いっぷく11号 2008016 李登輝元総統へのささやかな追悼 八田与一の烏山頭ダム

 

 

 

 

 

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台湾台南市 烏山頭水庫(ダム) 171019

 

台南市隆田駅で降り、様子見がてらに駅前を歩いていると露店で甘薯ジュースを売っていました。甘薯の茎を機械で絞ると黒砂糖を溶いたような液が出ます。自販機にはない天然の味なので、いつしか沖縄でも台湾でも甘薯と見れば体が引き寄せられるようになりました。

 

烏山頭水庫に行きたいのだが、と地図を片手に身振り手振りで意志を表すと露店のご主人はタクシーを探せとか何とか言っているようでした。地図を見るかぎり歩いて行けない距離でもないようなので、迷っていると、ご主人はやおらバイクを取り出し後ろに乗れと誘ってくれました。

 

 

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走るバイクからシャッターを切ると、

たまたまその夜泊まることになった旅館が写っていました。

素泊まりで2000円ほど、台湾南部は歩きやすいです。171019

 

 

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向こうは稲穂の波、手前は隆田の特産「菱」の沼です 171019

 

1930年に烏山頭ダムが完成し、放水路の動脈から血管のような水路が張り巡らされ、水が配られて農地となるまで、この辺りは旱魃と塩害の荒野でした。

 

 

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北側から見た烏山頭ダム171019

 

ダムと言ってもコンクリートの壁が高層ビルのような高さで視界を塞ぐ重力式ダムではありません。軟弱地盤と地震に対抗するため、堰堤の中心下部にわずかばかりのコンクリートを置き、粘土で遮水し、両脇に落としたシルト、砂、砂利、割り栗石にジャイアントポンプで盛大に放水して固めたセミハイドロリックフィルダムです。

 

堰堤の全長1300mを歩いて見たセミハイドロリックフィルダム☞アースダム☞土堰堤は、高知県北川村魚梁瀬にある巨石がむき出しのロックフィルダムと技術的には似たようなものなのでしょうが、烏山頭ダムは右も左も草の緑が目に柔らかく、何も知らずに堤を歩けば四万十川の土手を行くようなものでした。

 

 

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烏山頭水庫(ダム湖) 案内板の一部171019

貯水部を堰堤側から見ると深海サンゴのように見えるので

通称「珊瑚たん」☞譚のゴン偏がサン水のタン

このワープロは字を知りません(~~

 

標高166mの烏山頭ダムの水は勾配率1%で嘉南の原野に向かいます。166mの高さがあれば計算上16.6㎞下流まで流れるから、濁水渓からの引き水と合わせ、嘉南の原野を1/3潤せます。土地を三分し、3年を1周期として、作物の水要求に合わせ、水稲、甘薯、雑穀と輪作すれば不毛の原野が穀倉地帯に変貌する、、と机の上で考えるのは簡単でも、水路の延長10.000㎞+塩害を防ぐ排水路の延長6,000㎞=16,000㎞(地球をぐるりと廻って40,000㎞)を正確に測量し、工事後ぴたりと水を傾けるのは大変な作業かと、、

 

某工業高校機械科の先生がNC旋盤の前でミクロン単位の切削について述べていました。そこへ土木科の先生が寄って来てオレらは1㎝や2㎝の誤差はどうでもよいと豪快に笑って去りましたが、実はでかいものほど精密作業が要るのかもしれません。なにげなしに歩く道端の用水路にさえ人類の知が詰まっているわけです。

 

 

 

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工事期間中の殉職者、日本人41名、台湾人92名、

計134名の名が男女民族の区別なく記された殉工碑 171019

 

烏山頭ダム関連の総工費を現在のカネに換算すると5000億円ほどになるらしく、わが高知の県予算を軽く超えます。それを34歳の(今の感覚で言えば)若者に託した明治政府の豪気に恐れ入ります。が濃密な生き方をした年齢と人生のリソースを無駄に費やした年齢を同列に語ってはいけないのでしょう。わが人生を振り返ってみますに、文明が過度に進むとヒトが機械に支配され、生の密度が薄くなるように思われてなりません。

 

工期10年を経て1930年に竣工した日に烏山頭出張所所長、八田与一が何を考えたかは分かりませんが、工事期間中の事故で殉死した人々に思いを馳せたことだけは間違いありません。人間に序列を付けることが大嫌いだった八田与一は殉工碑の碑文に事故の時系列にあわせて名を置きました。

 

 

 

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台湾南部恒春

 大地から天然ガスが漏れる「出火」 181027

 

官田渓の水量では不足と見た八田与一は、隣の曽文渓から水を引くためトンネルを掘りますが、工事の途中、油母頁岩から吹き出した石油ガスに引火、爆発し多くの作業員が殉職しました。工事に事故は付きものとはいえ責任者はひどいショックを受けたことでしょう。

 

