東を流れる後川が好評です。川もこの程度の規模だと子どもを水遊びさせても危険はなく、小学生も高学年になればまず水難事故は考えられません。水中メガネで覗くとアユ、ハヤ、エビ、ゴリ、運がよければ穴からウナギがこっちを向いているかも知れません。水族館の魚類は見てお終いですが、川の生きものは晩のおかずなので子どもの目の輝きがちがいます。

 

 

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麻生堰201004

 

最近この堰堤が日本最後の「曲線斜め堰」であることを知りました。堤の線が扇状に曲がっていることにはワケがあります。川の両岸にピンと張った縄を水面に下ろすと水流の強い力を受けますが、少しずつ縄を緩めると、縄はきれいな弧を描き、引っ張る力がやわらぎます。線が弧になると水圧を受ける面積が広がる。単位あたりの圧力が減衰する。洪水に強い堰が造られるというわけです。

 

かつて宿毛市の河戸堰が見事な弧を描いていましたが、工事で分断され、高知の人なら誰でも知っている江戸期の土木家、野中兼山が残した曲線斜め堰はこの麻生堰が最後のひとつになりました。聞くところによると東大土木工学の教授が学生を連れてきて「よく見ておけ」と促したとか。それぞれの時代の土木家が、既存の技術に独自の工夫を加え、尖端を競ったという意味においては、現代の巨大ダムも江戸期の小さな堰堤も同じ価値をもちます。というより文明がヒトの背丈を越え、福祉に貢献するより、むしろ敵対してきた今、折に触れ振り返るべき土木の原点なのかもしれません。

 

 

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Google mapで覗いた麻生堰の蛇行部

 

洪水時の水流を直に受けると堰堤の石組みが傷むかもしれない。そこで川の曲がりで水の勢いをやわらげ、川の対岸から堤を斜めに渡して距離を稼ぎ、さらに扇に広げて水圧を弱めたようです。けっして野中兼山は美観を狙ったわけではないのでしょうが、結果として美しい堰に仕上がりました。

 

 

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ウルトラマラソンの巨大看板 201004

 

その麻生堰を上流に進むとでっかい看板が目に飛び込みます。知る人ぞ知る四万十川100㎞マラソンです。フルマラソンが42㎞だからオリンピック選手が走っても5時間はかかります。全行程1200㎞の四国遍路は普通50日ほどかけて歩くから1日あたりの走行距離はまあ20~30㎞としたものです。高知県香南市の「塩の道ウォーク」は朝6時発のバスに乗って物部川上流のダムサイトで降り、海沿いの赤岡町まで30㎞の山道をたのしく歩きましょうというイベントです。ぼくも参加しましたが目的地に着いたのは夕方でした。

 

 

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カミーノデサンティアゴ 撮影日時不明

トロイの木馬ではありません^^

 

フランスはパリから、ピレネー山脈を越え、スペイン北部大西洋岸のサンチャゴ・デ・コンポステラへ向かう「サンチャゴの道」を馬と一緒に歩いた友人がいます。給油の代わりに土地の農民と交渉して飼い葉をもらい、宿のない日は馬と一緒に寝て起きて、たまに馬の背に乗せてもらいながら歩いた道は1日平均50㎞くらいのものだと聞きました。

 

ところが、このウルトラマラソンはたった1日で100㎞も走ってしまおうという無謀な行為です。しかもスタート後の20㎞地点でいきなり標高600mに達するという信じられない行路設定です。600mは東京スカイツリーのてっぺんだから、あれを見上げて走って登ろうとする東京都民がいるかどうか、ぼくはその坂道をホンダのクロスカブで登り、いま思い出しながら書いているわけですが、110㏄のエンジン8馬力→馬8頭の尻を引っぱたいて登った道を人間の足で駆け上がるヒトとは何か?

