ひとり旅 221008 バイク編 (その1 積丹半島 泊原発 上小阿仁村 五島列島 対馬

 

 

 

 

 

積丹半島からニセコ方面を望む 2022.07.25

 

中央のドームは泊原発。その奥に青く盛り上がった山が羊蹄山。若いころ何も知らずにカワサキGPZ400㏄で走っていると目の前に美しい富士山があらわれました。なんで北海道に富士が?と一瞬わが目を疑いましたが、富士によく似た山体は香川の讃岐富士、青森の岩木山など各地にありますね。ただし山梨と静岡を頂上で分ける本物の富士山は別格で、あれほどのスケールでどんと立ち上がった独立秀峰は世界的にも稀でしょう。

 

その青い山並みの右手に寿都町があります

高レベル放射性廃棄物の最終処分地として

手を挙げた自治体です

 

事の始まりはわが高知県津野町(旧東津野村)でした。当時ぼくは隣の梼原町で暮らしていたので、四万十川の源流域にトンネルが掘られ、トレーラーが行き来し、鉄条網で囲われた敷地の地下300mまで立坑が掘られ、そこを基点に水平坑道が蜘蛛の巣のように広がり、万年単位の半減期をもつ放射性廃棄物が寝かされるのはゾッとしない話だと思っていました。強力な放射線発生源を持ち込まれて嬉しい自治体はどこにもありません。そもそも未来永劫に渡って放射線を発する高レベル放射性廃棄物に「ゴミ」という日常語を被せ「核のゴミ」などと誤魔化すのはやめ、もっときっちりした議論をしてくれんかなと思ったことです。

 

とてもゴミとは呼べない廃棄物をわれら高知の津野町が受け入れようとするのはなぜか? 「いずれどこかが受け入れねばならない」「国の為だ」とする論法でした。そう言われると反論は難しいのですが、当時の高知県知事橋本大二郎氏は「それほどまでに国を思うのであればカネの話はするな」と一喝して誘致論は終息しました。「クニの為」「カネの為」と語ればキリがない二元論をひとことで断じた哲学に圧倒されました。

 

これで高知の処分地問題は終わりかなと思っていると海沿いの東洋町でまたぞろ鎌首をもたげました。過疎の町を二分する原発選挙の結果、反対派候補が当選し、誘致問題は消滅しましたが、その過程で処分地とは別の軋轢もあったようです。後日某紙記者の取材に同行したとき橋本大二郎知事は新町長を評し「人格的に問題がある」云々きつい表現をしたことを覚えています。選挙のテーマは原発だけ行政経験も政治哲学も薄い候補ではあったようです。

 

 

核廃物誘致地図 ネットより

 

意図したわけではありませんが上記地図のほぼ全てをバイクで走りました。走ったからといって何が見えるわけでもありませんが雰囲気は感じられます。自然が豊かな田舎とりたてて産業のない過疎地域といったところが核廃物誘致の共通項でしょう。▼かつて学校にまで押し寄せた原発安全神話とは裏腹に東京周辺に誘致の動きがないのは、まあ大人の気持ちとして分からないではないですけど…

 

 

秋田県上小阿仁村  2022.07.22

 

杉と緑の田んぼに囲まれ

交通量の少ない道をトコトコ行くのが

原付バイクの醍醐味です。

 

よそ者には、この村で暮らせるのだから

幸せなことじゃないのって思われるのですけれど

どこに住んでもヒトの心に不満が尽きなければ

解決にはカネが要ります

 

 

五島列島ルルド  2020.08.25

 

マリア様は新上五島町に処分場

誘致論があることをご存じでしょうか

 

ちなみに故高木仁三郎氏は

核物質は廃棄できないので「核廃物」と呼ぶべき

埋めると核管理上の問題が残るから

地上に置けとの持論を展開していました

 

北海道幌延の「幌延深地層研究センター」では地域との3つの約束と称し「研究区域に放射性廃棄物を持ち込むことはしません」「研究終了後は地下施設を埋め戻します」「最終処分場とせず中間貯蔵施設も設置しません」とあります。地域との堅い約束に守られて地下埋設処分の研究を行っているわけですが、では既に発生した核廃物をどこに置けばよいのか?

 

 

対馬 ツシマヤマネコ  2022.10.01

 

原発に併設した貯蔵場は限界が見えてきた。海に捨てるわけにも宇宙へ放り投げるわけにもいかない。かつて大前研一氏は広大なロシアの大地に置かせてもらえないかと発案しましたが今となっては相手にしてもらえないでしょう。モンゴルの強固な岩盤に置かせてもらうという密約説もありましたが、毎日新聞のスクープ後にポシャったらしく続報をみません。

 

2022.10.08記 つづく

 

 

ひとり旅 221002   大型バイク編(2 イージーライダー ウラジーミル・プーチン 高市早苗

 

 

 

 

イージーライダー」 ネットより

 

ヤクザっぽい兄ちゃんが鼻で白い粉を吸い、長いフロントフォークのバイクに跨がって大地を行く映画「イージーライダー」が封切られたのは1970年のことでした。当時はベトナム戦争の最中であり、地球の裏側の知らない国との戦争に駆り出されたアメリカの若者が「ウッドストック」で大規模な野外コンサートを行い、反戦・反体制を唱えたのはその前年1969年の出来事でした。

