日本ところどころ⑦ 四万十川から仁淀川へ

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初﨑の港

ここまで来ると河口というより海の港だ。水の色も波の形も上流とは違う。堤防の先では港を出入りする水流が複雑に渦巻き、漁船に遭遇するとゴムボートは上下に揺れる。尖ったものに触れたらプシュ~だからライフジャケットは必須の装備だと知った。構造物の真下は妙に人を寄せつけないところがある。▼対岸は水運が主役だった時代の中村市の玄関下田港である。下田も初崎も顔を川に向けている。

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仁淀川上流の池川町

昔は木材を筏に組んで川から下ろした。川が暮らしの主役だったから家は顔を川に向けていた。ところが山裾を切って家の後ろに道が造られトラックが木材を載せて走りはじめると家は顔を山に向けた。自動的にお尻は川に向き、川は水路となり、所によっては排水路とされた。さすがに今ではやらないが、ぼくが子どものころ養豚場の汚水を未処理のまま川に垂れ流していた業者がいて親に川では泳ぐなといわれたことがある。川の価値は時代がどこに向かっているかで決まるようだ。

そのむかし北京から来た留学生が吉野川の上流を見て「あれは青いペンキでも流しているのですか」と驚いていた。中国だって奥山に入れば水は青いはずだが、大都市周辺の大河は黄土色に濁り水を手に結ぶと細かい粒子が見える。「日本人は水と安全は只だと思っている」という名言があるけれどトイレの水が飲める水だなんて国は多くない。

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下流域では巨大な堤防に仕切られて川と町が分断され、住民は暮らしの中で川を意識することはない。中流域では洪水時の水位ぎりぎりの地点で家は川を向いたり山を向いたりしている。ところが上流域に入ると風景も水質もまるで違い今でも川は暮らしと共にある。車で河原に下りられ、家から川へつながる階段もある。

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階段を下りれば、絶妙のポイントに崖と淵があり、黄色い叫び声とともに飛沫が上がる。体育の授業だろうか、水は清く風は爽やか、どんなに大騒ぎしても誰にも迷惑をかけない空間だ。ここには都市のバイブレーションもなければ変態さんから視線を守る囲いもない。そもそも人の姿が見えない。


高知市を流れる鏡川の上流にきれいな円を描いた蛇行部がある。その首をちょん切ってショートカットすれば洪水時に水を早く流せて安全だというわけの分からない工事案が持ち出された。仲間と組んで反対運動をやったとき「川歌」を連載していた漫画家の青柳祐介さんが加勢してくれた。山の学校にプールは要らない。川で泳げばいいじゃないかというのが氏の持論であった。そんな議論を知るよしもない池川町の中学生は仲間に囃されて淵から飛ぶ。角度を間違えると気絶しそうになるから気を付けよう。

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都会の子がこの授業をお金で買うとすればお代はいかほどになるのだろう? 

180331記

日本ところどころ⑥ 四万十川 津波の浸水域

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四万十川河口、初崎の道端で見た津波の浸水予想図。指標には30m以上という数字も置かれる。3・11後の太平洋岸を岩手、宮城、福島と渡り、とりわけ女川の高台から信じられない光景を見た自分は、赤い線が何を意味するか、頭では分かるような気もするが、実感できるとはとても言えない。盛り上がった海が街を呑む瞬間を見たわけではないので冗談としか思われないのだ。

ダイビングの世界で30mという数字は初心者を寄せつけない深さである。たったの10mでも1気圧追加されるから息を止めたまま上昇すると肺はパンクする。20mを超えると水圧による残留窒素を計算し綿密な潜水計画を立てねば命が危ない。30mの向こうは、紙で勉強しただけだが、安全な滞在時間は10分程度としたものだ。空気ボンベに残量を残しゆっくり上昇しなければ血液中で窒素が泡立つ。

2014年4月16日の韓国セウォル号事故の際、沈没後長い時間が経ってなお空気の残った船室に生存者がいるかもしれない、急げとアナウンスする人がいた。彼らは30mで4気圧の水圧がかかることを知らないのだろうか。奇跡的に生存者がいたにせよ船の窓に減圧室を接続し高圧のまま引き上げなければ命はない。そんなことが出来るわけがない。