 

恐ろしいことにそのピークに達してもまだ80㎞も残っています。このマラソンではありませんが、知り合いの女性の旦那さんがマラソン途中で落命したという気の毒な話を聞いたので、どう考えても標高600m+100㎞マラソンは命懸けです。翌日は仕事もあるでしょう。にもかかわらず参加費18,000円で1,800人募集のところへ毎年倍の人数が応募するというから正気ではありません。このヒトたちはいったい何なのか、本当に人間なのだろうかと考えた挙げ句、やっと分かりました。写真ではヒトの形をしていますが、カメラのレンズに特殊なフィルターをセットして撮ると首から下がウマだったりイノシシだったりするのです。嘘ではありません。

 

本日10月18日はウルトラマラソンの予定日でしたが、

コロナのせいで中止になりました。

看板にはChina語の案内もあるのに、、です。

 

 

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麻生堰の上流にある砂防ダム201004

 

コンクリートを使うから川を真横に切っても強度的な問題はないにせよ、機能主義というかモダニズムというか、まあそっけないダムではあります。上流に向かうお魚さんは右手の吐水路から上れというのでしょうか。迷子になって遡上をあきらめる小魚もいるのではないかと心配になります。

 

 

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川上から見ると砂利が溜まって201004

砂防が機能不全になっています

 

 

 

 

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右手の細道がお魚さんの遍路道201004

 

別のダムで管理者に「魚道ってホントに魚が上るの?」と訊いたら「けっこう上っていますよ」とのことでしたが、本当のところはどうなんでしょ、水中の魚に自分の位置把握ができるものかどうか、上から見て「おめえどこ向かってんだ右だよ右」と叫ぶのはヒトの勝手としたもので、、

 

 

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ラソンコースの途中にある 201004

たぶん四国でいちばん短い沈下橋

ふだんは長閑な風景ですが

大雨がふるとどうなるかはすぐにも想像できます

 

 

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コース脇の棚田 201004

 

もとはと言えばここは山の一部でした。木を伐り、土を削り、石を運んで汗水たらした棚田に黄金色の稲穂がゆれるまでには長いドラマがあったことでしょう。その歴史を知る農民は、石油文明にどっぷり浸かって平気でご飯を食べ残すわれわれとは違う風景を見ているはずです。

201018記 つづく

ひとり旅 201010 1984年のChina 4 文化大革命

 

 

 

大陸で文化大革命が進行していた1970年代に大学で中国の政治を専門とする教授の講義を受けました。ぽっと出の学生が異国で進行中の事態を理解できたわけはありませんが、かすかに覚えている講義のキーワードは「富農」と「貧農」でした。新体制が生まれた当初は平穏が続くが、やがて時が経つと富農はますます富み、貧農はますます貧しくなる。そのバランスが限界を超えたとき革命が起こる。大陸の歴史はその繰り返しだというのが講義の骨でした。

 

 

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西安周辺? 1984

 

そこから生まれた殺し文句が文化大革命における「プロレタリアート独裁」ではなかったか。フツーに考えてプロレタリアートという「大衆」が「独裁」するのは複数と単数を混同した矛盾であり、ことば本来の意味でいえばプロレタリアートに支持された一党独裁ひいては個人が権力維持のために独裁すると捉えるべきです。その際、大衆の幸福は関係がありません。「政治は言葉だ」という名言を吐いたのはサッチャー女史ですが、政治の言葉は黒を白と言い換える呪力に満ちています。プロレタリアートが独裁すると言ってしまえばロジックは消えますが、政治の言葉はそれでも有効なのですね。

 

当時の新宿駅には、いかにも活動家然とした若者がいて、そのスジの用語で頭のメモリを一杯にしたねえちゃんが、語尾をはね上げ、酔ったように語りかけて来たものです。「体制内的人間はァ間接的戦争加担者でありィ」という決まり文句の後にイミフな言辞がつづき、まじめに耳を傾けても理屈がつながらないので呪文のように聞こえましたが、その言説を否定しようものなら直ちに囲まれそうな雰囲気でした。

 

大学の教室のドアに丸い穴が空いているから、気安い女先生に「あれは何のためですか?」と尋ねたら「中で静かに講義が行われているか、教授が吊るし上げにされていないかを外から確認するためのものです」と教えてくれました。他者を否定するのは確固たる理念を持って初めて可能な行為ですが、受験勉強を終えたばかりの若者に、そのような知の蓄積があろうとは思われません。にもかかわらず師弟・長幼の序を無視し、教授をドヤし付ける学生とは何か、それは具体的にいかなる行為であったか、幸いにも自分は学生運動がピークを過ぎた次の世代なので、この目で現場を目撃したことはありませんが、後年、吊るし上げの犠牲になった教授が思い出したくない過去を唾棄するがごとく短く呟いた横顔ははっきり記憶しています。「メガホン持って耳元で喋るんだよ。おかげで今でも難聴の気があるんだ」と、議論のできない若者に思い込みと暴力で囲まれた無念は消えないでしょう。

 