 

 

今なお残るラオスの爆弾池 Photo/Stephan Wilkes    日経新聞より日付不明

 

ベトナム戦争において最も多く爆弾が投下されたのはラオスです。ホーチミンルートを塞ぎパテトラオを攻撃するため「空爆回数58万回、落した爆弾200万トン」⇒ラオス人1人あたり1トンになるというから無茶苦茶です。

 

 

ラオス北部メコン川の宿場町ムアンパークベンにて 2018.09.27

 

緑の館入口の柱は二つに割った

不発弾が支えていました

 

米ソ冷戦の代理戦争の場とされたインドシナ半島は有り余る軍事物資の捨て場であり、自由の国アメリカの若者が自身とは関係のない戦争に駆り出され5万人ほど命を落としました。怪我人は死者数の数倍に及びます。

 

 

Harley-Davidson Lehman Trikesを駆る

プーチン大統領  ネットより

 

2010年クリミア半島セヴァストポリ

ウラジーミル・プーチン(当時首相)が

バイク仲間の先頭を切った

 

それにしてもこの写真はうまい!

イージーライダー」を想起させる左端の

長いフロントフォークが絵に速度を与え

野郎の背中にロシア国旗が流れて

視線はプーチンの顔に誘導されます

 

漫画「ワイルド7」で見たような

三輪車(Trikes)が爆音を轟かせ

男が夢みる勇ましさを演出していますネ

 

ロシア大統領ともあろう者がハーレーダビッドソンに乗ってはいかんやろと思いますが、今から12年前、世界が平和に包まれていたころの風景だから「まあ堅いこと言うなよ」と言ったかどうかは知りません。一説にプーチン大統領カワサキを隠し持っていたそうな⇒川崎重工が母体のカワサキは、他3社と微妙に異なり、無骨なデザインが特徴です。軍事を一手に握った独裁者の心に響くものがあったのでしょう。この写真が撮られた4年後の2014年ロシアはクリミア半島に侵攻します。

 

 

馬上のプーチン   ネットより

 

ウクライナ侵攻後NATOのメンバーが

「俺らも裸で馬に乗るか!」

 という黒いジョークを飛ばしました

 

マッチョが売りのプーチン

上半身裸で乗馬したり

真冬の屋外で冷水に浸かったり

山下泰裕と親交を結ぶ柔道家でもあります

 

ネットには、メドベージェフ前大統領と共にジムで鍛えるプーチン大統領の姿に加え、射的、F1、アイスホッケー、潜水艇さらにはモーター付きハングライダーを操るスポーツ選手のイメージが置かれています。言うまでもなく情報戦の一環です。▼今ロシア軍はウクライナで苦戦を強いられています。原発の近くで爆発が起こり、核使用が示唆され、若者は徴兵を恐れて国外脱出し、誰が何のためにやったのかは不明ながらロシアから欧州へ向かう天然ガスのパイプラインが破壊され…戦争の行方は混沌としています。

 

 

カワサキに跨がる若き日の高市早苗 ネットより

 

若いころヘビメタのロックバンドで

ドラムを担当したという高市女史は

視界180度のバイクで風を切り

風景の向こうに何を見たのでしょうか

 

高市早苗(現)経済安全保障担当大臣は、かつて高速道路でのバイク2人乗りが一般道路より危険というわけではないという自身の経験から2005年に条件付きで高速2人乗りok法案を通しました。取り立てて日本国をゆるがすような法律ではありませんが、立法府の議員はこんなことにも目を向けているのだなとバイク好きにはちょっと嬉しい話でした。ぼくも若いころ彼女と同じカワサキGPZ400に乗っていたので感じるところがあります。

 

という可愛らしい法案はさておき2021年の総裁選において岸田、河野、高市3者が争った際の凛とした発言に驚き、彼女の本をKindleで買って読んだところ当たり前のことが当たり前に書かれているのでした。30代で国会議員に当選したころ政界で「この小娘が」と言われ「30過ぎて小娘と呼ばれるのはちょっと嬉しい」と洒落で返した彼女は政界のオトコ大物が口ごもって言えないことを堂々と語れる人物でもあります。法案を作る過程で徹底的に調べ、いったん文字化し、誰にでも分かる政治語に置き換えて語るから聞き手の耳にすッとなじみます。「政治は言葉だ」と言ったのは「鉄の女」サッチャー女史ですが、そのサッチャー女史を信奉するという彼女は、不要な間投詞を入れず、ロジカルな語り口が爽やかです。

 

とはいえ彼女の言い分が正しいかどうかは反論を含めて検討せねばちゃんとした考えにはなりません。議論は正⇒反⇒合の三角形を繰り返して深化するという哲学を思い出し、彼女の記述に対する具体的な反論を探しましたが今のところ見つかりません。野党のチェック項目には入っているはずなので反論と提案を選挙民の前で具体的に示して欲しいものです。彼女が先にカード切ったのだから野党もメディアもしっかり語れよと思うわけですが、議論がない骨がない批判はあっても提案がないのがわが日本国の政界事情なのかなあと寂しい思いです。敗戦後の平和?教育と経済の成功に酔い痴れ幸福を支える背後の存在を見失ったツケが今にしてやってきたように思います。▼高知駅前には坂本龍馬武市半平太中岡慎太郎の像が並んでいます。三者とも歴史の変革期に身を挺し暗殺されました。令和のわが高知県選出代議士には語りにくいところを語ってくれんろうかと願うのですけど…

