海事つれづれ五目めし200625 渚の原子力3 高知の原発計画

 

 

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伊能地図に置いた高知原発設置想定図

 

四国電力山口亘社長は1972年「原発3.4号機は外洋へ建設したい。たとえば横浪三里とか中村など高知県を中心に構想を練りたい」と発言しました。

 

「海事つれづれ」200326号から4本連続で紹介したように横浪半島がつくる浦の内湾は風光明媚な入り江です。その湾口から端まで12㎞=3里あることから横浪半島は横浪三里と呼ばれ、太平洋に面した「外洋」は優美な海岸線をつくり、時として荒波が打ちつけます。迂闊にもその「外洋」が原発候補地であったとは今の今まで知りませんでした。

 

横浪三里に候補地を求めるのであれば明徳義塾龍キャンパスのある龍地区、前は丸ごと太平洋の池の浦漁港、須崎寄りの久通漁港の周辺を想定したのでしょうか。この地で原発の賛否を問えば、須崎市民が結論を出すことになり、目と鼻の先にある高知市30万市民は蚊帳の外となります。

 

原発の影響は広域に及びますが、設置の可否は当該自治体が決めるのであって、裨益もすれば被害も受ける広域住民には意思決定への参加資格がありません。それは参加を原則とした民主主義に反するのではないか、法改正を含めて議論されるべきではないかといつも思います。明らかな法の不備を自治の原則という美名の元に押し隠し、カネで土地を奪ってきたのが電源立地のやり方で、挙げ句の果てにフクシマとその周辺(と括るには余りにも広大な面積)が放射性物質によって汚染されました。悲劇の遠因は民主主義の原則が機能しなかったからではないでしょうか。

 

四万十市、旧「中村」に設置するなら候補地はどこだろうと地図を見ました。原発は人里離れた沿岸に置かれるのが常だから四万十川河口から名鹿ナシシを経て土佐清水市布へ回る海岸沿いだろうと思われます。ところが、どういう経緯があったかは分かりませんが、四電社長の説く「横浪三里」案、「中村」案は消え、

 

続いて「佐賀原発」案が台頭しました。佐賀といっても海岸線は長いので知り合いに具体的な場所はどこかと尋ねたところ新聞社のデータベースから熊ノ浦が候補地だったと教えてくれました。純粋天日塩の「生命と塩の会」と「すがる天然温泉」に挟まれた美しくも寂しい渚です。ところがこれも漁民の反対を受けてぽしゃり、

 

 

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大鶴津の渚 170428

新たな設置案は四万十町(旧窪川町)の大鶴津へ移り、町を挙げての大議論になりました。巨大施設とそのカネを受け入れるか、拒否するか、その経緯の概略は以下の通り。窪川町議会が二転三転する中で立ち回った中心人物が「生きる」の異骨相イゴッソウ島岡幹夫氏です。

 

1975年から窪川原発案が本格化し、町政は揺れ、

1979年に設置反対派の藤戸町長が当選したものの翌、

1980年に町長は立場を変え誘致側に回ったので、

1981年に町長リコールが成立しましたが、下野した藤戸町長は

1982年の選挙に立候補し、再選され、

1984年に11対10の僅差で(窪川原発調査所設置)促進決議を採択。しかし

1986年のチェルノブイリ原発事故によって風向きが変わり、

1988年に藤戸町長は辞職。続く選挙で反対派の町長が当選し

「今後原発の話はしない」ことが決議されました。

 

 

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島岡幹夫・猪瀬浩平・足羽潔執筆編集「生きる」高知新聞総合印刷

裏表紙は牛の出産を手伝う奥様、見事な一枚です

 

 島岡幹夫氏にお会いしたのは2000年の前後「ゆすはら国際スクール」と称して日韓の学生が檮原町に集まり、お祭り騒ぎをやっていたときのことでした。前提知識なしに会ったので面食らいましたが、窪川で農業をやっている。原発に反対してきた。韓国の反原発団体に呼ばれて演説したら公安に付きまとわれた。(一説に入国禁止にされたとも)今は農業技術の指導でタイの農村を行き来している等、行動範囲がフツーではなく、当時たしか町議でもありました。

