ひとり旅 230429 台湾 烏山頭ダム 八田與一   (妻)外代樹

 

 

 

台湾嘉義市烏山頭ダム 2017.10.19

 

九州ほどの広さの台湾を都合20日ほどあてもなく歩きました。あえて旅の目的を挙げればこの烏山頭ダムを見たかったこと、その設計者八田與一と妻外代樹(とよき)の生涯から、かつての日本人が台湾(また朝鮮半島)で何を造り、どう生きたかを自分なりに考えたかったからです。

 

 

烏山頭ダム脇の八田與一像、後は與一と妻外代樹の墓  2017.10.19

 

世に偉人の像は多くありますが、地べたに坐って頭をひねる座像は珍しい^^! 烏山頭ダム完成後、地元有志から「あなたの像を建てたい」という相談がもちあがり「それはイヤだ」と逃げ回る八田與一を追い掛け、ついに納得させたのがこの形でした。

 

ダムを設計したのはオレだけど施工したのは日台の働き手だ。工事に際しては134人もの死者を出した。顕彰すべきは彼らだ。偉そうにオレだけが高いところから見下ろすような真似はしたくない...といった遣り取りがあったことでしょう。八田與一は考え事をするとき髪の毛をつまむ癖があったらしく、結果として地べたに腰を下ろし、ダムを見ながら頭をひねることになります。▼竣工記念碑には「八田技師の強い主張により台湾人日本人を一切差別することなく亡くなった順番で一人一人の名が刻まれた」とあります。和の国日本が大陸や半島の思想と決定的にちがう点です。

 

ダム湖の水は、不毛の大地、マラリアの猖獗地帯でもあった嘉南平野を潤し、台湾の人々に(間接的には本土の日本人にも)富をもたらしました。ダム建設という大事業が、事業のための事業ではなく、疑いもなく地元民に期待された時代の話です。

 

 

八田與一  2017.10.19

 

30代の若さで烏山頭ダム建設の責任者となり、膨大な国家予算を動かし、多くの従業員を指揮した八田與一の人となりは、長男八田晃夫氏によると「父は一口に云えばまあ一国者です*」とのこと、頑固一徹でなければ完遂できない事業であったことが推察されます。▼この件については「200816いっぷく11号 李登輝元総統へのささやかな追悼 八田与一の烏山頭ダム」の段で触れたので省略します。

 

 

(妻)外代樹  2017.10.19

 

花嫁の外代樹は16歳

今なら高校1年生の歳に故郷の金沢で見合いし

八田與一の妻となって台湾へ向かいます

 

 

烏山頭ダム下の八田技師記念館にて  2017.10.19

 

いつもの癖でシャッターを切っていると

館の係員から「撮影禁止の旨」注意されました

すっとカメラは引っ込めましたが

消せとまでは言われなかったので

この一枚はご勘弁ください

 

その写真を見た瞬間、八田夫妻がどこかの保育園に出向いたときの記念写真だろうと思いましたが、なんと家族写真なのでした。男2人女6人計10人の家族はさぞ賑やかだったことでしょう。かりに外代樹が2年おきに子を産んだとしてまだ30代。10人家族のまかないを一手に引き受け、食事洗濯風呂掃除…こまごました日用をこなすうちに日は暮れ、年は移り、ぼくら現代人のように人生の意味をシニカルに問うこともなく、ひたすら生きたに違いありません。夫は天下国家を背負った働き盛りの40代、個人も国家も若く勢いがありました。

 

 

八田與一記念公園内の展示より 2017.10.19

 

台湾の烏山頭ダムを完成させた八田與一は戦争終結の3年前、次の任地フィリピンへ向かうべく部下とともに船に乗りましたが、1942年5月8日、東シナ海アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて船は沈没。五島列島沖に流された遺体は漁師の手によって引き揚げられ、所持していた手帳から本人が特定されました。享年56歳。報を受けた妻外代樹が崩れ落ちたことは容易に想像されますが、そのことについての資料は残されていません。

 

 

現在の烏山頭ダム放水路  2017.10.19

 

八田與一没後3年目の

1945年に戦争が終結

出征していた次男泰雄は8月31日

母外代樹のもとへ帰ります

 

 

当時の烏山頭ダム放水路  2017.10.19

 

不思議でならないのは、まさにその夜

外代樹は子どもらにむけて短い遺書を書き

夫が造った放水路脇に履物をそろえ

着物の裾が乱れないよう縛った上で

川に身を投げたことです

昭和20年9月1日享年45歳

 