 

9月27日の国葬儀で3度涙を拭ったという高市早苗経済安全保障担当大臣は翌28日、BSフジのプライムニュースで「セキュリティー・クライアンス⇒スパイ防止法」に触れ、これを「しっかりやらないと欧米のサプライチェーンから外される可能性もある」ことを示唆しました。同時に「中国という言葉は出すな」と言われたと曝露発言したことからネットが炎上しています。それに対し、

 

岸田首相との会話を「信頼関係を壊してまで曝露するのは許せない」という至って常識的な解説があれば(岸田首相の目論見として)「法改正は中国を刺激せずに粛々と勧めていく狙いがある~手法の違いではないか」という違う角度からの説明もあります。解釈の仕方は様々ですが、高市経済安全保障担当大臣が焦っていることは確かです。(ネットに各種記事あり)

 

高市大臣は高速2人乗り法案とはまるで違う大きな法案を狙って当面挫折したわけですが「クビになったらさようなら」と笑顔で番組を終えた彼女はどこへ行くのか? 子どもじゃあるまいし捨てぜりふを残して政界を去るわけはないので、ふと彼女は国葬儀のあと命を張る覚悟を決めたのではないかと思いました。暗殺された故安倍首相の精神的直系といえる彼女もまた物理的な危険にさらされているはずです。

 

 

佐渡島の歴史伝説館「山椒太夫」のフィナーレ  2022.08.03

 

そのようなことを考えているうちに今夏バイクで走った佐渡島を思い出し⇒森鴎外の小説「山椒太夫」を連想しました。人買いにだまされた姉と弟は奴隷としての生活をつづけるなか逃亡を謀ります。追っ手に迫られた姉は弟を逃がしたあと池に身を投げ、やがて成長した弟は佐渡で母と再会するという粗筋です。とかく男は迷いの多い存在ですが、思い詰めた女性は誤魔化しのない行為に至るように思います。▼いま世界の民主国家には女性のトップが増えています。独裁国の首長は男だらけですが、血の気の多い男より女の方が平和的政治を実現してくれるのかもしれません。

 

2022.10.02記 つづく

 

ひとり旅  220928 大型バイク編(1 日本海フェリー 小樽港まで

 

 

 

 

舞鶴港のフェリー乗り場  2022.07.22

 

北海道でイベントがあるのか

たまたま同好の者が寄り合ったのか

ピカピカに磨いた大型バイクが

60台ほど並びました

 

雨よけにゴミ袋を笠にした原付が

ぼくの愛車なのですけど^^!

内外の大型バイクに混じるとやや

ちぐはぐな感じが否めません

 

 

津軽海峡付近のフェリー甲板  2022.07.23

 

船の速力にご関心のむきにはぜひ日本海フェリー「はまなす」「あかしあ」にお乗りください。目の高さと速度感覚は反比例するので高いところから見る船足はゆっくりしているはずですが、にもかかわらずこの速さは何だと驚きました。甲板から見下ろす海面がどんどん後方へ流れて行きます。

 

船室の貼紙にフェリーの総トン数16,000トン、ディーゼルエンジン2基を搭載し速度30ノットとありました。30ノット×1.8⇒54㎞/hの高速は非常時の護衛艦なみです。地べたで車輪を転がすのではなく、ねばりのある水を掻き分けて進むのだから恐ろしい力が要ります。機関室見学ツァーがあったら覗いてみたいところです。

 

 

日本海フェリー 小樽港へ  2022.07.23 

 

下船準備のアナウンスがあると

皆いそいそと出発の準備を始めます

 

左端のレモンライムはカワサキ

スズキは黄、ホンダ・ヤマハは赤と

昔から決まっています

 

 

日本海フェリー   2022.07.23 

 

中央の赤はHONDAのハンターバイク

小川の浅瀬を渡っても大丈夫という設計らしく

排気管が高いところにあるお洒落なデザインです

ちかごろ人気で高知でもたまに見かけます

 

 

日本海フェリー  2022.07.23

 

中には引っ越しかよと笑いたくなるほど

大きな荷物を積んだバイクもあります

テントを張って野宿するのでしょうか

 

 

日本海フェリー   2022.07.23

 

ピカピカに磨かれたBMWは水平対抗エンジン。ボクサーがパンチを繰り出すように両側のピストンが打ち合うのでポクサーエンジンとも呼ばれます。「乗り心地はどうです?」と訊いたら「重心が低いから取り回しが楽。家にバイクが3台あるけれど遠出するときはいつもこれ」だそうです。

 

 

ハノイにて 2019.10.24

 

とっと昔のBMWですが

エンジンも外観も原理的には同じですね

 

 

日本海フェリー  2022.07.23

 

60台ほどの大型バイクが

庫内で一斉に空吹かしすると

爆音が壁や天井に反射します

 

シリから伝わる震動が肉体をゆさぶり

大音響が思考を停止させ

闘争本能を剥き出しにさせるらしく

メットの奥に怪しい光りが…

 

