ひとり旅 201115 China 5  1984年の北京から1986年の北京へ

 

 

 

f:id:sakaesukemura:20201115010245j:plain

天安門広場に続く道 1984

 

ベンツもレクサスも見えない1984年の天安門周辺は丸っこいバスと自転車の道でした。それから36年が過ぎ、当時20歳の若者は今56歳になります。過去と今を知る世代は、この風景を見て何を思うのでしょう。摩天楼が林立した北京の街を見て幸福感にひたり、貧しかった過去を全否定するのでしょうか、それとも今と比べれば貧しくはあったが、PM2.5のない空は青く、誰もが似たような暮しをしていたから取り立てて隣人を羨むこともなかった時代を懐かしく回顧するのでしょうか、本音のところを尋ねてみたいものです。

 

その2年後の1986年夏ふたたび北京を訪ねました。日本で知り合った中国人留学生が夏休みに帰国しており「北京に着いたら電話してね」という約束だったのでレトロな電話器を回し彼女の名を呼びました。悲しいことに使える言葉は、鶴鳴フーミンという彼女の名とニーハオだけなので、なかなか意図が通じません。日本語を使っても仕方がないし、オレの英語は中学生にも劣るレベルであるし、そもそも英語が通じる気配もなかったので、ひたすら「ニーハオ、フーミン」を繰り返しましたが、無駄でした。

 

日本で再会したとき彼女は「受話器をとったのは母であり、相手が何かを伝えようとしていることは分かったが、意味がわからないまま切れてしまった」とのこと、家族の間でフーミンという日本語の発音が話題になったと笑っていました。そこで連絡がとれていたら彼女の案内で北京を歩けたのですが、惜しいことをしたものです。後日その話を別の留学生にするとやや表情を落とし「自宅に電話があるのは党幹部だけです」と教えてくれました。

 

 

f:id:sakaesukemura:20201115011602j:plain
西安?北京? 1984

 

東南アジアでは4人乗りのバイクは珍しくありませんが

4人乗りの自転車を見たのは初めてでした

人力で走る自転車は環境性能において突出した乗り物です

皮肉でも嫌味でもなくChinaを歩いて心底羨ましく思ったのは

ヒトと家畜の共同作業たる土木、農業、流通、、、

何といっても天安門広場を流れる自転車の洪水でした

 

途方もない人口が労働を分配し、

環境と共生していたところへ

西洋由来の技術が持ち込まれ

「すごいね」「立派だね」と嬉しがっているうちに

独裁と組んだ電子技術は異様な進展を遂げ

Chinaマネーは世界に浸透し

巻き添えを喰らった国々は2020年の今

未来を明るく描けなくなりました

 

 

f:id:sakaesukemura:20201115010421j:plain

重慶? 列車の窓から 1984

 

1980年代の中国人留学生にとって日本の物価は想像を絶するものではなかったかと思われます。たまに日本人学生が中国人留学生を交えて宴会をひらいたものですが、あるとき「会費5,000円は中国庶民の月収に近いのではないだろうか。国費留学生だからそれなりの奨学金は貰っているのだろうが、酒を飲んで月給全部吐き出すとなるとオレなら遠慮するわ」という尤もな提案があり日本人で割り勘したこともありました。

 

 

f:id:sakaesukemura:20201115010506j:plain

農村風景/場所不明 1984

今のChinaは知りませんが

ラオス国境が近いベトナムの奥地

ディエンビエンフーの農村が思いだされます

 

ひと口に留学生と言っても各人各様です。来日した段階で日本語ぺらぺらの学生もいれば、そうでもない学生もいました。日本語ぺらぺら氏に初めて出会ったときは、発音にまったく癖がないのでむしろ不自然な感じがして「クニはどこか、関東か関西か」と訊いたくらいです。上海の自宅でラジオを聞きながら勉強したそうですが、自国で独学してこれだけの日本語があやつれるなんて凄い。おれの英語なんか話にもならんと反省させられたものです。世の中には発音はきれいでも中身がなくて退屈なヒトもいますが、ぺらぺら氏は暇さえあれば図書館で日本の新聞を読んでいたので込み入った時事にも通じていました。彼とは今も年賀のやりとりをしています。一方、北京で電話した彼女はどちらかといえばアカデミズムに熱い思いを持つタイプではなかったようですが、聞けば留学生を決定する段階で党幹部の子女は優位に立てるとのこと、古今変わらぬChinaの慣習ではあります。

 

 

f:id:sakaesukemura:20201115010540j:plain

バスの窓から北京?1984

 人と自転車の道は

広場のように清々しい

 

ぺらぺら氏と出会ったのは1986年だから文化大革命終結した10年後になります。能天気な自分は、Chinaの現在を知るべく折りあるごとに水を向けましたが、彼は決して不用意な発言をすることはなかったです。批判という言葉を日本語で発してもさしたる重みはありませんが、それは文革の用語でもあり、彼にとって批判ピーパンは恐怖を想起させる言葉のようでした。具体的なことは憶測の域を越えませんが、触れてはならない闇を絶え間なく意識していたかと思われます。そこには結構な数の中国人留学生がいたものの皆が一致団結しているようでもなかったので、ひょっとすると留学生は互いに牽制しつつ言葉の地雷源を歩いていたのではなかったかと、、何を言おうと身の危険はなく、むしろ政権批判することがカッコいいとされる平和ボケ日本を振り返る良い機会ではありました。

201115記 つづく

 

 

 

         ### 高知の今###

f:id:sakaesukemura:20201115010829j:plain

高知市春野201030

ススキvsセイタカアワダチソウ

 

一時は日本の秋を制覇するかと見えたセイタカアワダチソウですが、この北米原産の帰化植物に対抗し日本古来のススキはよく闘っています。

 

 

f:id:sakaesukemura:20201115010905j:plain

高知市春野201109

 

動物が生存領域を争うように植物もまた根っこから化学物質を出したり、高く伸びて相手を影で覆ったり、相手が嫌がる微生物をおびき寄せたり、あの手この手で争っているのだそうです。

 

 

f:id:sakaesukemura:20201115010927j:plain

高知市春野201109

 

若い人はどうか知りませんが、トシを重ねて記憶が積るとやはり月見は団子に芒という取り合わせでないとピンとこないのです。芒がんばれ! 外来種に負けんじゃねえぞと心の中で応援している自分が見えました。