自死の理由については

古川勝三著「台湾を愛した日本人」にも

他の文献にも何も記されていません

 

 

子を抱く母外代樹の像  2017.10.19

 

2014年に建設された

八田與一記念公園の庭に

子と母の像が置かれました

台湾人彫刻家による、どこか悲しい

愛と敬意のこもった造形です

 

抱いた子が2男6女の誰であるかはわかりませんが、顔と髪形から推察し、男の子のようであり、すると1/2の確率で次男の泰雄であろうと(根拠もなく)ぼくは思います。成長した泰雄は、出征し、帰還し、昭和20年8月31日に母と対面しましたが、まさにその夜、外代樹は短い遺書を書き、翌日、夫が造ったダムの放水路へ身を投げました。残された次男にしてみれば不条理この上もない母の死に直面したわけであり、父を海で母を川で失った8人の子は茫然自失したことでしょう。

 

自殺の理由は本人にしかわかりませんが

台湾生まれの直木賞作家・邱永漢は外代樹の心中を

以下のように推察しています

 

「八田技師の夫人外代樹さんは八田さんより15歳も若い美しい人だった。同じ石川県金沢市のお医者さんのお嬢さんで、16歳のときに、当時土木課勤務中の八田技師に嫁した。19歳の時に現場の指揮者として烏山頭の山中に赴任する良人について、あの不毛の地に入り、そこで10年間暮らしたのである。二人の間には2男6女があった。▽八田技師の嘉南大州工事が完成してから、夫人は良人と共に台北の官舎へ戻ったが、大洋丸沈没の悲報はこの留守宅へ届いたのである。夫人はこの悲しみに3年間じっと耐えた。戦争が次第に激しくなるにつれて、台北の人々も田舎へ疎開するようになったが、外代樹さんは子供たちを連れて思い出多い烏山頭を疎開の地として選んだ。けれども待っていたのは家族たちが再び一堂に会する「幸福の日」ではなくて、やがて台湾にいる日本人が悉く台湾から去らねばならない「無条件降伏の日」であった。▽他の多くの日本人がそうであったように、多分、外代樹さんは台湾を自分の永住の地だと思っていたに違いない。彼女は台湾を去りたくなかったであろう。当時、長男の晃夫さんは昭和19年東大を卒業すると同時に海軍に入隊していたし、次男の泰雄さんは学徒動員で不在だった。その泰雄さんが8月31日に烏山頭の疎開先へ戻ってきた。それまで長い間思い詰めていたのであろうか、その夜、外代樹さんは家を抜け出して、良人が粒々辛苦して築き上げた烏山頭のダムの直径2メートルもある排水口の渦巻くなかへ身を投げて、良人のあとを追ったのである。▽遺書にはただ『兄弟姉妹仲よくし暮らして下さい』とだけ書かれてあった*」

                    「*台湾の恩人八田技師」邱永漢 1959年(昭和34年)刊文芸春秋4月号P252

 

上記は1956年に直木賞を受賞した邱永漢が、日本統治下の台湾で活躍した土木技師について触れた記述です。邱永漢の同輩でもあった李登輝総統は間違いなくこの記事を読んでおり後年、総統の推奨によって八田與一の功績が台湾の学校教科書に載せられ、日台友好の一助となったのでしょう。昨日高知の図書館で64年も昔の干からびた「文芸春秋」を見つけました。恐る恐るページをめくっているうちに「八田技師のもくろんだ灌漑地域は高知県の3倍に及ぶ広さなので」と烏山頭ダムが潤した嘉南の大地がわが高知県の3倍の広さであるとした記述を見て、どうでもよいことではありますが、感じるものがありました。▼古川勝三氏による渾身の力作「台湾を愛した日本人」もまたこの記事に触発されたものであろうと思われます。

 

ここまで書いたときタイ在住の友人から「周りで友人が突然、その生涯を閉じている昨今です…」とのメールが届きました。ぼくにしてみれば昨年来、幼なじみの同級生の訃報に接し、長くお付き合いさせてもらった陶芸家が個展をひらく前日「生涯を閉じ」、兄が守る実家に突然の不具合が生じたりとつくづく無常を覚えます。かつての職場では「じゃあね」と手を振って別れた翌日翌々日、彼の不在が気にかかり皆で捜索に出かけたこともあります。人は様々なかたちで生涯を閉じます。次の世があるかどうかはさておき必然この世を意識せざるをえず、すると普段なにげなく見過ごしてきた日常が愛(かな)しく愛(いと)おしく身に迫ります。歳をとるとはそういうことなのだと思うこの頃です。

2023.05.01記 つづく