いかれた若者を背後で誘導した存在は実のところ何であったのか? それは革命理論という厳密なロジックであったのか? そもそも革命に筋の通った理論があるのか? むしろそれは生物集団の縄張り争いに似た行為ではなかったか? と疑問符つきで以下すこしばかり、わが青春(と呼ぶには余りに粗末な若年期)を振り返ります。見たことのない過去ではなく、自分と同時代の出来事はリアルな視点で辿れる歴史だからです。

 

1970年に共産主義同盟赤軍派が「よど号ハイジャック事件」を起こしました。田舎の高校生だった自分はラジオを聞きながら何か大変なことが起こっているようだと漠然と考えたことでした。

 

1971年に埼玉県浦和市で新聞配達をしていたころ「成田闘争」第二次執行において警察官3名が死亡しました。近所のたばこ屋で顔見知りの若い警官と雑談していたら「じつはその事件は自分が交代した直後の出来事だった」と聞かされ、返答に詰まったことを覚えています。

 

1972年に「テルアビブ空港乱射事件」が起きました。「死んでダビデの星になる」という意味不明な文句を吐いた岡本公三は、よど号ハイジャック事件の岡本武の弟でした。後年、北朝鮮を本籍とする関西の大学教授と会う機会があり、じつは岡本武(よど号妻)の娘が高知県の山間部で祖母に育てられている。「会ってやってくれんか」と頼まれました。オレみたいな者が会ってどうすんだと思う反面、数奇な運命にある人と出会えたら凄い話が聞けそうだと惹かれるものはありましたが、野次馬根性で面会する相手ではないし、そのままにして長い年月が経ちました。

 

同1972年には新左翼組織、連合赤軍のメンバー5人が人質の女性と浅間山荘に10日間に渡って立てこもった「連合赤軍あさま山荘事件」も起きました。かつてないほど高視聴率を稼いだ国民注視の事件で、新聞配達の合間にたばこ屋でテレビを見たり配達所の新聞を読んだりしましたが、記事には個々の事象は置かれても背後説明がなく、なぜ若者が人質を取り、命を張って銃撃戦を展開しているのか、出来事の核心がつかめませんでした。以来、報道とは細部を語って全体を見えなくさせるものというヒネた考えに囚われて今に至ります。一方、急激に発達したネット情報には、現象の背景を歯に衣着せず解説してしまう凄さと恐ろしさがあります。以下はwikiで見つけた「あさま山荘事件」の核心部です。

 

 

毛沢東廟の参拝者 北京 1984

 

「山荘内のテレビでアメリカ合衆国ニクソン大統領の中国訪問のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている[28]

私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。……ここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた」wiki

 

そうか、インドシナの争いが中国に伝わり世界に広がれば多くの人が死ぬ、との思いが彼らを突き動かしたのだ。多く殺さないために少なく殺すことは許される。見たことのない他者を救うため仲間を殺すことも正当化される。平和のためには実の親に銃口を向けることさえ厭わないという不思議なロジックが作られたのでした。

 

素朴な正義感に支えられた若者は、不完全な論理でつくりあげた舞台に身を置いた。ところが銃撃戦を展開しているうちにニクソン米大統領は中国を電撃訪問し毛沢東主席の手を握った。米軍は中国軍と争わないことが分かった。そこで彼らは論理破綻し、闘うことの意味を見失ったというわけです。当時未成年の加藤倫教は刑期を終え今は静かに暮らしているようですが、心の中の廃墟をさまよいながら生きているにちがいありません。たまたま私と同年齢なので思うこと大です。

 

あさま山荘事件のメンバーのひとり板東国男は、1975年のクアラルンプール事件によって釈放されています。日本赤軍が在マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館を占拠し50名の人質を盾に収監中の仲間の解放を要求したテロ事件に対し「三木内閣はテロリストの要求に屈したため日本赤軍はさらに同様な事件を起こしたwiki」という曰く付きの解放騒ぎでした。武(ぶ)を失った戦後日本の問題先送り外交は今も続きます。

 