もしも大工事の竣工後に致命的な欠陥があったとすれば工事担当者の心中や如何に、、高知県佐川町出身の土木家、廣井勇は「小樽港北防波堤」が初めて嵐に見舞われた日に拳銃(匕首だったか?)を持って現場に駆けつけ、もしも堤防が波に打たれて崩れるようなことがあれば死ぬ覚悟であったとか。通常、土木工事に建設責任者が名を残さないのは、名誉より恐怖が先立つからかも知れません。

 

李登輝元総統は、2002年に慶応大学で講演し、烏山頭ダム工事における「中心粘土羽金層」という聞き慣れない専門用語を含め、戦後教育にどっぷり浸かった我々にはいささか面はゆい「日本精神」をもって八田与一の功績を紹介する予定でした。が「私的な訪問とすることは困難」とする外務省がビザの発給を拒んだため講演は幻に終わりました。

 

一帯一路、AIIB、米中貿易戦争、尖閣、香港、台湾と、ここに来て正体を現したやに見える大陸Chinaの強引な政策を見るかぎり、日本国外務省によるビザ発給拒否もまた、「ひとつの中国」に絡む遠い伏線であったことが想像されます。司馬遼太郎が台湾人に「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか?」と問われて応えられなかった理由が、以下の原稿からもうかがえます。

                                                   http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/ri2e.html

 

200816記 つづく

いっぷく10号 200812  李登輝元総統へのささやかな追悼のために 「KANO1931海の向こうの甲子園 」

 

 

 

 

 

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台湾 嘉義市の中心 181027

 

ロータリーの真ん中で

投手ふりかぶって投げましたw

なんでこんなとこで野球やっとん?

 

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と思いながら、何も知らずに嘉義の街を歩いていると

やたらとKANOの文字が目に付きます 181027

 

 

 

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ずんずん歩いて行くとKANO歩道までありました 181027

 

 

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道路脇のパネルには

「すべてはここから始まります」と日本語で書かれ、下に

中国語と英語が併記されています 181027

 

 

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嘉義農林学校 準優勝

 

続くパネルを歩きながら読み込んで行くと最後に1931年8月22日の朝日新聞が貼られていました。嘉義農林学校と中京商業の決勝戦の様子が描かれ「再三の猛襲も遂に空しく嘉義農林力つき敗れる」とあります。1931年の甲子園大会は、アジア太平洋戦争が始まる5年前の全国高等学校野球選手権大会であり、当時は大連や京城の「外地」からも参加しています。その甲子園で嘉義農林学校は準優勝を果たしたわけです。

 

ずっと昔の話ですが、高知県四万十市の中村高校野球部が奇跡を重ねて甲子園の決勝までたどり着き、無念の涙を飲んだことがあります。大会参加は優勝が目的だから負けて悔しいのは当たり前ですが、野球通に言わせると高校野球の理想は甲子園で準優勝することだそうです。勝ってしまえばそれっきり、負けた悔しさが人間をつくり、濃い記憶を残すのだとか、、その意味で台湾と高知の野球部員および何万何十万の応援団は共通の価値を手にしたと言えます。

 

日本人の野球好きは今に始まったことではなく、そもそもbaseballを野球と訳し、今でも使われる打者、走者、死球、飛球といった用語を開発したのは、明治35年に物故した正岡子規というからMLB田中将大が投げ、大谷翔平がホームランをかっ飛ばすまでには100年を超える歴史があったわけです。

 

 

 

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映画「KANO1931海の向こうの甲子園」は2014年に封切られました。制作にあたってはあたう限り史実に即して再現したというから視聴者はスクリーンの向こうに台湾の歴史を重ねて良いのでしょう。本年7月30日に逝去した李登輝元総統は「KANOを見たあと感動のあまり泣いてしまった」そうです。ゲオでDVDを借りパソコンの前に3時間半ほど張りついた自分もそれなりに思うところはあったから、昭和史と共に波乱の人生を歩んだ元台湾総統にとって「KANO」が野球の再現映画にとどまらなかったことは容易に想像されます。

 

                                                                *   *   *

 

以下、台湾理解の一助として、特別対談「李登輝×魏徳聖 KANO精神は台湾の誇り」Voice 2015年2月号から適宜引用します。全文お読みになりたい方はネットをご覧ください。李登輝氏の著作は本屋なり図書館なりで手にすることもできます。

                                                                                       https://ironna.jp/article/1743

 

(李登輝台湾総統)

嘉農が甲子園の決勝に進んだ1931年、私はまだ9歳の子供でした。ただ、台湾から選抜されたチームが甲子園で強豪を次々と破っている、との報道を聞いて、「大人たちに交じって嬉しかった記憶が」あります。

 

(魏徳聖 KANOの映画監督)

当時のチームのエース、呉明捷選手は嘉農を卒業後、早稲田大学に進学し、六大学野球で活躍(通算7本の本塁打記録は、1957年に立教大学長島茂雄選手が8本の新記録を出すまで、20年間破られなかった)。~日本では呉氏がどんな人物だったかを知る人は少なかった。これは意外に思うと同時に、残念に思いました。

 

(李登輝)あなたがいいたいことはよくわかります。戦後の日本人は、台湾と日本の歴史について知らないことが多いですから。

 