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 高知の海岸線は室戸と足摺で両手を広げ太平洋に向けて津波を迎え込むような形をしている。Google Mapを見ると海岸線の足元でフィリピン海プレートが潜り込む。ここがズンと来たらひとたまりもない。1946年の昭和南地震で旧中村市は「市街地の8割以上が地震動で生じた火災等により壊滅した。Wikiより」「鉄橋は6つの橋桁が川の中に落ちた。下田港では薪炭木材の輸送が停止した。が、耐震補強されていた中村女学校(現中村高校)だけは完全に残った。記録映画より」要するに二三の建物を残して中村市は壊滅したわけだ。上の写真はその日の高知市である。敗戦の翌年だから高いビルがなかったこともあろうが見事に海の底だ。

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黒潮町は今年、海抜26mの高台に新庁舎を完工したが、無慈悲にも建設途中でコンピュータが弾き出した最大浸水予想は34mであった。折れ線グラフは地震後に1mの津波が到達する予測時間である。遅いところで15分、早いところは3分というから無常迅速、覚悟を決める暇もない。

だから高知の海岸線に続々と造られた高さ15~22mの津波避難タワーに意味がないかと言えば、そうではないと思う。シミュレーションはあくまで理論上の最大値であって、海水面が平均して34mの頭上に来るというものではない。3・11後の女川では津波が30mを超える地点まで到達していたが、それは湾に流れ込んだ膨大な海水が行き場を失って坂道をせりあがった結果であって、広い面積の全てが30mの海底に沈んだわけではない。黒潮町(旧大方町)入野の浜ほどの長さと面積があれば、普通に考えてあの松林を海の底の海藻のごとくにしてしまうことはありえない。

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福島県請戸地区の断層。黄線が途切れたので思わずブレーキを踏んだ。後方の森は福島第一原発。2016年10月2日

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同日同地区。あの日のままの海岸沿いの風景。津波は2階を襲ったが屋根は壊していない。ここにもし津波避難タワーがあり運良く上がれたとすれば命は助かったであろう。現実問題として慰めていどの施設であるかもしれないが、、

 

180320記

日本ところどころ⑤ 四万十川 アカメ

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平成22年2010年に終了した市町村合併で全国3300市町村は1700ほどの自治体に縮小され、中村市四万十市と改名された。しかし行政が「これからは四万十市と呼ぶ」と宣言しても旧中村市に住んでいた者にとっては、中村市を流れる川が四万十川であって地名と川は別物だからぼくなど未だに馴染めない。名を変えても実態は同じとするのは行政のご都合主義であり歴史と地名は一心同体なのである。改名した時点で過去は消え、新しい歴史が始まる。すなわち旧世代と新世代は違う歴史を背負うことになる。

旧世代のぼくにとってここは中村市八束、四万十川に中筋川が流れ込む合流点だ。上げ潮だったので係留ロープは長く取ったつもりだが、間を置いて戻ると思わぬ高さまで水嵩が上がり浮力でボートが傾いていた。潮の干満を見るかぎりここはもう海だ。石で組んださりげない護岸が嬉しい。

琉球弧のどん詰まりにある西表島の浦内川はマングローブ林を貫いて汽水域が山の麓まで 迫る。そこを観光船に揺られているときサメの姿を見たことがある。上流から流れ込む淡水は軽いので上層に、海から入る海水は重いので下層にあって両者は混じらない。「だから鮫は川に上がってこられるのです」と船頭が教えてくれた。してみれば本来海洋魚である四万十川のアカメも汽水域の下層部を泳いでいるのだろう。

環境庁2017年版でアカメは絶滅危惧種ⅠB類に指定されている。宮崎県では2006年に捕獲を禁止したが、高知県では「釣り師の反発に遭い指定には至っていない。wiki」アカメが微妙な魚種であることを承知してのことか、釣り上げた人は写真を撮ってリリースすることが多いらしい。物の本には食べたら美味いとあるが、アカメを料理したという記事は見たことがないので釣り師はみな紳士なのだろう。野暮なことをおっしゃいますなってまさかね^^!