サイドカーに僚友を乗せ

西部戦線へ向かうドイツ兵のごとく

高揚した気分になるかどうかは知りません

 

機能だけならぼくの原付で問題なく走れることを今夏

北海道から鹿児島まで6,000㎞走って証明しましたが

バイクは遊びの道具だから趣味に合わせて大型化します

迷惑といえば迷惑千万ですけども

そこはまあ大目に見てあげてはいかがでしょうか

 

2022.09.28記 つづく

ひとり旅 220923 (バイク編6 奥の細道  四国巡礼  サンチャゴ巡礼 観光遍路

 

 

 

 

 

 

山形県立石寺

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

碑を挟んで左に芭蕉、右に曾良  2013.05.28

 

草の戸も住み替る代ぞ雛の家

と詠んだ松尾芭蕉は門人の曾良とふたり連れで元禄2年(1689)江戸発⇒福島⇒宮城⇒山形⇒新潟とわたり岐阜大垣で150日2400㎞の旅を終えています。距離を日で割ると1日平均16㎞ほどの行程となります。

 

 

「えんぴつで奥の細道ポプラ社より

 

蚤虱馬の尿する枕もと (をねぐらとし)

ひとつ家に遊女も寝たり萩と月 (と微妙に洒落た) 

江戸版ドミトリーで雑魚寝することもありましたが、風流に思いを寄せる芭蕉シンパの歓待を受けて長逗留した日もあったようです。急ぎの日にはヒトの平均歩行速度5㎞/h×8時間として40㎞ほど歩く日もあったことでしょう。

 

 

四国88ヶ所  ネットより

 

ちかごろ四国巡礼1200㎞を50日かけて1番札所の霊山寺から88番大窪寺まで歩き抜いた友人がいます。単純平均24㎞/日になりますが「標高500mの山を日に2回登った」こともあれば「ちょうどの地点に宿がなくて多い日には35㎞少ない日は17㎞と日によって随分差がありました」とのこと。最期は足のマメとの闘いだったようです。それにしても「日に24㎞を歩き抜いたキミはえらい」とホメたら「いやバイクで3500㎞を飛ばしたアンタもえらい」とお返しの言葉がもどってきました。バイクは椅子に座ってハンドルを握れば機械が運んでくれます。88カ所を自分の足で歩く巡礼はバイク乗りよりずっとえらいです。

 

 

サンチャゴの道 Google map

 

フランス・パリ発⇒ピレネー山脈を越えスペインの大西洋岸サンチャゴ・デ・コンポステーラまで「馬とふたり連れ!」で往復した友人がいます。Google mapを見ると片道1451㎞、徒歩(歩き詰め)で300時間とあります。いわゆる「サンチャゴの道」欧州の巡礼道です。

 

 

サンチャゴの道を行く馬の背の友人

 

馬上から撮ったユニークなアングル

長く伸びた足がトロイの木馬を連想させます

 

馬に跨がる巡礼とは「たのしそうですね」と言ったら「たまには乗せてもらうけれど馬だって背中が重いとしんどいから一日の大半は手綱を引いて一緒に歩きます」とのこと。聞いた話をまとめると、車なら給油所でカネを払えばよいけれど馬は飼い葉をやらねばならない。地元の農家と交渉し運がよければ馬も自分も夕食にありつける。馬小屋と寝室を提供してもらえた日はラッキーだけど路傍で馬と一緒に寝る夜もある。苦労は多いが交渉の過程で人と会わざるをえず、車ですっ飛ばしては分からない地元の雰囲気が伝わってくる…という次第で普通に歩いて50㎞/日くらいのものだそうです。Google mapの1459㎞÷50㎞/日=29日になりますが急ぐことが目的ではないし馬だって毎日50㎞も歩かされたらイヤになるでしょう。馬は”道草を食い”ヒトは木蔭で昼寝したい日もあるわけで随分のんびりした旅だったようです。

 

それにしても馬と連れだって

サンチャゴ・デ・コンポステーラ

という不思議な旅を思いついたのは何故か?

 

ロシアがソ連と呼ばれていた

1979年にアフガン侵攻

1986年にチェルノブイリ原発事故

1989年にアフガン撤退

国力を落としたソビエト連邦共和国は

1991年に崩壊⇒15の独立国家に分裂しました

 

2022.02.24に始まったプーチン大統領による特別軍事作戦⇒ウクライナ侵攻が行き詰まり「ロシア軍が発射したミサイルがザポリージャ原発の原子炉建屋から約300mに着弾し爆発した」(読売新聞2022.09.19)という恐ろしいニュースが配信される中、反転攻勢に出たウクライナ軍は被占領地の奪還を始めたようです。

 

予断は許さぬものの上記ソ連邦の崩壊過程は、プーチン政権下のロシアの近未来を暗示しているのかもしれません。安倍晋三元首相と「シンゾー」「ウラジミール」と互いに名を呼び合った頃とは別人のようにプーチン大統領は人相が険しくなりました。国葬反対の動きを局所拡大的に伝える日本メディアの怪しげな動きとは別に安倍元首相の暗殺後間を置かず感情の言葉をのせて弔電を送ったウラジミールは今なおシンゾーの不在を惜しんでいるようです。国際会議は国家元首がもつ人格と迫力の交渉です。しかるに歴史の大舞台で堂々と振る舞える骨相の持ち主が現在の政権与党に多く居るようには見えず、ましてや…