(李登輝)司馬遼太郎さんは~二度も「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と問われ、答えに窮してしまった。そんな場面を司馬さんは『街道をゆく 台湾紀行』に書いています。

 

(李登輝)霧社事件の背景には、日本人の台湾原住民に対する民族的な優越感があり、それに原住民が反発したことがあるのは間違いない。

 

(魏徳聖)どうしてこんなにも多くの台湾人が日本を好きなのか、~文化的な考え方が似通っているからだと思います。それはやはり日本が台湾を50年間統治したことによる影響が大きいでしょう。~中国では雪と人間の関係が荒っぽい~日本人は自然とあわせることがとても上手なんですね。雪景色のなかでも、環境に溶け込んで人間らしい愛を発揮している。~ただ日本人は非常に細かい。あれも心配、これも心配。あまりにも小さなことを考えすぎです。

 

(李登輝)日本人はよくいえば、丁寧、悪くいえば,細かすぎる。~家庭内の話なら笑い話で済むかもしれませんが、政治の指導者がそうしたことでは困ります。

 

(李登輝)2014年9月、私が日本を訪問したのは、「これから日本は進路を自分で決める時代が来た」ということを伝えることが目的のひとつでした。安全保障の面に関して、これまで日本はアメリカに完全に委ねた状態だった。「憲法9条があるからこそ、日本は平和を維持している」といった意見も少なくない人々の間に根強くあるようです。しかし60年以上に渡って憲法が一字一句も改正されていないことのほうが、私にはむしろ異常に思えます。アメリカの弱体化、中国の台頭という現実から目を背け、安全保障や憲法の問題を放置したり、無関心でいることは、日本という国の安全を著しく脅かすものだと感じているのです。

 

(李登輝)日本統治時代の台湾では、日本語が強制されていましたから、台湾語は厠に隠れて勉強しました。まだ9歳か10歳だったと思います。そのころ祖父と「論語」の素読をやりました。「先進」篇に「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん(生を知らないで、どうして死を理解できようか)」という言葉があるのを知り、子供ながらにイヤな感じがしたことを覚えています。生を肯定しすぎることは、利己主義や享楽的な人生をめざすことにつながりかねない。他方、日本の武士道は「武士道とは死ぬことと見つけたり(『葉隠』)という有名な言葉が示すように、まず死を前提としたうえで、有意義な生を考える哲学があります。

 

(李登輝)私は日本に対してとても残念に思っていることがあります。東日本大震災のとき、われわれは交流協会台北事務所(正式な外交がない日本と台湾において、大使館の役割を果たす窓口となる)を通じて、すぐに救援隊の派遣を申し出ました。~ところが同隊の被災地派遣に対して日本はすぐに承諾しようとしなかった。日本政府の協力が得られなかったため、同隊は日本のNPOと連携して、自力で被災地に向かうしかありませんでした。なぜ、当時の日本政府は台湾からの民間救援隊の即時受け入れを躊躇したのか。日本の報道によれば、「台湾は中国の一部」とする中国共産党の意向を気にした、とされます。人道的な援助というものは、政治やイデオロギーによって判断するものではない。台湾人としてこれ以上の屈辱、悲しみはありません。

 

(魏徳聖)香港で開かれたある映画祭に招かれたときのことです。会場には中国人や香港人、台湾人、日本人など、大勢のアジア人がいた。日本の代表者が演壇に立ち、東日本大震災の支援に関する感謝を述べたのですが、台湾への言葉はありませんでした。私は聞いていて、とても腹が立ちました。東日本大震災のとき、台湾からの援助は巨額で世界一だったともいわれます。私はその日本人の代表者に抗議しようとする気持ちを抑えるのに必死でした。

 

(魏徳聖)今の日本は台湾から見れば大国です。なのに、なぜ日本は台湾を国として公平に扱ってくれないのか。日本はどこかの国の属国なんですか。どこかの国に管理でもされているんですか。繰り返しますが、われわれ台湾人と日本人は、同じ土地で、同じ時代を生きた経験がある。どうしてそれを日本人はわかろうとはしてくれないのか。私がいま述べたことは少し過激すぎたかもしれませんが。

 

                                                                 *   *   *

 

 

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台湾嘉義市「棒球場」脇のKANO公園 181027

 

 

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ハローウィーンの夜

お姫様のボディーガードは孫悟空です 181027

 

台湾の本屋には日本の漫画が一杯置かれています。もちろん「ドラゴンボール」もあります。高雄の地下鉄駅には、ちびまる子ちゃんだらけのホームもありました。日本アニメのキャラクターを描いた展示コーナーがあったので、写真を撮って某編集長に送ったら、う~ん悪かないけどまだまだかなというシビアな返信をもらいました。が漫画家志望の若い子は頑張っています。

 

現地を歩いて見ればすぐにも分かりますが、台湾人のちょっとした表情や仕種のなかに日本人に対する温かい気持ちを感じます。耳で聴く言葉は分からずとも、目で見る言葉は豊富なビット数をもって迫るので、歩くだけでいろいろなことを感じるものです。それらの多くが李登輝氏の遺産なのかなと思いました。

200812記 つづく

 

