日本ところどころ⑧ 四万十川 家地川ダム

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*四万十川は大きく蛇行(曲流)する

四国を横に走る三本の構造線のひとつに仏像構造線がある。その南側の地層が幡多地域から高知沖を抜けて世界ジオパークの室戸につながる四万十帯だ。仏像も四万十も高知由来の名称だから妙に嬉しい気持がするのだけれど四万十帯が深海でつくる南海トラフが揺れ、海が盛り上がったら怖い。

土佐清水市から柏島に向かう海岸線には、海底で寝ていた地層がプレートの圧力を受け折り畳まれて立ち上がった物凄い造形が連なる。あれは地震の化石なのだろう。釣りに夢中だった若い頃は何の印象も残さなかった風景なのだがトシのせいか自然ってえらいものだとしみじみ思う。

フィリピン海プレートが潜り込むと付加帯が削られて山地をつくる。地層は歪み、大地は隆起し、何億年だかを経て四国の山々は山地になった。高知沖の高いところにビデオを仕掛け1億年ほど回して高速再生すれば、石鎚山系から剣山系につらなるシワシワがどのようにして出来たのか手に取るように分かるだろう。あの鬱陶しい防犯カメラを造山運動監視カメラに変えて録画しておけば後世の高等生物に喜ばれるかも^^!

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*四万十川にはダムが6つ+中筋川にも2つある

室戸周辺の川はシワシワの山と平行に流れてほぼ直線だが、四万十川中流域で大きく蛇行(曲流)する。「地盤の緩慢な隆起と、豊富な水量と、基盤の複雑な地質構造がその原因であろう」(福武書店「博学紀行.高知県」)。四万十川が西に回り込んだ四万十町(旧窪川町)は標高230mほどの高台にあり、原発設置で揺れた興津周辺では標高500~600mほどの山の斜面が海へ落ち込む。インド亜大陸ユーラシア大陸に衝突してヒマラヤを造ったように、原理的には似たようなプレート活動が続いているのだろう。2018年2月8日台湾東部の花蓮市を襲った地震フィリピン海プレートの潜り込みによるものだ。

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*佐賀取水堰→家地川ダムは落差わずかの堰堤だが、、180427

四万十川は江川崎で愛媛側と分岐し、大正町で窪川側と梼原側に分かれる。「最期の清流」四万十川にはダムがないので源流から河口までカヌーで下れるというのがウリだけれど支流の梼原川には立派なダムがあり、本流の家地川にも佐賀取水堰=家地川ダムがある。しかしダムの定義は「高さ15m以上」なので家地川ダムは堰堤なのだ。したがって四万十川本流にダムはないというロジックが成り立つ。馬を指して鹿だと言い募った故事のごとくで知人のナチュラリストが「ワヤにすな」と憤った。

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*魚のみなさんはここから昇りなさいという魚道180427

担当職員に「アユの遡上は見られますか?」と訊ねたら特に問題なさそうな口振りであった。しかし別の土木家によるとアユの知能は人間で言えば幼児なみで昇り口が探せないものもいるようだ。上から見下ろす人間は、そこから上がればいいじゃんかって思うが、なんせ鮎は水の中にいるもので、、、閉じられた系の内部から系の外部を想像することは大変な知力を要するのである。どのダムも魚道は折り畳んだ階段状にされて悲しい。デザイン的にも今すこし色つやのある設計ができないものかと思う。

2018年現在、家地川ダム=佐賀取水堰の下流は写真のごとく魚が泳げる程度には水を湛えているが、かつては干からびた涸れ川であった。90年代にダムの矛盾が語られ、2001年の水利権更新期に合わせてダム撤去運動が行われたこともあり「河川維持用水の放流量が1t/sから最高3.40 t/s」まで引き上げられた」(水資源・環境研究Vol.22 2009「家地川ダム撤去運動への視点」田淵直樹)ことから今はそれなりに川の風情を保っている。