180317記

日本ところどころ④ 四万十川 赤鉄橋ゴルフ俳句

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四万十市(旧中村市)入田の河原。向こうに見える赤鉄橋は垂直材を入れたワーレントラス橋。まさか国道を沈下橋にするわけにはいかないので勿論抜水橋である。この町で生れ育った人には記憶の中心に置かれるランドマークだろう。

青丹よし奈良の「青丹」は、諸説あるが、薄い緑と朱の対比のようだ。深い山奥でひょっこり出会った赤い橋はなぜか懐かしい。赤鉄橋の周辺も360度ほぼ昔のままの風景が広がり圧倒的な緑に包まれた赤い橋には違和感がない。そのむかし宿毛の子どもは高知に向けてこの橋を何度越えたかが仲間内のステイタスだった。

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 むかしは赤鉄橋が文明の架け橋だったが、いつの間にか下流に4つも橋が出来た。橋梁技術が凄まじく進化し、全長3911mの明石海峡大橋までやってのけた今、この程度の川幅なら何の苦もない土木なのだろう。吊り橋やトラス橋とちがい桁橋には導入部に目立つものがなく車を運転していると知らぬ間に通り過ぎてしまう。それでは勿体ないので橋の真ん中で川でも眺めなさいという物見台が置かれているけれど、橋の上に車を停めるわけにはいかないし、橋詰から歩いて渡るには遠すぎるからか見物客の姿を見ることはまずない。四万十川も河口が迫ると川幅が広がり構造物のスケールが人間を超える。

川面に対し垂直に立ち上がる丸い橋脚を下から見上げるとビルのようだ。ゴムボートから手を伸ばしコンクリートの円柱に触ると、危ないから近づくなという無言の声が聞こえる。橋脚の下は深くえぐられ水流が複雑な動きをする。橋梁技術の粋は水の下に隠れているそうだ。名を残すことのない土木家に敬意を表して遠ざかることにした。

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オカでぱんぱんに空気を入れたゴムボートも張りが緩むと足が鈍くなる。たるんだゴムボートを風上にむけて漕ぐくらいばからしい行為はない。だれて風まかせに浮かんでいると細身のダブルスカルがさして力を入れた風もないのに脇をすいすい抜けて行った。競技用のボートが矢のように細い理由がよくわかる。

その向こうでは、アルミのボート2艘をお尻でくっつけて伸ばし、二手に分かれた10人ほどの漕ぎ手が、掛け声に合わせて競争していた。自衛隊の訓練なのだろう。屈強の男どもは力任せに櫂を使うが、みんなの呼吸があっているとはいえず、気合の割に舟は進まない。野球部の生徒をプールで泳がせたようなものだ。

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ここは四万十川の汽水域、北海道のイトウや南米のピラルクーに並ぶアカメのふるさとでもある。滑り台のような額を持ち、アントニオ猪木のように顎がしゃくれたアカメは本当に目が赤い。ウェットスーツで潜るのが趣味という友人が、海岸に置かれたテトラポットを覗くと「ルビーのような目が見えた」次の瞬間「ブンという音が聞こえた」頬のあたりに「軽い水圧を感じた」と生々しい描写をしてくれた。

アカメの分布域は広く、高知市鏡川の汽水域にも棲息している。アカメに誘われ、県外から来高ないし移住して苦節○年やっと釣り上げた怪魚の後ろで満面の笑みを湛える釣り師の写真がたまに高知新聞を賑わせる。

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ボートの写真をよく見ていただくと後ろにキャスティングロッドを置いている。釣り具屋の入口で980円の値札が付いていたものだ。これでアカメを引っかけてやろうなどと恐れ多いことを目論んだわけではない。このあたりにはスズキもいるはずだから、ひょっと間違いでということはあるかもしれないが、万に一つの期待より、なんとなく川の真ん中でルアーを投げてみたかったからだ。道具を持つと川が違う顔を見せる。

魚を食べたければ魚屋へ行けばよいのに、道具ひとつに何万何十万円を投じ、土日をつぶして夜討ち朝駆け、釣ったぞぉと言ってご近所さんに配る人はいったい何をしているのだろう? どう考えても無駄な行為だから目的論的な経済学では説明できない。実は一昨日知人からグレの良形を5枚もらって刺身、焼き切れ、鍋、煮つけと楽しませてもらったのだが、趣味とはいえ土曜日に仕事を終えて夜中に車を走らせ、香南市宿毛市を往復したご苦労な釣果であった。

生れて初めて飛行機に乗り、成田の上空から千葉県を見下ろした時、サンゴを食害するオニヒトデのごとく大地に忍び寄るゴルフ場がそこかしこにあることを知ってショックを受けた。美しい山にバリカンを当てた夏場のスキー場も酷いものだが、広大な面積を占有し野山を侵食するゴルフは、緑滴る日本の風土には適合しない。意地でもゴルフはやるまいと心に決めた。