 

 

 

いっぷく9号 200809  台湾 太魯閣 清水海岸    

 

 

 

 

 

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台湾は華蓮市の清水海岸 171022

 

ユーラシアプレートフィリピン海プレートがせめぎ合う台湾では、地殻が隆起し、九州ほどの面積の島に3000mを超える山々がドンと立ち上がっています。その山地山脈が台湾を南北に分かつ壁となり、大陸の風が運ぶPM2.5も台湾西部の産業地帯が吐く煙も「ここまでは届かない」らしく心なしか空が青く澄んでいます。

 

澄んだ空から山が落ち「海に突き刺さる」清水海岸には、海面と平行に細い道が伸びています。断崖絶壁を横に走る洞門は、半世紀に渡る日本統治時代に建設されたものです。台湾を一周する回廊をつくるためには、山にトンネルを掘るか、断崖に道を刻む他ない。えいやっちまえと一念発起した日本人が「土地の人々を雇い(強制労働ではなく)ちゃんと給料を払って建設した」のであると案内してくれた民宿のご主人から聞きました。

 

そのむかし堅い岩盤に発破を仕掛け、ツルハシとモッコで貫通させたわけですから大分県中津耶馬渓にある手掘りのトンネル「青ノ洞門」を貫通させた禅海和尚がこの清水海岸をみたら青ざめるかも、、今は通行禁止ですが、事故があっても自己責任ということで観光客に開放してもらえればぜひとも歩いてみたい道です。

 

西は壁、東の窓から青い太平洋を臨む細道の洞門は、日本でいえば親不知子不知の難所のようなものでしょうか。夫を慕い越後を目指した妻が、親不知子不知の難所で2歳の子を波にさらわれたとき、母は「親不知 子はこの浦の波枕 越後の磯の泡と消え行く」と詠んだとされます。その親不知子不知を抜けた市振の宿で松尾芭蕉は「ひとつ屋に遊女も寝たり萩と月」と詠みました。子を失った母の悲しみも、恵まれぬ境遇をかこつ遊女の悲しみも、置かれた立場は人それぞれであるにせよ、すべては世を生きる人の悲しみとして共有され、抽象化され、浄化される詩の力を改めて思います。

 

 

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太魯閣の洞門を行く観光客の列171022

 

ほとんど垂直に立ち上がった山の斜面に清水海岸と同じ洞門が続き、清冽な流水が惜しみなく流れています。地質、地層、地形、火山、、学者には堪えられない場でしょうね。石が読めたら旅の価値は何倍にもなります。

 

 

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太魯閣の洞門 171022

今は整備された観光道路ではありますが、、

 

 

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3000m級の山々から降りてきた水が

絶え間なく磨いた岩石は大きな宝飾品です 171022

 

 

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大理石の宝珠 171022

 

この辺りは大理石の産地です。イタリアの彫像を作るほど良質の大理石ではないらしく公園の舗石や橋の宝珠に加工されています。大理石は石灰石が変成したものであり、石灰石はサンゴが積もって出来たものだから昔々ここは海の底でした。

 

海の底が盛り上がって山となり、山のテッペンでセメントの原料が採れる石灰石鉱床が高知の山にはいくつかあります。仁淀町鳥形山はその代表選手で標高1459mの頂上から須崎湾まで真一文字に鉱路が降りカマボコのお化けみたいな工場に送られます。石灰石といっても生き物が造ったものであり、硬いことでは定評のあるチャートもまた古代の微小生物の集積だそうですからつくづく地球は生命の星だ、不可思議なるいのちの場なのだと、ぼんやり考え込んでしまいます。

 

 

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褶曲層の一部171022

 

世界ジオの室戸岬を思わせる太魯閣のダイナミックな地層は地震がつくったものです。たまたま出会った華蓮市生れの学生とメールの遣り取りをしていたところ2018年2月6日に「華蓮地震」が起き、見舞いのメールを送りました。すると同2018年6月17日に「大阪府北部地震」が起き、今度は向こうから見舞いのメールが届きました。高槻では「マンホールの蓋が浮いた」そうです。地下鉄に閉じ込められた人もいます。コロナにやられて遠い過去のようですが、わずか2年前のことなのですよね。Google mapの海洋地図を見ているうちに日本と台湾はプレートの縁でつながっていることが分かりました。

 

 

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海からさほど遠くない太魯閣の峡谷 171022

 

海岸から車でものの30分ほど走れば険しい山岳地帯に行き着きます。日本なら標高1500mの上高地あたりの雰囲気で、山は縦に伸び、仰げば今しも崩れ落ちそうです。Chinaの詩人が遊びに来たら峨々タル峰々がどうとかして空谷ノ冷気が云々という詩が生まれるかも、、

 

 

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太魯閣 171022

 

高知県四万十川を叙して悠々たる大河がどうしたこうしたと県外のヒトは嬉しいフレーズを使ってくれますが、その川を2日かけてゴムボートで下ったぼくとしては、大河の河の字は黄河揚子江を指すのであって四万十川はどう見たって川やなと思うわけです。インドの聖地バーラーナシで見たガンガーの対岸は遥か向こうに霞んでいました。デカけりゃ立派だというわけではありませんが、あっちが国際河川なら、こっちは市町村際河川とでも、、

