230509 ひとり旅 Korea所々④  岸田文雄首相 ユンソンニョル大統領 日韓合意 徴用工 慰安婦像

 

 

 

 

四国の山中 徳島と高知の県境にある矢筈峠の看板  2014.07.21

 

看板には「この東笹林道開設にあたり韓国の方々が就労された。当時、この峠が祖国地形に似ていることから、金学朴氏(杉本氏)が「アリラン峠」と名づけられ同僚達とこの地に立ち遥かなる母国に思いをはせたと言われる。本名は「矢筈峠」と称する。高知中部森林管理署」とあります。

 

金学朴氏が高知へ来たのは「応募」なのか「強制連行」なのかという今日的な問題には触れていませんが、少なくとも看板を立てた日本人にとって金学朴氏は、望郷の念をつのらせた外国人であり同僚であり仲間であったようです。そこに上下関係は見えません。

 

 

朝鮮国女の墓  (写真が見当たらないのでネットより借用)

 

高知県西部の上川口には「朝鮮国女の墓」があります。碑文*には豊臣秀吉朝鮮出兵に際し「強制連行」されたとありますが、なにせ昔のことなので、若い機織りの女を連行してきた「という」「と言い伝えられている」「であろう」「と思われる」と推量の言葉が強い感情移入をもって置かれています。(*末尾に全文掲載)

 

「朝鮮国女の墓を守る会」が碑を置いた1981年は、日本経済が絶頂期に向かう年であり、朝鮮戦争の余韻が残る韓国経済はまだ復興途中でした。日本は悪い国だ。日本人は加害者だと教えられたぼくら戦後世代は(しかし心の余裕をもって)アジア全域の被害国とりわけ韓国に対し贖罪ないし謝罪の念をもちつつ接して来たわけです。が申すまでもなく事はそう単純ではありません。

 

 

5月8日の各紙  2023.05.08

 

今日の朝日毎日高知日経各紙は日韓の雪解けを歓迎する筆で記事化されていますが、どこを読んでもいわゆる従軍?「慰安婦」の文言は見当たりません。▼1991年に高知県土佐高校卒の植村隆記者が朝日新聞に書いた「従軍慰安婦」記事は誤りであったことを2014年に朝日新聞が認めました。その後植村隆記者は「名誉」を傷付けられたとして裁判を起こしましたが、2021年に最高裁は上告を退けました。

 

話の元になった吉田清治著「私の戦争犯罪朝鮮人強制連行」を市民図書館で検索してもらったところ高知大学に一冊だけありました。お借りしてコピーし手元にあります。中身はそれらしい記述でいっぱいですが、ぼくの文章感覚をもって「慰安婦狩り」の虚実をさび分けるかぎり、かなり創作っぽいです。まして優秀なる朝日新聞のエリート集団がどこかウソっぽい吉田小説の虚偽の匂いを嗅ぎ取らなかったわけはないと思われますが、担当者は行間を読むより背後の圧力に屈したないし同調したのではないでしょうか。その後の大騒ぎに朝日新聞みずから決着を付けた勇気にだけは敬意を表します。

 

裁判とは詰まるところ細部の正否で争う他ないわけですが、歴史は現象を大掴みに切り分けねば形を成しません。非常時の人間は何をするか分からず、残酷な話もあったであろうし、それを倫理道徳に引き寄せる美しい話もあったろうと思うわけです。古今東西どこにでも慰安婦はいますが、それに軍が関与したわけではないので「従軍慰安婦」という言葉は成り立たないというのが日本側の言い分です。一方、外国人が民間の慰安所を使ったことは事実であり、当事国の国民には胸くその悪い話ではあるでしょう。主客は処をかえ国名をかえて入れ替わり時代とともに移りゆくのが歴史というものではないでしょうか。

 

韓国が充分な国力をもった21世紀の今

日韓は互いに主権国家として堂々と渡り合うべきです

 

 

ソウルの日本大使館前で安倍NO日本NOを唱える団体  2019.08.21

 

2015年12月28日、岸田文雄外相と韓国のユンピョンセ外相はバイデン副大統領の仲介で、いわゆる「従軍慰安婦問題」について「最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と表明し、日本大使館前のいわゆる「慰安婦像」は「適切に移転がなされるものだと認識」しました。その約束はみごと反故にされ、いわゆる「慰安婦像」は今でも日本大使館を睨んでいます。▼この少女像は米軍車輌に轢かれた2人の女子学生を追悼するため椅子がふたつ構えられましたが、どういうわけか日本向けの慰安婦像に転用されたようです。

 

その岸田外相が総理大臣となり今次再びユンソンニョル大統領と強制?「徴用工」問題他で合意しました。バイデン大統領の方向付けがあったろうことは容易に想像されます。今日5月9日の日経新聞は日韓の雪解けを礼賛しますが、かつて同じ「未来志向」で始まった李明博元大統領が政権末期に掌返しをしたことが想起されます。大統領の任期は5年。「ホワイト国再指定」「通貨スワップ」といった難関を経て同じことが繰り返されるのであろうと先が思いやられます。

 

この件ご関心のむきには

紙の新聞のタテマエ記事より

ネットの書き込み欄が有益かと思います

2023.05.09記 つづく

 

 

 

*付記資料

「朝鮮国女墓の由来」
往昔文録慶長の役に出陣した長曾我部元親に従って朝鮮国に渡った入野郷上川口村の土豪小谷与十郎は,帰国にあたって若い機織りの女を連行してきたという。

彼の国の進んだ機織りの技術を近郷近在に広めた彼女は美しく優しく,土地の人々に愛され慕われたと言い伝えられている。

 祖国朝鮮への望郷の念を抱いて寂しく異国の地に果てた機織女は,上川口村桂蔵寺の小谷家の墓域に葬られた。墓碑を建てたのは与十郎の四代子孫小谷安次である。
天正年中来と刻んだのは,文録慶長の役の強制連行の痛ましさを隠したかったからであろう。卒年を刻んだのは尊徳の念からと思われる。

 代々,土地の人々に守られてきた墓は桂蔵寺跡から,移されて現在地にある。
いま,この朝鮮国女墓を世に顕さんとするわれわれの志は,この悲劇の一女性の霊を慰めるとともに,それを通して,日本と朝鮮両民族の友好と連帯を誓うところにある。

                                  1981年7月7日 朝鮮国女の墓を守る会