平和資料館から慰霊碑を経て原爆ドームへ向かう道 2023.10.02
簡素なつくりの資料館から
巨石の筒を風が抜ける慰霊碑の向こうに
天蓋の骨組みが残る原爆ドームが重なります
舗装路の両脇に広がる芝生の空白が
道行く人の呟きを吸い込むかのようです
川を挟んで原爆ドームを見る 2023.10.02
人は黙して語らず
まれに子どものはしゃぐ声が
樹木の陰にあらわれて消えます
資料館に置かれた原爆ドームの模型 2023.10.02
いわゆる原爆ドームは
1915年にチェコの建築家が設計し
広島県物産陳列館として完工しましたが
被爆当時は官公庁の事務所として使われていたそうです
橋から見た原爆ドーム 2023.10.02
ドームの上空600メートル地点で核爆発が起こり、爆圧と熱線により半円形の鉄骨とレンガが残りました。碑文には「その1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失われ半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した」とあります。
ヒロシマ 2023.10.02
核爆発により半径2㎞の円内が
灰になったヒロシマの中心街
これを高知市に当てはめ
はりまや橋から半径2㎞の円を描くと
高知港からイオンモールまですっぽり入ります
五台山から高知市街を見下し、頭の中に
巨大風船で火球をつくるとリアルです
その9年後にビキニ環礁で破裂した水爆は
核爆弾を起爆剤とし地上に太陽をつくりました
かりに東京都の上空2000メートルで爆発させたとすれば
人口1000万人の大都市は焼け野原になります
それにしても、です
戦艦大和ひきいる軍艦の特攻が行われたのが1945年4月7日の出来事でした。8月時点ではB29を迎撃する戦闘機とてなく米軍はもはや日本に継戦能力がないことは分かっていたはずなのに敢えてヒロシマ、ナガサキを核攻撃した理由は何か? 核を空中で点火すれば市民が巻き添えになることは分かりきっています。うがった見方をすれば戦時の現場で行った人体実験であり、その後の冷戦を見越した対ソ戦への見せしめであったのかもしれません。
アメリカ人に「なぜヒロシマ、ナガサキをやったのか?」と問えば「日本は強かった。戦争を終わらせるためには仕方がなかったのだ」という返答が戻ってきます。が、それが10万とも20万とも言われる市民の犠牲を省みない理由になるのかどうか…通常爆弾と核爆弾では桁が違います。
1945年3月9日の東京大空襲ではB29の編隊300機が都民の逃げ道を塞いだ上で「11万5千人以上wiki」の一般市民を焼き殺しています。原爆はいいぞ、あれは一瞬で殺してくれる。おれらは逃げまどって大変だったとヤケクソ気味に回顧する人もいます。戦争は命のやりとりをする場だから多少の行き過ぎはあって当然でしょう。しかしそれが万を超える単位で(兵士ではなく)民間人を殺傷するとなれば話は別です。
他者を言葉で「悪」と括った瞬間、回路のスイッチが切れ
人は憎悪の対象となることが分かりなります
血みどろの闘いをつづけるのも同じこと
宗教、政治、土地争いといった何かのきっかけで
人は憎しみの感情を爆発させ
結果に道徳的な痛みを感じなくます
2023.11.10記 つづく