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写真は四万十川と中筋川が出会う州に造られたゴルフ場である。いきなり宗旨替えして申し訳ないが、この広々とした緑の空間に仲良しの善男善女が球を転がしては歩く風景っていいなと思った。環境保護原理主義的に語るとキリがないし、既に人類は来るところまで着てしまったわけだから、余りに厳密なことを言っても始まらない。元々平らな所を芝で埋め、転がった球に引かれてせっせと歩く健康づくりなら良いではないか。クラブのシャフトで肩を叩きながら歩く人はスポーツとは別の何かをしているのかもしれない。

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鰻ウケ(ぼくのワープロは竹冠に全の字を知らない)を宿毛ではモジとかツツと呼ぶ。蜜柑の木の根元を掘るとほこほこの土からミミズが躍り出る。それを竹で編んだ筒状の仕掛けに入れて川に沈め、翌朝ヒモを引っぱるとたまには鰻が入っている。オヤジが鰻の頭に錐を刺し、包丁の先を砥石で研いで嬉しげに捌いてくれたものだ。作者は川漁師なのだろうか、「二度三度叩いて」筒を覗いたら鰻と目が合った。おった! やべぇという掛け合いが聞こえてきそうな生活臭ふんぷんたる良句である。「ALWAYS三丁目の夕日」に出てきそうな昭和30年代の思い出が四万十川では生きている。

「文化果つる地」と土佐の高知を自虐的に語るムキもあるが、バイクで小道をとことこ走っていると至るところで句碑歌碑に出会う。戦時の悲しみを詠んだ句もあれば、新春をことほぐ季節の歌もある。うまい句もあれば左程でもない歌もあるが、ぼくらは芭蕉翁でも晶子さんでもないのだから出来の善し悪しは二の次だ。まだ説明されていない現象を17ないし31文字で捉える離れ業を一般庶民がやってのけ、それを持ち寄って愉しむ文化が現存することに注目したい。

歴史は英雄がつくり、文化はエリートがつくるのが普通の国の習わしだが、日本の庶民は江戸の昔からエリートと同等の文化を追求してきた。ハンチントン教授は「文明の衝突」において世界で唯一日本を一国一文明として分類した。 玄海灘で大陸とほどよい距離を保つ日本列島では俳句どころか絵画、芸能、娯楽、武術、食事、建築、、、ありとあらゆる創作、ものづくりが人口の総力を挙げて展開されたのである。

私事ながら、貧しい農家に生れ娘時代が軍国時代で学ぶべき時に学ばなかったぼくの母は字が書けない。それでも銀行で預金を卸すときには自筆でサインしなければならず、行員の前でおろおろしながらボールペンを握る姿は、わが母とはいえ哀れを誘う。街中に氾濫する外来語の意味など分かるはずもないから彼女にとって今の日本は外国だ。

しかし書けないからといって読めないわけではなく、暇にまかせて新聞をめくるのが彼女の趣味なのだが、彼女の語彙には抽象語がないから右手で開けるページには関心が薄い。新聞は左から読むものと決めているようだ。テレビ欄、三面記事、地元記事と広げ、頭にストックされた日常語で理解できる記事だけ拾い読みしているのだろう。

90歳の老婆を責めるわけではないが、話をするにも抽象語が使えないから、こちらは頭の中にある概念を具象語に翻訳せねばならない。明治期にわれらの祖先が苦心惨憺して造り上げた概念語を捨て、中世のボキャブラリーで再構築して彼女を説得するのはとてもホネが折れ、つくづく小学校の先生のご苦労が偲ばれる。

そのようなわけで彼女は教養とはおよそ無縁の人生を生きて来たわけだが、なんとその母が「俳壇歌壇」欄を愛読していることをつい最近知って非常に驚いた。おかあこれが読めるがかよ?! と思わず声をあげ、韻文とは何かと考え込んだ。

昔は語彙が限定されたから高度な概念も具象語で語る他なかった。「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだ西行の遊行柳は全て日常語で組み立てられている。道も清水も柳も誰だって知っているからこの和歌が読めない人はいない。三十一文字の具象語で綴られた和歌はわれわれを遠い世界に誘い込むのである。

近代の韻文は何でもありの入れ物だが、そうは言っても俳句や短歌は具象語を使うのが基本だから、わが母は読める漢字を拾い上げ、頭の中に日常語で絵を描いているのだろう。自分で作ることはとても出来ないが、他人が書いた短歌をそれなりに読むことはできると知ったので、戦争前後の「昭和万葉集」を贈ってやった。

 

