いっぷく11号 2008016 李登輝元総統へのささやかな追悼 八田与一の烏山頭ダム

 

 

 

 

 

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台湾台南市 烏山頭水庫(ダム) 171019

 

台南市隆田駅で降り、様子見がてらに駅前を歩いていると露店で甘薯ジュースを売っていました。甘薯の茎を機械で絞ると黒砂糖を溶いたような液が出ます。自販機にはない天然の味なので、いつしか沖縄でも台湾でも甘薯と見れば体が引き寄せられるようになりました。

 

烏山頭水庫に行きたいのだが、と地図を片手に身振り手振りで意志を表すと露店のご主人はタクシーを探せとか何とか言っているようでした。地図を見るかぎり歩いて行けない距離でもないようなので、迷っていると、ご主人はやおらバイクを取り出し後ろに乗れと誘ってくれました。

 

 

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走るバイクからシャッターを切ると、

たまたまその夜泊まることになった旅館が写っていました。

素泊まりで2000円ほど、台湾南部は歩きやすいです。171019

 

 

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向こうは稲穂の波、手前は隆田の特産「菱」の沼です 171019

 

1930年に烏山頭ダムが完成し、放水路の動脈から血管のような水路が張り巡らされ、水が配られて農地となるまで、この辺りは旱魃と塩害の荒野でした。

 

 

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北側から見た烏山頭ダム171019

 

ダムと言ってもコンクリートの壁が高層ビルのような高さで視界を塞ぐ重力式ダムではありません。軟弱地盤と地震に対抗するため、堰堤の中心下部にわずかばかりのコンクリートを置き、粘土で遮水し、両脇に落としたシルト、砂、砂利、割り栗石にジャイアントポンプで盛大に放水して固めたセミハイドロリックフィルダムです。

 

堰堤の全長1300mを歩いて見たセミハイドロリックフィルダム☞アースダム☞土堰堤は、高知県北川村魚梁瀬にある巨石がむき出しのロックフィルダムと技術的には似たようなものなのでしょうが、烏山頭ダムは右も左も草の緑が目に柔らかく、何も知らずに堤を歩けば四万十川の土手を行くようなものでした。

 

 

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烏山頭水庫(ダム湖) 案内板の一部171019

貯水部を堰堤側から見ると深海サンゴのように見えるので

通称「珊瑚たん」☞譚のゴン偏がサン水のタン

このワープロは字を知りません(~~

 

標高166mの烏山頭ダムの水は勾配率1%で嘉南の原野に向かいます。166mの高さがあれば計算上16.6㎞下流まで流れるから、濁水渓からの引き水と合わせ、嘉南の原野を1/3潤せます。土地を三分し、3年を1周期として、作物の水要求に合わせ、水稲、甘薯、雑穀と輪作すれば不毛の原野が穀倉地帯に変貌する、、と机の上で考えるのは簡単でも、水路の延長10.000㎞+塩害を防ぐ排水路の延長6,000㎞=16,000㎞(地球をぐるりと廻って40,000㎞)を正確に測量し、工事後ぴたりと水を傾けるのは大変な作業かと、、

 

某工業高校機械科の先生がNC旋盤の前でミクロン単位の切削について述べていました。そこへ土木科の先生が寄って来てオレらは1㎝や2㎝の誤差はどうでもよいと豪快に笑って去りましたが、実はでかいものほど精密作業が要るのかもしれません。なにげなしに歩く道端の用水路にさえ人類の知が詰まっているわけです。

 

 

 

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工事期間中の殉職者、日本人41名、台湾人92名、

計134名の名が男女民族の区別なく記された殉工碑 171019

 

烏山頭ダム関連の総工費を現在のカネに換算すると5000億円ほどになるらしく、わが高知の県予算を軽く超えます。それを34歳の(今の感覚で言えば)若者に託した明治政府の豪気に恐れ入ります。が濃密な生き方をした年齢と人生のリソースを無駄に費やした年齢を同列に語ってはいけないのでしょう。わが人生を振り返ってみますに、文明が過度に進むとヒトが機械に支配され、生の密度が薄くなるように思われてなりません。

 

工期10年を経て1930年に竣工した日に烏山頭出張所所長、八田与一が何を考えたかは分かりませんが、工事期間中の事故で殉死した人々に思いを馳せたことだけは間違いありません。人間に序列を付けることが大嫌いだった八田与一は殉工碑の碑文に事故の時系列にあわせて名を置きました。

 

 

 

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台湾南部恒春

 大地から天然ガスが漏れる「出火」 181027

 

官田渓の水量では不足と見た八田与一は、隣の曽文渓から水を引くためトンネルを掘りますが、工事の途中、油母頁岩から吹き出した石油ガスに引火、爆発し多くの作業員が殉職しました。工事に事故は付きものとはいえ責任者はひどいショックを受けたことでしょう。

 

もしも大工事の竣工後に致命的な欠陥があったとすれば工事担当者の心中や如何に、、高知県佐川町出身の土木家、廣井勇は「小樽港北防波堤」が初めて嵐に見舞われた日に拳銃(匕首だったか?)を持って現場に駆けつけ、もしも堤防が波に打たれて崩れるようなことがあれば死ぬ覚悟であったとか。通常、土木工事に建設責任者が名を残さないのは、名誉より恐怖が先立つからかも知れません。

 

李登輝元総統は、2002年に慶応大学で講演し、烏山頭ダム工事における「中心粘土羽金層」という聞き慣れない専門用語を含め、戦後教育にどっぷり浸かった我々にはいささか面はゆい「日本精神」をもって八田与一の功績を紹介する予定でした。が「私的な訪問とすることは困難」とする外務省がビザの発給を拒んだため講演は幻に終わりました。

 

一帯一路、AIIB、米中貿易戦争、尖閣、香港、台湾と、ここに来て正体を現したやに見える大陸Chinaの強引な政策を見るかぎり、日本国外務省によるビザ発給拒否もまた、「ひとつの中国」に絡む遠い伏線であったことが想像されます。司馬遼太郎が台湾人に「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか?」と問われて応えられなかった理由が、以下の原稿からもうかがえます。

                                                   http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/ri2e.html

 

200816記 つづく