日本ところどころ⑪ 四万十川 二風谷ダム当別ダム

f:id:sakaesukemura:20190616015213j:plain

*北海道沙流郡平取町二風谷の萱野茂記念館 141021

趣味のオフロードで林道を走り回っているうちに四国には、里に春はあるけれど山に秋がないことに気がついた。昔むかし額田王は春と秋はどちらが良いかと悩んだ末「秋山我は」という結論を導くのだが、高知のぼくは葉っぱが枯れ葉になる秋より若葉の春が好きだった。

この日のために買い込んだワゴン車に寝袋を積み、やっと掴んだ幸せの日々を北海道の奥山で寝泊まりしながら蔦の黄色と楓の赤の中を走った。高知だって探せば紅葉は見つかる。まあ綺麗ね。こっちにもあるぞと慎ましく秋をたのしむことはできるけれど北海道では広角レンズをどこに振っても紅葉だらけなのであった。寒暖差があるほど葉は強く発色するので北国の秋は美しい。トマトの赤はカロテノイド、黄色はβカロテンがつくる。完熟したトマト畑のような秋を見て額田王の深い悩みに共感したことであった。

f:id:sakaesukemura:20190616015240j:plain

*沙流川の二風谷ダム 141021

やや迂遠な話になるが、1996年に高知市で先住民の杜会議が開かれた。外国暮らしの長い友人が主催し、屋久島、高知、京都と渡りながらマイノリティーの立場を訴える会だった。北タイの三角地帯に住むカレン族の首長、カナダ先住民の首長、北海道は二風谷ダムの近くに住むアイヌの代表を招いて自由民権記念館でパネル討論が行われた。わが家で慰労会を開いた晩、当時国会議員だった萱野茂さんの代理で来高したアイヌの方と縁側に酒を持ち出して長い話をした。

ウソかホントか知らないが、四万十はシ・マムタ→はなはだ美しいというアイヌ語説がある。1923年に出された寺田寅彦説と言われるが根拠は示されていないようだ。1983年のNHK特集で有名になった「最後の清流四万十川」はアイヌの方も知っていたからシ・マムタで話を切り出し、ところで「アイヌ語で自己紹介していただけませんか?」とお願いしたところ、なぜか氏は黙したままであった。アイヌ語は文字を持たない口承語である。日本語に同化され、アイヌ語が使える人は極端に少なくなった今、氏もまた民族の言葉を失いかけたか、既に失っていたのであろうと思われる。

萱野茂二風谷アイヌ資料館にはカタカナで書かれたアイヌ語の単語表が貼られていた。「アイヌ語を失えば、民族が長年培ってきた価値観や知識も伝わらない*」からだ。*萱野志郎館長談毎日新聞北海道版2017.03.25

f:id:sakaesukemura:20190616015353j:plain

*二風谷ダム湖畔の案内板 141021

1973年沙流川二風谷の「アイヌの聖地」にダム計画が持ち上がった。「萱野茂と貝澤正の両名はアイヌ文化を守るため頑強にダム建設に反対、所有する土地に対する保障交渉に一切応じず、補償金の受け取りも拒否した。~中略~ 真の目的はアイヌ民族の現状を広く一般に認知させ、アイヌ文化を国家が保護・育成させること*」であった。結果として「札幌地裁はアイヌ民族を司法の場で初めて先住民族と認定」「旧土人保護法は廃止され、アイヌ文化振興法が施工された*」以来ヤマトの人間がアイヌを見る目は変わってきたように思う。それにしても「土人」などというワープロにもない言葉が20世紀末まで残っていたことに驚く。 *Wikipedia


二風谷ダムは、氏と縁側で飲んだ翌1997年に竣工している。当時の自分は北海道の沙流川もダム計画も知らなかったが、お話を伺い、それなりに市民運動をやってきた者の直感で何だか怪しい臭いがするなと思ったことだ。それから18年後、沙流川の河口からだらだらと続く坂道を上り、たいして高度を取らぬうちに二風谷ダムが見えた。四国のぼくにはダムと聞けば谷間に置かれた逆三角形のコンクリート塊というイメージがあるけれども、堤高32m、堤頂長550mの二風谷ダムを車の窓から見たとき横長の工場かなと思ったくらいである。このダムは里ダムであった。

f:id:sakaesukemura:20190616015423j:plain

*二風谷ダム西側に置かれた魚道 141021

二風谷ダムの魚道には、湖水の水位変動に応じて魚道の入口を上下させるスイングシュートという仕掛けがある。魚道の階段をせっせと昇ったサクラマスが最後に気持よく湖水へ渡れるための心優しい装置なのだが、嫌味な見方をすれば、気の進まない教室へ向かう生徒諸君が階段を上りきったところで授業のベルが鳴るような気がしないでもない。


戦後復興期のダム計画が反対運動で散々な目に遭った経験からか、当節のダムはダム湖の名称を市民から募集したり、工事途中で見学会を設けたり、外観のデザインに凝ったり、後述予定の横瀬川ダムでは水を暴れさせないよう放水路を工夫したりとあの手この手で地元のご機嫌をとっている。そのこと自体は悪くないのだが、ダムの持つ意味は昔と何も変わらない。ある日突然、平和な村に工事が投げられ、住民は賛成派と反対派に別れて反目し、双方の心に傷が残るという図式だ。

「二風谷ダムは堆砂がひどく進行し、2015年3月末現在で堆砂率は総貯水量の約4割に達している*」竣工から18年で堆砂率4割だから、わずか45年でダム湖は土砂で満杯になる計算だ。ダムの実寿命は何年残されているのだろう。*流域の自然を考えるネットワーク「沙流川の今」2016年7月29日

すべての工事に利点と欠点がある。事業者は利点ばかり強調し、自然保護論者は欠点をあげつらう傾向があるわけだが、要はバランスの問題で、必要な工事はやれば良く、不要な工事は阻止せねばならない、、というのが小論で言いたいことの全てだ。

f:id:sakaesukemura:20190616015457j:plain

*当別ダムによる残存地区自治会の解散碑 141022

札幌から1時間ほど北へ走ったところに当別ダムがある。日清戦争の1894年に入植が始まり、ダム建設によって自治会が解散した2000年まで106年間の歴史と共に町は水の底に消えた。「昼なお暗い原始の森」で「自然の猛威と闘いながら恵みの大地を成した」開拓民の末裔が「消え行くふるさとを」惜しむ碑文は読む者の心に切なく迫る。

f:id:sakaesukemura:20190616015537j:plain

*北海道石狩郡の当別ダム湖 141022

車も電気もない原野に家族と共に移住した人々の暮らしは具体的にどうであったのだろう。昼は野を拓き、夜は梟の声を聞いて眠った人々は、流した汗とともに過去を振り返るに違いない。水の底には春があり秋があり、生きて働いて選手交代を繰り返しながら歴史を紡いだ。生れたダム湖は沈んだ町でもある。

 

180605記