 

真っ白の政治家は原理的に存在しませんが

メディアは政治家に100点を要求し

フォーカスした部分において正義感あふれる

中学生みたいな論陣を張っています

という愚痴はさておき

 

いよいよ追い詰められた「Vladimir Putin大統領は9月21日、予備役の部分的動員を発表した演説で、ウクライナ侵攻で核兵器を含めすべての軍事手段を行使する用意があるとし、「はったりではない」と表明した」(JIJI.COM 2022.09.22配信)

 

真相はさておきプーチン大統領元側近が「ロンドンに核の脅威がある」と発言したというニュースも流れています。とすればイギリスだって核保有国だからロシアに核発射の兆候があれば先手を打つかもしれず、ロンドンが燃え、モスクワが燃え、同盟国のニューヨークが燃え、ついには東京がという連鎖反応が全くないとはいえないことになります。核戦争は論外として世界中にある原子炉が曝露すれば核爆弾とは桁外れの放射性物質が環境中に放出されます。▼当面はサボロジエ原発周辺にいる兵士が原子炉にまつわる教育を受けていることを願う他ありません。

 

閑話休題

馬と歩いた友人は旧ソ連の「アフガン侵攻」後、医療協力を目的として欧州の仲間とともにアフガンに渡りました。命あって彼は戻りましたが、同行の仲間は帰らぬ人となったそうです。サンチャゴへの巡礼は失われた仲間への追悼のためと聞きました。巡礼には人それぞれの事情をかかえた歩き方があるようです。

 

 

高知県大正町下津井アーチ橋下 2008.08.06

スペイン人4人+韓国人5人の細切れ遍路

 

さて、しごと半分あそび半分でお四国まわりを始めた韓国人の友人に上記サンチャゴ巡礼の話を伝えたらフットワークの軽い彼は、さっそくスペインに飛び、巡礼先で出会ったスペイン人4人と韓国人5人を連れ、あらためて四国巡礼したいとの連絡がありました。

 

 

大正町四万十川のほとり   2008.08.06

 

旅企画をしながら遍路通の友人に相談しました。「熱中症で倒れたらどうしよう?」「いや、がんばって歩けばすぐそこに寺がある。問題ない」とふざけたことを言う奴もいましたが、経験者の友人は「炎天下は危険だぜ」「真夏の遍路は犬も喰わん」と散々脅してくれました。そんなワケで不安が先走り、やって来た外国人に余計なお節介をしたこともありますが、思えばついこの間まで世界中どこでも気楽に歩けたものです。旅好きはみなコロナ以前の観光世界を恋しがっているのではないでしょうか。

 

2022.09.23記 つづく

ひとり旅 220907 バイク編(5 廣井勇 坂本龍馬 長宗我部元親 山内一豊 ウクライナ (B)

 

 

 

 

 

一領具足の碑 2022.08.31

 

旧豊臣軍vs徳川軍の争いが終わり

とりたてて素晴らしい功績を挙げたわけでもない

遠江掛川5万石の領主・山内一豊が論功行賞で

縁もゆかりもない土佐20万石の領主となりました

 

徳川の威光を背にした山内一豊は「浦戸城の明け渡し」を命じるわけですが、土佐はもともと長宗我部の国であり、国体を変えられてハイそうですかと引き下がる地侍がいるわけもなく、各地に散らばる「一領具足」は秘蔵の戦闘服に着替え、武器・弾薬(はあったかどうか)槍と刀で武装しゲリラ戦を展開しました。

 

一領具足

一領(一揃い)の具足(武器・鐙)

有事の際に武装して参戦する農民集団の名称

土佐国長宗我部氏によって行われた農兵制度

のちには土佐藩郷士」の別名となる

*大辞林&ネットより

 

 

桂浜 六体地蔵脇の石丸神社縁起 2022.08.31

 

石丸神社の案内板には「抵抗した一領具足273人の首は塩漬け」にして大阪へ送られたとあります。戦場で斬り殺された者は首を外され、捕虜となり後ろ手に縛られた者は次々と斬首されたはず、平時のぼくらは、ずらりと並んだ血だらけの頭部を思い浮かべ、なんと野蛮なことよと思うわけですが、古来戦場とはそのようなものであり、それは今も全く変わりません。▼きわどい映像は注意深く除去されていますが、ロシア軍の砲撃によって崩れたウクライナのアパート住民がどうなったか、あるいは砲塔を吹っ飛ばされた戦車の内部にいたロシア兵がどうなったか、ウロ戦争を伝える映像の空白部を想像すればすぐにも分かることです。「いくさ」が「戦争」と呼ばれるようになり残虐性は規模拡大しました。

 

 

高知城下の山内一豊像 2022.08.30

 

そのような経緯を経て土佐⇒高知には、山内一豊静岡県掛川から連れて来た「上士」と長宗我部くずれの地侍郷士」の区分が持ち込まれました。両者の間にわだかまる差別が具体的にどうであったかは歴史家の考証にまかせるとして、上士は政財界の要職を占有したであろうし、特権を奪われた郷士に不平不満が溜まったであろうことは疑う余地もありません。脱藩した坂本龍馬も廣井勇の曾祖父「遊冥廣井先生」も没落組の郷士でした。

 

*武田哲也・小山ゆうの「おーい!竜馬」は

両者の差別を誇張することによって

読者の感情をゆさぶります

 

*司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は余りにも有名で

おかげで高知は竜馬のロゴだらけ

漢字を6つもならべた高知竜馬空港もありますけど..