180316記

日本ところどころ③ 四万十川 木造軸組 洪水 ダム

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四万十川沿いにあるお屋敷に招かれたときの一枚。内装これすべて木材とはなんと贅沢なお家であるかと三嘆し、わが家を思い出してはため息をついた。お金がなければできないが、金さえあれば建つというものでもない。ご主人は材木商と聞いて納得した。木造の豪華に比べたら鉄とコンクリートのマンションなんて贅沢の内には入らない。

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このお屋敷は四万十川を訪ねた橋本大二郎月尾嘉男山本寛斎といった方々が常宿にしていたそうだ。有名人だから迎えたということもあろうが、お屋敷の奥様はおれらのような無名の者だって快く入れてくれたから有名無名にかかわらずきっと余所者が好きなのだろう。

高知県幡多郡は東京からの時間距離が日本一長い。なんせ辺鄙な土地だから昔から客人(まろうど→まれびと)がもたらす情報は眩しいほど新鮮であったにちがいない。いま流行りの「おもてなし」はお客様をほんわり包んでしっかり頂く都会的に洗練された言葉だが、土佐の「おきゃく」は打算がない。珍しい話が聞けたらそれで嬉しいのである、と勝手に思い込んでいるが、みんなで散々飲み食いさせてもらって奥様には土産も置かずに別れたことだった。

若いころ一篠大祭で酔っぱらって気がつけば知らないお家で飲んでいたことがある。その家がどこだったか記憶にないから返礼しようがないけれど代わりに何処かで誰かに罪ほろぼしを返せば神様はきっと得心される。それをみんながぐるぐる回せば釣合いがとれるだろうというのが四万十方式なのである。

その素朴で美しい鄙の心を今、都会発の電波が非常な勢いで崩しているが、まだ全部消えてしまったわけではない。嘘だと思うなら都会の皆さま、車を降りて、ぜひご自分の足で歩いてみなされ。あなたが心を開いたら道端で畑を打ったり大根を洗ったりしている田舎のおばちゃんは完全無防備の笑顔を見せてくれる。もちろん中学生もやや例外を除いて高校生だって可愛いものだ。急がねば、、

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屋形船の乗船口に向かう観光客が見ているのは法面に置かれた平成17年9月6日台風14号の洪水痕跡の指標。俄かに信じられないほどの高みにあるが、川が暴れると四万十川は海になる。近頃の台風は時期もコースもわきまえないが、昔の台風は稲に花が咲くころ黒潮に乗ってきた。しとしとと長雨が続きなんか変だなと思っていたらドンと来る。嵐の夜はカッパを着て田んぼの見回りから戻った父が母といさかいを始めたものだ。やがて富士山のてっぺんに気象レーダーが置かれ台風の位置把握はできるようになったがコースの予測精度はゴジラのそれと大して変わらなかった。宿毛市の松田川下流では、土手が決壊し、田んぼの水嵩が増すと、沈んだ稲穂の上を小舟が走った。寝ているうちに背中が冷たくなって目が醒めたという人もいる。

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だからダムが必要だという声には説得力があり現に松田川ダムが完成してから農地が水没したことはないのだけれどダムはよいことばかりではない。水を力で制御する前に森の植林に目を向けるべきではあるまいか。

ぼくが子どもの頃だから昭和30年代のノスタルジーだが、台風で増水した松田川は、いきなり濁水が暴れることはなく、かすかに混濁した青い水が時間をかけて水嵩を増した。工事といってもモッコとツルハシが現役だったから人為的な土砂など知れたもの、山には緑のダムがあり段々畑や水田も保水に一役買ってくれた。

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群馬県八ツ場ダム工事現場下流 2013年春


今は植林の斜面を滑り落ちた水が、重機が引っ掻いた土を乗せて町を襲う。メディアは目前の水害ばかり強調し水の源を訊ねようとしない。行政はこんな酷い目に遭いました。だから災害指定をお願いしますと国に泣きつく。その傍らで堤防を強化しダムを造らねばという土建主体の論理が動く。だが悲しいかな「コンクリートから人へ」という謳い文句を発明し、群馬県八ツ場ダムを停止させた政党も、ダム予算を人手に回して植林の森を再生しようという動きはとらなかった。