それにしても、です。事の正当性はさておき日本の若者は、知らない国の可哀相な人々のために命を張ったとは言ってよいでしょう。元はといえば世のため人のためという素朴な正義感に発し、結果として組織がアプリオリに持つ悪意に取り込まれ、仲間殺し、警察殺し、無関係の人殺しに至りました。世界同時革命などという幻想をどこまで信じていたかは知りませんが、冷たく見れば世界のテロリスト集団の鉄砲玉として使われたわけです。板東国男の父親は「あさま山荘事件」が終結した日に首を吊って世に詫びました。母親はクアラルンプール事件において「息子の出国を阻止することを検事に強く懇願した」そうです。テルアビブ空港乱射事件で29人を殺した岡本公三の父はイスラエル大使に対し「極刑に処してほしい」との詫び状を書きました。三者とも日本人がもつ普通の責任感覚でありましょう。

 

ひとりの日本人としてそこまでは分かる気がしますが、さて彼我の立場が逆だったとすればどうなのか。極東の島国の可哀相な人々のために人生を賭け、命を捨てて闘ってくれる外国人はいるのだろうか、いないのではないかという疑念が拭い切れません。彼らの行為は日本という文化文明が生んだ特殊な感覚から生まれたものではないかと考えながら36年前の写真を眺めています。

 

 

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36年前の天安門広場 1984

 

文革期のChinaでは充分な人格形成を経ぬ若者が「造反有理」「革命無罪」と教えられ、密告し、批判し、ときに自己批判が不十分な者に対し過酷な仕打ちを行ったと聞きます。フツーの国語力をもって読めば、造反が有理とは言えず、革命と無罪は必ずしもつながりません。あの難しい大学入試の国語を突破した学生なら、強い酒をくらっていないかぎり、そこで考え込むはずですが、「東京大学の正門には毛沢東の肖像とともにこの標語が掲げられていた時期もあった。wiki」そうだから当時は社会全体がいかれていたのでしょう。

 

学生運動の残り火がくすぶる70年代に大学へ授業を受けに行くと、入り口が机と椅子で塞がり、バリケードがつくられていることがありました。そこに張られたスローガンには簡体字が使われ、歴史の歴が雁垂れのレキであったのを見て、へえ~こんなレキもアリか、簡単でいいワと自分も真似したことがあるから人間というものは易きに流れる存在です。

 

林の下に夕と書けば中国漢字で「夢」の意です。BSフジの政治討論に出演した京都大学の有名教授がまとめの段で林の下に夕と書いた手板を出したとき、おっとこのおっさん何考えとんのやと一瞬ぼくの頭を多くの記憶が流れました。

 

かつて誰もいない大教室で長い話をして別れた女性はたしか京都大学の出身でした。いずれはコスモポリタンとして世界を歩きたいとつぶやいた彼女は、半年後に無宗教の葬儀で送られましたが、宗教を否定し、国家を否定して世界を渡り歩くことが、物理的にはできても、精神的にできるものかどうか、少なくとも自分にはわかりません。地球市民を標榜する知り合いもいますが、地球と市民がどうつながるのか、これも自分には理解できません。

 

 

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映画「ラストエンペラー」の舞台 故宮 1984

 

地球市民とは「人種、国籍、思想、歴史、文化、宗教などの違いをのりこえ、誰もがその背景によらず、人として尊重される社会wiki」だそうですが、そんな社会が本当に実現するものかどうか? そもそも理論的に成り立つものかどうか? 自分はコスモポリタンだと思い込むのは勝手ですが、相手から見れば我々は日本国に住む日本人であり、肌の黄色い人種であり、幼少期からインプットされた歴史、文化、宗教ときとして思想に染められ、色分けされたグループに過ぎません。

 

そこを突破するため若い頃から留学し外国語を身につけることはよいことですが、余りにも外国語が堪能になり、副作用で日本語がお粗末になったら何をしているのか分からなくなります。世の中にはバイリンガルと呼ばれる人が居るにはいますが、言葉の襞にまで分け入って外国語を体得するには幼いころからその国の文化や歴史に触れる必要があり、縦横無尽に2カ国語をこなすためには人生が2度要ることになります。

 

しかも世界で多く使われる言語は20も30もあり、細かく分類すれば7000もの言語があるそうだから、そこをクリアするには銀河系600万語を操れるスターウォーズC-3PO君を呼んで来る他ないでしょう。しかしC-3POも所詮は言語的な交換装置にすぎないようなので、言葉の微かな温度差まで感じ取れるかどうか。要するに言語面だけみてもコスモポリタンは不可能であり、ヒトは生まれた国の歴史、文化、宗教ときとして思想に支配され、だらだらと生きる他ないんじゃないのってぼくは思いますね。

201010記 つづく

 

 

 

高知の今

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高知県須崎市新荘川のアユ掛けおじさん 201002

 