ビデオを持って生きた竜馬を追い掛けたかのごとき

小説司馬竜馬には付いていけないところがあります

 

 

山内一豊の妻と名馬の像 2022.08.30

 

案内書きには「17.8歳のころ一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。中でも結婚のとき持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが馬好きの織田信長の目にとまって出世の糸口になった」という逸話が置かれています。高知では有名な話ですが、つらつら思いますに嫁さんに買ってもらった馬がきっかけで信長とお近づきになれたことが武士の自慢になるものかどうか、偉人には胸を打つ物語が付き物ですが、今すこし格好のよいサクセスストーリーはなかったかと..まあどうでもよいことです。

 

 

高知城表門 2022.08.30

 

戦災で失われることもなく残った

天守閣と合わせて一見の価値ありです

 

90年代のいつだったか、とある集まりに参加したとき休憩時間にふと「占領軍」という言葉を耳にしました。なんのことかとよくよく耳を傾けると、ここは長宗我部の「土佐」であり、論功行賞で家康から与えられ遠路はるばるやってきた山内の「高知」ではない。ヤツは占領軍だというワケです。へえ~そんな考え方もあるのかと驚きましたが、なんせ400年も昔の話だから色々あっても時の彼方の物語であり、ぼくなど余裕をもって歴史を愉しめます。そもそもわが家は土佐の高知の端っこの宿毛という僻遠の地にある先祖代々の農家であり上士でも郷士でもないので生まれ故郷の行政区分が土佐だろうと高知だろうとぼくのidentityに抵触する問題ではないからです^^

 

 

高知城表門欅?の梁 2022.08.30

 

継ぎ目なしの一本柱

見上げるだけで立派な古材が鑑賞できます

槍鉋で削った表面はザラザラしていますが

ペンキを塗るより長持ちするそうです

 

しかし休憩中のおじさんたちには深刻な問題だったらしく、やがて城下に設置された占領軍⇒山内一豊像の撤去を求め、あれは宗教施設であり公共の場に置くべきではないという論法で裁判を起こした記憶があります。(ネットを検索しても見当たらないので有耶無耶になったのかもしれません) してみれば、おじさんたちのご先祖さまは「一領具足」の末裔であり江戸期には不平不満をつのらせた郷士であったのかも..「土佐」と「高知」の間には今なお零落者の悲哀が沈んでいることを知りました。

 

 

高知城の石垣 2022.08.30

 

エジプト人も一目置くにちがいない大坂城の石垣に置かれた巨大な岩石、あるいは登ろうにも靴を差し込む隙もない本気の要塞⇒熊本城の石垣とは比較になりませんが、高知城の「野面積み」は、船でいえば龍骨にあたる角の曲線にきっちり面取りした石が置かれ、自然と人為がほどよく調和した美しい石組みです。

 

 

三の丸の石垣 2022.08.30

 

自然石を積み上げた石垣は隙間だらけ、地震がゆれたらヤバイんじゃねえのと心配するムキもありますが、さにあらず「穴太衆積み」の特徴は「積み石の内寄りに重心を置き、石垣の奥に大きさの異なる2つの小石の層を設ける」ことによって「石が安定し排水がしっかり行われ」、耐荷力実験では「コンクリートの1.5~2倍の強度」が確認されたというから、むしろ昔の土木の方が丈夫で美しいとも言えます。

 

 

 

★まとめにならないまとめ

この段で言いたかったことは以下の3点ですが

うまくオチないうちに時間切れとなりました

 

1、過去の土木とは比較にならないほど

現代土木が「進化」した..というわけでもない。

 

2、歴史をなつかしむ人たちは

歴史の時間軸を好みの一点で切り取って

identityのよりどころとする

 

3、遠い歴史は物語として愉しめるが

つくられつつある歴史は恐ろしい

 

3⇒かつて満洲で戦車兵をやった司馬遼太郎が、今なお存命でウロ戦争を見たとして、砲塔が吹っ飛びキャタピラが崩れた無残な戦車を見て何を思うのでしょうか。とりあえずぼくら日本人にとっては地球の裏側の争いという距離があるのでやや余裕をもって戦争の成り行きを見られるのですが、戦車兵の記憶を引きずった司馬遼太郎がウロ戦争の行方をどう読むか、叶わぬ夢ではありますが、非常な興味があります。▼荒っぽく言えば明治はよかった。昭和はいけないとするのが司馬史観のホネです。ならば昭和の何がいけないかを具体的に描いて欲しかったわけですが、明治以前の物語はどっさり作っても昭和の大戦史には触れぬままでした。

 