 

四万十川は大きく蛇行して窪川へ行き着きます。その窪川の大地で土とともに「生きる」お二人は「原子力発電所は立地建設するとその影響は2000年以上の長期間、地方を支配することになる。任期4年の町長や町議会が諾否を議決できる問題ではない。全町民有権者が参加して投票で決めるべきだ*」と訴え続けました。「*生きる」p169

 

お蔭でぼくら高知の住民は、小鶴津、大鶴津の秘めやかな海岸をたのしく散策でき、津波の脅威が語られてもフクシマを想起させる核事故を心配することはありません。その幸せの後ろにはこのような人物の活躍があったわけです。

 

 

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藤戸町長がリコールされた1981年、ぼくは旧中村市 にいました。窪川で町を二分した争いが展開されていることは知っていましたが、若さゆえの無知か、内向きの性癖か、そこで行われていることの意味が理解できず、わざわざ現場を見に行くことはありませんでした。今にして思えば勿体ないことでした。

 

離れて見る選挙は数字のゲームに過ぎません。農村のインサイダーが国を挙げての敵対勢力にどう立ち向かったか、その生々しい事例を「生きる」より引用します。

                                                  *  *  *

自民党幹部や国会議員の露払いは県議会議員、さらに町議会議員が務める。バスのような自民党の宣伝カーが5台、田舎にはふさわしくない黒塗りの乗用車が40数台、それに北海道電力から九州電力まで電力会社の宣伝マンがどっと来た。街宣車は60台以上。右翼もいた。われわれは、軽トラックに桃太郎旗。「桃太郎旗軽トラ」100台で立ち向かった。

 

推進派の攻めは私の家の前まで及び、桜内幹事長まで姿を見せた。若い衆が「幹夫さん、幹夫さん、はげ頭のじじいが来てから演説しゆう」。どんな身分の人か知らないから若い衆は全くひるまない(知っていてもひるまなかったが)。宣伝カーの前に立って「このくそばかー、帰れや」となじる。

 

(桜内幹事長と藤戸町長を揶揄し)こんなプラカードをつくって桜内幹事長の前に差し出した。「桜見るばか、藤切らぬばか」~加えて「支那の夜」で有名な李香蘭、大鷹(山口)淑子さんも激怒させた。当時は自民党参議院議員で60歳を超えていたが、美しい大鷹さんを桜内さんがエスコートしてやって来た。その大鷹さんの鼻先にプラカード。「還暦のおおしわ隠す李香蘭…」この後は「ミニスカートでも男迷わず」彼女はブルブルッと怒り、一言も語らず踵を返した。

 

右翼とのけんかもあった。彼らは地理を知らない。血気盛んな若い連中が右翼の車を興津の海岸の方へ追い詰めていった。袋小路の道を出たら50メートル以上の断崖。車から彼らを引っ張りだしたら土下座して「もう二度と来ないから許してください」。農業用のフォークを手に右翼を脅したこともあった。今は笑い話でも、当時は命懸けだった。

                                                                               「生きる」p73~75

                                                   *  *  *

島岡幹夫氏は若いころ大阪府警官として働き、窪川に戻ってからは自民党籍でもあった人物ですが、反原発を軸に社会・共産と手を組み、中内力高知県知事ともやりあった経歴を持ちます。してみれば原発をテーマとする政治活動において右・左の区分けは意味をなさず、文明vs自然、都市vs農村、工業vs農業といった対立軸で振り返るべきかと思います。

 

ともあれ1988年を境に高知から原発の話は消えましたが、だから良かったねで済む話ではありません。核は触れてはいけない技術です。しかし触れてしまった今は核廃物(核は廃棄できないから真面目な学者は核廃物と呼びます)をどうするかという途轍もなく虚しい作業が残されました。

200625記 つづく