1998年9月25日の高知豪雨も2001年9月6日の高知県西南部の大洪水も現場の山を訪ねてみれば問題点は一目瞭然だ。天然自然の森は雨が降ったくらいで傷むものではないが、スギ・ヒノキの森はひどく脆いのである。密植したスギ、ヒノキは根が浅く保水力が弱い。光が届かないから下草は生えず根元は瓦礫でゴツゴツしている。高所の谷間は逆三角形に崩落し、へし折られた流木とともに土石流が本流を狭める。そこに問題の本質があることは誰だって分かるのにテレビも新聞も山に入らないのは何故だろう。

四万十川に憧れ都会から観光にきた人が周辺の森を睨んでそのまま帰ったという悲しい話がある。森の手入れは観光資源としても大切だ。とりあえず間伐に力を入れて欲しい。自治体によっては植林を伐採した跡に広葉樹を植えているところもある。

 

180310記

日本ところどころ② 四万十川 道端アート 法面工事 近自然河川工法

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流れにまかせてオールを漕げば川下りは簡単にできるが、ボートを降りたあとは元の位置まで歩かねばならない。車ですっ飛ばせば短い時間でも足で歩くと時速4~5㎞だから骨は折れるがカメラ片手に道草を食うと色々なものが目に入る。

f:id:sakaesukemura:20190615224329j:plainとある屋敷の入口に壺の絵が描かれていた。門扉の向こうには見応えのある無数の壺が鎮座していたからいかなる御方がお描きになったものかと気にかかり声をかけたがお留守のようであった。カンバスをぐんと拡げた道端アートは度胸と実力がなければできない。台湾の路傍で見た絵画や彫像もプロなみの腕前だった。

f:id:sakaesukemura:20190615224349j:plainおっとこれが正体かと思わず得心した一枚の擁壁。のっぺりしたコンクリートは殺風景だから石を埋め込んだ大判の化粧板だ。環境保全と暮らしの利便を両立させるため、効率よく面積を稼いでそれらしく見せる仕掛けだが満点ではない。

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工事の右手は川である。誰のための化粧かと言えば川を渡る舟客のためだから、

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この擁壁は川に顔を見せている。椎名誠が川沿いの家々は「川にお尻を向けている」と語って長い年月を経た今、少なくとも中流域のこの土木工事において川が主役を取り戻したと言えそうだ。

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自然の山は無理のない曲線が描かれてやさしいが、そこに道路を走らせると不作法な法面が露出する。究極の法面処理はモルタルを吹きつけて荒っぽくやっちまう工法だが、それではあまりに風情がないので最近は流行らない。知り合いの土建業者によるとコンクリートを剥き出しにした工事には認可がおりないそうだ。写真は下部のコンクリートに砕石を張って化粧し、上部に土を残した。時が経つと木が生えコンクリートの格子は緑で覆われる。

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土留めの柱は森の色。錆止めの溶融亜鉛メッキがてらてら光るより見た目にやわらかい。戦後モダニズムは建築のみならずスジ、ヒラバをコンクリートで埋めつくした。新宿の高層ビルから人工物のカーペットを見下ろすと、よくもここまで大地を固めたものだと人間の手の凄さにおそれおののく。暮らしの利便を求め、人のために良かれと信じて行った土木建設ではあるが、何事も度を越すと窮屈になる。たまに田舎から出向いて梅田や新宿のような未来都市を歩くと木陰でおしっこもできない人工空間でひたすら働く都会の皆さまが気の毒になる。

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高知発の土木工法「近自然工法」を提唱した福留脩文社長にお会いしたのは、国土交通省がまだ建設省と呼ばれていた1991年のことだった。そもそも建設とは自然を制御し人間に有用な空間をつくる行為であって岩場に棲むヘビやトカゲのためではない。だから川は水路のごとくコンクリートを張り、さっさと水を下流に送ればよく「ぼくらも昔は川の中央に岩が残されていたら発破をかけて納入したものです」と講演中の福留社長は頭を搔いた。土木とはそんなものだと世の中全体が思い込んでいたから矛盾を指摘する声はあがらなかったが、社長はスイスを歩いて開眼した。
(下のGoogle Map日商プロパン前の海から撮った近自然河川工法の事例)

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川は排水路ではない。子どもが安全に水遊びでき、淵には魚が群れエビやウナギが捕れたら嬉しいではないか。それは土木の目的と矛盾しないという目から鱗の発案が「近自然河川工法」であった。写真は四万十市井沢の国道沿いにおかれた石組み。直線化された護岸に9カ所の巨石の出っ張りを配した護岸工事である。淀みには小魚が泳ぎ、岩の割れ目にはカメもウナギも棲める。工事の跡だから自然ではないが自然に近い土木ではあるという謙虚なネーミングだ。建設省はこれを「親水護岸」と呼び、今となっては至るところで見られる工法である。台湾にも韓国にも伝播した。惜しまれるのは福留脩文社長が近年病を得て逝去されたことだ。葬儀の場には晩年のご労作である近自然工法をテーマとした博士論文が置かれていた。川は流れ、時は去り、いつしか自分もけっこうな年齢になった。