ネット情報と比較するかぎり偏向(あるいは些末記事を大きく扱って大事なところは伝えない)表メディアにぼくは深い疑念を抱きます。普通に考えてウクライナは次の台湾であり南西諸島および北海道をふくむ日本です。Russia高官は北海道をオレのものだと言い、Chinaは尖閣のみならず沖縄諸島に虎視眈々です。孫子の兵法に「戦わずして勝つ」という名文句がありますが、沖縄で現地の新聞をめくるたび、ひょっとすると日本国は「戦わずして負ける」のではないかと思うことさえあります。

 

戦後民主主義という名の敗北史観で教育されたぼくら世代は、平和が大事、命が大切と当たり前の文句を後生大事に唱えてきました。しかし今いちばん大事なのは、どうやって平和をつくるか、命をまもるかではないでしょうか。与党も野党もこそこそした議論ばかりやっておらずに、今のウクライナ(他の荒れた国々)のごとく限界状況に置かれたときどうするのか、戦後77年の平和を経て、辛い議論をせねばならない時にきたと思うわけです。

 

 

下記、ロシアの軍事が専門の小泉悠氏と

テレ東の豊島晋作氏の対談です

うなりました。ご参考までに

https://www.youtube.com/watch?v=noQd_19fWm8

 

2022.09.07記 つづく

 

ひとり旅 220903 バイク編(4 廣井勇 坂本龍馬 長宗我部元親 山内一豊 (A)

 

 

 

 

廣井勇先祖の墓から見た佐川町 2022.08.25

 

明治維新の6年前、文久2年(1862)に脱藩した坂本龍馬高知市梼原町経由で愛媛⇒下関へ向かいました。海沿いを通れば須崎市から(カワウソが棲息していた)新庄川を上って梼原町へ向かいますが、脱藩は人目を忍ぶ行為なので山道をえらび(お酒の司牡丹で有名な)佐川町の山中を抜けて梼原町へ向かったのかもしれません。同年、廣井勇はこの佐川町で生まれました。

 

 

佐川町の山裾にある廣井勇生誕地の石碑 2022.08.25

 

 

石碑裏面 2022.08.25

 

廣井勇は郷土が生んだ土木工学のさきがけであり

後年すぐれた土木家を輩出した師でもありました

石碑裏面には「港湾橋梁の碩学」と簡素に説明されていますが

今すこし具体的な説明があればと思いました

 

 

ご先祖さまの墓所 2022.08.25

 

左端「遊冥廣井先生墓」は案内書に「名教館の教授としても知られる曾祖父・廣井喜十郎(遊冥)のもの」とあります。「遊冥」は雅号かと思われますが、みずからの墓碑に本名ではなく号を置いたところにやや風変わりな人となりが偲ばれます。「遊」は外遊遊学の遊、「冥」は冥界幽冥界の冥だから次は冥土で学問しますよという意味でしょうか、廣井勇のおじいちゃんはどこか屈折した信念の人を思わせます。

 

 

高知市長浜 長宗我部元親モトチカ像 2022.08.31

 

そのむかし豪族と呼ばれる小規模集団が土佐各地に点在し互いに牽制しつつ勢力拡大を狙っていました。 (早明浦ダムが水を湛える本山町の)本山氏を破り、(国道55号線沿いの国虎うどんで有名な^^)安芸国虎を自害に追い込み、(四万十川は赤鉄橋の西と東で対峙した)一条兼定を攻略し…土佐統一の後、阿波讃岐伊予を攻めて四国統一を果たしたのが(ウチの近くの若宮八幡宮の参道入口に立つ)長宗我部元親です。

 

 

銅像下の豪族が群雄割拠する図 2022.08.31

 

長宗我部元親が四国制覇を完全にやり遂げたかどうかは異論があるそうですが、出る杭は打たれるの伝で土佐の豪族は浮き沈みを繰り返します。元親は織田信長と同盟を結んだものの⇒すぐさま破棄され⇒ヤバイところで明智光秀が「本能寺の変」を起こし信長をやっつけてくれたので事なきを得⇒晴れて四国統一を果たしたところへ今度は豊臣秀吉が元親討つべしとの因縁をつけて四国討伐隊を結成⇒(豊臣軍にかなうわけもなく)長宗我部元親は阿波讃岐伊予を放棄して降参し、土佐一国の領主に戻ったのみならず⇒豊臣秀吉のパシリにされて九州は島津氏と戦うも敗北⇒争いのなかで跡継ぎの長男を失った元親は人が変わった」そうです。

 

元親は長男の死後、次男三男という序列を飛ばし、四男の盛親に家督を渡すことになります。が次男は病死、三男は(何があったのか) 弟の盛親に殺害されるという戦国時代を縮小したような憎しみの絵図が展開されます。

 

 

桂浜花街道脇に立つ「六体地蔵」 2022.08.31

 

後継者争いを勝ち抜き土佐の新領主となった盛親は「関ヶ原の戦い」で西軍に与し、徳川家康と敵対したことから長宗我部氏は「改易」されます。

 

改易

武士の所領や家禄・屋敷を没収し

上籍から除くことをいう

蟄居より重く切腹よりは軽い

*大辞林

 

盛親は再び大名に返り咲こうと豊臣方に加勢し、徳川家康に対抗して『大坂冬の陣・夏の陣』に臨み」ますが、健闘むなしく敗北⇒盛親は5人の息子もろとも斬首され、長宗我部氏は滅亡しました。