 

タイは南北に長く面積は日本の1.5倍ほどあります。2011年に北タイで大雨が降り、チャオプラヤ川が氾濫し、洪水はバンコクまで押し寄せました。若き美人のインラック首相は悲しみの余り目の縁に光るものがあったとみえ「あなたは泣いているのか?」と記者の冷たい質問を受けたとか、、2018年にバンコクからアユタヤを越え北タイはチェンライまで列車と車で走った感覚で言えば、タイの川はとても長い。水がどっちへ向いているかは見れば分かるが、中部から北部まで列車で2日もかかるのだから土地は平たい。首相を泣かせた大洪水が3カ月に及んだことも分かるような気がしました。

 

明治期に日本に来た欧州の土木技師が、富山県常願寺川だかを見て「これは川ではない滝だ」という名言を吐きました。大雨が降ればすぐさま河口が濁流になる高知県に住んでいると特に違和感のない発言ですが、山もいろいろ川もいろいろ、地形も風土も違えば、住む人の暮らしもいろいろなのでした。

 

 

 

追記

うろ覚えで引用したもののどうも不安だから適当に用語を入れてネット検索したところ農水省のホームページにヨハネス・デ・レーケなる土木技師に関する記述がありました。「これは川ではない、滝だ」という有名な言葉は実は富山県知事が事業獲得のために書いた上申書の一文、

 

「70有余の河川みなきわめて暴流にして、山を出て海に入る間、長きは67里、短きは23里にすぎぬ。川といわんよりはむしろ瀑と称するを充当すべし」

 

という、ぶっちゃけて言えばお役人様の作文なのでした。「むしろ瀑と称すべし」と日本人が言ってもパッとしないので他でもない政府が招聘したオランダ人技師の言葉であるぞと権威付けしたのでしょう。1990年代の初め高知の土木技師が建設省とやりとりしていた風景を思い出して妙に懐かしく思いました。

 

高知の山奥にオランダからやって来た紙漉き職人がいます。紙漉きで有名な高知県いの町で修行し、水を求めて山間部の梼原町に居を構えました。「あんた何で日本にやってきたの?」「山があるからだ」「ヨーロッパだって山はあるじゃん?」「いやオランダには高い山がない」ということで調べてみるとオランダの最高峰はベルギーとドイツに接した海抜322mのファールス山なのでした。山どころか国の相当面積が海面下にあるオランダ☞ネーデルランド☞低地の国は、水を掻き出す風車の国でもあります。

 

彼が住む梼原町の山間には標高1500mほど峰が連なって見えます。そこに発電用の風車が立ちました。「あれをどう思う?」って訊くと「ぼくはオランダ人だから風車は好きだ。だけど、」「だけど何なん?」「あの山には神様がいた。だけど今はいない」のだそうです。「風車が回り始めて山が小さくなった」とも、、

 

思いますに彼が言うところの「今はいない神様」は、西洋の神ではなく、万物に寄り添う日本の神々なのでしょう。一神教の神様はよく分かりませんが、千万八百万の神々のことなら自信を持って言えます。そこから反転し、神を捨て、宗教を失った国家がどのような運動を見せるかについて今ぼくは深刻な関心を抱いています。

やっとW10 が動きました(^^

200809 記   つづく

 

こまった号 200805 お釈迦パソコン

 

 

 

 

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高知県土佐市にある標高340mのテイクオフ基地から撮った絵です。ええなあオレもあんなことしてみたいなあと思いながらスマホでシャカシャカやりました。

 

 

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エンジンなしのパラグライダーに揺られ🦅鳥の目で見る大地ってどんなでしょうね。

 

 

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この日のために山形県からやって来た若い女性は、渡りの鷹のように円を描きながら1400mまで上昇し、お空の点から無線で連絡してきました。

 

 

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悟空との闘いに向けて

風を待つセル!

 

パラグライダーが主流ですが、ここは高知ハングライダー倶楽部なので、吊り輪の水平姿勢で飛ぶヒトもいます。

 

 

さて突然パソコンが真っ暗になって、うんともすんとも言わなくなりました。「いっぷく号」はお休みします。何とかならんのかと某編集長に問い合わせたところ12年も使った年寄りだから諦めろとつれない返事をもらいました。モノは壊れるヒトは死ぬ、サヨナラだけが人生だとどっかで聞いた文句がアタマをよぎりました。

200805 記 つづく

いっぷく8号 200802 台湾 阿里山 昭和新山 羊蹄山 百名山ひと筆書き

 

 

 

 

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台湾嘉義市の森林鉄道181029

出発前の記念撮影があちらでもこちらでも

 

「おはよう。ありがとう。あんたきれいね」の三語を知っていれば世界のどこを訪ねても生きて帰れるそうです。SNSに人物写真を置くことは常に警戒していますが、ここはひとつ「あんたきれいね」ってことでご勘弁くださいな。たまたま切符が取れた人気の森林鉄道に乗って阿里山の麓に向かいました。