 

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日本ところどころ① 四万十川 川登から赤鉄橋を越えて初崎まで

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土佐の高知と言われてピンと来ない人でもたぶん四万十川は知っている。ぼくの記憶に間違いがなければ四万十川が注目されたのは1980年代に倉本聰がカヌーを漕いでウィスキーか何かの宣伝をしたのが始まりだった。川が流れて鮎が捕れて夏になったら泳いで遊ぶのはあたり前のことだから地元のぼくらは、遠い所からやって来て川に小舟を浮かべて何が嬉しいのだろうといぶかしく思ったことだ。

 

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バブルの余韻も醒めやらぬ1991年、大ちゃんこと橋本大二郎氏が高知県知事に就任した。元NHKのキャスターだからメディアの扱いはお手の物、ツボを押さえて高知の名所名産を売り出す中で四万十川への思い入れは特に強かったらしく、しばしば東京から有名人を招いては四万十川にまつわる討論会を開いた。川を案内された都会の人たちがウナギや川エビを食べて美味かった、ダムがないから上から下までカヌーで下れるなどと嬉しそうに語るのを聞くうちに地元の人も川を見る目が変わってきたように思う。やがて観光客が増え小さなビジネスが始まった。

 

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そのころ市民運動をやっていた仲間が高知市の自由民権館に椎名誠を呼んで講演会を開いた。カヌーで揺られながらオカを見ると川沿いの家はみな「川にお尻を向けていた」という冒険家の言葉が心に引っかかり、いつか自分も、できればウェットスーツで、かなわなければゴムボートで川下りしてやろうと考えた。長い年月が過ぎた昨年、中流域の川登から河口の初崎まで二度に分けてオールを握った。

 

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大雨が降ると水嵩が増して橋桁が沈下するから沈下橋^^! 洪水で沈む橋があってもよいじゃないかという大胆かつ天才的な発案なのだが、補助金の申請で東京に出向いたら官僚にそんな橋があるものかと叱られたという。そこを食い下がってなんとか認可をもらったわけだが、両脇にガードのない一本道を車で渡るのは恐ろしい。台風の日には橋脚に濁流が迫る。進行方向と直角に水が流れるので目が錯覚を起こしハンドルを取られそうになるが、スリルを求めるムキにはお勧めのコースだ。バンジージャンプなみの緊張感が味わえる。

 

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屋形船から中学生に声をかけると、

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落ちる!


地元の子は川の怖さを知っているからまず事故を起こすことはないが、都会育ちでプールの競泳なら自信があるぞという人はむしろ危ない。飛び下りたら充分な深さがなかったというのはとても気の毒だけれど命に別状はないだろう。広々とした瀬をゆっくり漕いでいると川幅が狭まり流れが急になる。蛇行部に強い水流が当たると局所的に渦が発生し、水が下向きに引っ張られたり水面に向けて盛り上がったりする。何かの拍子に淵の複雑な水流に巻き込まれたら水圧で身動きできず上下の感覚もなくなるだろう。滝や堰堤の窪みでは逆巻く水が泡をつくり浮力が得られないところもある。オカから見る長閑な風景とは打って変わって川には人の命を絶つ危険が一杯あるのでライフジャケットは必須だ。かく言う自分も西表島でカヌーからドボンしてカメラと一緒に泳いだことがある。とりあえず息ができて周りが見渡せるライフジャケットがつくづく有り難かった。

 

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2005年に韓国の友人を招いて川下りをしたときの一コマ。旅の企画は、陸路だけでは単調で、間に海や川を入れると喜んでもらえる。窮屈な車内から解放され広々とした水に浮かぶと人は表情がほぐれる。舟ではお弁当を開けたり、七輪でエビやお餅を焼いたり、どさくさに紛れて彼女と写真を撮ることもできる。どんなに大騒ぎしても貸し切りの屋形船なら人に迷惑はかけないから安心だ。

 

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演奏家が小さなトークを挟むように船頭は、窓から顔を入れて川の由来を話したり、投網のエキシビジョンをやってくれたりする。川ビジネスが順調に運んでいることもあってか昨年フロリダからやってきたアメリカ女性を案内したときにも船頭さんは元気一杯だった。儲からなければあの顔はできない。