新荘川はカワウソが最後に目撃された川でもあります。そのむかし 大ちゃんこと橋本大二郎高知県知事をやっていたころ、かわうそフォーラムが開かれ、手を挙げたおばあさんが「娘のころ私は新荘川でカワウソと一緒に泳ぎました」と発言して会場が沸きました。ゆるキャラ日本一の「しんじょう君」には、道の駅「かわうその里すさき」に行けばいつでも会えます。

 

当時、朝日新聞がカワウソの写真に100万円の懸賞金を付けたという噂が流れ、それならオレもという写真好きの知り合いが、望遠レンズに追加するテレコンバータを買ったぜと自慢していました。そこへ朝日新聞高知支局の若い記者が「高知城でカワウソの糞が発見された」という速報を流したので皆アッと言いました。ところが専門家が糞の分析をしたところそれはカワウソではなくハクビシンの糞でした。ハクビシンならウチの庭の塀を伝っているところを飼い猫のハナちゃんに追いかけられたりしているので珍しくも何ともありません。後日当の記者に出会ったので「ところでカワウソは?」と尋ねたら嫌な顔をしてあっちへ行きました。フンだりケったりの記者さんは今エジプト支局にいるみたいです。バブルがなだらかに下りかけた仕合わせな時代のおハナシでした。

 

獺の祭みて来よ瀬田の奥 (芭蕉

 

話はもうちょっとあって、2012年に環境庁が絶滅宣言を出したニホンカワウソが本当に棲息しているのであれば100万円どころの騒ぎではありません。2016年に高知県大月町の海岸で撮られたカワウソの証拠写真が2020年の今年になって示されました。事件と言ってよいほどの出来事ですが、ニュースに付加された読者の書き込み欄には、騒ぐとカワウソはますます追い詰められるから「そっとしておけ」という良識派の声が多く寄せられていました。抜いてなんぼの記者の気持ちも分からないではありませんが、書き込み諸子の方がよほど正気じゃないかと思うことが近頃よくあります。いらんことですが、、

 

獺の住む池埋もれて柳かな (蕪村)

 

 

 

ひとり旅 201003 1984年のChina 3 広州 泥棒 公安 領事館

 

 

 

広州のドミトリーで知り合った北海道の大学生と夕食に出かけ、レストランから出張った道端のテーブルに陣取って青島ビールで乾杯したとき彼の背に目つきの悪い男の影が見えました。旅に出たらカネとパスポートは肌身離さず所持するのが鉄則ですが、彼は一切合切を布製のショルダーバッグに入れ、長椅子の脇に置いたようです。ビールを飲み干し一息ついたあと彼は腰元を手さぐりして青くなりました。その顔を見て全てを了解した自分は、君は向こうへ行け。ぼくはこっちを探すと声をかけ、二人で別方向に走りましたが、夕暮れの雑踏をかき分けてもそれらしい人間は見えません。やがて彼は悄気た顔でバッグを下げて戻ってきました。財布もパスポートも航空券も何もかも抜かれた空っぽのバッグが路上に捨てられていたそうです。

 

 

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西安周辺 1984

 

翌日、公安に赴き、愛想というものが全くない制服の女の前に座らされました。当時のChinaに肥満した人間はおらず、細身の彼女は背筋をピンと立てテーブルを介してぼくらを見下ろすので、まあ威厳があるとも言えるのですが、異性に対する感情は湧かないタイプの人でしたね。片言の中国語とツーリスト英語でしどろもどろの遣り取りをしているうちに紙と鉛筆を渡され、人指し指をツンツンして「ストーリーを英語で書け」と言われた彼はかなり焦っていました。

 

公安を出て埃っぽい道を歩き、日本でいえば派出所のような所へ向かうと日本人学生がふたり署員と話していました。持ち込まれた用件より学生の腕時計に興味があるらしい警察は「日本は科学技術が進んでいる」と羨ましげに呟き、しきりに学生の持ち物を気にしていました。やがて先客と交代した彼が「ストーリー」の続きを説明しているとき、ぼくは用足しの許可を得、細い通路をくぐって暗がりの中に入りました。

 