 

 

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阿里山の手前にある奮起湖駅181029

 

小枝が窓を打つ鉄路を明治大正的な速度でたどり着いた奮起湖駅にはChina語とEnglishと日本語の表記がありました。日本国内ならどこにでもあるKorea語がないのは台韓関係に問題があるからでしょうか。両者とも日本にとっては微妙な歴史を背負う国であり、こちらは親日あちらは反日とややこしいのです。あちらの国の人たちとは長くお付き合いしてきたので、散々考えてきたことをいつの日か文字で整理したいとは思っていますが、ここにきて大きく左傾化ないし先祖返りしそうな今はまだちゃんとした言葉が掴めません。

 

 

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海抜1403mの奮起湖駅 181029

 

奮起湖の湖は盆地の意、弁当で有名な駅だそうです。メシ食って奮起せよってことでしょうか。この山の向こうに新婚さんの聖地=阿里山があり、その向こうに台湾一の高峰=玉山があります。

 

台湾は九州とほぼ同じ面積ですが、山地山脈が連なる東部の背骨には標高3952mの玉山を頂点に、富士山より高い山が7座、3000m級の山が253座もあります。玉山は明治天皇によって新高山命名され日本統治時代には日本一高い山とされました。昭和天皇の時代に「ニイタカヤマノボレ1208」という暗号が発せられたことは余りにも有名です、、とネットで拾ったネタを並べるとなぜか白々しい作文になりますネ。

 

「山高きが故に貴からず」の伝でいえば、秀峰を高度だけで説明するのは片手落ちです。本栖湖精進湖あたりから見上げた富士山は、葛飾北斎が描いた赤富士ほど尖ってはいないものの裾野から頂上まで山全体が目の前に広がる独立峰の迫力があります。雲つく巨人が両の掌ですくい上げた土を高いところから少しずつ落して綺麗な円錐形を作ったかのごとくです。

 

 

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羊蹄山 141023

 

富士山に似た成層火山は、香川県の讃岐富士、山形秋田の鳥海山青森県岩木山、北海道の羊蹄山と全国いたる所、また世界各地にあります。そんなことは何も知らない若いころフェリーで小樽に入り、400㏄のバイクで走っていると突然、富士山が現れ、何でここに!? とアタマの理解が戻るまで目をこすったことを覚えています。

 

 

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ある日、麦畑に生えてきた昭和新山 141024

 

御嶽山が噴火した2014年の秋、北海道は昭和新山からロープウェイで有珠山に上がり、火口をぐるりと廻る遊歩道をたのしく歩いていると地元テレビ局の取材を受けました。「怖くないですか?」と訊くから、こんなに美しい景色の中で何を怖がるのだろう、、「御嶽山があんなことでしたが?」御嶽山の噴火は知っているけどここは関係ないじゃん、、と質問の意図が分からぬまま適当にはぐらかすと肩に置いた大型ビデオでこちらを狙っていたクルーはガッカリした様子でした。

 

 

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有珠山火口 141024

 

忘れもしない2011年3月11日、北米プレートと太平洋プレートの境が東北沖でずれました。その3年後の2014年に起きた御嶽山の噴火は、ひょっとすると3.11に刺激されたからかも知れません。するとここ有珠山も危ないわけで、テレビ局のみなさんは、ぼくが「怖いことは怖いけれどせっかく北海道までやって来たのだから、、」といくらか緊張した面持ちで返答してくれたら絵になるがと期待していたのかも、、が愚かにもぼくは有珠山が2000年に噴火したことを知らなかったのでした。

 

鹿児島県霧島の新燃岳は2011年1月19日に「空振を伴った小規模なマグマ水蒸気噴火」を起こし、2月1日には「愛媛県高知県でも家屋の振動が報告された*wiki」とあります。日本ジオパークの指定を受けた神奈川県箱根は2015年に大涌谷で小規模噴火を起こし、2016年には熊本県阿蘇中岳が噴火しました。新燃岳では2017年、2018年と噴火が続き、鹿児島県桜島はしょっちゅう噴煙を上げ、東京都小笠原西之島は今も噴火、拡大を続け、、プレートの境が4つも集まった日本列島は地殻変動にさらされた天災の島でもあります。

 

しかし悪いことがあれば良いこともあるわけで、日本列島の地形は変化に富み、登山家を興奮させる山岳は生涯をかけても登りきれないほどあります。「日本百名山ひと筆書き」をやってのけた若き登山家、田中陽希は今「日本三百名山ひと筆書き」に挑戦しています。ひと筆書きだからバスやヒッチハイクは禁止、大隅海峡津軽海峡カヤックで渡らねばなりません。

 

テレビの前に寝そべって、ようやるわと呆れながら、思いますに氏はヒトが筋肉を使ってどこまでやれるかというスポーツの原則に一人で挑戦しているのでしょう。旅の支度だけでも大変なことだろうと推察しますが、体力と精神力を集中し、「日本百名山」の深田久弥も知らなかった新世界を今日も歩いています。いらんことですが、わが座右の愛読書「ドラゴンボール」は筋肉とハンドパワーの物語です。あの闘いでインチキな機械力を使った日には即刻、読者に愛想つかされるでしょうね。