 

2022.09.03記 つづく

 

 

ひとり旅 220827 バイク編(3 廣井勇の小樽北防波堤補記

 

 

 

 

 

荒波寄せる小樽北防波堤 

*佐川町立青山文庫刊「近代土木の先駆者広井勇」より以下同

 

 

コロンボ(スリランカ)港堤防工事図

 

スリランカは元イギリスの植民地であり

港湾土木においてもイギリスは尖端技術を有していました

 

 

軌道起重機でコンクリート塊を運ぶ

 

富国強兵、殖産興業の明治期には

欧米の学者を招きあるいは留学し

おそるべき勢いで港湾技術を吸収しました

小樽港北防波堤はその応用編であったといえそうです

 

 

運んで落す

 

今でも学者の世界には

「お弟子さん」という

古風な言葉が残っています

 

知識だけなら書を読めばよいが

新しい地平を開拓するには

師と仰ぐ存在が体から発する何かを

受け取らねばならないのでしょう

 

何かとは何か?

それは「気」と呼べるのかもしれません

元気、勇気、本気、やる気…

師のもつ雰囲気の「気」です

 

逆にいえば

戦後日本の教育界からすっぽり抜けたのは

師が弟子に言外の余韻で伝える

雰囲「気」ではなかったかと思うわけです

 

 

落とす前の整地作業は潜水士の仕事

ここで手を抜くと防波堤は水平をたもてない

 

港湾工事の潜水作業にご興味の方は以下へどうぞ

https://www.youtube.com/watch?v=wPRiFG1LtoE

 

 

 

「海底の自然傾斜に近い、緩やかな傾斜をつけ、土台が波の影響で削られる量を最小限にとどめる工夫」(*同上)がなされた海面下の坂道。その傾斜を駆け上がった波は「斜塊」前のブロックの階段によって力を減衰させます。へえ~なるほどと思いながら「海底の自然傾斜」を真似たところにほっこりするものを感じました。

 

弟子は師から「気」を受け取ればよいとして

師を蔭で支える力は何か?

廣井勇にとってそれはキリスト教であったようです

 

今の日本では連日宗教の弊害が報道されますが

とかく政治に首を突っこみたがる宗教グループはさておき

土木家になる前に伝道師を志した廣井勇にとって

キリスト教⇒神とは

人為を超えた大いなる存在への畏怖であり

道徳ではなかったかと思うわけです

 

 

互いに噛み合い一丸となって

荒波に対抗するコンクリートブロック

 

現代の港湾土木は、個々のブロックを寄せ集める代わりに巨大なケーソンを沈めますが、当時そのような大規模技術はありません。周囲を圧するほどデカいケーソンの型枠に重機でコンクリートを流し込む作業を見ていると、いかに自分が卑小な存在であるかを知らされます。人間が造ったものを見て人間がコンプレックスを感じるのは矛盾しています。人間は大きなものをつくり過ぎたのかもしれません。明治大正昭和初期の土木は規模が小さく多くの人手を要しましたが、むしろ小なるものにあらんかぎりの人為をこめたからこそ後世のぼくらは港湾土木に情緒めいたものを感じるのではないでしょうか。

 

話はオカへ飛びますが、

巨石を素朴に積み上げた高知城の石垣は、石の隙間から蛇が顔を覗かせたり、忍たま乱太郎が足を入れて忍術修行できそうで、およそ城塞の体をなしていないから、ぼくは「殿様の遊園地」と呼んでいました。ところがある日、高知の土木家に連れられ、石垣の角が日本刀の尖端のような反りを見せる前で「素朴に見えても実はしっかり計算されている」ことを知りました。面取りしていない石の組み合わせなので一見乱雑に見えますが、大津発祥の「穴太衆積み」の技法は熊本城にも高知城にも使われているのでした。高知城は平時に構築された城であり、要塞としての機能には今ひとつ不安が残りますが、構造上の強度は押さえているようです。

 

しかし熊本城の城壁は2016年の熊本地震で無残な姿をさらしたではないか、高知だって震度6だ7だの無茶苦茶な揺れに襲われたらひとたまりもないだろうと思っていましたが、さにあらず「地震で崩れた熊本城の石垣の大部分が明治時代に修復されたもので、築城当時の石垣はほとんど崩れずに残っていた」(ネットより)そうです。高知城だって竣工後412年を経る間には大地震にも揺られたはずですが、それなりに耐えて来たところを見れば、必ずしも後世の技術が過去の技術より優れているわけではありません。

 

技術は進化すると言われますが、ヒトと構造物の関係で言えば、それは「変化」にすぎません。たとえ地上1000mの建築をやってのけたにせよ、省エネの時代にべら棒な電力を使ってエレベータを上げ下げすることが「進化」と呼べるかどうか。「どうだ、すげえだろ」と力ずくの物理量で自慢するより、高さが欲しければ山に登ればよく、地上で歌のひとつも詠むほどの文化力を磨いた方がよろしいのではないかと思ったりしますネ。

 

 

日本初の港湾工事をやった人々には

力と誇りが漲っています

 

2022.08.27記 つづく