そこには拘置所が併設されており、換気のわるいトイレの手前に裸電球がひとつ灯され、コンクリートで仕切られた箱の正面に鉄格子が並んでいました。昔の動物園で使われた設計思想です。格子の陰の上半身裸の男は、囚われた動物のような目でこちらを向き、自分と目が合った瞬間およそ人間とは思えない叫び声を発しました。黒沢明の「天国と地獄」に拘置所の訪問客と対面した囚人が、その場に相応しくない抑揚で喋る場面があります。長く閉じ込められていると自分の声を制御できないのですと自己弁護するシーンが思い出されました。

 

 

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西安周辺 1984

 

ぼくを蛇餐館に誘ってくれた女性は長く広州に滞在している学生で土地勘のある人でした。彼女によると、この地で重い罪を得た犯罪者は、市中を引き回され、間を置かず公開処刑されるのだそうです。広州は香港という阿片戦争の舞台に近接した街であり、とりわけ薬物売買に関する罪は重いと聞きました。

 

帰国後2年が過ぎ、1986年に日本で知り合った中国人留学生にこの話をしたところ彼は平然と「それには続きがあります。処刑に使う銃弾は国家の所有物です。したがって刑が終わると家族に銃弾の請求書が届きます」と、笑ってよいのか悪いのか「中国は人口が多いので人の命は日本ほど重くないです」とも、、

 

 

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西安周辺? 1984

 

Chineseの人権意識が薄いことは少しばかり歴史を眺めれば分かります。項羽と劉邦は何十万という軍勢を率いて戦いましたが、歴史家は争いの動向を巨視的に記述することはあっても、個々の兵隊の人格まで描くことはありません。劉邦につづく前漢7代目の武帝は勇猛な皇帝でしたが、「武帝がぜいたくと戦争にふけった後で、国力は消耗し、人口は半分に減っていた*」というから日本の内戦とはだいぶ様相が異なります。

                         *岡田英弘「誰も知らなかった皇帝たちの中国」ワック株式会社kindle 20%

 

日本では天下分け目の「関ヶ原」を見物するため地元の農夫は手弁当で一等席をあらそったという話もあるくらいで双方の戦闘員に、堅気の者には手を出すなという暗黙のルールがあったようです。大戦が終われば戦没者を祀る忠魂碑を建立し個々の名を納めた日本人の人間観と大陸のそれはだいぶ違います。日本の歴史に「人口の半分」を消耗した戦いなどありません。

 

それは2000年も昔の古代社会の話であって今のChinaは違う、と言い切れるかどうか。1949年に建国された中華人民共和国は、1966~1976年の間、文化大革命を展開します。文化を革命すると素晴らしい新文化が生まれる、という幻想を抱いた日本人も居るようですが、むしろ革命の実相は営々と築いてきた形や精神をすることであり、それは人民の幸福とは関係のないところで行われる権力闘争の別名ではなかったかと、、

 

 

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西安周辺? 1984

 

閑話休題。すってんてんになった彼と広州の日本領事館に出向きました。領事館は大使館に次ぐ存在だから敷居が高そうだ。怖い顔のおじさんがあらわれてまた坐らされたらどうしよう。緊張して中に入ると歳の頃は30代でしょうか、当たりの柔らかい男性職員が、手慣れた様子で彼の説明に耳を傾け、丁寧に対応してくれました。領事館の大事な仕事は邦人保護にあります。「宿泊費、入院、治療費、航空券代、その他の個人費用を立て替えること、またはその支払いを保証することはできない」そうですが、担当者は「国の家族に電話するならこれを、送金してもらうなら私の口座を使ってもよいですよ」と必要にして充分な対応をしてくれました。

 

1週間も待てばクニの母からお金が届くのでこのドミトリーで待ちますと言う彼は、多少のカネはポケットに残っていたろうし、いざとなればまた領事館に泣きつくことだって出来なくもないから「要らない」とは言いましたが、たしか千円ほど(^^ 渡して別れたように記憶しています。後日、北海道から無事、帰国した旨の手紙が届きました。

201003記 つづく

 

 

 

高知の今

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コスモスにも種類があって、これは

キバナコスモスという品種だそうです200928

 

 

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柿がそろそろ200928

 

 

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芒? 200928

日本のススキはもっとしおらしい穂ではなかったかと

ネットを検索してみましたら

これはパンパスグラスという帰化植物のようです、なんと

穂には赤、青、紫と色鮮やかな種類があるのでした

 

 

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ネコジャラシ 200928

こいつを土産にすると

ウチの猫は本気でじゃれます

 

 

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紫式部201001

誰が名付けたか知りませんが、

紫色の小さな実にもののあはれを感じます