 

この段「ひと筆書き」で台湾をやっつける予定でしたが、

紆余曲折したのでいったん置きます。

200802記 つづく

 

 

 

追記

通常の登山家は短期決戦で高い山を狙いますが、「ひと筆書き」で300もの山を渡るとなるとマラソン+旅の要素も入ります。あの体力ならきっと踏破してのけることでしょうが、嵐の夜の山小屋でふと行為の意味を見失い、オレはいったい何をしているのだろうと空虚感を覚えることだってありはしないか、ひとりぼっちの夜中にSNSの大笑いとはちがう表情で考え込むことだってあるだろうし、その孤独をどうやって紛らわすのか、ぼくなどむしろそこに興味があります。ともあれ「ひと筆書き」で300だなんていう登山は人類初の挑戦にちがいありません。オリンピックは消えたことだし、MLBも遠からず中止になるかもしれない。怪我せずに終いまでやってくれと祈ります。

 https://www.greattraverse.com/project

いっぷく7号 200730  室戸の浜木綿 高知商業高校校歌         

 

 

  

 

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今が満開の室戸の浜木綿ハマユウ 200716

 

浜木綿のことを何も知らない人が、道端の白い花に目を留めるかどうか、それを美しいと感じるかどうかはやや疑問が残ります。しかし柿本人麻呂の歌を知っている者なら、花の向こうに歌を思い、歌にこと寄せて花を振り返ることでしょう。

 

       み熊野の浦の浜木綿百重なす

                   心は思へどただに逢はぬかも   柿本人麻呂

 

熊野は今でも神々のふるさとです。その熊野の渚で花びらがもつれて百重に咲く浜木綿のように貴女と別れてきた私は、心が乱れ、逢いたい気持ちを抑えきれない。だけど貴女はいない ☞ 逢いたいよぉ~と叫ぶ、いかにも万葉的、直截簡明な歌い振りです。手紙に添えて百重なす愛をもらった女性がどう応えたかは万葉集に残されていませんが、よほどツンツンした女でないかぎり心は騒いだであろうと思われます。

 

 

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雨上がりの浜木綿 200716

 

長歌を得意とする人麻呂は、遠く離れた妻に向け「玉藻なす寄り寝し妹を露霜の置きてし来れば」長い黒髪が水に靡くように寄り添って寝た妻と別れて来たのだけれど「夏草の思い萎えて偲ふらむ」残された妻は、夏草が日差しを受けて萎れるように嘆いているにちがいない ☞  逢いたいよぉ~ 「妹が門見む靡けこの山」と山川草木を巻き添えに、我が思いよ、届けと命令形で愛を送りました。

 

 

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開き始めた花びら 200716

 

一方、謎の人物でもある柿本人麻呂には島根県、石見の国で刑死したという古代史を揺るがす説もあります。梅原猛「水底の歌」の低音部である柿本人麻呂「刑死説」に従うなら襟を正してこの長歌に向かわねばなりません。

 

挽歌=柩を挽く歌は人麻呂の最も得意とする分野です。歌は文体の音楽であり、その音楽を死を待つ自らのために作ったと仮定し、それを西洋の音楽家に譬えるなら、低音部の重奏で始まるモーツァルトの鎮魂歌が似合うのか、あるいは映画「地獄の黙示録」で使われたワーグナーワルキューレが、死を下した者への怨念さえ伺われ、もっと相応しいのかなと思ったり、、むかし人麻呂のことを考えていた時期があるので空想はとめどもなく広がります(^^!

 

ともあれ柿本人麻呂が冒頭に置いた和歌を詠まなかったら、ぼくは浜木綿の花に気を留めることはなかったでしょう。詩人とは発見者であり、われわれは詩人の発見に気付かされて美しいものに目を向けるとしたものだからです。

 

 

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荒磯に咲く浜木綿 200716

 

昔のことになりますが1994年の甲子園を賭けた決勝でわが母校、高知県宿毛高校が勝ってしまいました。地元は有史以来の大快挙に湧き、費用の件は直ちに片づきましたが、ひとつだけ問題が残りました。宿毛高校は元女子校であり「香りも高く荒磯に浜木綿の花咲くごとく」ゆるいメロディーに乗せられた浜木綿の花がやさしく歌われます。もしも甲子園で一勝すれば日本中に女子校の校歌が流れる。それは闘いを終えたばかりの甲子園に相応しいのだろうか、カッコわるいのではないだろうか、今からでも遅くない新しい校歌に変更してはどうかという情けなくも悲しい議論があったそうです。

 

あくまで私感ながら勝利を告げるサイレンのあと汗まみれの選手が、青空に向け、大声で歌って最高にカッコいいのは高知商業高校の校歌です。

 

鵬程万里果てもなき → 大陸的ホラで綴られた荘子

建依別の益荒男 → 古事記にあらわれた土佐の男ども

フェニキア人 → レバノン杉で商船を造った地中海の民

イギリス人 → 七つの海の支配者

ヘルメス → ギリシャ神話の商の使い

https://www.youtube.com/watch?v=BbIXQmVgwsQ

 

すり鉢一杯の大観衆の前で、涙にむせぶ黄色い声に包まれ、世界の英雄たんをかき集めた校歌が歌える奴は幸せだ。レバノンのゴーンも来て歌え。おれも若い頃そのような熱気に包まれて歌いたかったと戻れぬ過去に思いを馳せるのでした。それはさておき我が母校にはホームランの一本もカッ飛ばし、浜木綿の花咲く元女子校校歌を堂々と歌ってもらいたかったのですが、そう簡単に一勝が得られる場ではないのでした。

 

やっと梅雨が明けました!

