台湾ひとり旅④ 葬列Plus位牌考

aiさんから貰ったメールに「戒名によって死後に辿り着く世界層がちがう、とお坊さまがはっきりおっしゃいます」とありました。位牌や戒名の意味なんて考えたこともなかったのですが、よい機会を得たのでググってみると、正確に言えば階級があるのは戒名ではなく位号だそうで男女別に上から並べると以下のようになります。

大居士・清大姉、
  居士・大姉、
禅定門・禅定尼、
清信士・清信女、
  信士・信女

 位号の階級は「菩提寺との関係が先祖代々長く続いていれば上位へ変化する」そうですが、ホントのところは御布施をいくら積めるかによってお坊さまの裁可が下るのではないかな~とぼくもそれなりの経験によって思いますネ。「夏目漱石は文献院古道漱石居士、福沢諭吉は大観院独立自尊居士」だそうです。江戸末期から残る我が家の位牌はランキング最下位の信士と信女ばかりですが、鬼籍に入った父はなぜか居士の位をいただいているので恐れ多くも旧千円札さまや現役一万円札さまに並ぶ地位を得たことになります。貧乏な人生でしたけど残された母がそれなりに踏ん張ったのでしょう^^!

さて人は死後どこへ行くのかという永遠の謎を人類は実証できぬまま創作してきました。中華世界のドラゴンのごとく死後の世界はまだ誰も見たことがないのでその描き方は宗教によってまちまちです。仏式の葬儀において「辿り着く世界層」が居士=銀メダルならウチの亡者は「あの世」でたのしく暮らしているはずですが→ここが問題!


そもそも仏教の大原理は輪廻転生にあり、人は死後やや間をおいて人間を含む何らかの存在に生まれ変わるのだから「あの世」を設定しても意味がない。だから「あの世」のために高い位階を貰っても仕方がない。にもかかわらず遺族が「死後にたどり着く世界層」にこだわるのは何故だろうと悩んだ末、仏教学部を出た友人に電話しました。


友人によると、仏教といっても色々で輪廻転生を前提とする宗派もあれば、極楽浄土を想定する宗派もある。だから輪廻転生と極楽浄土を同時に想定すると矛盾が起こるけれども「死後世界は誰も知らないので、状況に合せて設定すればよく、深く考えなくてもよろしい」のだそうです。おいおいふざけんなよな~真面目に聞いてんだぜとその時は思いましたが、よくよく考えてこの玉虫色の回答は正しいと思うに至りました。


末期癌を宣告され「人は死ねばゴミになる」という身も蓋もない本を書いた検事総長がいます。生命活動を停止した肉体がどうなるかは現世の出来事だから誰の目にも明らかです。それをゴミと称し、ゴミに魂を混ぜ込んでハイ左様ならと書いたかどうか、中身を読んでいないのでわかりませんが、この標題を見るかぎり自分が想定した即物的な世界に、スピリチュアルな存在を信じる他者を巻き込み、お前もゴミだと言っているようで不愉快です。全ての人間が最期は哲学者になります。死ねば体も心もゴミになるゴミ哲学をつくるのは自由ですが、他人さまには他人さまの哲学があるわけで、本屋に積まれた死だのゴミだのという文字から悪霊が立ちのぼるような気がしてぼくは目をそむけました。この人どんな裁判をやっていたのでしょう。


若いころ中国を貧乏旅行していたときバックパッカーが流れ着く安宿で医学部の学生と知り合いました。将来の仕事と関係するからか、それともただの好奇心からか、彼は鳥葬!を見たくてチベットまで出向いたそうです。チベット仏教では死ねば肉体は「ゴミ」になります。お墓はつくらず、大地に寝かして鳥に食べさせるのですが、なまの肉体は食しにくいので「そこら辺に転がっている石を使い頭蓋骨などぐちゃぐちゃにして鳥さんに提供する」そうです。日本人の感覚でいえば鬼の所業ですが、チベットでは霊魂の存在を前提としているので、魂の脱け殻が手荒に扱われてもとりたてて抵抗はないようです。足腰を鍛えた人の大腿骨は鳥を呼ぶ良い笛になるそうで生前から「お前の足をもらえんか?」「よし死んだらやるわ」というような会話が成り立つとか。乾いた風に吹かれ、ヒマラヤの高峰を見上げて暮らす人々は、温帯モンスーンの中でウェットな思考をするわれわれとは違う死生観をもっているのでしょう。肉体より魂を優先させる哲学のようです。


むかし大学院で18世紀の文化史を考えていたとき杉田玄白前野良沢という人たちにぶつかりました。解体新書を訳出した蘭学者であり医官であった人物ですが、彼らは原書に書かれた人体の細部を腑分けの現場で突き合わせています。ぼくもまた現場の空気を感じなければ書の本質は分からないと思う者なのでチャンスを待ちました。


やがて某大医学部の知り合いから近々司法解剖があるとの電話があり、急遽調達した白衣を付け、医学生になりすまして室の戸を開けました。今しも解剖を終えたばかりの女性が床に一体、中央部が盛り上がり血液を両サイドに流す仕掛けになっている解剖台に解剖途中の男性が一体、別の台には左胸に銃弾の痕を残した男性遺体が解剖を待っていました。司法解剖は手術ではないので恐ろしく手荒です。もしもその場に何の前提もなくカメラが忍び込んだらホラー映画になるでしょう。喉から性器にむけて大きく割られた体内から血液を採取し、胃の内容物を調べ、外部要因による残存物を抽出する等の検査を済ませた後、申し訳程度に腹部を縫い合せてもらった女性の目は見開いたまま視線が中空で停止していました。その時ぼくは、とりたてて霊魂の存在を信じていたわけではなかったのですが、肉体を抜け出たばかりの彼女の魂は明らかに天井辺にわだかまり、行方を封じられ、戸惑っていました。後にも先にも或る精神性の塊を「見た」のはこの時だけです。


霊魂はそれ自体が単体で存在するものでしょうか? それともこの世に生きる人との関係性の中で存在するのでしょうか? 仮に霊魂が単体で存在するものなら生れては消え、生れては消えした無数の魂魄がそこら中に浮遊しているはずですが、肝試しの墓場でそれらしい光が見えることはあっても忙しく立ち回る人の前に幽霊が現れることはありません。


仮に霊魂が存在するとしても、そこに人間がいなければ存在証明ができません。したがってあの世の霊はこの世の人との関係の中で説明されるほかないとぼくは思うのです。惜しまれて逝った人の霊は、それを恋い慕う遺族の心に感応して闇の中から顔を見せるのかもしれず、恨みを呑んで逝った霊は、それを忘れようとする人の意識の壁を突き抜けて怒りのダンスを見せるのかもしれません。つづめて言えば霊魂とは、死者と生者の関係を取り持つ記憶の一種ではないかと思うわけです。


ここまで考えて位牌や法事の意味が自分なりに理解できました。位牌とは亡き人を思い出すきっかけであり、位牌を通じてぼくらは長い時間軸の中にある先祖と自分との位置関係を知ることができます。誰かが発明したうまいフレーズを借りれば「生かされてある自分」を確認できるわけです。法事はゆるい強制を伴って親族が集まる場でもあります。読経のバックミュージックに合せて礼拝したあとは皿鉢料理を囲んで愉しい宴席が作られます。葬式でもなければ親族が一堂に会する機会はないので、まつりごとは血という名の共同体を確認する場でもありますね。

180117記