さて、食べてはしゃいで大喜びで舟遊びを終えた韓国女性がそっとぼくに近づき「船頭があれほど活き活きと働くのはなぜですか?韓国では考えられません」と問うた。韓国は儒教の伝統を引きずる序列の国である。人と会ったら真先に相手の地位と年齢が自分より上から下かを確認せねば話が進まない。日本では身なりは貧相でも凄い実績を持つ人だったりするから迂闊にため口は利けないが、韓国では何より外見が大切で優位に立つには名刺の肩書や服装が大切なツールになる。

かつて友人のツテで韓国の会社社長に現代重工の造船所を部外者秘の倉庫まで案内してもらったことがある。ダメもとで「大型船のプロペラ」を見たいと申し出たところ、カメラは車に置いとけと目配せした社長は、すれ違う人に笑顔を振りまきながら構内を誘導してくれた。あちらこちらで顔が効くので立派な会社の社長さんだろうと思っていたが彼の事務所には女性がひとり居るだけだった。だからどうだと失礼なことを言うわけでは毛頭ないが、自分を大きく見せなければ生きていけない国では名刺の肩書が日本より一つ二つ上がるようだ。

教授と大学生の関係は日本より遥かに強い序列関係で成り立っている。学生間でも先輩と後輩の関係は日本の野球部みたいなところがある。カーリングで銀を取った「メガネ先輩」も日本の先輩とは違うニュアンスを含んでいるのだろう。要するに国中が体育会系だと思えばよいわけで偉い人と先輩には絶対服従である。掟を破るとどうなるかは軍隊で教えられる。だから誰もが常に地位と年齢を意識しているわけだが、すると大統領と村の長老が面会したとき両者はいかに振る舞うべきか、悩みは深いのですよという小話があったりして興味深い。

彼女の質問は、立派な会社の重役でもないのに船頭はなぜあれほど仕事に誇りを持って働けるのか韓国人の私には不思議でならない、ということだった。「職業に貴賤はありません。むしろ外見と本質が異なることもあって麻の服の裏地に絹を使ったりするのが日本の美学なんですよ」とかなんとか説明したように記憶しているが、そんなややこしい美意識が初めて日本を見た彼女に理解できるわけもない。

 

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ぼくと彼女は四万十川をフィールドに小さな文化人類学をやったわけだが、彼女の呟きを敷衍するとややこしい日韓文化論に陥り、反日嫌韓がらみの鬱陶しい現在進行形になる。韓国が兄で日本は弟というあれだ。さりげなく使う日韓という熟語も彼らは必ず韓日と置き換えてくるので仕舞いにはエー加減にせえと言いたくなる。書棚にある渡辺浩と朴忠錫の共著「韓国・日本・西洋」でもやはり韓国が先頭にあるからきっと渡辺先生は共著者に懇願され苦笑しつつ妥協したのであろう邪推してしまう。先に声を掛ける、先にメールを送ることにさえ上下がまつわる儒教の国なのである。昨年某編集長から、かの国に招かれて摺った揉んだがありましたとの生々しいメールを頂いたときぼくは思い当たるフシが一杯あり、同じ思いを共有した悦びから、笑い転げて涙を拭いてやがて悲しくなってしまった。

向こうの人たちと長く付き合ってきたことから退職後は日韓の小さな架け橋になるべく具体的なプランもあったのだが、2011年に東日本大震災があり、2012年に中国で反日運動が燃え、今にして思えば間違いなく中国の動きに連動して李明博大統領が妙なことを言い始めたので、それまでは気にも留めなかった視点から列島と半島の関係を勉強することになった。彼らは半島という言葉さえ問題視する大いなる恨ハンの民族なのである。

日本にいては日本が見えない。ぼくは韓国から日本を見た。その韓国を台湾から見るべくリュック背負ってふらふらと出かけたのが「台湾ひとり旅」でもあった。お隣さんと仲よしの国なんて世界のどこにもないが、台湾もまた「ひとつの中国」問題を抱えた微妙な政治情況にある。だから台湾を見るためには中国を知ることが必要で、韓国→台湾→中国→○○→日本という広大な図式を確認した上で日本に戻るのが理想だが人生は短い。タヒチゴーギャンが「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」と問うたように迷いながらの自問自答を繰り返す他ない。

 

180308記