被災者また大都市にお住まいの皆さまには

どうか健康にお気をつけください

200730記 つづく

 

 

いっぷく6号 200727 室戸世界ジオパークから台湾へ  

 

 

 

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室戸岬 200717 

 

地学が得意な知り合いに「29,000年前に姶良カルデラが大噴火し火山灰が高知県宿毛市に20mも積もったらしい。その調査地を知りたいのだが」と問い合わせたら「そんな新しい時代のことは知らない。高知大学の司書にでも聞いてくれ」とそっけない返事をもらいました。29,000年前といえば弥生も縄文もすっ飛ばし、園山俊二の「ギャートルズ」が石器でマンモスを追いかけていた時代です。何でそれが「新しい時代」なのかと首をひねりましたが、どうやら彼は29,000+000年あたりの地質を勉強したらしく、いってみれば昭和史の研究家が、縄文の壺に意見を求められたようなことだったのでしょう。石を叩いて難しい顔をする人は、おれらと違う時計を持っているようでした。

 

 

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室戸岬 200717 

 

ところがここ室戸岬の世界ジオでは2800~1000年前の時間の推移が目に見えるのです。弥生時代の稲作や平安時代のお姫さまの恋なら小学生でも知っています。ヒトの暮らしと石の歴史が重なるのは凄いことではないでしょうか。1200年前に室戸岬の洞窟で修行した空海は、丸い入り口の向こうに水平線を見たはずですが、それから現代までのわずかな期間に大地が隆起したので、21世紀の観光客は空海より高い位置から海を眺めることになります。

 

 

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海風に煽られて背を曲げる海岸林のような岩 200717 

 

 

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隆起する室戸岬の渚 200717

 

元はといえば海の底で、泥が降り積もって石になり、プレートの圧力に押されて隆起し、立ち上がり、ねじ曲がった奇岩怪石は、見る人の心に合わせて空想世界を広げてくれます。ここにギリシャの詩人が降りてきたら、嫉妬に狂った怪力の女神が髪を振り乱して暴れ回った跡であるとか何とか、それらしい物語を創るかもしれません。

 

 

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岩にへばり付いたヤッコカンザシの巣跡 200717

 

 

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上と下にヤッコカンザシの巣跡がある岩 200717

 

岩の上部にヤッコカンザシの巣があり、下部にもありますが、その間には何もありません。その何もないところから大地の隆起を推測した説明が下の看板です。フツーの人ならさっさと歩いてしまうところですが、その道の専門家というのは大変な想像力をもって地層を見ているのだと改めて感心しました。

 

 

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室戸岬 200717

 

実はこのヤッコカンザシをイバラカンザシと思い込み、海に潜って撮り溜めた写真を探していたのですが、珊瑚の海で小さな傘を広げるイバラカンザシとヤッコカンザシは別物でした。けっこう手間かけたのにばからしや(~~ です。

 

 

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褶曲層に置いた太魯閣タロコのキーホルダー 200717 

 

木の年輪のように薄い層を確認するためポケットに入っていた民宿の鍵を置いたところ、宿のご主人がジオの関係で見学にでも行ったのでしょうか、台湾東部の地質的名勝☞華蓮市は太魯閣のキーホルダーが付いていました。Google Mapを開くとフィリピン海プレートがつくる海溝が、室戸沖から琉球弧を経て、台湾東部の華蓮市にぶつかります。言うまでもなく三者の共通点は地震津波です。

 

 

 

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やっと見付けた29,000年前の火山灰の調査地 200723

 

 

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背後の山は、地下ジゲのものなら誰でも知っているテレビ塔 200723

しかしなぜ宿毛市錦西谷川河口が選ばれたのか分からないので、

苦労した割にはイミがないような、、

200727記 つづく

 

 

 

 

 

 

高知の今

 

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高知市春野の田んぼエスカルゴ☞田螺です 200715 

 

 

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稔り始めた稲田の黄色い標識 200715 

 

今どきの日本にはどこにでも猪がいて

刈り入れ間際の田んぼでシシ祭りをやられると

一晩でめちゃくちゃになります

やむを得ず置いたシシ払いの電気柵ですが、むかし

うっかり牛の電気柵に触っていっぺん懲りの条件反射が付きました

アタマは逃げろと言いますが、体が反応しないのです

濡れた上半身で触れると非常に危険です

 

 

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田の神様 200715