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*長閑な春の日の堰堤上流。手前は葉桜の並木180427

川を完全に塞き止めてしまうと下流は水無し川になる。上記地図で言えば、家地川ダムから津賀発電所の放水路まで岩肌が露出した砂漠となってエビもウナギも棲めない。山間地の住民から清流を取り上げたらいったい何が残るのだろう? 子どもは水遊びができず、挨拶代わりに「鮎はとれたかや」と問う村人の声も消えてしまう。洪水時には濁水が続き、下流域での汚れの原因ともなる。生物系の学者は遠慮なく声を上げるべきなのだ。数式と無機物で固められた土木家を説得するのはとても難しいであろうが、机を叩いてペットボトルを倒すくらいの気合が欲しい。

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*佐賀発電所180427

その取水堰から導水路が引かれ147mの落差をもって四万十川の水は別水系の伊与木川に落とされる。問題はその後だ。通常ダムの水は同水系で再利用されるが、家地川ダムは落差で電気を取ったあと佐賀の海へ流してしまうのである。水がお金で説明できるとは思わないけれど捨てた水と作った電気を料金換算すれば得なのか損なのか? 
 
高知県の年間降水量3659㎜は、2位の鹿児島県2834㎜を大きく引き離してダントツの1位である。(都道府県格付研究所) 四万十川には水が溢れているから少々捨てたって問題なかろうという水に対する甘えの思想で家地川ダムは設計されているのだが、ちかごろは輸入野菜を真水換算すれば乏しい水資源の収奪になるという考え方もあるくらいで、もはや真水は只ではない。高知平野は施設園芸が盛んな所だが、地下水を汲みすぎて地盤沈下が問題になっている。香南市にあるウチの施設は上流の貯水池から農業用水を引いているが、供給量が限界に達して新規参入が難しくなってきた。「日本人は水と安全は只だと思っている」という名言を残したのはイザヤ・ベンダサンだが、水も安全も昔のままではないのである。

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*放水路から大量の水を得た伊与木川はまっしぐらに海へ向かう180427

家地川ダムは戦争の足音が聞こえる1937年に完成し、作った電気は愛媛県のアルミニウム工場に送られた。豊かな森から滲み出る水が川に溢れていた当時、環境保護という概念は薄かったであろう。軍事政権下であれば尚のこと反対運動はあり得ない。敗戦の前年1944年に完成した梼原川の津賀ダムも同様であったかと思われる。以下は戦前、四万十川に建設された6つのダム・堰堤である。

 1923年松葉川堰堤(旧大野見村)

 1930年梼原川第三堰堤(梼原町中平)

 1937年初瀬ダム(梼原町初瀬佐渡

 1937年家地川ダム(旧窪川町)

 1937年梼原川第一堰堤(梼原町川口)

 1944年津賀ダム(旧大正町古味野々)

 
180515記(つづく)

 PS
人工知能みたいなAiさんご心配をお掛けしました。4月からこちら月曜日と日曜日がつながって間の記憶がないという毎日です。秋からかれこれトマトを30万個も詰めました。高知市の人口を赤くて丸っこいお人形さんにして片端から箱詰めしたらこんだけあるんだと、、おかげで人口という抽象が掌で実感できました。

某編集長にホガされ木に登る代わりに四万十川を上ってやっとダムまでたどり着きました。知っているようで知らないことってあるものでだいぶ勉強しましたが、知れば知るほど分けが分からなくなります。台湾旅行の目的はみんなに愛された八田与一のダムを見ることでした。かたや川を汚すだけだからさっさと壊せと言われる家地川ダム、津賀ダムって何だろうと考えているうちに熊本県民は2018年3月、球磨川の荒瀬ダムを壊してしまいました。ダム撤去第一号の名誉?は熊本に持っていかれたわけです。ダムは土砂が堆積し50年でダメになります。本格的なダムを撤去した事例は世界のどこにもないはず、原発みたいなものでその後どうすればよいかはまだ誰も知りません。「緑の砂漠」の人工林を含めバイクで山道をとことこ走っていると悲しいものがいっぱい見えますね。四万十川はもうちょっと続いて台湾へ戻ります。助村